
殺人の門(東野圭吾/角川書店)
自分が、その人の人生を生きているような視点で、話しの内容を追体験出来る小説というのは、いい小説だと思う。
文章の語り口がとても上手い、ということもあるけれども、この話しの主人公の田島は、個性が強い性格ではなくクセがない分、感情移入がしやすく、同じ出来事を一緒に体験しているような気分で読むことが出来る。
その主人公に対となるように、悪賢い、強い個性を持った倉持という男が登場する。主人公が、人生において不幸になる場面の陰に必ず関わってくる人物。自分を陥れるこの男を激しく憎みながらも、その関係は切れずにいつまでも続いていく。
人を殺すという行為を遂行するには、憎しみの他にタイミングや衝動が必要だと、登場人物の一人が主人公に語っている。その殺人の門をくぐることが出来るのかどうかを、主人公は常に自らに向かって問いかけ続ける。
物語の終わりに、読者は考えさせられることになる。主人公が彼に対して抱いた憎悪は、どこまで明確な根拠にもとづくものだったのか。果たして倉持という男はどこまで根が深い悪人だったのか。その答えはおそらく、読んだ人によって異なるだろうと思う。
もう一人分の人生を追体験したような気持ちになる、優れた小説だった。
【名言】
「田島さん、動機さえあれば殺人が起きるというわけではないんですよ。動機も必要ですが、環境、タイミング、その場の気分、それらが複雑に絡み合って人は人を殺すんです。」(p.580)
「口のうまい男だったよね。この男にかかると、どんなクズ鉄だって金みたいに思えてくる。それでどれだけ損をさせられたか。」彼に乗せられて一億近い金を投資したという人物は、それでも笑いながら言った。「だけど、今振り返ってみると楽しかった。この男のおかげで変わった夢をいくつも見られた。」(p.588)
» 2006 » 9月のブログ記事

鉄鼠の檻(京極夏彦/講談社)
京極夏彦の著作は、その作品ごとに必ず一つ、大きな軸となるテーマが設定されている。この「鉄鼠の檻」でのテーマは「禅」。
箱根の禅寺で起こった事件の展開にそって、仏教の歴史が事細かく説明がされていく。とにかくこの緻密さに圧倒されるが、専門家の評によれば、この本における禅の解説は下手な入門書よりも余程わかりやすく、正確にまとめられているという。
寺の中には臨済宗や曹洞宗を始めとする様々な宗派が入り乱れて、これもまた事件の謎を推理する上での大きな鍵にもなっている。
主人公の京極堂は、言葉によって憑き物を落とすことを職業にしているが、禅というものが言葉を超えたところにあるものであるために、シリーズ中の他の作品とはその謎解きの仕方も異なっている。
物語の展開や構成がとにかく見事だ。章の終わりの幕引きの仕方や、人物を登場させるタイミングがどれも絶妙で、劇的なのだ。
とても長い話しだけれども、その分、あちこちに散りばめられた様々の伏線が、最後の最後に一気に収斂してクライマックスに向かう気持ちよさがある。伏線の数がとても多いので、一度だけではなく、何度読み返してもきっと面白いだろう。
箱根の山奥という舞台といい、禅宗というテーマといい、京極夏彦作品の雰囲気にこれ以上ないぐらいぴったりと馴染んだ物語だと思う。
【名言】
病の者は健康を意識する。しかし本当に健康な者は健康を意識することはないだろ。健康と云う概念が失われている状態が真の健康なんだね。自己に対しても世界に対してもそれは同じで、自分とは何か世界とは何かと問うているうちは本当ではない。自分とか世界とか云うものがすっかりなくなって、初めて自分があり世界がある。(p.446)
禅は印度で生まれ中国で育ったが、真実花開いたのは日本でのことだ。僕は、これは偶然ではないと思う。禅は言葉では表せない。だが日本語は、その表し難いものを表すのに比較的適していたのではないだろうか。それに高度な抽象化を日常的に行っている日本の文化も禅を受け入れるのに相応しいものだったのだろう。例えば西洋人は禅的なことは理解できても表現することは下手だ。西洋人は悟る上で生物学的支障は勿論ないが、文化的支障は非常に多いだろう。だから所詮禅は彼等にとって歌舞伎や能と同じように、博物学的な興味の対象になるだけなんだ。(p.511)
