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2007年11月30日
個性を捨てろ!型にはまれ!
個性を尊重しましょう、という今の教育トレンドに真っ向からの反論を展開した本。著者は「ドラゴン桜」の作者でもある三田紀房さんで、「ドラゴン桜」と同様の強いメッセージがこの本にも込められている。
「本当の自分なんて、ありもしないものを見つけようとするから、わけがわからないことになる。」「ひとむかし前まで日本がやってきた、個性を捨てて、型にはめる教育・組織こそが日本人にとって一番合ったやり方なんだ」という、かなり強烈な主張だ。
人によっては、「時代錯誤だ」「ナショナリズムだ」と強いアレルギーを示すかもしれない。しかしこの価値観は、自分にとってはとても共感出来る部分が多かった。
『1997年に神戸の児童連続殺害事件が起こったときにも、中学生が「どうして人を殺しちゃいけないの?」と質問して、大人たちが誰も答えられなかったという出来事があった。そんなもの理由なんかないのだ。「理屈じゃないんだ。ダメだからダメなんだよ」どうしてそう言えないのだろうか。(p.147)』
これと同じことは、藤原正彦さんの「国家の品格」でも強く主張されていた。
水戸藩の教育では、守るべき十箇条の規範の最後に「ならぬことはならぬものです」と書いてあったという。
子供の教育として、幼いうちから「ダメなものはダメなんだ」ということをきっちりと叩き込むということはとても重要なことだ。
子供に媚びて、ものわかりがよい親であろうとしたりすると、少しでも理不尽と思うことは通せなくなってしまう。
しかし、本当に大事なことは理屈ではないし、その大事なことをきっちりと体に染みこませることが教育なのだと思う。
「日本の常識は世界の非常識というが、それの何が悪い?」という開き直りも好きだ。日本の良い部分は、他の国にない日本独自の文化の中にこそある。それを、グローバルスタンダードの波にしたがって無くしてしまうのは、競争力を高めるどころか、長期的に見れば日本の競争力を壊滅的なまでに失わせてしまうことにになってしまうだろうと思う。
僕は、アシスタントの若い子たちに、いつも「普通の漫画作品を描け」と言っている。ちゃんと「普通」レベルで描けば雑誌に載ることはできるし、それを重ねていけば個性なんて後からついてくるのだ。いきなり世間をひっくり返すような大傑作を描こうとするから、「普通」レベルにさえ達しないのである。(p.31)
会社でも学校でも、あるいは国という単位でもかまわないのだが、組織がうまく機能していくために必要なものとは、なんだろうか。まず第一に挙げられるのが「誇り」である。自分はこの組織の一員なんだ、ということを誇りに思えれば、おのずと組織への忠誠心も出てくるし、献身的な協力だって惜しまなくなる。組織がバラバラになることもないし、上からの指示も素直に聞き入れるようになる。(p.112)
1997年に神戸の児童連続殺害事件が起こったときにも、中学生が「どうして人を殺しちゃいけないの?」と質問して、大人たちが誰も答えられなかったという出来事があった。そんなもの理由なんかないのだ。「理屈じゃないんだ。ダメだからダメなんだよ」どうしてそう言えないのだろうか。(p.147)
2007年11月29日
有機ELディスプレイのダメさ
今週、続々とドコモの905iシリーズの新製品が発売されている。
携帯は今、N904iを使っている。その前に使っていたN901iCはとても気に入っていたのだけれど、首の部分が壊れて使えなくなってしまったので、やむなく機種変更したものだ。このN904iは、あまり気に入ってない。

一番気に入らないところは、背面の小さいウィンドウに有機ELディスプレイを使っていることで、これは、ディスプレイが薄く作れる代わりに、消費電力がとても高いものらしい。だから、常時点灯させておくことが出来ない。
自分は、携帯を時計代わりに頻繁に使っているので、これはかなり致命的だ。それぐらいなら、常時表示が出来る普通の液晶のほうが余程いい。
で、新しい905iシリーズはどうなのかと確認してみると、F905i以外はすべて有機EL。F905iはSTN液晶だけれど、バックライトがつかないと見えないので、結局常時表示は出来ない。
薄くなったり高性能になるのはいいけれど、こういう根本的なところが退化していることにがっかりする。
2007年11月28日
夜回り先生
とても感動した。「夜回り先生」の話しは、土田世紀の絵にとてもよくマッチしている。「夜回り先生」をマンガにするには、土田世紀以外の筆者はあり得ないと思うぐらいのハマり方だ。小説も良かったけれど、この作品は、マンガ化して更に素晴らしくなったと思う。
この、夜回り先生こと水谷さんの活動がスゴいと思うのは、自分の活動を組織化することをせず、決して群れることをせずに、1対1で向き合うことだ。それは、大人が二人以上集まると、それだけで子供にとっては圧力になり、心を開くことがなくなるからだという。
サイトを見ていて知ったのだけれど、水谷さんは「リンパ腫」という病気にかかっていて、あまり長くない体であるらしい。
http://books.yahoo.co.jp/interview/detail/31438164/01.html
それでありながら、今も変わらず、毎日夜回りやメールの対応や講演活動を、ほとんど睡眠をとらずに続けているという。
実在の人物の活動をマンガや物語にするにあたっては、構成の都合などで、多少の脚色が入ることもあるだろうし、どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのかは、わからない。
だけれど、そういう細かい部分はどうでもよく、ただ、一人の信念を持った人が、自分の体と時間を極限まで酷使して、多くの子供に向き合い続けているということは事実で、その気迫と覚悟がこの作品からも伝わってくる。
2007年11月27日
淀川長治の名画解説
子供の頃の記憶ながら、今でも強烈に印象に残っている、「日曜洋画劇場」の淀川長治さんの解説だけを50本もまとめたDVD。
こうしてあらためて見直すと、淀川さんの解説というのは名人芸だ。どんな映画であっても、必ず「観たい」と思わせるような話し方をする。実際に観てみると、期待したほど面白くなかったりすることもあるのだけれど、そういう映画でも、作品のポイントを説明してもらうと、そんなものかと納得してしまうところがある。
このDVDに収録されている映画は、いずれも80年代を中心とした有名な作品ばかり。DVDの特典として、「現存する最も古い解説映像」と、「最後の解説映像」の2種類の映像が収められている。淀川さんは、この「最後の解説映像」収録の数日後に亡くなったという。ガラガラ声で、まさに最後の力を振り絞って伝えようとしている解説だ。
後世になっても名解説を再び聞くことが出来る、こういうDVDを発売してくれたことは本当にありがたい。
2007年11月26日
ヒューマンキャッスル
