トニオ・クレエゲル

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トニオ・クレエゲル(トオマス・マン/岩波書店)

とてもしみじみとする、良い本だった。
並外れた芸術家になるような才気を持ち合わせているわけでもなく、かといって平凡で善良な一市民にもなりきれない、中途半端な自分に鬱屈とする、主人公のトニオ。しかも、そのことを自覚して、分析出来てしまうだけの客観性を持ち合わせているというのは、これはツラいことだ。
芸術家を気取っていながら、本当の芸術の中に生きている人からは「あなたは道に迷った俗人です」と言われてしまう、この厳しさ。以前、大槻ケンヂのエッセイを読んだ時にも、同じような空気を感じたのを思い出した。
思春期には特に、誰もが自意識について過剰になり、多かれ少なかれ、主人公のトニオと似たような考えを持つものなんじゃないかと思う。しかし、たいていの場合は、その感覚も大人になるにつれて薄れてきて、多数意見や平均的な生活に解け込むことに何の違和感も感じなくなってしまう。
大人になっても、なおその自意識を敏感に保ち続けた場合、どうなるのか。それを、一人のドイツ人にあてはめて、彼の口から語らせることで考察したのが、この自伝的小説なのだと思った。
【名言】
「君は馬の稽古なんかしてないんだろう。クレエゲル。」とインメルタアルが問うた。彼の眼は二筋の光る裂目にすぎなくなっている。(p.13)
道に迷うこともあったが、それはある人々にとっては、もともと本道というものが存在しないからのことだった。一体何になるつもりかと尋ねる人があると、彼はいつもその度にちがった返答をした。彼は常にこういっていたからである。自分は無数の生活様式に対する可能性と同時に、それが要するにことごとく不可能性だというひそかな自覚をもいだいている・・。(p.27)
僕が働いたのは君たちのためだったのだ。だから喝采の声を聞く度に、僕はいつも君たちもそれに加わっているかと思っては、そっとあたりを見廻したものだ。・・君はもう「ドン・カルロス」を読んだかね、ハンス・ハンゼン、いつか君の家の庭戸のそばで僕に約束した通りに。読むのはやめたまえ。僕はもうそんなことを君には求めないよ。淋しいからといって、泣くような王様が、君に何のかかわりがあろう。君は詩と憂愁を凝視して、その明るい眼を曇らせたり、夢のような霞ませたりしてはいけないのだ。・・君のようになれたら!・・もう一度やり直す?しかしそれはなんにもなるまい。やりなおしたところで、またこうなってしまうだろう。いっさいは、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼等にとっては、もともと本道というものがないのだから。(p.84)
僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。だからその結果として、多少生活が厄介です。あなたがた芸術家たちは僕を俗人と称えるし、一方俗人たちは僕を逮捕しそうになる。どっちのほうが僕をより烈しく傷つけるか、僕はしらない。(p.92)