善く日本人には宗教心がないと云われる。しかしそんなことはない。日本人はどんな宗教でも受容できる程の賢さを持っているだけです。だから世界に誇るべき教義を持った宗教も沢山ある。(p.519)
脳は身体の器官に過ぎない。しかし悲しいかな、我我は我我を取り囲む外側の世界をもまた、脳を以ってしか識ることはできないのだ。外側すらも内包してしまう、それが脳という化け物だ。そして言葉は脳が外側を取り込んで改竄再編集するために生み出した記号だ。この言葉を用いないと云うことは、脳を無視した世界認識をすると云うことに等しい。我なくして世界はあらず、同時に我なくしても世界はあり。その二つの真理を同時に識ることが悟りだ。(p.748)
人生には何が起こるかわからない。
事故に遭ったり病気になったりで、一瞬にして生活が変わってしまう可能性というのは常に潜んでいる。
そういう時のセーフティーネットとして、世の中には障害保険という制度がある。
でも、いざという時にきっと助けてくれると思う友人がいれば、それは障害保険なんかよりもずっと頼りになる存在であるとオレは思う。
自分にとってさやちゃんは、そういう信頼が出来る人だ。
さやちゃんは身なりにこだわらない人だ。
トレーナーとジャージにサンダルで、すっぴんのまま子供を抱っこして出掛ける。
「結局、大事なのは中身だなと思うから」と、さらっと言う。
言葉だけだと、外見に自信がない人の負け惜しみのように聴こえるかもしれないけれど、さやちゃんには確かに、化粧や身なりで飾らなくても自然に存在が浮かびあがるような魅力がある。
ケチであるというのとも違う。
自分が大事と思うものには惜しみなくお金を使うし、身近な人が困っているような時にはためらうことなくお金を使う人であることをオレは知っている。
さやちゃんから感じるのは、偏らないバランス感覚をしっかりと持っているという安定感であり、どんな時であっても相談にのってくれるだろうという安心感だ。
そういう、全幅の信頼をおくことが出来る人が友人でいてくれるというだけで、オレは随分と気持ちを楽にさせてもらっていると思う。

春にして君を離れ(アガサ・クリスティー/早川書房)
この物語には2つの回答が用意されている。
一つは、今からでも人生は変えられる、という回答。
もう一つは、いや、今さら人生は変えられない、という回答。
60年以上も前に書かれたとは思えない、とてもとても現代的に思える作品だ。時代を経てもまったく古さを感じないというのは、そのテーマがあらゆる国や年代を超えて普遍的なものだからだろう。
主人公のジョーンは、中年にさしかかったイギリスの主婦だ。独善的で、理想主義的ではあるけれど、悪い人ではない。ただ、自分を客観的に見る能力が極端に低い人物であるというだけだ。よかれと思って周りの人にあれこれとする指図やアドバイスが、ことごとくピントがあっていない。こういう母親は、現代の日本においても決して珍しくないし、あちらこちらで見かけるキャラクターであると思う。
その一方で、夫のロドニーのほうは、ジョーンよりもずっと客観的に周りの状況を把握してはいるけれども、だからといってその状況を前向きに改善していこうという勇気や行動力を持ち合わせているわけではない。そういう人こそが、一番始末におえない気がする。そして、こういう人物も、決して珍しくない存在だ。
ジョーン以外のすべての家族や、周りにいる人々は、彼女について本人以上によくわかっている。その、本人だけが気づいていないという状況は、不幸せなことにも思えるし、この上なく幸せなことのようにも思える。
どんな出来事でも、見る人の解釈によって良くも悪くもとれる。それならば、常に良いほうに勘違いするジョーンの生き方というのは、とても賢明な処世術なのかもしれない。
【名言】
「ロドニーは答えた。何もありゃしない、ただ、何か事をする前にすべてを綿密に計算し、けっして冒険をしない、慎重きわまる世間というものにつくづく嫌気がさしただけだ。」(p.155)
「しかしね、結局はトニー自身の人生なんだよ、我々の人生じゃなく。我々のそれは、よかれ悪しかれ、すでにもう終わってしまったようなものさ、行動面に関する限り。」(p.214)
