国盗り物語(斉藤道三編)

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国盗り物語1~2巻(斉藤道三編)(司馬遼太郎/新潮社)

この小説が面白いのは、主人公がいわゆる「いいヤツ」ではなく、どちらかというと「悪いヤツ」だという、ピカレスク小説であることだ。
戦国大名の中でも、斉藤道三というのは、出自がただの僧侶であるというところが相当変わっている。何の権力も仲間もいない一人の男が、本当の裸一貫から始めて、一国の主にまで成り上がっていくというのは、最高に痛快な物語だと思う。
その天下統一の志は、後に信長、秀吉へと引き継がれていくことを考えると、この道三こそはその大事業の先鞭をきった人物であって、それだけに、その器も才能も相当に大きい。
その型破りな思想と智謀から起こるエピソードには面白い場面がたくさんあるのだけれど、特に、最高に良かったのは、次の場面だった。
・絶世の美女の深芳野を、美濃国の地頭である頼芸から奪う場面(1巻p.441)
・内親王である香子に、美濃に来るよう説得する場面(2巻p.39)
・お万阿を助けに行く時、赤兵衛を殴りつける場面(2巻p.299)
この道三とほとんど同年にイタリアで生まれたマキャベリのことが、小説の中で引き合いに出されているのだけれど、その「君主論」で描かれているところの理想の君主に非常に近い資質を持った道三という人物が、遠く離れた日本という国に存在していたということはとても面白い。
斉藤道三や明智光秀は、一般世間的には悪役のイメージのほうが強いキャラクターだけれども、司馬遼太郎氏の視点からは、逆に、この二人にこそとても強い愛着を持っているのだということがよくわかる。その意味で、教科書的な価値観とはまったく違った視点を与えてくる、歴史の醍醐味を存分に含んだ小説だと思う。
【名言】
(僧房の生活は退屈だった)
しかし無益ではなかった。学んだものは法華経である。内容は愚にもつかぬ経典だが、法華経独特の一種、強烈な文章でつづられている。すべてを断定している。はげしく断定している。天竺語を漢文に訳したシナの訳官の性格、文章癖がそうさせたものか、どうか。それはわからない。(1巻p.125)
「わしはいつも街道にいる。街道にいる者だけが事を成す者だ。街道がたとえ千里あろうとも、わしは一歩は進む。毎刻毎日、星宿が休まずにめぐり働くようにわしはつねに歩いている。将軍への街道が千里あるとすれば、わしはもう一里を歩いた。小なりとも美濃の小地頭になった。」(1巻p.342)
「お万阿、世のこと宇宙のことは、ニ相あってはじめて一体なのだ。これは密教学でいう説だが、宇宙は、金剛界と胎蔵界の二つがあり、それではじめて一つの宇宙になっている。天に日月あり、地に男女がある。万物すべて陰陽があり、陰陽相たたかい、相引きあい、しかも一如になって万物は動いてゆく。宇宙万物にしてすべてしかり。一人の人間の中にも、陰と陽がある。庄九郎と勘九郎はどちらが陰か陽かは知らぬが、とにかく、厳然とこの世に二人存在している。お万阿、疑わしくば美濃へ行ってみるがよい。勘九郎という男はたしかに実在している。」(1巻p.345)
「もし深芳野様を頂戴しましたあかつき、それにかわるものとして、殿のお手もとに美濃一国を差しあげまする。
殿、大志を抱かれませ。この西村勘九郎がこのひと月のうちにみごと殿のために美濃の国主の座を奪ってさしあげまする」(1巻p.444)
「茶とは便利なものが流行ったものでござりまするな。ここに一碗の茶を置くだけで浮世の身分のちがい、無用の縟礼をとりのぞくことができるとは」
といった。事実、茶の席では、亭主と客の二つの立場しかない。(2巻p.52)
「お干しくだされ。それがしも頂戴する。もう、この一件、思いあきらめた。禅家では一期一会と申す。普天の下、人間は億千万人居りましょうとも、こうして言葉をかわしあうほどの縁を結ぶ相手は生涯でわずかなものでござる。よほど前世の因縁が浅くなかったのでありましょう。
そうではござらぬか、宮。あなた様のおん前にいるのは、仏縁によってここに湧出したるただの男。わが前にいるあなた様は、これまた逢いがたきみほとけの縁によりてこの山に湧出したるただのおんな。
そのただの女と男とが、ふしぎな縁で酒を汲みかわした、ということでこのたびはお別れしよう。」(2巻p.64)
庄九郎にとってなにが面白いといっても権謀術数ほどおもしろいものはない。
権ははかりごと、謀もはかりごと、術もはかりごと、数もはかりごと、この四つの文字ほど庄九郎の好きな文字はない。(2巻p.99)
「人の世にしくじりというものはないぞよ。すべて因果にすぎぬ。なるほどわしの場合、昨日の悪因がきょうの悪果になったが、それを悪因悪果とみるのは愚人のことよ。絶対悪というものは、わしが妙覚寺本山で学んだ唯識論、華厳論という学問にはない。悪といい善というも、モノの片面ずつにすぎぬ。善の中に悪あり、悪の中に善あり、悪因悪果をひるがえして善因善果にする者こそ、真に勇気、智力ある英雄というわい」(2巻p.157)
「おぬしは天下の岡部又右衛門ではないか。たかが一国の小守護が来たからといって、居ずまいをただす必要はない。わしは一代で死ぬ。おぬしの仕事は百世に残る。どちらが上か」(2巻p.283)
(お万阿と約束した「天下」が、はたしてとれるかどうか)
とれる、とおもっていたのは、若年のころである。年を経るに従ってそれがいかに困難な事業であるかがわかってきた。なにしろ、美濃という国を盗ることに二十年以上の歳月がかかってしまった。あとは東海地方を制圧し、近江を奪り、京へ乗りこむ。それにはもう二十年の歳月が必要であろう。
(いつのまにか、老いた)
五十に近くなる。
(もう一つの一生が)
と、庄九郎はおもった。
(ほしい。天がもう一回一生を与えてくれるならば、わしはかならず天下をとる。とれる男だ)
が、のぞむべくもない。(2巻p.503)
すでに自分の人生が夕暮にさしかかっていることを庄九郎は知っている。いまや美濃を得、晩年にはあるいは尾張がとれるかもしれない。しかしそれで今生はおわる。そう見通すことができる。そうとすれば、せっかく今生で得た領土を、どうしても捨てる気にはなれない。これは煩悩ではない。と庄九郎はおもった。
美濃をすてれば、庄九郎の一生のしごとはなにもかも無に帰し、この男がなんのためにうまれてきたか、いや生まれてきたどころか、かれがこの世に生きたという証拠さえなくなるではないか。(2巻p.511)