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「無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら何を持っていくか」と尋ねられたら、オレは尚志を連れていくことにしようと思う。
世の中には、クイズに答えるのが得意な人がいる。
それとは対照的に、クイズの問いそのものを考えるのが得意な人がいる。
クイズに答えることは知識があれば出来るけれど、クイズを作るような、ゼロから何かを生み出す作業にはクリエイティブな資質が必要で、誰にでも出来るというわけではない。
会話においては、決して通りいっぺんの質問や一般的なテーマに満足せず、新しい視点や価値観を相手に提供する力。斎藤孝さんであれば、それを「設問力」とでも名づけるだろう。
尚志は稀有の設問力の持ち主で、話しの一歩先がどう展開するか、まったく予想がつかず、常に想像の範囲を上回る。
「ちょっと、あの車にお名前つけてあげて」
「ちょっと、己(おれ)を困らせるような褒め方をしてみてよ」
「ちょっと、自分の過去の名場面を文学的に解説してみてよ」
いったいどこからそのテーマが出てくるのかわからないけれど、こういうキレのあるパスを渡されると、頭をフル回転させて応えざるをえない。こんな状態の時は、会話そのものが最高の娯楽になる。
たとえ、地球上のどこにいたとしても、尚志がいれば、その場で思いついた考えを発表し合うことも出来るし、そこにあるものを使って遊べるゲームを考えて、決して退屈を感じることがないだろう。
無人島に置き去りにされることがある時には、欠かすことの出来ない存在だ。
» 2006 » 11月のブログ記事

まず、始まった途端にその演出と構成とに度肝を抜かれるのだけれど、そのことにはここでは触れないでおく。この映画は、演出に関する予備知識を持たないままで観るのが一番楽しめると思うからだ。
この作品は、現代の童話だ。
童話はたいてい淡々と平明に進んでゆくものだけれども、その中で描かれるテーマは、その淡白な調子とは裏腹に驚くほど辛辣であったり、救いがなかったりする。
映画は、たった22人しか住まない小さな村の出来事を描いている。
その閉鎖的な村に突如としてあらわれた美しき主人公グレース(ニコール・キッドマン)は、おとぎ噺で言えば「竹取物語」のかぐや姫や、「鶴の恩返し」の鶴のような、異分子だ。
その異分子に対して人はどのように反応し、接触し、変化してゆくのか。
一人一人は善良で賢明であっても、それが群集になった時、正常な判断が出来なくなることは往々にしてある。責任の所在が自分個人に生じるのではなく、集団全体という曖昧な所在になった時、人はいくらでも残酷になる可能性がある。
この「ドッグヴィル」という小さな村はそのまま人間の住む現世の縮図であり、そこで起こることは、どの時代のどの場所でも起こり得る普遍的な出来事だ。
壁一枚を隔てた向こう側では何が起こっているかわからない日常が、この映画の中ではすべて白日の下にさらされてしまう。
この映画は、万人に薦められるものではなく、人によってはさっぱり面白くなかったり、嫌悪感を持って拒絶されたりということも大いにありえる。
でも、優れた童話というのは、大抵そういう性質のものじゃないかと思う。
寿司はマグロが好きだ。
マグロと中トロと鉄火巻があれば、他のネタはなくてもいい。
各種詰め合わせセットみたいなやつ(にぎり)は、マグロ以外にも色々と余計なおまけがついてきてしまうので、あれはよくない。
だから、マグロだけを気兼ねなく食べることが出来る、回転寿司というシステムを作った人はとてもエラい。
そんな自分にとって、たまらない寿司屋がある。
銀座「にしたに」。
夜はとても値段が高いのに、何故かランチタイムは格段に安くなる。
その中に「まぐろづくし」というメニューがある。
マグロ、中トロ、鉄火巻のみで構成された、超ファンタジックなメニューだ。
茶碗蒸しと吸物までついてくる。しかも、最高に旨い。
こんな素晴らしい店が地上にあったのかと思わせる、まるでお菓子で出来た家みたいな、夢のような寿司屋だ。
【店舗情報】
住所:中央区銀座6-3-6 2階
電話番号:3289-4130
ランチタイム:11時~14時
「まぐろづくし」1260円

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所有とは、自分の好きな時にそれに接することが出来ることだと定義すれば、別にそれが自分の部屋の中にある必要はない。
