ルネサンスとは何であったのか

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫 し 12-31)
ルネサンスとは何であったのか(塩野七生/新潮社)

イタリア史の中でも、特にルネサンスという時代に焦点を絞って、その始まりから終わりまでを通して説明した、入門書的な本。
ルネサンスはフィレンツェでの出来事かと思っていたけれども、その舞台の中心は、フィレンツェ→ローマ→ヴェネツィアと、時代と共に変遷していったらしい。その、それぞれの時代ごとに、章を分けて特色が語られている。
教科書的な説明と違い、塩野七生氏による解説は独自の史観が入っていて、その視点からいったんまとめて説明がされているので、一つの流れに従って読み進めることが出来、とてもわかりやすい。
そして、彼女の話しは歴史的事実そのものよりも、誰を中心としてその出来事は起こったか、という観点から語られるので、物語としてのドラマ性が加味されて、一層面白い読み物になっている。
この本で特に面白かったのは、ヴェネツィアという都の特殊性だ。ヴェネツィアは、栄枯盛衰を繰り返すイタリアの諸国家の中で唯一、1200年の長きに渡って存続した。フィレンツェのメディチ家や、ローマにおける法王のような際立った存在はヴェネツィアにはなく、徹底した民主制と自由がそこにはあった。
異端審問や、宗教改革のような、キリスト教の激動の時代にも、ヴェネツィアは自由の砦としてその存在意義を保ち、様々な人材を受け入れ続けた。最終的に、ルネサンスの精神や成果を受け継いだのはこのヴェネツィアだったのだと思う。
ルネサンスについての見方をシンプルにわかりやすく教えてくれる、非常に中身の濃い本だった。
【名言】
私は、哲学とはギリシア哲学につきるのであって、それ以降の哲学は、キリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力の繰り返しではなかったか、と思っています。無用の労の繰り返しと言うのでは過激すぎるなら、ギリシア哲学の打ち上げた命題に、時代ごとの答えを与えようとして労力、と言い換えてもよい。なぜなら、宗教とは信ずることであり、哲学は疑うことです。(p.122)
いかに敢然と言い返しても、軍事大国であると同時に政治大国でもあった国家は、後にも先にもローマ帝国しか存在しなかったのが人間世界の現実。この現実を直視せざるをえなかったマキアヴェッリにとっては、政治の巧者ではあっても軍事は重要視していなかったロレンツォは、イタリアの現在を論ずる「君主論」には、とりあげる価値のない過去の人であったのでしょう。だからこそ、フィレンツェの過去を叙述した「フィレンツェ史」では、このロレンツォを高く評価したのです。そしてそれは当然だし、またロレンツォとマキアヴェッリの二人は、本質的には似たもの同士ではなかったか。二人とも、他のどこでもなく、フィレンツェにしか生まれえない人間であるという点で。(p.131)
レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらのルネサンスの天才たちを解説した研究書など読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。(p.240)