『三度目の殺人』裁判という枠組みは真実追求の場ではなく壮大な茶番


『三度目の殺人』DVDスタンダードエディション

是枝監督の映画という時点で、経験則的に98%以上の確率で面白いだろうと思い、期待をして見始めた。
やはり、間違いなかった。

(以下、ネタバレを含みますので、気になる方は映画を観てからお読みください)

裁判制度そのものの矛盾や問題点を考えさせられる。
人が手に掴んだ小鳥の命を自由に出来るように、裁判官は人の命の生殺与奪の権利を持っている。
しかし、人は人を裁くことが出来るのか?

三隅(役所広司)のキャラクターがいい。
重盛(福山雅治)は三隅について「器のようだ」と言った。
相手によって自分の役割を自在に変えて、どんな形にでもなってしまう。

「言うことがコロコロ変わる」と摂津(吉田鋼太郎)からは顰蹙をかっていたけれども、そんな評価を気にするような彼ではない。

この、固定観念からの自由さは、人間よりも妖精のような存在に近いんじゃないかと思う。

結末はわざと断定を避けて謎を残しているものの、法廷ミステリーに属する映画ではない。
真実の解釈は観た人にゆだねるような形ではあるけれど、推測出来る結論は一つだけに絞れると思う。

裁判という枠組みそのものが、真実追求の場ではなく茶番なのだということを、法曹関係者ほどよく知っている。
裁判官と、検察と、弁護士とは、真剣に取り組む相手ではなく、同じ舞台の上に立つ役者同士のようなものだ。
その意味では、そこで裁かれる人間だけが、その舞台の部外者になっている。

タイトルの「三度目の殺人」の意味について。
三隅が人を殺しているのは、二度だけだ。
では、三度目の被害者は誰なのか?

示しているのは、現行の裁判制度によって死刑を宣告された三隅なのだと思う。
しかし、そのことに三隅はおそらく、まったく後悔も恨みもなさそうなことが唯一の救いだ。

名言

「恨んで殺したほうが、お金目当てより罪が軽くなるんですか?」
「金目的だと、重くなるわけ。要は身勝手だってことで。」
「同じ、殺してるのに?」
「怨恨の場合は、殺意を抱くやむを得ない事情があった、って考えるわけ。」
「でもそれで罪の重さが変わっちゃったら・・法律ってなんか不思議ですねえ。」

「いいか、殺す奴と凝らさない奴の間には深ーい溝があるんだ。それを超えられるかどうかは、生まれた時に決まっている。」
「ずいぶん傲慢な言い方ですね。」
「更生するとか、信じていないんだ。そう簡単に変われるなんて考えるほうがよっぽど傲慢だよ。」