
KYOKO(村上龍/幻冬舎)
不安や、自信のなさ、人をうらやむ気持ち、などは、自分に必要なものと、必要ではないものの区別がついていないことから来るのだと思う。
「何かが足りない気がする」という状態は、その「何か」が自分でわかっていない限り、永遠に解消されることはない。
「自分はこれさえ出来ていればいい」というラインが明確にわかっていれば、基本的に、心は平穏だ。
お金も友達も、多いほうがいいというのはその通りだと思うけれど、あれもこれも手に入れておきたいとなると、本当に自分にとって大事なものに集中するして大事にすることが出来なくなるし、心がザワつく。
満ち足りているというのは、色々なものをたくさん持っていることではなく、必要なものだけを過不足なく持っていることなんだろうと思う。
この小説は、小さい時にダンスを教えてくれたホセを尋ねて、お礼を言いにニューヨークに渡るKYOKOという少女の話しだ。
手がかりをたどって、ようやく出会ったホセは、しかし末期のガンに侵されていて、KYOKOのことも誰だかわからない状態だった。そのホセの、母親に会いたいという最後の願いをかなえるためにKYOKOはニューヨークからマイアミまで、ホセを乗せてバンを走らせる。
KYOKOは、自分にとって本当に大事なものをよくわかっている女性だ。必要以上のものを欲しがらない彼女の生き方はシンプルで、周りを惹きつける美しさと強さが備わっている。
初めて渡ったアメリカという土地で、有色人種やHIVキャリアに対する差別と偏見にさらされても、KYOKOは自然に、しかし毅然と対応をする。
精神の気高さというのは、人種や国籍を超えて理解されて尊敬を受けるものだ。とてもとても大きな希望を与えてくれる小説だった。
【名言】
「ホセはわたしを助けてくれて、救ってくれたの。ただダンスを教えてくれただけなんだから、オーバーに聞こえるかも知れないけどね、わたしにとって一番大切なものは何かって教えてくれたんだから、そうでしょ?どんなことがあってもこれがあれば生きていけるってものを教えてくれたんだから、救ってくれたのよ。(p.117)」
» 2006 » 12月のブログ記事

戦後の日本で、子供の頃からアメリカ流の教育を受けて育った自分たちには、民主主義こそがこの世で最も優れた物事の決め方だという刷り込みがある。
実際には、議会制民主主義はフランス革命以後ようやく芽生えた新しい概念にすぎないのだけれども、それ以外の政治体制を経験していない場合、民主主義の善悪を他の形態と比較して相対的に考えることは難しいだろう。
「マンダレイ」は、ラース・フォン・トゥリアー監督の「ドッグヴィル」の続編として作られた。前作と同様、舞台演劇的な最小限のセットで構成されていて、しかもそのメッセージは前作よりも更に痛烈に、尖鋭的になっている。
舞台は、奴隷制度が根強く残る南部の「マンダレイ」という町。大農園では、白人の支配の下、多くの黒人が奴隷として働かされていた。そこに、主人公の、美しい理想主義者、グレースが偶然立ち寄ることになる。グレースは、マンダレイの姿を見て、義憤から町の改革に取り組むことになった。
残念ながら今回、グレース役はニコール・キッドマンではなく、ブライス・ダラス・ハワードという女優に交替してしまったけれども、これはこれで、雰囲気が出ている。
グレースには、マフィアのボスの娘という、他人を自分に従わせるに充分な強い権力がある。そして、彼女は民主主義こそが人間にとってあるべき姿で、それ以外の考え方は野蛮で古めかしいものだと信じて疑わない。その強引なお節介さは、他人の国にまで出かけていって、自分の国のやり方を押し付けようとするアメリカの姿とよく似ている。
時計の時間までも民意によって決めようとするグレースの統治は、のちに大きなひずみを生むことになる。神ではない人間が、神の役目を果たそうとした時、何が起こるか。とてもとても考えさせられる、寓意に満ちた作品だ。
【名言】
「マンダレイは、私たち加害者の贖罪の場なのよ」
「侮蔑的なことだと思わない?人を分類するなんて」
「あなたは理想主義者だ。この農園の外では生きていけない」
「あなたのお父様は常に我々に仕事を与えてくださいました」
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(1996年8月23日 カルカッタ)
何も考えずに生活をしていると、目の前に見えていることが世の中のすべてのように思えるけれど、この世の中のすごいところは、自分の目の前の出来事だけが動いているわけではなくて、それと同時に、たとえばアルゼンチンやエチオピアでも確かに物事は動いているということだ。
それを確かめたいと思えば、今すぐにでもアルゼンチンに行ってみれば、そこに実際に人々が暮らしていて、今この瞬間にも何かをやっているということが確認出来るはずだ。
もう最後に会ってから何十年も会っていない人であっても、この世のどこかで暮らしているのであれば、今、自分がその場所に行きさえすれば、確かにその人に触れて、会話をすることも出来る。
そう考えると、この世界というのは気が遠くなるほどリアルで、どこまでも完全無欠だ。日々やっていることや、そこで起こる出来事が世の中のすべてではなく、日常の枠から外に出れば、そこには果てしなく広がる無限の世界が用意されている。
人間には、規則や法律や道徳はあっても、本当の意味での制限というのはごくわずかだ。本来は存在しない制限を、超えることが出来ない壁だと思い込むというのは、とんでもなく楽しいこの世界の、ごく一部しか知っていないということなのだと思う。