週末に、NHKの深夜番組の「世界面白スポーツ」という番組で、ヒューマンキャッスルというスポーツ(?)を紹介していた。スペインのカタルーニャ地方の伝統行事で、運動会でやる人間ピラミッドを巨大なスケールにしたようなものを作る。
ほとんど知られていないマイナーなスポーツとは思うのだけれど、これがとにかくスゴい。
人の肩の上に人が乗って、それを8段も9段も積み上げていって城を作る。
番組の解説によると、作るのももちろん難しいけれど、キャッスルが出来上がった後に降りる時のほうがずっと、バランスを取るのが難しいらしい。
YouTubeに画像があったので、見てもらえれば、どんなものかよくわかると思う。
これは、技術と勇気と信頼が高度なレベルで必要になる。実に、手に汗にぎるスポーツだ。
2007年11月25日
ミシュラン東京版
先日発売されたミシュラン東京版に「にしたに」が三つ星の店として掲載されていた。
ミシュランで星のついた店には今、予約が殺到していて、再来年の分まで埋まってしまっている店もあるという。
にしたにの「まぐろづくし」が今後、気軽に食べられなくなってしまうとしたら、とても悲しい。
雑誌やテレビの取材を頑なに断り続けるレストランの話しも聞くけれど、確かに、メディアで評価されるというのも良しあしで、有名になればそれだけ、色々な人が来るようになる代わりに、昔からの馴染みの人の割合は減ってしまう。
今回、ミシュラン東京版の出版にあたって、なんと三つ星の評価を断った店があるらしい。
三つ星の栄誉を受ける資格がある店というだけでもスゴいけれど、ポリシーを持ってその星を断るというこだわりを貫くのは、更に素晴らしいことだと思う。
2007年11月24日
自殺論
この「自殺論」は、フランス人のデュルケームによって19世紀の終わりに書かれたもので、内容はけっこう古い。
社会学というのは、物理や生物のような自然科学とは別のもので、実験によるデータの採取が難しい学問ではあるけれども、統計情報の数字を素材にすることで、自然科学と同じように理論的な分析をしていくことが可能なのだということが、デュルケームの緻密で隙のない論理の展開を見るとよくわかる。
自殺率の数字は、離婚率や、信仰している宗教や、住んでいる地域とどの程度の関連があるのか。その一つ一つを、主観的な思い込みを一切排除して、淡々とシステマチックに解析していく。その結果浮かび上がるのが、その個人が属している社会への関わり度合いと、自殺率との深い相関関係だ。
生物を細かく分けていくと、細胞の集まりということになるけれども、細胞一つだけをとってみると、それは生物とは言えない、別のものになる。それと同じことが、社会と個人との関係においても言える。
自殺というのは、極めて個人的な行為に見えながら、しかし、それを発生させている根本的かつ最大の要因として、個人の意思を超えた「社会」という存在があることを、デュルケームは論証によって浮かび上がらせた。
文章自体も、訳文にありがちな意味不明なところがなく、日本語として自然できれいな文章で、とても読みやすかった。前半はほとんどデータの提示に費やされていて、退屈なのだけれど、後半はそこから導きだされる意味の考察になり、一気に面白くなってくる。
一つ一つ仮説を立ててはそれらに対して、客観的に丁寧に考察を繰り返していきながら、反論の余地のない結論を導きだすという、見事な構成だった。説得力のある文章というのは、こういうものなのだと思った。人文科学分野での論文を書くときの、とても良い参考になると思う。
家庭や宗教といった社会組織は、自殺を抑止する効果が確かにあるが、そのつながりが弱くなっている状態では、それに代わる組織として、職業集団が有効であるという提言がされている。
戦後日本の、会社を中心とした社会はまさにそれを体現していたけれど、ここで言われている自殺抑止効果のあるような、安定した価値観を個人に与える組織には育たなかった。今のこの状況をデュルケームが見たらいったいどんな感想を持つのか、興味があるところだ。
肝心なことは、もともと教義や儀式は、自殺を抑止するにたりる強力な集合的生活をはぐくむような性質をもっているということである。そして、プロテスタントの教会が、他の教会ほど自殺の抑止作用をもたない理由は、それが他の教会ほどこの緊密性をもっていないことにもとめられる(p.197)
個人は、社会的環境からあまりにも自由になりすぎているこの瞬間ですら、なおこのように社会的環境の影響のもとにある。各人がいかに個人化されようとも、依然かれらのなかには集合的ななにものかがのこっていて、それが、この常軌を逸した個人化から生じる鎖沈あるいは憂鬱としてあらわれる。要するに、人びとはほかに共有するものがなくなると、最後に悲しみの心を共有するようになる。(p.256)
貧しい国々が自殺にたいして一種特別な免疫をもっているという事実がある。貧困が自殺を抑止する-じつは、それは貧困がそれ自体で自殺の一つの歯止めをなしているからなのだ。(p.312)
すべての人間は死を迎える。すべての生物は消滅せざるをえないようにつくられている。ところが、自殺をする者はごくかぎられている。大多数の人間においては、自殺をうながすような理由はつゆ存在しない。にもかかわらず、自殺率は、一般死亡率よりなおはるかに一定した水準を保っている。(p.380)
各社会には一朝一夕には変化しえないような気質があり、集団の道徳的構造が自殺傾向の生じる基盤となっているので、自殺傾向が集団ごとに異なっていることも、各集団のなかでは自殺傾向が長期にわたってかなり一定していることも、当然のことだからである。(p.383)
形態は異なっていても、われわれの知るかぎりの社会には多かれ少なかれ犯罪が起こっている。その道徳が日々蹂躙されていないような国民は存在しない。それゆえ、犯罪は必然的なものであって、存在しないわけにはいかないし、われわれの知るかぎり、社会組織をかたちづくる根本的条件は、当然のこととして犯罪をふくんでいるといわなければならない。したがって、犯罪は正常なものである。(p.460)
2007年11月23日
台北
台北の街を歩いていると、昔どこかで同じ風景を見たことがあるような既視感を感じる。
日本の中のまだ行ったことのない、たとえば北九州の都市に来たような、親近感がある。
日本にいるのと大きく異なるのは、看板で使われている文字が読めないということで、ただ、それも、まったくわからないわけでなく、漢字の雰囲気からなんとなくわかるという微妙な按配で、それがこのちょっと懐かしいような感覚の原因なのだろうと思う。
「スワロウテイル」のような、普段知っている世界とはちょっとズレた軸にある、パラレルワールドにいるような気分になる。
村上龍の「五分後の世界」では、もし日本が第二次世界大戦後、他国に分割統治されていたら、という架空の世界が描かれていたけれど、もし九州が中国によって統治されたとしたら、この台湾のような光景が生まれていたのではないかと想像してしまう。
台北は、たいがいのところに歩いても行けてしまうぐらい、街が小さい。それでいて、地下鉄やバスが充分に発達していて、コンビニエンスストアのような店もたくさんあり、便利さが生活の中に行き渡っている。
