
岳(石塚真一/小学館)
※2008年1月現在、6巻まで発売中。
異色のマンガといっていい。
日本アルプスを舞台にした、一見さわやかな山岳系のストーリーに見えるのだけれど、かなり意外なほうに読者を持っていく。
話しの中で、びっくりするぐらいたくさんの人が山で死んでいきながら、それでいて主人公だけは爽やかに、険しい山での救助活動を淡々とこなす。「なんだこれは?」という違和感を、最初は感じる。
これを読むと、山に登ったことがある人もない人も、一様に山というものがとても怖い存在に思えてしまうだろうと思う。二度と山に登らないようにしようと思う人もいるに違いない。しかし、それでいいのだと思う。
多くの雑誌やメディアが、山の明るい健康的な面しか語らない一方で、こういう作品の存在は必要だ。実際、山は人の想像を超える大きな魅力を持ちながら、それに釣り合う分だけの大きな危険を裏側に持っているものだと思う。
山の素晴らしい部分だけを得ながら、リスクは取らないというのはムリな話しなのだ。そのことを主人公はよく知っているから、山で遭難した人に対しても、その行為を咎めることなく、「よく頑張った」と声をかけることが出来る。
自然の雄大さをそのままに語った、スケールの大きな作品だ。
» 2008 » 1月のブログ記事
エレベーターで外国の人と目が合った時に、ニコッと笑ってくれることがあるけれど、あれはスゴいなあと思う。
日本の場合、あまりじろじろ見ないのが礼儀、みたいな雰囲気があるから、知らない人と目が合っても、つい目をそらすのがクセになってしまっている。
向こうから笑いかけてきた場合、こちらも同じように返さないと失礼な気がするけれど、そういう習慣もないのに、とっさに出来るものなんだろうか。
ハハハでもなく、ニヤリでもなく、ニコッと上手に笑うというのは、出来るようになってみたいことの一つだ。
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海市(福永武彦/新潮社)
かなり、素晴らしい本だった。40歳の、あまりさえない画家が主人公であるにもかかわらず、この小説には、はっきりと青春が描かれていると思った。
ヒロインの安見子(やすみこ)という人物が、ものすごく魅力的だったことがあって、読んでいる最中はひたすら先が気になる。「海市」というのは海の上に見える蜃気楼のことであるらしく、それと似たつかみどころのない面が安見子にはあり、それがこの上なくミステリアスな魅力となって、読んでいる自分まで翻弄される感じがした。
構成として面白かったのは、言葉を発している人物の名前が表されず、ただ「彼」「彼女」としか記していない2人の人物の会話で成り立っている章が時々挟まれていて、そのため章の出だしの部分では、一体誰が話している内容なのか、さっぱりわからないという作りだ。
しかし、読み進むうちにこれが誰と誰との会話なのかが自然にわかるようになっている。一種の謎解きのような仕掛けで、会話の内容によって徐々に人物の正体がわかってくるという面白さがあった。
過剰な盛り上げ方も伏線もないし、現実離れしたほどのドラマチックな場面もない。ただ、やはりこの小説に描かれているような出来事というのは、人生において時々起こるのだろうなあと思わせる。
主人公の太吉が、「生きていることってのはいいものなんだなあ」とつぶやくシーンがあるのだけれど、その、彼が思わず口に出したつぶやきに、読みながらとても共感してしまった。
優れた小説というのは、登場人物が自分の代わりに生きているような錯覚を覚えて、その人生を追体験出来るものだと思う。この「海市」という作品は、まさにそういう種類の小説だった。
千尋の紹介で、彼女が通っているという護身術のトレーニング場を見学させてもらった。イスラエルが発祥の護身術ということで、SWATやスペツナズも正式教科として取り入れているという、まるで「ゴルゴ13」みたいな世界だった。
地下のトレーニングルームは、40畳ほどの畳敷きの広間で、前面が鏡張りになっている。見学したのは「レベル3」と「レベル2」のクラスで、ピストルを背中につきつけられた時の対応の仕方について、モデルガンを使って実習をおこなっていた。
日本でそんな事態に遭遇することがある時はよっぽどだと思うのだけど、もしそうなった時には、確かにこれは知っておくと役に立つ技術だろう。
クラスはレベル1から始まって5まであり、レベル5になると、自分の身を護るだけでなく、同行している人の身を警護する技術に発展するらしい。
待合室でベンチに座っている時、隣りにいた実習生同士の会話で
「この前貸した防弾チョッキどうでした?」
「あー、あれ意外に重いんだね。あれなら至近距離から撃たれても大丈夫って気がしたよ」
というやりとりが聞こえてきて、一体この人たちは何者?という謎が残った。

死刑(森達也/朝日出版社)
死刑という制度へのスタンスについては、反対派と存置派の2通りのポジションがあるけれども、日本では現在、8割が存置派でマジョリティを占めている。
しかし、世界の趨勢としては、死刑は廃止の流れにある。先進国で死刑があるのは、日本とアメリカのたった2国だけだ。