近くに図書館やブックオフがあれば、そこにある本はすべて自分が所有しているのだと考えても構わないと思うし、近くにTSUTAYAがあれば、やはりそこにある映画やCDは自分が所有していて、代わりに保管をお願いしている、と考えても大きな違いはないと思う。
本当の意味での「所有」のことを考えると、それは自分の頭の中にあって決して失われることがないものだとも定義出来る。
本の中の文章や、音楽のフレーズが心の中に残っていれば、本やCD自体は自分の手元になくても、それは間違いなく自分が所有していると言っていい。
いずれの定義にしろ、自分の手元に物がある、ということと自分がそれを所有しているということは別のことなのだ。
だから、自分の手元に物を集めたり残したりすることには、こだわっても仕方がない。自分の中にない物は、自分の持ち物ではないのだし、自分の持ち物でないものならば、それがどこに置いてあったとしても同じことだ。

容疑者Xの献身(東野圭吾/文藝春秋)
殺人を犯した母娘を救うために、隣りの部屋に住んでいた数学教師の石神が完全犯罪のトリックを構築して、警察の追及から逃れる方法を指南する。警察の側にも、石神と大学時代の同期であった物理学者の湯川がいて、物語は、この2人の頭脳戦の対決へと進んでいく。
石神が仕掛けたトリックは本当に緻密でよく練られていて、本格的な推理小説としても楽しめるし、石神と湯川という変わった取り合わせの2人の人間ドラマとしての部分もとても面白い。
「容疑者X」というのは、母娘のために、警察を欺くためのトリックを構築して、自分に疑いの目を向けさせた石神自身のことだ。彼の「献身」というのがどういう意味なのかは、物語の中で明らかになる。その言葉が示す真相には、かなり驚かされた。
物語の構成も、伏線の張り方も巧く、完成度の高い小説だった。
【名言】
数学も同じなのだ。崇高なるものには、関われるだけでも幸せなのだ。
あの母娘を助けるのは、石神としては当然のことだった。彼女たちがいなければ、今の自分もないのだ。彼女たちは身に何の覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある(p.345)
機能性があるものというのはかっこいい。
例外なく美しい。
たとえば、飛行場の牽引車。
大きいタイヤも、低い車高も、運転席の位置も、すべては目的の機能を実行するために、必要性があって設計されている。
速く走ることに特化したスポーツカーもかっこいいが、それとは別の意味で、飛行場の業務車両もかっこいい。
鳥の翼は美しい形をしているけれど、最初から美しいことを目指して作られたわけではなく、飛ぶために必要な形を追求した結果、そうなってしまっただけのことだ。
戦闘機も刀も拳銃も、物を破壊し、人を殺傷することを目的にしている。
しかし、その善悪とは別の次元で、目的を遂行するための機能性を徹底的に追求したものというのは、どうしようもなく美しさを現してしまう。
要するに、機能性というのは、それを突き詰めると必ずかっこよくなるようになっている。

カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー/新潮社)
ある晩、突然カラマーゾフ家の父親が殺害された。
その犯人は誰で、その動機は一体何だったのか?という、ちょっとミステリーっぽいテーマ。ただ、普通の推理小説とは違い、そこに至るまでの関係者についての人物設定と性格描写がとにかく長い。物語の7割ぐらいは、その前置きに費やしていると言っていいと思う。
事件が起こるにあたって、事件の関係者がどういう人たちであったかや、その当時のロシアがどういう時代であったかについて、説明を細かく丁寧に重ねて、それを積み上げた後に一気に畳み掛けるような勢いがある。
三男であるアリョーシャが物語の主人公とされているけれども、アリョーシャは善良で裏表がないわかりやすいキャラクターで、それほど面白味がある存在ではない。
それよりも、殺人の容疑者である長男のドミートリィが複雑なキャラクターで謎が多く、果たして高潔な人間であるか、それとも低俗な人間であるのかはっきりとしない。検事のイッポリートは、ドミートリィが示す、光と陰とを同時に併せ持つ姿について「現代ロシア的矛盾である」という指摘をする。
常に話しの主題になっているのは宗教(キリスト教)だ。登場人物はすべて、その形は違えど皆、神を意識して、畏れながら生活をしている。背徳的なことを口走ったとしても、その次の瞬間には赦しを求めるような敬虔さがみんなの心の裡にある。
作品では、ちょっと大げさで芝居がかったやりとりが多いけれど、その中にはいい言葉や、面白い表現がたくさん現われる。それを拾い上げることを目的として読んでも、充分に楽しめる小説だと思う。
【名言】