しかし、それは、いかにも「都会」というようなエッジのきいた洗練ではなく、どことなく慎ましやかな、あると便利なものを必要なだけ、生活の中に摂取したような発展の仕方をしている街だと思った。
驚くのは、日本から携帯電話を持っていくと、そのまま、日本にいるのと同じように通話やメールが普通に出来てしまうことだ。日本から台北まで3時間程度の飛行時間で着いてしまうこともあり、海外とは思えないくらい、とても身近に感じられる。
2007年11月22日
人間の証明
西条八十の「麦わら帽子の詩」を下地に、東京で殺された黒人の犯人を追う、社会派の推理小説。登場人物の過去と人間関係が、物語が進むごとに明らかになっていく過程が、一番の醍醐味ではあるけれど、それがあまりにキレイに繋がりすぎていて、小説とはいえ、ちょっと現実味に欠ける気がした。
ニューヨークのハーレムの描写は、とても良かった。東京とニューヨークという、二つの大きな都市の、乾いた雰囲気はよく伝わってくる。それに合わせるように登場する、棟居というドライな刑事の存在もいい。ただ、この作品では棟居刑事はあまり直接的に登場人物に絡んでくることがなく、そのキャラクターが活きていなかった気がする。
最後の、事件解決のくだりも、あまりしっくり来なかった。色々な事件やいきさつがあった後で、むりやりヒューマンドラマに持って行くという、あざとさが見えて、素直に感心することが出来ない。当時、この小説を原作としたドラマが流行して、その後もドラマ化が繰り返されているけれど、確かに、TVドラマ向きの構成を最初から意識したような感じがある作品だと思った。
ニューヨークには、あらゆる種類の「世界一」が肩を並べている。摩天楼、ウォール街、ジャーナリズム、教育施設、コングロマリット、文学、美術、音楽、演劇、ファッション、料理、さまざまな娯楽・・世界の一級品が集中して、ますますその上限を伸ばしていくのに比例して、悪も暗渠の底深くまがまがしい触手を伸ばしていった。殺人、放火、窃盗、強姦、売春、麻薬を代表に、ありとあらゆる種類の犯罪が行われている。ニューヨークはいまや上限と下限が開きすぎて、その矛盾の中で苦悶しているのだ。(p.131)
女房をもらい、子供ができても、それぞれが独りであることに変わりはありませんよ。一生彼らに付き添ってやれませんからね。ただいっしょに歩くというだけで、それぞれが孤独だという本質に変わりありません。私は、肉親や友だちは、編隊を組んで飛んでいる飛行機のような気がするんです。飛行機を飛ばしつづけるのは、結局、自分独りしかいないのです。(p.341)
2007年11月21日
天
このマンガは麻雀を題材とはしているけれど、麻雀マンガというよりは、それを超えた人生論を主要テーマとしたマンガといっていい。
主人公は一応、「天」ということになっているが、影の主役は、圧倒的な存在感を持っているサブキャラクターである「赤木」という構造になっている。「スラムダンク」でいう、桜木と流川のポジションに近い。
赤木は、物語が進むにつれ、どんどん重要性を増していき、最後には完全に主役といっていい立場になる。途中から、もはや麻雀はまったく物語と関係なくなり、形而上的な対話へとステージが変化する。ここからが、この作品はものすごく面白い。
のちに、赤木を名実共に主人公とした「アカギ」という別作品が生まれたが、これほど特異で、魅力的なキャラクターもそうそうないだろうと思う。
【名言】
「命はつながっている・・随分前から・・俺はそんな考えを持つようになった・・人間としての俺が滅んだら、土くれになって、その後何千年か経って・・また何かに再生される。海に溶けた微生物か・・魚か・・犬コロか・・鳥か・・だから俺はいつ死んだって構わない。命は永遠。また再生されるんだからな・・。ただ唯一問題なのは、人間としての俺がくたばった時。この「俺」だという気持ち、意識が吹っ飛ぶ・・そこが問題だ・・つまり平たく言やあ・・死ぬことは恐くない。いつでも死ねる。俺が恐れるのは、俺が俺でなくなること。それだけはご免だ。そこだけは譲れない・・わかるか・・?(10巻)
常々・・逆だと思っていたんだ・・。通夜のことさ。死んでからみんなにワラワラワラワラ集まってもらったって、死んだ当人には何が何やら分からぬ。せっかく集まってもらうなら、死ぬ前だ・・。死ぬ前に会い、話しがあるなら・・話しておくべきだ。(16巻)
動物といっしょや・・ヤツは能力が尽きたら死にたいのよ・・。虎や熊や鷲、なんでもいいんやが・・動物はみな、おのれの突出した能力によってその生命を支えとるやないか・・例えば・・猛禽類の王、鷲。鷲は天空を舞う翼と、獲物を八つ裂きにする爪、くちばし・・それらによって命を支えている。つまり・・能力、才能がすなわち「生」。野生動物は、だからこそ、ただ・・生きているだけで・・美しい。在り方がシンプルで・・無駄な欲がないから美しい・・。いうなら・・機能美ってヤツやろ。(17巻)
「1」どころか、「3」はあるだろうよ・・。3%は生きたい。未練がねえわけじゃねえさ。仕方のない・・「3」なんだ・・。生きたいという気持ちは完全には消せない・・「3」くらいは混ざる。混ざらざるを得ない・・。まるっきりスッキリってわけにはいかねえ。どう頑張っても・・混ざるものは混ざる。なら・・これはもう・・甘んじて受けるしかない・・そうは楽に死ねないと・・諦めるしかない・・これが死の味と・・観念するしかない。(17巻)
おいおいっ・・何考え込んでんだよお前・・。俺を生かしたいと思うなら、こんなもん・・即受けだよ・・即受け。考えるな・・「負け」の可能性なんて。今回みたいな場合は、ただ「勝ち」に賭けりゃいい。
「正しい人間」とか「正しい人生」とか・・それっておかしな言葉だろ・・?ちょっと深く考えると、何言ってんだか分からないぞ。気持ち悪いじゃないか・・正しい人間・・正しい人生なんて。ありはしないんだって・・そんなもの元々。ありはしないが・・それは、時代時代で必ず表れ・・俺たちを惑わす。暗雲・・俺たちはその幻想をどうしても振り捨てられない・・。一種の集団催眠みたいなもん・・まやかしさ・・そんなもんに振り回されちゃいけない・・。とりあえずそれは捨てちまっていい。そんなものと勝負しなくていい。そんなものに合わせなくていい・・つまり、そういう意味じゃ・・ダメ人間になっていい。
お前の言う通りさ・・俺は狭いっ・・俺はただ生きる・・ただ生きてれば事足りる・・というような考え方・・つまり、人は生きているだけで価値がある・・というその手の感性・・御託が嫌いだった・・。ひねくれ者なんだ・・元々・・。(17巻)
2007年11月20日
ハードディスクの使用状況を確認(FileSum)
今使っているPCのハードディスクは60GBで、無頓着に使っていると時々、空き領域が足りなくなる。
その都度、ファイルの使用状況を確認して、不要なファイルを削除するようにしている。
その時に重宝しているのが、どのフォルダにどれだけの容量が使われているかを一覧表示する、FileSumというツールだ。
「重要な情報の8割は、全体の2割の部分に集中している」というパレートの法則は、そのままファイルの使用状況にもあてはまることが多い。