この本は、スタート地点としてはどちらの立場に立つこともなく、公平で客観的な視点から、多くの関係者に話しを聞く、というポリシーで組み上げられたドキュメンタリーだ。
「いのちの食べ方」を読んだ時も思ったけれど、世の中には、知っている気になっていても、実際にはその本質をまったく何も知ってはいない、ということがある。
死刑については、世のほとんどの人がその実態を知らない。大きな事件が起こった後、その犯人が死刑判決を受けたということをニュースで知ることはあっても、その後、その犯人がどうなっているかや、どのように処刑がされているかということを知っている人は誰もいない。
処刑の場に立ち会うのは、刑務官と教誨師のほか数人のみで、それ以外は、記者やマスメディアはもちろん、遺族も決して立ち会うことは出来ない。処刑された日にちや被告の名前すら、一般に公開はされない。
いわば死刑というのは、公然の暗部になっていて、入口の部分だけはわかっても、それ以降は完全に闇の中に隠されている制度なのだ。そのようなテーマをドキュメンタリーとしてまとめるにあたって、この、森達也さんほどふさわしい人は他にいないだろうと思う。
この本は、死刑制度について考える上で、様々な角度から、充分な材料を与えてくれる。ありがたいと思う。後は、それを踏まえて、自分がどのスタンスを選ぶのか、ということだ。
死刑の是非は解がない問いでもあるし、一人一人の価値観も考え方もまちまちなので、とても難しい問題だし、完全に妥当な結論はこの先も出ないだろうと思う。
しかし、たとえ結論は出ないにしても、死刑についての現状や、遺族や被告からの意見を知った上で「自分は果たしてどう思うのか」ということは考えておくべきなのだと思った。
【名言】
世の中には多くのことがある。多くのことが起きる。本を書くうえでも様々なテーマがある。勇気に感動、涙に慈愛、恋に革命、そんなテーマを選ぶことだってできる。何もよりによって死刑制度を題材に選ぶことはないじゃないかと我ながら思う。でも仕方ない。僕は気づいている。ここにはきっと何らかの本質がある。とてもしぶとくて重い本質だ。気づいてしまったからには、もう目を逸らすことはできない。いや、目を逸らすことはできたとしても、視界の端にそれはある。たぶん二度と消えることはない。ならば方法はひとつ。直視することだ。深淵を覗くとき、その深淵もまた、こちらを覗いているとニーチェは言った。たぶん僕は覗かれているのだろう。その実感はある。(p.10)
拘置所にいる確定死刑囚は、箱の蓋を開ける前のシュレディンガーの猫そのものだ。第三者からすれば、生きているか死んでいるかわからない。あるいは生きているか死んでいるかに意味がない。だから人はいつのまにか目を逸らす。こうして死刑は不可視の領域に置かれる。誰も触れない。誰も見えない。(p.43)
「とにかく徹底した秘密主義です。なんて言うのかな、分業システムも含めて、人が死ぬというリアルさが希薄になるような装置です。その意味では、うまく出来ているなあという感想を持ちましたね。」(p.98)
「よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ。」(p.297)
死海の水の塩分が濃いのは、湖に塩水がどんどん入ってくる一方で、そのあと大量の水が蒸発するというサイクルが繰り返されているからだ。
物事の密度を濃くするには、そういう流れが必要なのだと思う。
多くのことを取り込む一方で、多くのことを蒸発させて放出していくという流れ。
そのサイクルの中で残り続けたわずかなものだけが、本当に重要な要素なのだろう。

コンタクト
この映画が問うているのは、人が、もし自分たちの文明をはるかに超えた生命体に出遭った時に、それを理解する助けになるものは科学か、それとも宗教か、という命題なのだと思った。
この映画では、地球外生物に接する地球人のモデルとして、非常に強い探究心を持ったエリーという人物を提示した。主人公のエリーは、生粋の科学者でありながら、哲学的な自己批判の精神をも持ち合わせている。
特定の宗教を無条件に信頼することもなく、かといって、科学で証明出来ることの限界を知らないわけでもない。だからこそ、彼女は地球外生物とのコンタクトから大きな気づきを得ることが出来た。
人類がかつて遭遇したことのない事態に直面した時、必要になるのは、これまで自分が持っている常識を壊しながら、いかにして新しい枠組みを論理的に構築出来るかという知性なのだと思う。
設計図を入手したというだけで、技術的なことはわからなくても何故か星間移動の宇宙船が作れてしまうという、非現実的なところもあるけれども、それは話しの展開上しかたないところだろう。
SF映画というよりは、文学小説のような映画で、根源的な問いを観る者に投げかけてくる作品だった。
「コンタクト」(1996年)
出演:ジョディ・フォスター
監督:ロバート・ゼメキス

レイトン教授と不思議な町
様々な謎解きをしながら物語を進めていく、ちょっと変わったタイプのアドベンチャーゲーム。音楽やグラフィックが、かなりセンスがいい。
物語そのものも細部までとても丁寧に作りこまれていて、さすがレベルファイブはいい仕事をする、と感心した。
