般若経や華厳経の思想は対称性をベースとして考えぬかれた知恵。「対称性人類学」

[amazonjs asin=”4062582910″ locale=”JP” tmpl=”Small” title=”対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)”]
これは、かなりすごい本だった。

「人間である」かつ「ヤギである」

この本を読むと、何故、神話や夢というのは、冷静な思考からしてみたら不可思議な形をとって表現されることが多いのかということが、とてもよくわかる。
もう、世界の見え方がすっかり変わってしまうぐらいに衝撃的な内容が、当たり前のように整然とまとめられた上で、語られている。

アリストテレス式の論理学や、コンピュータの演算では、「人間である」と「ヤギである」は同時には満たされることはない。それが、あらゆる論証をおこなう上での、大前提であり決まり事であるけれども、神話の論理というのは、その点を完全に無視して、「AでありBである」を矛盾なく受け入れる。同じ場所に、複数のものが同時に存在するということが可能になっている。

以前に「パラレルワールド」という最新宇宙論の本を読んだ時に、「3次元を2次元の中に封じ込めるホログラムと同じ原理で、4次元以上のn次元空間は(n-1)次元の中に圧縮して封じ込めることが出来るという理論が、今では常識として考えられている」というような話しがあったけれど、この「対称性人類学」で説明されている、「対称性を持った神話」の構造というのは、ほとんどまったくそれと同じことを言っているのだと思った。

般若経や華厳経の仏教思想を、宗教ではなく、対称性をベースとして考えぬかれた知恵なのだととらえる見方はとても面白かった。今後、重要性を増すのは、交換にもとづいた経済ではなく、贈与による経済だと語られているけれど、WikipediaやLinuxのようなボランタリーな活動というのは、まさに対称性への揺り戻しが起ころうとしている、一つの顕れである気がする。

特に面白かった話し

中央アフリカのレレ族では、イニシエーションとしてアリクイを食べる。
レレ族はあらゆるものを「右=男=人間性」と「左=女=動物性」の2種類のいずれかの分類に分ける。アリクイ(穿山甲)は、全身が鱗でおおわれた哺乳動物で、鱗は魚を思わせるが、木によじ登り、くるくる体を丸めて木にぶらさがって眠ることもある。
形は哺乳類というよりも、卵生のトカゲに似ている。ほかの哺乳類は一度にたくさんの子供を生むが、このアリクイは一度に一匹しか生まない。人間を襲うことも、逃げることもなく、狩人が通り過ぎるのをじっと聖者のように待つ。
この動物はレレ族の動物分類学のどこにも所属しない「例外者、怪物」である。この怪物的な動物を、許された少数の男だけが、儀式の中で食べることで、その力を取り込むことをおこなう。

印象に残った言葉

現実の世界を支配している思考では、生きていることと死んでいることは同じではありません。生と死のあいだには、およそ考えられる限りでもっとも深刻な非対称性がある、といっても言い過ぎではありません。しかし、神話はそんなにも異質な生と死のあいだにさえ、同質性と対称性を見出そうと努力するのです。(p.31)

同じ場所に複数の存在が同時にいても、ちっともおかしくないような世界のことを、神話は語ろうとしています。ひとつの椅子に私が座ってしまえば、もうそこにあなたが座ることはできません。二人が同時に座れるようにするためには、どうすればいいのでしょう?こういう場合に数学では、どう考えるかというと、二人の人間を四次元とかもっと上の次元をもった空間に埋め込んでしまえばよい、と言うのです。こういうことは、数学者の考え出した知的なお遊びのようにも思えます。ところが、こういう三次元よりも高い次元が実在していることを、神話を語っていた人々はごく当然のこととして認めていたようなのです。(p.39)

無意識は、非対称的な関係をまるで対照的であるかのように扱おうとします。分裂症にしめす一例では、「ジョンはピーターの父である、だからピーターはジョンの父である」というタイプの思考を進めていきます。私たちの生きている「正常な世界」では、息子と父とは非対称的関係の最たるものですが、無意識は三位一体説を唱えるキリスト教神学のように、息子と父の同質性を強く主張してゆずりません。(p.54)

高次元のなりたちをした流動的知性の活動は、たえまなく三次元的な構成をした通常の論理への「翻訳」がおこなわれていく。次元数を下げて、ふつうの思考にも理解のしやすい形へ「翻訳」されるたびに、そこには圧縮や置き換えの現象がおきることになる。夢はそうやって製造される。(p.75)

私が「本物の知恵」と呼んでいるのは、私たち現生人類の「心」の原初の働きについての正確な知識を人々に伝えるために、巧みに案出され、創造されてきた知識の体系のことです。つまり、「心」の基体である流動的知性=対称性無意識の働きがどいうものであるのかを、人々の前に具体的にあらわにしめしてくれる特別な知識の体系を、私は「知恵」と呼ぼうとしているのです。(p.121)

「男たちは、ああやって貴重な知恵を求めて冒険に出ていきます。ところが、女の人たちは村でそれを待つだけです。なにか不公平ではありませんか。女性はそういう知恵に近づくことを許されていないわけですから、差別があるのではないですか」。これにたいして村の女性が笑いながら、こう答えたそうです。「男たちはかわいそうに、あんなにでもしなければ、知恵に近づくことはできないんだよ。ところが、女は自然のままにそれを知っているのさ」。(p.143)
対称性人類学は「抑圧されていない無意識」の働きを、できるだけ純粋な形で取り出してこようとする試みですが、仏教はすでに二千数百年も前から同じ試みに取り組んで、その思想を哲学や共同体の形として、現実世界の中に表現し、実践しようとしてきました。(p.146)

仏教以外の大宗教はどれも、新石器型の野生の思考を否定することによって、新しい文明型の宗教をつくりだしてきました。とくに一神教の場合、野生の思考にたいする否定は徹底していたために、そこに発達した文明はどれも手のつけられないほどに頑固な「非対称性」と特徴をおびることになりました。ところが仏教だけは、そうした大宗教の中にあってただ一人、野生の思考との共通地盤に立つ対称性の思考の可能性を、最後の帰結にまで発達させるという試みに挑戦してきました。(p.163)

すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。(p.191)

死の衝動のことを、本質的な部分に組み込んである経済学は、まだつくられたことがありません。世の中で通用している経済学のほとんどすべてのものが、ただ「生の衝動」のあらわれ方を、手を替え、品を替えて理論的に表現しているにすぎないようにも思えます。そういう経済学を土台から「転倒」するものとして、バタイユの「普遍経済学」は構想されました。その意味でも、対称性人類学と普遍経済学とは仲のよい兄弟なのです。(p.238)

数学の不思議さは、それが無意識の領域の出来事まで記号(シニフィアン)にしてしまうことができるところにあります。しかもその記号は厳密な論理の規則にしたがわなければならない、というのが数学のルールです。それによって、対称性の論理で動いている無意識の領域の出来事が、厳密に非対称的な論理で表現されるという、希有のことがおこるわけです。音楽にもそういうところがあります。また、神話的思考もそれとよく似た動作をおこないます。夢もそうです。「超実数」の考え方には、数学の持つそういう特徴がみごとに発揮されています。(p.252)