ディスクの空きがなくなっても、あらためて見直してみると、あまり重要でないファイルが大きな場所を取ってしまっていることが発見されて、たいがいの場合は、まだまだシェイプアップ出来る余地が残っている。
最初に使ったのは10年以上前なので、もう随分長いこと使っているソフトだ。
ハードディスクの容量は、当時と比べれば何百倍も大きくなっているけれど、それでも変わらず同じソフトが有用なままであるというのは、かなり基本設計が良く出来ている証拠なのだと思う。
2007年11月19日
今年の新語
はてなダイアリーのキーワードから、約100語の『現代用語の基礎知識2008』に掲載される用語が発表された。
http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20071114/1195018275
知っていた言葉は9個だけ。
知らなかったが意味は推測出来る言葉が8個。
それ以外は、さっぱりわからなかった。
キーワードに選出されるだけあって、短いながらも「なるほど」と感心する言葉が多い。コピーの勉強にもなりそうだ。
去年の、2007年度版掲載キーワードはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20061106/1162811604
2007年11月18日
ナイトサイエンス教室(1)生命の意味
著者の村上さんは、単に科学者であるというだけでなく、もともと天理教に馴染み深い家庭で生まれ育ったというバックグラウンドがあるため、宗教的な考え方が多分に含まれている。
生物の成り立ちというのは、ダーウィンの進化論だけで考えるにはあまりにも上手く出来すぎていて、そこにはサムシンググレートともいうべき、神のような存在が介在しているのではないかというのが、村上さんの背景に常にある思想だ。
このような見地から物を考える科学者の言葉は、科学だけですべてが説明出来ると考えている科学者の言葉よりも遥かに面白い。考え方が固定的でなく、柔軟である感じがする。
この本では、DNAや酵素のことなど、生物の仕組みが「どのように」出来ているかというスゴさも充分に説明されているけれど、それに加えて、「何故」このような仕組みを作ったかを推測するという点にどちらかというと重点が置かれていて、そこが面白かった。
量子論は、シュレディンガーの方程式などの理論的な体系がそこに加わって、量子力学という学問へと発展した。それと比べると、進化論というのは、まだ「理論」を脱していない仮説の段階であり、それが学問として正式な位置を占めるには至っていない。生物学にはまだまだ謎めいた部分がたくさんあるということを、ワクワクする要素を含めて教えてくれる、こういう本は最上の読み物だ。
ある意味での天才、あるいはそれを超える人というのは必ずしも幸せではないのではないかと思いますね。たとえば、みんながバカに見えるわけですよね、そうするとそういう人は幸せじゃないですよ。そしたら、なんのためにそういう人を作るのか。そういうと、「科学の進歩のために」ということがとかくいわれるんだけれども、「なんのために科学を進歩させるのか」ということです。その人が幸せで、人類も幸せにならないと意味がないですよ。ある特定の知能だけがすばらしい人を作るというのは、個人的には反対ですね。(p.191)
アトランダム、偶然に進化したというのは考えにくい。偶然に遺伝子の変異が起こるとしたら、だいたいまずいほうに起こるわけです。優れたものになる可能性はものすごく低い。だから、何をもって優れたというかは問題だけれども、人間の遺伝子が変わったことによって、生きるために高度にものになる確率は非常に低いものだと思いますね。ですからそれが蓄積してきたとするダーウィンの説は、少し無理があるような気がします。(p.248)
2007年11月17日
裏窓
マンションというのは不思議な空間だ。その中には、ひしめくように多くの人々が住んでいて、そこにはそれぞれ個別のドラマがある。しかし、そこの住人には、お互い、壁一つ隔てた隣の人々が何をしているか、まったくわからない。
あるマンションの中で起こる様々のドラマを同時に俯瞰できる人がいるとしたら、それは住人ではなく、そのマンションを一望することが出来る場所にいる、「マンションの住人ではない」人間だ。
この「裏窓」という映画は、舞台となっているマンションをのぞく一人の男を主人公にしており、それは、映画を観ている立場からすれば、芝居を観ている観客を見ているようなもので、いわば劇中劇のスタイルになっている。
面白いのは、その劇が、舞台を見ているだけではなく、観客をも同時に見ているという形式になっていることだ。ステージ上の光景だけではなく、それを見ている観客の反応や、驚き、あるいは観客の不在(観察者である主人公が寝ていることもある)をも確認することが出来るのだ。
自分たちの周りでは常に様々なドラマが同時並行で繰り広げられているということを、この映画は、ユーモアを交えて気づかせてくれる。新たに引っ越してきた新婚夫婦、ダンサーになるため修行中の女性、必死に曲を作っている作曲家、悲しみの中にある未亡人・・。そういった様々な人たちが一つの建物の中に住んでいながら、互いのことをよく知る機会はない。それが、マンハッタンのような都会の中では、なおさらだ。
映画の中で主要なテーマとなっている、一つの事件があるのだけれど、それは話しの焦点をわかりやすく絞り込むためのテーマに過ぎず、実際には、この映画は、それぞれの部屋でおこっている小さなドラマを集めた、オムニバス形式の映画といってもいい。
それぞれの住人の暮らしの中の物語は、時間の経過と共に徐々に進んでいき、それぞれの物語が緩やかに影響を与え合っている。その関係を実に見事に表現したこの作品は、繰り返し見返すたびに新しい発見がある、とても緻密に作られた名作だ。
「裏窓」(1954年)
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ジェームス・スチュアート、グレース・ケリー
2007年11月16日
名人
昭和13年、本因坊秀哉名人の引退碁となった対局がおこなわれた時、川端康成は観戦記者としてその場に居合わせていた。この「名人」は、その時の様子を描いたドキュメンタリーだ。
名人は、この対局の時、体を病んでおり、そのために試合は度々中断され、たった一局の勝敗がつくまでに、なんと半年もの期間を費やした。一人の持ち時間が40時間というから、これほど気の長い試合も珍しい。現代では、ここまで長時間の対局というのはあり得ないだろうが、当時は、時代的にも今よりのんびりした風があったのだろう。
この作品の中では、碁そのものの内容についてはほとんど触れられておらず、徹底して、対戦中の二人の対局者の心情と、その、半年にも及ぶ長い対戦の舞台裏についての描写に終始している。白(名人)の130手目に、勝敗を分かつ大きな意味を持つ手があり、この一手をめぐる解説では、そこに隠されたドラマが語られていて、真剣勝負の世界のシビアさを伝わってきた。
