なぜ日本人は学ばなくなったのか


なぜ日本人は学ばなくなったのか(齋藤孝/講談社)

「日本人は、一昔前までは教養が大切にされて、多くの人が本を読んでいたのに、今の若者はなぜ本を読まないのか」ということが語られている本。
齋藤氏の嘆きや憤慨が伝わってきて、やたらと熱い。
ただ、現状がどうなっているかという分析と、どういう流れで今のようになったのかという筆者の推測があるのみで、じゃあどうすればいいのかという提言はまったくされていないという投げやりさはある。「とにかく本を読め」という結論らしい。
でも、本を読まない人は、そもそもこの本だって読むことはないから、その人たちのところに筆者の主張が届くことはないだろう。
齋藤氏の主張には、とても共感出来るところが多いのだけれど、それでも、この本の内容はかなり片寄った意見だと思うし、アメリカについてや現代の若者について、明確な根拠にもとづいていないイメージで、勝手に決め付けている部分がかなり多い気がする。
自分の考えでは、今の日本は、この本で言われているほど絶望的な状況でもないし、その時代に合わせた形で適応をしているというだけで、現代人が昔の人に比べて劣っているということではないのだと思っている。
昔の人のほうが良く知っていたこともあれば、今の人のほうが良く知っていることもある。それは優劣の問題ではなく、どの時代のどの国民にもある、特性ということだと思う。
本を読まなくても、その分、実体験や、他のメディアから読書以上のことを吸収する人もたくさんいるだろうし、それが出来る時代だとも思う。
でも、齋藤氏がこの本で語っていることの真剣さは伝わってくるし、その危機感も非常に納得がいくところが多い。実効性はともかく、とても好感がもてる本だ。
【名言】
ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。(p.16)
フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも捨象でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。
ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。(p.78)
こういう若者の変化を見て、前の世代の人々が「教養のない人が増えてしまった」と絶望していたのが30年ほど前。現在では、嘆く人すらいなくなってしまいました。教養という尺度で日本のこの30年間を振り返ると、極端に劣化してしまったことは間違いありません。「無教養」、より正確には、「自らの無教養に対する羞恥心のなさと開き直りの態度」は、そのまま「バカ」と言い換えることができるでしょう。(p.155)
読書にかぎらず、高い山の切り立った崖を登るような努力やエネルギーを必要とすることは、若いころに経験しておくべきなのです。対象をリスペクトするがゆえに、難解であることを承知で立ち向かい、多くのことを根気よく調べ、深く考えながら、あるいは議論しながら少しずつ理解していく。こういう経験が、その後の糧になるのです。(p.168)