「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです。絶対に論理より先でなけりゃ。そうしてこそはじめて、僕は意味も理解できるでしょうね。僕はもうずっと以前からそういう気がしてならないんです。兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。」(上巻p.578)
かりに神が存在し、神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる。にもかかわらず、宇宙全体が、いや、もっと広範に言うなら、全実存がユークリッド幾何学にのみもとづいて創られたということに疑念を持つ幾何学者や哲学者はいくらでもあったし、現在でさえいるんだ。俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ。アリョーシャ、何よりも特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。(上巻p.590)
お前に言っておくが、人間という不幸は生き物にとって、生まれたときから身にそなわっている自由という贈り物を少しでも早く譲り渡せるような相手を見つけることくらい、やりきれぬ苦労はないのだ。だが、人間の自由を支配するのは、人間の良心を安らかにしてやれる者だけだ。パンといっしょにお前には、明白な旗印が与えられることになっていた。パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。(上巻p.640)
古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変わってゆく。沸きたつ若い血潮に代わって、柔和な澄みきった老年が訪れる。わたしは今も毎日の日の出を祝福しているし、わたしの心は前と同じように朝日に歌いかけてはいるが、それでも今ではもう、むしろ夕日を、夕日の長い斜光を愛し、その斜光とともに、長い祝福された人生の中の、静かな和やかな感動的な思い出を、なつかしい人々の面影を愛している。わたしの人生は終わりかけている。そのことは自分でも知っているし、その気配もきこえているのだが、残された一日ごとに、地上の自分の生活がもはや新しい、限りない、未知の、だが間近に迫った生活と触れ合おうとしているのを感じ、その予感のために魂は歓喜にふるえ、知性はかがやき、心は喜びに泣いているのだ。(中巻p.76)
今はあらゆる人間が自分の個性をもっとも際立たせようと志し、自分自身の内に人生の充実を味わおうと望んでいるからです。ところが実際には、そうしたいっさいの努力から生ずるのは、人生の充実の代わりに、完全な自殺にすぎません。それというのも、自己の存在規定を完全なものにする代わりに、完全な孤立におちこんでしまうからなのです。個人の特質の真の保障は、孤立した各個人の努力にではなく、人類の全体的統一の内にあるのだということを、今やいたるところで人間の知性はせせら笑って、理解すまいとしています。しかし今に必ず、この恐ろしい孤立にも終わりがきて、人間が一人ひとりばらばらになっているのがいかに不自然であるかを、だれもがいっせいに理解するようになりますよ。(中巻p.104)
僕は神に対して何の異存もありませんよ。もちろん、神は仮説に過ぎませんけど・・でも・・神が必要だってことは認めます、秩序のために・・世界の秩序とか、その他もろもろのために・・また、かりに神がなかったら、やはり考えださなければならないでしょうしね。(下巻p.107)
君はやっぱり現在のこの地球のことを考えているんだね!だって、現在の地球そのものも、ことによると、もう十億回もくりかえされたものかもしれないんだよ。地球が寿命を終えて、凍りつき、ひびわれ、ばらばらに砕けて、構成元素に分解し、また大地の上空を水が充たし、それからふたたび彗星が、ふたたび太陽が現われ、太陽からまたしても地球が生まれる--この過程がひょっとすると、すでに無限にくりかえされてきたのかもしれないじゃないか、それも細かな点にいたるまで、そっくり同じ形でさ。やりきれぬくらい退屈な話さね・・(下巻p.343)
いったいどちらを信ずれがよいのでしょう?最初の伝説、つまり、最後の生活費をぽんと与えて、善行の前に頭を垂れた、高潔な心の衝動をか、それとも実に嫌悪すべきメダルの裏側をでしょうか?ふつう人生は両極端の中間に真実を求めねばならないのが常でありますが、この場合は文字どおり違います。何より確かなことは、最初の場合に彼が心底から高潔だったのであり、第二の場合は同じように心底から卑劣だったということであります。これはなぜか?ほかでもありません、彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであります。(下巻p.476)