たった一局の碁を題材にして、一冊の作品が描けるというのもスゴいことだけれど、それだけの壮絶な内容が、この引退碁の一局にはあった。いわば、死を賭して対局に臨むという名人の覚悟が、芸術的な対局を作り出したわけで、そこに、川端康成が居合わせて、一つの作品が生まれたということには、何か運命的なものを感じる。
この写真は非現実的にも見えるが、それは一芸に執して、現実の多くを失った人の、悲劇の果ての顔だからでもあろう。殉難の運命の顔を、私は写真にのこしたのであろう。秀哉名人の芸が引退碁で終わったように、名人の生命も終わったようであった。(p.31)
中国で、仙人の遊びとされ、神気がこもるとされ、三百六十有一路に、天地自然や人生の理法をふくむという、その智慧の奥をひらいたのは、日本であった。外国模倣、輸入を、日本の精神が超えたのは、碁に明らかであった。(p.107)
名人はこの碁を芸術作品として作って来た。その感興が高潮して緊迫している時に、これを絵とするなら、いきなり墨を塗られた。碁も黒白お互いの打ち重ねに、創造の意図や構成もあり、音楽のように心の流れや調べもある。いきなり変てこな音が飛びこんだり、二重奏の相手がいきなりとっぴな節で掻きまわしては、ぶちこわしである。碁は相手の見損じや見落としによっても、各局を作るぞこなうことがある。(p.148)
2007年11月15日
傷は浅いぞ
「柿喰う客」という劇団の、「傷は浅いぞ」という公演を観てきた。
かなり、衝撃的だった。
セットが一つもないミニマムな舞台装置も、先の読めないストーリーの意外性も、テレビでは放映出来ないアウトローなセンスもスゴかったのだけれど、何よりも、息もつかせぬテンポの良さに圧倒された。
たとえば75分間という長さの芝居を観るにあたって、テンポが悪いというのは何にも増して致命的な欠点だと思う。どれだけ筋書きが良くとも、流れが良くないために集中が切れたり、退屈してしまっては、台無しだ。逆に、多少のアラは、テンポが良ければ、それほど気にならなくなってしまう。
なんだかアイデア豊富な劇団で、公演日ごとに様々なイベントが企画されていたり、マスコットキャラクターが月や公演単位で様変わりしたりと、細かい部分の遊び心があちこちに見えて、そのノリがステージにも反映されていた。
「テレビでは放映出来ない」というのは最高の褒め言葉だと思っている。テレビでは表現出来ないことを表現可能という点で、演劇は大きなアドバンテージを持っていると思うからだ。
この感想を読んで興味を惹かれた部分があれば、ぜひ一度、観てみてほしいと思う。
柿喰う客「傷は浅いぞ」
2007年11月14日(水)~26日(月)@王子小劇場
2007年11月14日
AIR-EDGE AX530IN

AIR-EDGEのデータカードを、最新型の「AX530IN」に機種変更した。
「W-OAM typeG」という新方式で、512kbpsまで通信速度がアップしている。
AIR-EDGEの基本通信速度である32kbpsと比較すると、なんと16倍の速さだ。
WILLCOMでは今、「ダブルバリューセレクト」というキャンペーンを実施していて、つなぎ放題[PRO]プランの年間契約をすると、月額料金が、通常12,001円のところ6,000円になる。
これまで契約していたAIR-EDGEのプランは、つなぎ放題[4X]というプランだったが、これは、最大通信速度128kbpsで月額8,851円。
その一方、つなぎ放題[PRO]は、最大512kbpsで6,000円。
まったくデメリットがないので、プラン変更をしない手はない。
というか、今までのプランを使っていた人の立場はどうなるんだというぐらい旧ユーザーを無視した、ものすごい値下げだ。
肝心の、512kbpsで通信可能な唯一のカードである「AX530IN」が、どの店に行っても品切れになっていて、2ヶ月ほど待たされたけれど、最近、再入荷が始まって、ようやく機種変更をすることが出来た。
実際に512kbpsの接続を試した感想は、「かなり速い!」
ホームページを閲覧していると、AIR-EDGEとは思えないぐらいサクサクと読み込みが進む。WILLCOMのサーバを経由させて、独自にデータの圧縮処理をしているらしく、画像は勝手に粗くされたりするのだけれど、速度が出るのなら、これも文句はない。
AIR-EDGEの対抗馬であるEモバイルのデータカードは、通信速度が速いのはいいのだけれど、対応エリアが都内に集中しすぎていて、地方に行った時にはまったく使い物にならない。
逆に、AIR-EDGEは、対応エリアも移動中の接続の切れにくさも申し分ないのだけれど、通信速度がとくかくネックだった。これだけ速度が改善されれば、自分にとっては断然、AIR-EDGEが素晴らしい。
2007年11月13日
日本語の作文技術
「文章を書く」ということは、突き詰めて考えると、その多くの部分は技術的なノウハウとして落とし込むことが出来るらしい。小説のような文学では、作者のセンスというものも重要になってくるけれども、新聞記事や評論のように、「人にわかりやすく、正確に伝えるための」文章ということになると、これは感覚よりもはるかに、技術が重要になってくる。
自分でも、文章を書いていると、「どこか、違和感がある」という感じがして語順や表現などを入れ替えたりすることがあるけれども、それは非常に感覚的な部分が大きいと思っていたので、それが何故なのか、ということはなかなか言葉では説明しにくいことがあった。
この本は、その違和感の原因を、場面に応じて詳しく分析して、「よりわかりやすい文」を書くための技術を、例文つきで数多く紹介している。驚くのは、その徹底した、率直なもの言いだ。様々な例文を引き合いに出して、ダメな文章は徹底的にこきおろす。その代わり、自分自身の過去の文章も、ダメな文章のサンプルとしてよく引き合いに出している。
この本を読むと、普段、無意識的に書いていた文章の多くの部分に、もっと意識的になる必要があるところがたくさんあることに気づかされる。どの章で説明されていることも、とてもよく考えられていて、腑に落ちることばかりだ。この本と比べると、国語の教科書で語られているような文法の説明などは、かなり中途半端で言葉足らずなものだったのだと思える。
初版が1976年で、それから今日までなお増刷が続けられているわけだから、時代の洗礼を受けた名著と言っていいだろう。一度で全部を理解することは難しいけれども、何度も何度も繰り返して読みたいと思わせる、内容の濃い本だった。
【名言】
助詞の中でもとびぬけて重要で、かつ便利な助詞は「ハ」である。それだけに「ハ」は文法家の間で常に議論のマトとされてきたし、今もされている。(p.139)
気象や時間の文章でitなどという形式上の主語を置くのも、全く主語が不必要な文章に対して強引に主語をひねり出さねばならぬ不合理な文法の言葉がもたらした苦肉の策にほかならない。「形式上のit」はイギリス語があげている悲鳴なのだ。(p.146)
一言でいうと、これはヘドの出そうな文章の一例といえよう。しかし筆者はおそらく、たいへんな名文を書いたと思っているのではなかろうか。だが多少とも文章を読みなれた読者なら、名文どころか、最初から最後までうんざりさせられるだけの文章と思うだろう。なぜか。あまりにも紋切型の表現で充満しているからである。(p.200)
