掌の小説


掌の小説(川端康成/新潮社)

「掌編」というのは、短編よりもさらに短い作品のことを指していうらしい。
この「掌の小説」に集められた小説の多くは4~5ページ程度の分量で、中には2ページにも満たない、ごく短いものもある。
122ある掌編の中でも、特に好きだった話しは、「指環」「写真」「雀の媒酌」「神の骨」「離婚の子」「紅梅」だった。いずれも、日常のささいなことを題材にしていることが多く、その描写の繊細なことが一層分かりやすい。
川端康成は、この掌編集が出版されることを、頑なに拒んだという。
この、あまりにも飾り気のない率直な文章を読まれたくなかったという気持ちであったのだと思う。これらはきっと、人に見られることを想定して書いた話しではないし、決して読まれたくはないと思いながら書いた作品だろう。
それだからこそ、この掌編には川端康成という作家の、虚飾のない真情がとてもよくあらわれている。
小説というのは、短いものほど難しいのではないかと思う。たったこれだけの文字数の中で、これほどの叙情豊かな世界を描くというのは、ものすごい表現力だ。これらの作品が失われてしまうことなく、出版されて残っているのは、本当に幸いなことだったと思う。
【名言】
こんな空想を遊んでいると、彼の胸は彼の内の感情で一ぱいにふくらんで来た。しかし、生活を一つにしようと思う女はもうこの世に見つかりそうには思えなくなってしまっている。(p.60)
久しく自己的な孤独に住み慣れた彼は、却って自分の身を他人に捧げることの美しさにあこがれるようになった。犠牲というものの尊さも分かって来た。人間という種族を過去から未来へ伝えるための一粒の種子として、自分を小さく感じることにも満足した。人間という種族にしたところで、いろんな鉱物や植物なぞと一緒になって、この宇宙に漂う一つの大きい生命を支えている小さい柱に過ぎないもので、他の動物や植物よりも格別尊い存在ではないと考えることにも同感した。(p.122)
この娘のほかに自分の妻となるべき女がいるのなら、その顔を水に写して見せてくれ、と彼は泉水に頼んだ。人間は時間も空間も透視出来るものであると彼は信じている。彼はそれ程孤独である。(p.123)
君の写真を一緒に仏壇に飾ったのも、君と義妹との恋を葬ってしまえとか、君は義妹に墓穴まで附いて行けとか、僕はそんなことを考えていたのではないのだ。それでも、人々がその写真の前に涙を流したり、合掌したり、焼香したり、念仏を上げたりしているのを見ると、さすが僕は滑稽だった。黒いリボンの下に君がいるとは知らないのだからね。こんな風に人間というものは死者に礼拝しているつもるで生者にも礼拝していることがあるし、また生者を眺めているつもりでもその影に死者がいることだってあるのだね。君が汽車の窓から何心なく自動車を見るとそれが愛人の葬列であったりするのだね。(p.143)
戦争から覚めると生の夕暮れが迫っていた。そんなはずはないと思うものの、敗戦の悲しみは心身の衰えを伴っていた。自分達の生きていた国と時とはほろんだようであった。寂莫の孤独に追い帰された私は隣組のお産を他界からの生の明りと眺めるかの感じもあった。(p.453)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

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