カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟 上   新潮文庫 ト 1-9
カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー/新潮社)
ある晩、突然カラマーゾフ家の父親が殺害された。
その犯人は誰で、その動機は一体何だったのか?という、ちょっとミステリーっぽいテーマ。ただ、普通の推理小説とは違い、そこに至るまでの関係者についての人物設定と性格描写がとにかく長い。物語の7割ぐらいは、その前置きに費やしていると言っていいと思う。
事件が起こるにあたって、事件の関係者がどういう人たちであったかや、その当時のロシアがどういう時代であったかについて、説明を細かく丁寧に重ねて、それを積み上げた後に一気に畳み掛けるような勢いがある。
三男であるアリョーシャが物語の主人公とされているけれども、アリョーシャは善良で裏表がないわかりやすいキャラクターで、それほど面白味がある存在ではない。
それよりも、殺人の容疑者である長男のドミートリィが複雑なキャラクターで謎が多く、果たして高潔な人間であるか、それとも低俗な人間であるのかはっきりとしない。検事のイッポリートは、ドミートリィが示す、光と陰とを同時に併せ持つ姿について「現代ロシア的矛盾である」という指摘をする。
常に話しの主題になっているのは宗教(キリスト教)だ。登場人物はすべて、その形は違えど皆、神を意識して、畏れながら生活をしている。背徳的なことを口走ったとしても、その次の瞬間には赦しを求めるような敬虔さがみんなの心の裡にある。
作品では、ちょっと大げさで芝居がかったやりとりが多いけれど、その中にはいい言葉や、面白い表現がたくさん現われる。それを拾い上げることを目的として読んでも、充分に楽しめる小説だと思う。
【名言】
「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです。絶対に論理より先でなけりゃ。そうしてこそはじめて、僕は意味も理解できるでしょうね。僕はもうずっと以前からそういう気がしてならないんです。兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。」(上巻p.578)
かりに神が存在し、神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる。にもかかわらず、宇宙全体が、いや、もっと広範に言うなら、全実存がユークリッド幾何学にのみもとづいて創られたということに疑念を持つ幾何学者や哲学者はいくらでもあったし、現在でさえいるんだ。俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ。アリョーシャ、何よりも特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。(上巻p.590)
お前に言っておくが、人間という不幸は生き物にとって、生まれたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。パンといっしょにお前には、明白な旗印が与えられることになっていた。パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。(上巻p.640)
古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変わってゆく。沸きたつ若い血潮に代わって、柔和な澄みきった老年が訪れる。わたしは今も毎日の日の出を祝福しているし、わたしの心は前と同じように朝日に歌いかけてはいるが、それでも今ではもう、むしろ夕日を、夕日の長い斜光を愛し、その斜光とともに、長い祝福された人生の中の、静かな和やかな感動的な思い出を、なつかしい人々の面影を愛している。わたしの人生は終わりかけている。そのことは自分でも知っているし、その気配もきこえているのだが、残された一日ごとに、地上の自分の生活がもはや新しい、限りない、未知の、だが間近に迫った生活と触れ合おうとしているのを感じ、その予感のために魂は歓喜にふるえ、知性はかがやき、心は喜びに泣いているのだ。(中巻p.76)
今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺にすぎません。それというのも、自己の存在規定を完全なものにする代わりに、完全な孤立におちこんでしまうからなのです。個人の特質の真の保障は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。(中巻p.104)
僕は神に対して何の異存もありませんよ。もちろん、神は仮説に過ぎませんけど・・でも・・神が必要だってことは認めます、秩序のために・・世界の秩序とか、その他もろもろのために・・また、かりに神がなかったら、やはり考えださなければならないでしょうしね。(下巻p.107)
君はやっぱり現在のこの地球のことを考えているんだね!だって、現在の地球そのものも、ことによると、もう十億回もくりかえされたものかもしれないんだよ。地球が寿命を終えて、凍りつき、ひびわれ、ばらばらに砕けて、構成元素に分解し、また大地の上空を水が充たし、それからふたたび彗星が、ふたたび太陽が現われ、太陽からまたしても地球が生まれる--この過程がひょっとすると、すでに無限にくりかえされてきたのかもしれないじゃないか、それも細かな点にいたるまで、そっくり同じ形でさ。やりきれぬくらい退屈な話さね・・(下巻p.343)
いったいどちらを信ずれがよいのでしょう?最初の伝説、つまり、最後の生活費をぽんと与えて、善行の前に頭を垂れた、高潔な心の衝動をか、それとも実に嫌悪すべきメダルの裏側をでしょうか?ふつう人生は両極端の中間に真実を求めねばならないのが常でありますが、この場合は文字どおり違います。何より確かなことは、最初の場合に彼が心底から高潔だったのであり、第二の場合は同じように心底から卑劣だったということであります。これはなぜか?ほかでもありません、彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであります。(下巻p.476)
僕の考えでは、兄さんがたとえどこへ逃げようと、一生涯その別の人間のことを常におぼえてさえいれば、それで十分なんです。兄さんが大きな十字架の苦しみを引き受けなかったことは、心の内にいっそう大きな義務を感ずるのに役立って、その絶え間ない感覚が今後一生の間、ことによると向こうへ行く以上に、自分の復活の助けになるかもしれませんよ。(下巻p.625)

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