僕の考えでは、兄さんがたとえどこへ逃げようと、一生涯その別の人間のことを常におぼえてさえいれば、それで十分なんです。兄さんが大きな十字架の苦しみを引き受けなかったことは、心の内にいっそう大きな義務を感ずるのに役立って、その絶え間ない感覚が今後一生の間、ことによると向こうへ行く以上に、自分の復活の助けになるかもしれませんよ。(下巻p.625)

サン=テグジュペリの「星の王子様」を原作にしたミュージカル。
とにかく、その舞台のクオリティーの高さに圧倒された。
ステージには、驚くような仕掛けがいくつも重ねられている。
無数の星を表現すること一つとっても、暗幕に光点を投射するような単純なものではなく、一つ一つ独立した電気が空中に設置されていて、それが前後左右に何重にも広がり、客席から見るとものすごい奥行きが感じられるようになっている。
ステージ上の舞台装置が、様々な星の様子を写し出すディスプレイになったり、時には丘になり、時には砂嵐になりと、形を動かしながら次々と役割を変えていく。
青色を基調にした、海の底にいるような照明と、オーケストラピットで間近に演奏される幻想的な音楽。映画やテレビでは、どんなに大画面であっても表現することが出来ない、舞台ならではの臨場感だと思う。
ストーリーは、基本的に原作に忠実で、各キャラクターの特徴がよりはっきりと表現されている。もともと解釈が難しい小説ではあるけれど、この舞台は、原作よりもずっと主題が明確になっている。きっと、観客が子供であれば、よりストレートにそのメッセージを受け取れるのではないかと思う。
ミュージカルというと、セリフが音楽にのせて話されるので、自然な会話とは違った感じになることが多いけれど、この「リトルプリンス」では、そういう違和感を感じるような部分はほとんどなかった。
歌はもっぱら、キャラクターの感情を表すために使われていて、そのことで普通の演劇よりもずっと内容が伝わりやすくなっている。
そして、ダンスの美しさと、テンポの良さも半端ではない。王子の朗らかさや、バオバブの木の怖さ、飛行士の寂しさ、ヘビの不気味さなどなどが、体の動き一つで実に巧みに表現されている。このすごさは、とても言葉では語り尽くせないので、公演を開催しているうちにどうか実際に舞台を観てほしいと思う。
※東京公演・神奈川公演は、チケットがすべて売り切れてしまっているので、後は、平日(11月15日~17日)に若干数用意される当日券が狙い目です。
音楽座ミュージカル「リトルプリンス」ホームページ
自分が絵を見る時には、大きく3つの要素に分けて見ている。
画力と、題材(モチーフ)と、表現方法。
何を題材にして、どのようにそれを表現するか、というのはその画家の考え方と感性がダイレクトに現われる部分なので、面白い。
「こんなものを題材にしてしまうのか!」とか、「こういう表現があるのか!」という驚きを与えてくれる絵はとても好きだ。
今回の「大エルミタージュ美術館展」の中では、

ギヨーム・ヴァン・デル・ヘキトの「ケニルワース城の廃墟」という絵が一番好きだった。霧の向こうに、廃墟となった古城のシルエットが浮かびあがり、手前には湖に浮かぶボートの姿がある。とても幻想的で美しい絵。自然の不変さと、人工建築物の脆さが、一枚の中に対比して表現されている。
次に好きだったのは、ユベール・ロベールの「廃墟の中にいる洗濯女」。
使われずに廃墟となった聖堂の中で、湯を沸かして煙をあげて洗濯をしている場面を描いたもので、これは題材が素晴らしい。
その他、良かったのは
フランソワ・フラマン「18世紀の女官たちの水浴」
アレッサンドロ・マニャスコ「盗賊たちの休息」
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ「ティヴォリの滝」
キース・ヴァン・ドンゲン「春」
レオポルド・シュルヴァージュ「風景」
オスヴァルト・アヘンバッハ「ナポリ湾の夜景」
今回の美術館展は、ゴーギャンやルノワール、マネ、ピカソといった画家の作品が1点ぐらいずつある他は、あまり有名どころの作品は無かったけれど、無名ではあっても、いい絵がたくさん集まっていると思った。
色々な種類の画家と作風が集まっているので、誰にもきっと、気にいる作品が見つかるだろうと思う。
【大エルミタージュ美術館展 開催概要】
開催期間:2006年10月19日(木)~12月24日(日)
開催場所:東京都美術館(上野公園内)
開室時間:午前9時-午後5時 (入室は閉室の30分前まで)
休室日:毎週月曜日
公式ホームページ


