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2005年07月28日
僕のなかの壊れていない部分

僕のなかの壊れていない部分
(白石一文/光文社)
【コメント】
主人公の考え方や行動には独特なところがあり、はじめは不可解なところが多いけれども、主人公自身のおかれた環境や過去が明らかになっていくにつれて、だんだんとその思想の背景を理解出来るようになってくる。
作品が問うているのは「何のために生きるか」という普遍的で曖昧なテーマだ。しかしそれを、難しい言葉を使ってごまかしたり高尚に見せることなく、真っ当な手順でストレートに表現をしていると思った。
こういうテーマは作者の独りよがりの結論になりがちで、受け容れにくいこともあるのだけれど、この小説は共感出来る部分がとても多かった。
【名言】
僕はいつも彼女に向かって問いかけている。僕はきみとずっと一緒にいることで、一体どうなるのだろうかと。僕たちは二人でいることで、生きる意欲やゆとりや安らぎや慰めを超えて、生きること本体の深い意味にどこまで近づくことができるのだろうかと。きみはその点についてどのくらいの保障を与えてくれるのだろうかと。(p.199)
人間がただひとつ意思を発揮する場があるとすれば、他人の生を創造するということだと僕には思える。
しかし、なぜそんなことを人間はやらかしてしまうのか、それが僕にはよく分からない。なぜなら、他人の生を生み出すということは、そのままその他人の死を生み出すことと等しいからだ。人を生むことは、その人を殺すことでもある。(p.244)
いずれは、直人君も直人君と別れてしまうときがきて、こうやって亡くなった大勢の人たちと混ざり合って、一陣の風になって吹き渡るんだよ。だったら、生きているうちに、できるだけ自分のことなんか忘れて、他人のことを考えられる人間になって欲しいって思う。(p.246)
2005年07月22日
光あるうち光の中を歩め

光あるうち光の中を歩め
(トルストイ/新潮社)
【コメント】
一人の、キリスト教の熱心な信者と、それを否定するもう一人の人間との問答集のような感じで物語は進んでいく。
キリスト教を否定する主人公ユリウスがキリスト教に対して提示する、疑問や矛盾点の指摘はもっともなもので、ユリウスは容易にはキリスト教の精神を信じようとはしない。
たとえば、私有財産を否定しながらなぜ物を与えずに売ろうとするのか、結婚についてどこまで認めているのか、子供を巻き込んで改心する権利が大人にはあるのか、など。
その反駁に対してパンフィリウスは、一つ一つ丁寧に、惑うことなく熱心に答えてゆく。
ユリウスは悪人というわけではなく、どちらかというとごく普通の一般市民で、だからこそ、パンフィリウスと話す時、相手を信じる気持ちと信じられない気持ちの間で揺れ動く様子が、読んでいてよく伝わってくる。
物語の舞台は今よりもはるか昔のローマ時代だけれども、その語られているテーマが、現代に置き換えても違和感なく、そのままぴったりとあてはまることに驚かされる。人が抱える問題というのは、どの時代のどの国でもほとんど変わることはないのだということがわかる。
この本は、何よりもわかりやすい、キリスト教の基本的な教義を理解するためのテキストなのだと思う。
【名言】
「異教徒の諸君はすべて、君のように、自分と、個人としての自分に、最も多く快楽を与えると思える女を選び出す。しかし、そうした条件下では、目移りがして、決定するのに骨が折れます。まして快楽を得る得ないは、結婚後でないとわからないのだから、なおさらです。が、キリスト教徒には、そういう自己のための選択なんてものはありません。(p.68)
しかし、もう別個の生活がはじまったんですからね。これをぶち壊すわけにはいきませんよ。すでに着手したからには、最後まで押し通さなければなりません。父母や親友たちの不満、特にこの大転換の決行に行使しなければなるまいと思われる猛烈な努力を、まざまざと思い描いたユリウスはこう言った。(p.91)
まさかあんた以外に、神の下僕はいないなんて考えているのじゃないだろうな?もしあんたが働き盛りの時に、神への奉仕に献身していたら、神に必要なことを、全部行っていただろうか?あんたは倍も、十倍も、百倍も、余分にやったに違いないと言うだろう。しかし、もしあんたがすべてのひとびとより何億倍も多くなしとげたにせよ、神の仕事全体からみれば、それは何でもありはしない。取るに足らぬ大海の一滴じゃ。神のもとには大きいものも小さいものもありはしませぬ、また人生においても大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ。(p.147)
2005年07月17日
横浜港花火大会で人の親切に触れる
横浜港の花火大会に行ってきた。高校の同級生たちと現地で合流する予定だったけれども、携帯が混みあいすぎていて、まったくつながらず、ようやくつながった時には花火が開始していて、結局合流することは出来なかった。
赤レンガパークで一人で花火を観つつ、混雑に巻き込まれないうちに、花火が終わる少し前に駅へと戻った。花火が終わる頃、桜木町駅に着いたときに携帯電話がないことに気がつく。おそらく座っていた場所に忘れてきたのだろうけれども、あまりの人の多さだったので、もう見つかることはないだろうと思った。
なくなってはじめて、携帯をなくすことがどれだけのダメージなのかを思い知った。連絡を受けられないのはもちろん、わからなくなった電話番号もあるし、中に入っているメールは誰に読まれるかわからない。
ショックを受けつつ、諦めて家に帰った後、自分の携帯に電話をかけてみた。
しばらくのコールの後、誰かが電話に出る。携帯は交番に届いていた。
花火会場とみなとみらいの交番はかなり離れたところにあるのだけれど、わざわざ拾って届けてくれた人がいたのだ。なんとか、拾い主にお礼をしたいと思ったが、連絡先は何も残さずに去っていったらしい。
本当に、本当に助かった。誰かがしてくれた無償の親切によって、どれだけ救われたか知れない。
自分も同じように、無償の親切を誰かにまわしていかなければいけないと思った。
2005年07月08日
半島を出よ


