にぎやかな天地

にぎやかな天地 上
にぎやかな天地 上下巻(宮本輝/中公文庫)

とても豊かな、素晴らしい小説だった。
この頃、個性が強かったり、異端なキャラクターが登場する小説ばかりを読んで意たせいか、この作品に登場する人々がまっとうな人たちに思えて、しかもそれが嫌味だったりわざとらしかったりせず、とてもすがすがしい印象だった。
この本の中にはロハスという言葉はまったく出てこないけれども、この作品がテーマとして語っているのは、それに通じる、じっくりと、長い長い持続的な時間をかけることによってしか得られないものについてなのだと思った。
人類が昔から利用してきた、発酵という仕組みもまた、まとまった長い時間を絶対的に必要とする。主人公が仕事の中で取材をする「発酵食品」の不思議な魅力とリンクして、主人公自身の人生観も、それまで積み重ねた体験を核として、少しずつ熟成していく。
この物語は、今より若い時に読んでも、きっと多くの部分を本当に理解することは出来ない話しだったのではないかと思う。そして、今であっても、この先もっと年を重ねて読んだ時と比べたとしたならば、だいぶその妙味を多く取りこぼしているのだろうという気がする。
この小説を読みながら、もう一つの人生を生きているような気持ちになり、そのもう一つの人生から多くの経験と知恵を学んだような気分に、この本はさせてくれた。小説が持つ醍醐味を体現した、素晴らしい作品だと思う。
【名言】
何事も時間というものが必要なのだ。いまの世の中は、時間をかけていない、拙速なものだらけだ。いかなる先端の技術をもってしても、この時間というものだけは短縮できない。時間が作りだす絶妙な作用は、金でも技術でも高尚な理論でも獲得することはできないのだ。三次元とか四次元とかの物理学で、祖母のあの糠床は作れないのだ・・。(上巻p.48)
仕事をするかぎりは、いっさい手抜きをせず、仕事とはかくあるべきだというものを為さなければならない。それは報酬とは無関係なのだ。いかに少ない報酬であろうとも、それが自分の仕事であるかぎり、決して手は抜いてはならない。仕事とはそうであらねばならない・・。(上巻p.213)
時間をかけて作られたもの、手間暇を惜しまず作られたもの。そういうものはこれからますます見直されていくであろう。そのようなことを知っている家庭で育った子は、舌そのものが、大量に作られたいかがわしいものに気づくようになる。(上巻p.333)
時間というものは、思いもよらんものを造りだしてくれる。時間というものが造りだす事柄を、人の手で速めようとすると、失敗するんや。感情というものも、おんなじやなァ。五十年間、怒り続けた人間なんておらんし、五十年間、哀しみつづけた人間もおらんわ。(上巻p.361)
物の何を、物のどこを、どう見てるかっていう眼力の問題やな。技術はその眼力に付いてくるんや。(下巻p.16)
血という言い方をするけどなァ、それは体のなかに流れてる赤い血のことやあれへん。仏教ではそれを業というのかもしれへん。その人間の命の根底にある波長というのは、目には見えんし、意識できるもんでもないけど、それはおんなじものを持ってる者同士を共鳴させるんやないかなァ。(下巻p.250)
すかっとしてる。しゃきっとしてる。これは大事なことや。その人間の心の芯の部分が、そういう印象となってその身を飾るんや。(下巻p.296)
ぼくは事業では気味が悪いほど幸運に恵まれつづけてきてね。ほんとに自分でも薄気味悪さを感じるくらい、こと事業に関してはほとんど全打席ホームランだったんだ。だけど、あるとき、どかんと大きな災厄に見舞われた。家族の突然の死、それから、自分自身の病気だ。立ち直るのに、ぼくは七、八年かかったね。医者がもう大丈夫ですよって言ってくれたのは病気にかかって五年目くらいだったけど、ああ自分はあの長い長い地獄から本当に蘇ったってことを教えてくれたのは、ぼくの家の三軒隣のおうちの庭に咲いていたバラだ。真紅のバラだ。そのバラがねェ、ある日、ぼくを見て笑ったんだ。こんなにきれいに咲けて嬉しいって、ぼくに話しかけてきたんだ。ぼくの心にはそう聞こえたんだ。そしたら、バラとはこんなに美しいものだったのかって驚いて、ぼくは周りを見たんだ。空には白い雲、近くには、どこかのおばあさんが散歩させてる雑種の人なつこい犬がいたよ。そのとき、ああ自分は立ち直った、自分が人間の形のジグソーパズルだとしたら、これまでの自分はあちこちに幾つかのピースの抜けた穴ぼこだらけのジグソーパズルだった。その足りないピースの幾つかが埋まった・・。そんな気分だったよ。そのとき以来、美しいものを美しいと感じるようになった。可愛いものを可愛いと感じる。悲しんでる人の悲しみが自分なりにわかる。恥ずかしがってる人の、その恥じらいの根元が少し見える。そんなふうになったんだ。(下巻p.302)

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