2007年11月12日
探偵ガリレオ
森博嗣氏の小説が、数学ベースの推理小説であるのに対し、この「探偵ガリレオ」は化学ベースの推理小説だ。大学助教授の湯川と、草薙刑事がセットになって事件を解決するという構成で、5作の短編集という形になっている。
トリックに必ず化学が絡む、という制約があるために、中にはちょっと無理がある、こじつけっぽい種明かしもある。そのため、全てが「見事!」という出来なわけではないのだけれど、化学的推理小説というジャンルは、新鮮で面白かった。
最近、月曜21時の時間帯でドラマ化されたが、福山雅治と柴崎コウという組み合わせは、この作品の雰囲気に全然合っていなくて、もはや別物の作品になっていた。作者は、佐野史郎をイメージして作品を描いたというけれども、確かにそのほうが、ずっとしっくりくる。
ドラマのほうも、原作とはまったく別物と割り切れば面白い仕上がりになっていて、特に、エンドロールの映像はとても美しい。
2007年11月11日
はからめ「月のカレンダー」

来年のカレンダーが店頭に並ぶ季節になった。
これまで、壁かけカレンダーはずっと使ったことがなかったのだけれど、去年、自由が丘の「グリーンフラスコ」という店に一つだけ残っていたカレンダーがとても気にいったので、それから壁かけカレンダーをかけるようにしている。
「はからめ」という団体(ユニット?)が作っているこのカレンダー、フォントや色づかいの心地よさに一目ぼれをして買ったのだけれど、デザイン面以外にもいろいろと特長がある。
・月の満ち欠け(月齢)がわかる
・季節の変わり目を示す二十四節気がわかる
・旧暦がわかる
・潮の高さがわかる
・麻紙や竹など、自然に還りやすい材料のみで作られている
とにかく細かいところまで気配りされている、こだわりのカレンダーだ。
さらに、来年のカレンダーからは、「大犯土(おおつち)、小犯土(こつち)、土用(どよう)」の表示が追加される。その期間は、木の伐採や種まき、穴堀りをやってはならないと言われているらしい。普段の生活にはあまり関わりがないけれど、そういうことまで考えていた、昔の人の智恵に思いを馳せるきっかけになる。
ネット販売はしておらず、直接、店頭でしか販売していない。
普段だったら「ぜひネットでも販売してほしい」と思うところだけど、この「はからめ」カレンダーに関しては、そういう硬派なところも、こだわりがあって良い、と思えてしまう。
2007年11月10日
西村文生堂
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本屋は、ある程度大きい本屋であれば、置いてある品揃えにそれほど違いは表れない。新発売の本や、売れ筋の本はどこの本屋でも目立つ場所に置くし、その逆に、売れない本はどこの本屋でも積極的に扱おうとはしない。
その点、古本屋はその店独自の品揃えになるから面白い。ブックオフのようなチェーン店になると商品は均一化してしまうので、こういう古本屋は除外するとして、店主が独りで店番をしているような小さな古本屋は、店主の好みが如実にあらわれる。
だから、好みに合う古本屋はぴったりとハマるし、そうでない古本屋はまったく肌に合わないという方向に二極化することになる。
自由が丘にある「西村文生堂」は、ごく小さなスペースの店内だけれど、それだけに、置いてある本はかなり厳選された内容になっていて、そのセンスがとても自分の好みに合っている。
一種のセレクトショップのようなもので、この店に置いてある本なんだから、きっと面白い内容なんだろうと思わせる。こういう店があると、心強いアドバイザーが一人ついてくれているようなもので、そんな古本屋が近所にあるというのは、とても嬉しいことだ。
2007年11月09日
村上春樹にご用心
自分は、村上春樹氏の作品は、とても好きな作品と、あまり好きではない作品の2種類に分かれる。これまで、あまり好きではなかったのは、抽象的で、何が言いたいのかわかりにくいタイプの作品だ。
しかし、この本から、今まで好きでなかったタイプの作品は、そもそも自分の読み方の、アプローチの方向が違っていたから、その真意が理解出来ていなかったのだと気づかされた。
本の中で、「村上春樹が世界各国で受け入れられる理由」について、特に見事に表現していると思ったのは、次の部分だった。
『村上文学がそのローカルな限界を突き抜けることができたのは、存在するものを共有できる人間の数には限界があるが、存在しないものを共有する人間の数に限界はないということを彼が知っていたからである。』(p.90)
なるほど!と感心した。
「ルビンの壺」という、壺にも、向かいあった2人の顔にも見える絵があるけれど、あの絵のように、一つの事象を表現するにも、表と裏との、2通りのアプローチがある。壺をそのままストレートに表現する方法もあれば、向かい合った2人の顔を描くことで、壺を浮かび上がらせることも出来る。
村上春樹は、失われたもの、もはや存在しないものについてひたすら積み上げて描くことで、そうではないものを表現するという手法を取っていたのだ。
羊男が作品の中で言う、「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」というセリフはそのまま、村上春樹の作品の読み方についてのガイドなのだと思った。
それを理解した上であれば、今まで意味がわからないために面白くないと思っていた部分の見え方も随分違ってくるのだろうと思う。新たに得た視点をもって、再び村上作品を読み返してみたいという気にさせる本だった。

ルビンの壺
【名言】
仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。というのが村上文学の「教訓」である。それだけだと、あまり文学にはならない。でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。(p.67)
他の人々が単なる指示的機能しか認めないセンテンスに、私だけが「私あてのメッセージ」を聴き取るということが倍音的エクリチュールの構造なのである。(p.113)
「眼高手低」という。創造よりも批評に傾く人は、クリエーターとしてはたいした仕事はできない。これはほんとうである。(p.164)
家族というのは誰かが抜けないと、誰かが入れない「椅子取りゲーム」に似ている。つねに「誰かが足りない」という感じを共有する人々、実はそれこそが家族なのだ。(p.231)
2007年11月08日
FinePix Z100fd
ここしばらく、デジタルカメラはFUJIFILMのFinePixZシリーズを使っている。
今まで使っていた「FinePix Z2」が、カードを読み込めないようになって、壊れてしまったので、この機に再度、他社製のデジカメも一通り検討をしてみたところ、やはり圧倒的にFinePixが良い、という結論に達した。
今年の9月末に発売された「FinePix Z100fd」は、全ての面において飛びぬけているというわけではないけれど、重点を置くべき機能の取捨選択が、とにかくいいセンスをしている。
