空中庭園


空中庭園(角田光代/文藝春秋)

角田光代という人は、こういう小説を書く人だったのか。本のタイトルからしても、もっと、ほのぼの系の作風を勝手に想像していたのだけれど、かなり予想と違っていた。
読んだばかりの「星々の舟」と、構成がとてもよく似ていることに驚いた。二卵性双生児のような、この二冊を読み比べてみるというのは、すごく面白い。
どちらも、一つの家族を、それぞれ違った立場と視点から切り取っているというところは共通している。その、見え方の差異を示すことによって、家族というものが潜在的に持っている哀しさを浮き上がらせているというところも、よく似ている。
「星々の舟」が「ツラい」としたら、この「空中庭園」は「せつない」。この、「空中庭園」の場合は、目に見える表面的な部分は明るいがために、より一層、その底の、見えない部分にゾクッとするような冷たい暗さが横たわっていて、それがやたらとせつなかった。
それも、最初は表側の部分しか見えなかったのが、だんだんと語り手がバトンを渡して、次々と心情を吐露していく度に、一つの立体の違う角度が見えてきて、最後に真の全体像が見えてくるようになっていて、この、ミステリー仕立てな構造もスゴかった。
【名言】
毛玉だらけの黒いオーバーを着た不機嫌な絵里子と、十代のとき親が買ってくれたダッフルコートを未だに着ているぼくは、二人そろってださくて、貧乏くさくて、ちっぽけでみじめでみみっちかった。けれどこの光景は、そのぼくらがつくったんだ。ぼくらがいなかったら無だったんだ。ピンク色の女の子もみず色の男の子もマレーバクもこの一瞬の完璧さも。すごくないか、それって。(p.79)
近頃マナはよく、私の過去を知ろうとする。ママがあたしくらいのとき、だの、ママが妊娠したとき、だのといった話題をよくもちかけてくる。そのたび私は嘘をつく。私の抱えていた空洞や絶望を、あの子たちに教えることはできない。この世のなかにそんなものが在ること自体、伝えてはいけない。(p.112)
秘密をできるかぎりもたないようにしようというとりきめをつくったのは私だった。私の家庭は母のつくったあのみじめな家とはちがう、私のつくりあげた家庭に、かくすべき恥ずかしいことも、悪いことも、みっともないことも存在しない。だからなんでも言い合おうと、私はくりかえし提案したのだった。けれどここにいる私の夫は、私の母とまるきりおなじに、自分の抱えるかくすべきものをわざわざ披露しようとしている。彼が守ろうとしているのは秘密をもたないという私たちのルールではない。自分自身だ。(p.135)
秒針は音もなくすすみ、部屋はしずまりかえっている。廊下へ続くドアは開け放たれているが、そこからなんの物音も聞こえてこない。マナもコウも夫もあらわれない。
しずまりかえった部屋のなかに、雨音がしのびこむように聞こえてくる。水滴のはりついたガラス戸の向こうで、色もかたちも様々な大小の花が、水滴を受けそれは見事に咲き乱れている。(p.138)
この子はいつもそんなふうに笑ってるんだ。そんな子が、泣いてアタシに食ってかかってきて、ようやくあれこれ気づいたんだから、アタシののん気にもほどがある。ずいぶんつらい思いをさせちまった。戻れるなら戻ってやりなおしたいって幾度も考えた。けど、どこに戻ったらうまくやりなおせるのか、考えてるといつもわからなくなってしまう。(p.150)
逆オートロック。さっき聞いたコウの言葉を思い出す。外部の人間には閉ざされたオートロック式のドアが、自由に出入りできる家のなかに存在している。コウはそう言っていたけれど、その鍵は、外部に対して閉ざされているのではない。身内の侵入を防いで閉ざされているのだ。だから今、テーブルを囲んでここには五つのドアがある。頑丈な鍵のかかったおそろいのドア。五つのドアそれぞれの向こう側に、きっとグロテスクでみっともない、しかしはたから見たらずいぶんみみっちい秘密がわんさとひしめいて、これから先ずっと繁殖しつつひしめき続けるのだろう。(p.223)