» 2006 » 3月のブログ記事

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人生の中の、どこに成功があって、どこに失敗があって、ということを一つ一つ細かく数え上げて過ごしたとしても、最後に死ぬ時にはそんなものはすべてプラスマイナスゼロになる。
クイズ番組で、1点、2点の勝負を99問続けてきた後、最後の100問目はボーナス問題で全員に10000点プレゼントです、と言われるようなものだ。
それぐらい、人が死ぬ、というのはすべての人に共通する大きな共通項で、その共通項の前では、誰かと誰かの幸せ度合いを比べてみたところで、取るに足らない些細な差だろう。
だから、たとえどんな内容であったとしても、50年の人生には等しく50年の価値があって、それらの間に、たいした違いはないのだと思う。

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読書というのは、本が何を言おうとしているかを読み取る行為ではなく、
自分が知りたいと思っていることを、本からムリヤリにでも掘り起こす行為であるべきだと思う。
本が言う意味をじっくりと正確に読み解こうとする受動的な読書は、時間がかかる割には、自分の中に何も残さない。
そうではなくて、本の中にある、自分のために語っていると思える言葉を一つでも多く見つけ出す能動的な読書のほうが、よほど多くのものを学ぶことが出来る気がする。

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頭のよさを比べようとすると、どこまで行っても上には上がいて、キリがない。
だから、頭のよさだけで勝負しようとしても限界があって、必ず行き詰ることになるだろう。
でも、行動の量については、やればやるほど、明確に先に進むことが出来る。
人の時間は有限で、無限の時間を持っている人はいないから、その行動の量の差は一気に開くこともない代わりに、一度開いた差はそう簡単には縮まない。
だから、行動する習慣というのは、もともとの才能よりも遥かに重要なのだと思う。

どんなにツラい時期で、それが毎日毎日永遠に続くように思えても、いつか必ずその時期は終わりを告げて、過去の出来事として振り返ることが出来るようになる。
だから、ツラい中でも、どれだけその先のステップのための準備をしているかが、運命の分かれ道なんだろうと思う。
「そんなことを考えたり、やっている余裕がない」というのであれば、その人は、そこまでだ。

たとえ作家のような、言葉を使った仕事に就くつもりではなくても、文章で表現をすることは大事なことだ。
表現者というのは、魂のあり方が何らかの表現をしたがっている人、ということで、その手段は何であろうとすべて繋がっている。
文章で表現を続けるうち、自分のやりたいことがわかってきて、それはきっと別の形の表現にも必ず活きてくる。
とにかく何らかの形で表現をしていないと、自分のやりたいことはわからない。

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