最後に遊んでからしばらく日にちが経った後にやり直しても、それまでのあらすじがいつでもわかるようになっていたり、次に何をすればいいかアドバイスをくれたり、行き詰って途中でやる気をなくす原因となるような要素をとことん排除しているところも、細かい心配りだ。
ナゾは、終盤がかなり難しくなるものの、ほとんどの問題はヒントを見たり、じっくり考えれば解けるようになっているので、時間をかければ誰でもクリアまでたどりつけるゲームバランスになっている。
(最後の最後に出てくるナゾ、「究極の脱出パズル」はハンパなく難しかった。)
Wi-Fi通信でダウンロード出来るナゾも含めると、かなり多くの問題が入っているので、相当長く楽しめる、お買い得な1本だと思う。
「レイトン教授と不思議な町」
プラットフォーム:NintendoDS
開発:株式会社レベルファイブ
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死の島 上下巻(福永武彦/新潮社)
この小説は、非常に複雑な構成をしている。
物語の中に別の物語があり、更にその中にも複数の物語が入り込んでいるという重層構造になっている上に、特定の人物の主観描写と、ナレーションとしての客観描写が交互に入り乱れている。
それに加えて、全ての章が時系列を無視したランダムな配列になっているという、これ以上ないぐらいの、ややこしい構造になっている小説だった。
そのため、読み進めるにあたって、かなりの集中が必要になったけれど、それを通り過ぎた先には、予想をはるかに超える展開が待ちかまえていた。
人が過去の記憶をたどる時には、必ずしもその時系列順に並んでリニアにイメージが浮かぶわけではなく、思考の流れにしたがって、イメージはあちこちに逍遥する。この小説は、人の主観的な記憶に極めて近い形で構成された、挑戦的な作品だといえる。
「死の島」が発表されたのは1971年。その時代を考え合わせれば、ゆき過ぎなくらいに前衛をゆく小説であっただろうと思う。著者は明らかに、小説としての枠を超えて、小説以上のものを表現しようとしてこの作品を構想したはずだ。この緻密な構成を用意した理由がわかった時には、よく練られた推理小説の謎解きを読んだ時以上の衝撃があった。
この本は、友人のご母堂である和子さんの蔵書からお借りしたもので、残念なことに、現在は絶版になっていて、古書としてしか入手が出来ない。時の経過とともに、こうして失われていく名著があるというのは、惜しい気持ちがする。
【名言】
僕等のように原爆を体験した人間が、何かを信じるということが出来るものだろうか。僕は被爆者がキリスト教を信じたり、仏教を信じたり、世界の平和共存を信じたりしているのが不思議でならない。あれだけの不条理を押しつけられて、今さら何かを信じられるなんて変じゃないか。僕等はみんな内部的に壊れて行きつつある。信じるものがなければ壊れていくのは当たり前だ。(上巻p.339)
相馬さん、あなたは臆病な、卑怯な、馬鹿な男だ。あなたは愚にもつかない議論と、目移りばかりしている教養と、小説を書こうなどというつまらない野心とのために、わたしが何を求めているのかを見抜くことが出来なかった。あなたのような馬鹿な人に、どうして愛が分かろう。いな、愛がないということが、どうしてあなたに分かろう。そんなものはありはしない。ただこうして、一つの身体を抱きしめ、隠された肌を探り、その冷たさを解きほぐす行為の中にだけ、愛のようなものがある。それなのにあなたは、それなのにあなたは・・。(上巻p.348)
分からないでしょうね。わたしの眼にはここにいる人たちがみんな骸骨に見えるのよ。比喩じゃなくて、本当に。ここに勤め出してから時々そういうことがある。音楽に合わせて骸骨が踊っている。死の舞踏ってのがあるけど、わたしは何もそんなロマンチックなことを言っているのじゃない。正真正銘にそう見えてしまって、いくら眼をこすってもその幻覚が消えない。きっと幻覚じゃないのね。それがわたしの見る現実なのね。(下巻p.155)
そうよ、相馬さんが現れたわ、とてもいい人、立派な人、あたしの愛した人と較べたら百倍もいい人よ。でもね、それは違うのね、あたしの愛した人がどんなにつまらない人間でも、あたしはその人を選んであたしの魂をすっかりその人でいっぱいにしたんだから、今さら魂が空っぽになったからといって、他の人でそれを埋めることは出来ないわ、そうでしょう。(下巻p.395)
時間術の本で、どうしたら効率的に読書が出来るかということについて、「いい本を読む時間を作るには、ムダな本を読まないことです。」と説明をしている本があった。
ものすごくナンセンスなことを言っていると思った。
まず、ムダな本かどうかは読んでみないとわからないということがあるし、それがムダな本だったとしても、ムダな本を読んだからこそ、良い本の本当の良さがわかる、ということもある。
後から振り返れば9割5分くらいはムダな本かも知れないけれど、それでも無数のムダの積み重ねの末にしか、いい本にはめぐり合えないのだと、自分は思う。
(この、ナンセンスなことを言っていると思う本から、こうして一つの気づきが生まれたので、この本は結果的にはムダではなかった)