【FinePix Z100fdの良いところ】
・起動時にレンズが動かない
小型サイズのデジカメの多くは、起動した時にレンズが本体から飛び出して、電源を切るとレンズが引っ込む機構になっている。このタイプは、起動までに時間がかかる。しかも、駆動部分が多いということは壊れやすいということだ。小型デジカメのトラブルの多くは、この、レンズ部分が動かなくなる不具合ではないかと思う。
・640×480ピクセルを記録サイズに指定出来る
最大サイズは8M(3264×2448)ピクセルまで記録出来るのだけれど、普段、印刷用途で使うことはほとんどなく、webにアップする用途が主なので、640×480ピクセルのサイズはとても使い勝手がいい。ブログ用に、320×240ピクセルの小さなサイズも指定が可能で、これもとても便利だ。
・「高感度2枚撮り」モード
一回の撮影で、フラッシュ無しとフラッシュ付の2パターンを同時に撮影出来るモードが選択出来る。室内などで、フラッシュを使ったほうがいいかどうか微妙な時、とりあえず両方撮っておくことが出来る。集合写真のように、何度も写真を撮りにくいような場面では、これは重宝する。
・SDカードが使用可能
今までのFinePixは、xDピクチャーカードというマイナーな規格のメモリカードを採用していて、それが最大の欠点だったのだけれど、今回、SDカードもxDピクチャーカードも両方使えるようになった。SDHDメモリカードにも対応しているので、SDHDカードを使えば、8GB分も入ってしまう。
・充電器が、バッテリーのみを充電するタイプである
カメラ本体を充電器に挿して充電するタイプのものもあるけれど、それだと充電中に持ち歩くことが出来ない。バッテリーのみの充電なら、スペアのバッテリーを交互に使って持ち歩くことが出来る。
・一つの写真に後から30秒まで録音出来る「ボイスメモ」機能
写真へのメモを声でつける使い道はあまり無さそうだけれど、外出先で、ふとしたアイデアを思いついたけれどメモ帳がないような時、適当な写真を撮って、それに録音をすれば簡易ICレコーダーとして使うことが出来る。
・ISO1600まで対応
いまや高感度や手ブレ防止は当たり前の機能になったので、特別なことではないけれど、ISO1600まで自動で感度が調整されるので、照明がそれほど明るくない場所でもちゃんと写りやすい。はずなのだが、これはそれほどの効果は実感出来なかった。
逆に、【気に入らないところ】は、
・シャッターを押した後の記録速度が前よりも遅くなっていて、画像が表示されるまでの間に微妙なタイムラグが発生するようになった。このちょっとした待ち時間は、感覚的に結構気になる。
・写真モードと動画モードの切り替えが、スイッチで切り替えるのではなく、メニューから選択するようになったので、手間がかかるようになった。
若干の気に入らない点はあるけれど、全体として、かなり目のつけどころがいい、バランスの良い製品だと思う。
2007年11月07日
言葉のタイミング
今、風邪ではないのだけれど、喉がイガラっぽくなっていて、咳が出る。
特に熱があるわけでも、痛みがあるわけでもないので、実害はほとんどない。
ただ、会話をしている途中、咳で言葉が中断されてしまうことがある。
こうなってみて初めてわかったけれど、これは結構不便なことだ。
言いたい瞬間に言いたいことを言い逃す、ということがあると、話しの継ぎ穂を失って、せっかくの話しの流れがぷっつりと中断してしまう、ということが起こる。
あいづちをうつ時でも、咳が出そうになって会話が一拍空くと、それだけで場の雰囲気が微妙におかしくなる。テレビで、衛星中継で外国と話しをしている時の会話が、変な空気になるのと同じような感じだ。
普段、ほとんど気に留めたことはなかったけれど、必要なタイミングで言いたい言葉を発することが出来る、というのは、当たり前のようで、とてもありがたいことなのだと思った。
2007年11月06日
20世紀少年

20世紀少年 1~22巻(浦沢直樹/小学館)
21世紀少年 上下巻(浦沢直樹/小学館)
「MONSTER」と同じパターンの構成で、この先どうなるんだろう、という期待を持たせるのは上手いのだけれど、「本当にこれ、オチあるんだろうか・・」という不安を常にかきたてる。だから今回は、「続きがしばらく読めない」というフラストレーションを避けるために、リアルタイムで読むのではなく、話しが完結してからまとめて読むことにした。
「20世紀少年」が全22巻、「21世紀少年」が上下巻で2巻の、合わせて24巻。最後の2冊を別タイトルにして区別したところは、とてもセンスがいい。
まとめて読んだので、なんとかストーリーにもついていけたけれど、これをもし、途中何ヶ月か空けながら細切れに読んでいたら、最初の頃の登場人物なんかは完全に忘れてしまっていたに違いないと思った。
話しは、かなりいきあたりばったりに書いている感じでありながら、意外に辻褄があっている。でも、後からどんどん、少年時代のエピソードが追加されていって、どのようにでもストーリーを変えられるという、いわば「後だしジャンケン」みたいなことになっているので、これじゃ何でもありだな、という気がする。
60年代の時代背景や、色々なマンガのキャラクターを寄せ集めて作ったコラージュのような作り方をしていて、ほとんど全編がパロディーになっていて、それは意図的にやっていることではあるんだろうけれど、節操もオリジナリティーもない作り方だと思った。
2007年11月05日
アラウンドビューモニター

日産の車で、「アラウンドビューモニター」というスゴい技術が生まれたらしい。自分の車を真上から見た映像を確認することが出来るという。これは、縦列駐車が格段にやりやすくなりそうだ。
真上から、ということは、車の上にカメラを伸ばして映像を撮るのかと思いきや、そうではなかった。
サイドミラーやフロントについている、4台の超広角カメラの映像を合成して、仮想的に「真上から見た映像」に変換するという技術なのだ。これを思いついた人はスゴいなあ。
2007年11月04日
地下室の手記
人との交流を断って、自ら地下室に籠りきりになった一人の男の手記、という形をとった小説。作品は二部構成になっており、前半は、自分自身の心情の述懐、後半は、地下室に籠もるに至った経緯について書かれている。
主人公は、現代で言われるところの「引きこもり」の状態に近く、自分自身でも言っているように、ネガティブなエネルギーの塊だ。ヒーローとしての要件をまったく備えない、アンチヒーローを体現したような存在で、その点、かなりの斬新さがある。そこで語られているものは、思想と呼べるほどのものではなく、自意識があまりに過剰なために湧き上がる妄想で組み立てられた、支離滅裂な妄想がかなりの部分を占めている。
作者がこの小説で試したかったことは、ひたすらに内に閉じこもった一人の人間が、思いくところすべてを心のおもむくままに語り尽くしたとしたらどうなるかという思考実験だったのではないだろうか。そしてやはり思うのは、少しばかり文明が進歩したり、国や時代が変わったとしても、人が考えることというのはあまり大きく変わるものではないということだ。
