封印再度


封印再度(森博嗣/講談社)

このシリーズは、どれもタイトルが凝っていて面白いけれど、「封印再度」という題も見事だし、さらに副題に「WHO INSIDE」とつけたセンスもスゴい。
殺人事件の謎解きには、言葉遊び的な部分があって、このシリーズでは論理を重視したトリックを期待していたので、その点、どうも納得がいかない。
「天地の瓢」「無我の匣」のほうのトリックは素晴らしい仕掛けで納得。

この巻は、本編のストーリー部分よりも、今回に限っては萌絵が一枚上手をいく、犀川と萌絵のやりとり部分が面白い作品だった。
それと、巻頭に引用されている鈴木大拙の「禅」の概念や、日本のアシンメトリーな美意識などが物語の中に織り交ぜられているのが良い。
今作は、理系ミステリーというよりも、工学系+芸術系の色合いが濃かった。

【名言】
教育には水が流れるような上下関係がある。しかし、学問にはそれがない。学問にあるのは、高さではない。到達できない、極めることのできない、寂しさの無限の広がりのようなものが、ただあるだけだ。学問には、教育という不躾な言葉とはまるで無関係な静寂さが必要であり、障害物のない広い見通しが不可欠なのである。小学校、中学校と同じように、大学校と呼ばない理由は、そのためであろう。(p.80)

なかなか愉快な時間ではなかったか・・。
一人暮らしの単調さが自分らしいと信じていた。ソフィスティケイトとは正反対の洗練がある、と考えた。けれど、この世に生きていれば、複雑さと詭弁から逃れることは不可能だ。単純さは、学問の中にしかない。
クリスマスなんて言葉は、もう十年以上意識したことがなかったけれど、悪くはない、と少し思う。
それは、きっと、綺麗な絵のついたカレンダみたいなものだ。彼のリビングの壁には、数字だけのカレンダがピンで止めてある。犀川は、無駄な絵のついたカレンダが嫌いだった。貰いもののカレンダは、半分もの面積が好きでもない絵や写真に占領されているものばかりだ。気に入っても、気に入らなくても、毎月替わるという自主性のなさ。嫌いな絵なら見たくはない。好きな絵ならずっと飾れば良い。それが自然ではないか。ようするに、カレンダと一緒になっている不自由さが気に入らないのである。(p.169)

犀川はサンドイッチとコーヒーをもう一杯、追加で注文した。少し高かったが、これで夕飯にしてしまおうと思ったのだ。犀川にとって食事のコンセプトは、エネルギィ補給であって、空中給油みたいな形態が理想である。その場で短時間、それに勝るものはない。ただ、食事中に読む本がなかったのが少し残念だった。(p.252)

「角松の三本の竹はね、長さが七対五対三なんだ」犀川は歩きながら言った。
「七五三ですね?」萌絵がそちらを見ながら言う。
「日本の美は、だいたいその七五三のバランスだ。シンメトリィではない。バランスを崩すところに美がある。もっと崇高なバランスがある」
「たとえば?」
「そうだね・・、法隆寺の伽藍配置、それに漢字の森という字もだいたい、三つの木の大きさが七五三だね。東西南北という文字だって、左右対称を全部、微妙に崩している・・。最初からまったく非対称というのでは駄目なんだ。その微小な破壊行為が、より完璧な美を造形するんだよ」(p.269)

「なりたいものになれない人はいない」と犀川助教授はいつも言っている。「なれないのは、真剣に望んでいないだけのことだ。自分で諦めてしまっているからなんだよ。人間、真剣に望めば、実現しないことはない」(p.298)

「法隆寺の壁画の消失が、東洋美術史上、どれくらい大きな損失だったのか、多くの日本人は気がついていないかもしれない」犀川は煙を吐き出した。「イスタンブールのハギア・ソフィアとか、ローマのヴァチカン、システィーナが爆破されたくらいかな。いや、もっとか・・」(p.535)

約二万日の人生の記述なんて、CD一枚をいっぱいにすることさえできない。それに、記述しても、記述しなくても、何も変わりはない。(p.546)

「リーブル」の読書日記

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