半島を出よ (上)(下)
(村上龍/幻冬舎)
【コメント】
村上龍の小説は、エンターテイメントに徹している。
よく出来たエンターテイメントというのは、とにかく先が気になるので、途中で読み止められずについページをめくってしまう。
もし、北朝鮮軍が日本に上陸して、北九州を占拠したらどうなるか。実際にありえなくもなさそうな話しで、その設定からして惹きこまれる。
作品の完成度は、フィクションをいかにリアルに見せるかというところによっている。この小説も、とにかく人物設定や状況描写が緻密で、その情報量はフィクションであることを忘れさせてしまうくらいの膨大さだ。
【名言】
ノブエは、何か社会的常識のようなものに素直に従って生きている人間のほうがはるかに変だと思っていた。誰でもスギオカのように人を殺す可能性がある。スギオカのような人間がこの世にいるのは変だと信じきっているやつのほうがよほど変だ。人間はどんなことでもやる自由と可能性を持っているから本質的にひどく恐ろしい。(上巻p.26)
国民もメディアも主体的な外交という概念そのものが希薄だった。黒田も、北朝鮮か中国が日本を攻撃したら自動的に米軍が反撃してくれるのだろうと何となくそう思い込んでいた。日本の代わりに米軍が戦ってくれるような錯覚があった。考えてみれば、そんなお人よしの国があるわけがない。(下巻p.184)
四人は、酒ではなくウーロン茶やポカリスエットを飲みながら、何も話さずにただソファに座っている。煙草を吸うわけでもないし、音楽を聞くわけでもないし、テレビや雑誌を見ているわけでもない。世間の常識からすると、決して楽しそうに見えない。だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。(下巻p.493)
2005年07月01日
もっと勉強がしたい
海外に旅行をして日本に戻ってくる途中には、たいていいつも、ものすごく色々なことがやりたくなっている。
それは、もっと外国語が上手く話せるようになりたいということだったり、自分の国の歴史について深く知りたいということだったり、たくさんの文学や音楽や美術を詳しく勉強したいということだったりする。
今回、1週間パリにいたうち、観光というのはほとんどせずに、ただそこに住んで生活をしていただけの時間がほとんどだったけれども、それでも今回はいつも以上に、もっと多くのことを勉強したいという気持ちが強く生まれている。
普段は、「自分の専門分野について詳しければそれでいい」と思いながら生活しているけれども、そこから離れて外の空気に触れると、いかに自分が少しのことしか知らずにいるのかということを思い知らされずにはいられない。