この安岡治子氏の新訳では、一人称は「俺」になっているが、他の訳では「僕」になっているものもあり、それだけでも随分と印象が違う。この手記の場合、若い青年が書いたものではなく、40歳を過ぎた中年の男が書いていることを考えれば、「僕」よりも「俺」とする新訳のほうが雰囲気に合っている気がする。
【名言】
それはともかくとして、いいかね、俺は確信しているのだが、我々地下室の住人は、くつわを嵌めて拘束しておかなければいけないな。地下室の住人たちは、四十年間黙ったまま地下室に籠りきっていることもできるが、ひとたび外に出たら、それこそ堰を切ったように、喋って、喋って・・とめどがないからだ。(p.75)
とどのつまりは、君たち、なにもしないほうがいいのさ!意識的な無気力のほうがマシだ!だから、地下室、万歳!というわけである。たしかに俺は、正常な人間が、はらわたが煮えくり返るほど羨ましいとは言ったが、今、目にしているようなありさまなら、正常な人間になぞなりたいとは思わないね(とは言うものの、やはり羨ましいことに変わりはない。いや、いや、地下室は、いずれにしてもいちばんなのさ!)。地下室なら少なくとも・・ああ!俺はここでもまた嘘をついているじゃないか!なぜ嘘かと言えば地下室のほうがマシだなどということは決してなくて、なにかもっと全然別のもののほうが良いに決まっているし、それを俺は渇望しているのだが、どうしてもみつけられないということぐらい、自分でも二、二が四と同じくらいよくわかっているからだ。(p.75)
どんな人の思い出の中にも、誰にでも打ち明けるわけにはいかない、親友だけにしか打ち明けられないようなものがある。親友にも打ち明けられない、ただ自身にのみ、それもこっそりとしか明かすことができないものもある。しかしさらに、自身にさえ打ち明けるのが怖ろしい思い出もあるわけで、そうした思い出はどんなまともな人間の中にも、かなりの量が積もり積もっているものだ。いや、それどころか、こんなふうにさえ言えるだろう。その人間がまともであればあるほど、そうした思い出は多いはずだ。(p.78)
2007年11月03日
TM NETWORK REMASTER
パシフィコ横浜でおこなわれている「楽器フェア」と共同で開催された、TM NETWORKのコンサートに行ってきた。
単独のコンサートではなく、扱いとしては「楽器フェア」の中の特別イベントみたいな感じになっていたけれど、そんなことは関係なく、ただ、TM NETWORKの3人が再び集まっている光景を見れたということが、とにかく嬉しかった。
TM NETWORKの活動当時、中学生の自分にとって、それは常に、圧倒的なまでに時代の最先端を先取りしていた音楽だった。アルバムをリリースするごとに新しいコンセプトと世界観を創り出す小室哲哉という人は、尽きることのない才能の泉を持つ、天性の職人のようなミュージシャンに思えた。
コンサートでの小室さんは、ほとんど言葉を発することなく、ひたすら裏方としてシンセサイザーの調整を続けていた。ただ一箇所だけ、数分間のオリジナルソロがあったのだけれど、そこでのピアノの演奏技術は圧巻で、今なお、演奏者として一流の腕を保ち続けているというのは、本当にスゴいことだと思った。
TM NETWORKの活動休止以降は、職人的なイメージから一転して、プロデューサーとしての派手なイメージばかりが目立った小室さんだけれど、本質的にはやはり、骨の髄まで職人肌の人なのだ。
今回演奏された曲目は、シングルリリースされたタイトルが中心の、オーソドックスな選曲だった。どれも、オリジナルの演奏にとても忠実で、懐かしさを呼び覚ますもので、それがまた良かった。
【演奏曲目】
1.Still Love Her
2.Here,There & Everywhere
3.We Love The Earth
4.Human System
5.N43(新曲)
6.Telephone Line
7.Beyond The Time
8.ピアノソロ
9.Be Together
10.Self Control
11.Time To Count Down
12.Welcome Back 2(新曲)
13.Get Wild(アンコール)
2007年11月02日
チルドレン
伊坂幸太郎の本には、短編集の形をとりながら、実際には一続きの連作になっているという作品がいくつかある。この「チルドレン」は、陣内という人物が登場することを共通項とした、5つの短編集だ。
その5つは、時系列もバラバラだし、舞台もまったく違うしで、一見、別々の話しの寄せ集めのように見える。しかし、お互いの短編を照らし合わせてみると、あちこちでリンクしている部分があって、たとえば、ある話しの中で出てくる曲の名前が、その短編中では明かされず、他の短編で明らかになったりする。
その、短編同士のゆるやかなつながりに用意されたリンクを探して、頭の中で組み合わせていくところに、作品そのものとは別の遊びが隠されている。そこには、ごちゃごちゃに入れ替えられたルービックキューブを元に戻していくような楽しさがあるのだと思う。
登場人物の言い回しには、現実離れした雰囲気があって、あまりリアリティーは感じられないのだけれど、それが、ごく身近な場所を舞台として繰り広げられることで、日常感と非日常感が合わさったような、絶妙な空気が作り出されている。
この、日常と非日常、だけではなく、常識と非常識、ベタさと意外さ、のような相反する要素がバランス良く配合されている、繊細な工芸品のような作品だった。
2007年11月01日
サイレン2
どんなにいいと薦められても、ほとんど見ない映画のジャンルがある。
「ホラー」と言われている映画は、ひたすら避けて通ってきて、テレビでやっているのを間違って目にした時には、あわててチャンネルを変えるようにしてきた。
ゲームも、怖いものはやらない。小学生の時、「ポートピア連続殺人事件」というゲームがあって、面白かったのだけど、一人ではとても出来なかったので、必ず友達がいるところで、昼間にだけやることにしていた。「バイオハザード」は、やってみて数十分で「もう無理だ」と思って、買ったその日のうちに売ってしまった。
プレイステーション2で「SIREN(サイレン)2」という作品がある。これは、スゴいゲームだった。
島の中にある、孤立した小さな村が舞台で、村人達は闇人と呼ばれるゾンビになってしまっている。各章ごとに異なった、様々な人物の視点から物語を体験しながら、村で起こった事件の謎を解くことが目的になっている。
その中で、廃墟となった団地の中を、夜中に懐中電灯を照らしながら進むシーンがあるのだけれど、「どうやったらここまで怖いモノが作れるんだ」と思うぐらいコワかった。
ただ、ゲームとしてはハンパなく面白い。シーンごとに新たな課題や操作が加わっていって、飽きさせずに引き込むような構成がしっかりと出来上がっている。謎解きやアクションの難易度もバランスよく、細部まで作りこまれた良作だと思った。
「怖い!でも面白い!でも怖い!」という繰り返しで、自分をだましだまし先に進めていったけれど、途中でやはり「もう無理だ」と思って、売ってしまった。














