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2008年01月31日

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岳 6 (6) (ビッグコミックス)
岳(石塚真一/小学館)

※2008年1月現在、6巻まで発売中。

異色のマンガといっていい。
日本アルプスを舞台にした、一見さわやかな山岳系のストーリーに見えるのだけれど、かなり意外なほうに読者を持っていく。
話しの中で、びっくりするぐらいたくさんの人が山で死んでいきながら、それでいて主人公だけは爽やかに、険しい山での救助活動を淡々とこなす。「なんだこれは?」という違和感を、最初は感じる。

これを読むと、山に登ったことがある人もない人も、一様に山というものがとても怖い存在に思えてしまうだろうと思う。二度と山に登らないようにしようと思う人もいるに違いない。しかし、それでいいのだと思う。
多くの雑誌やメディアが、山の明るい健康的な面しか語らない一方で、こういう作品の存在は必要だ。実際、山は人の想像を超える大きな魅力を持ちながら、それに釣り合う分だけの大きな危険を裏側に持っているものだと思う。
山の素晴らしい部分だけを得ながら、リスクは取らないというのはムリな話しなのだ。そのことを主人公はよく知っているから、山で遭難した人に対しても、その行為を咎めることなく、「よく頑張った」と声をかけることが出来る。
自然の雄大さをそのままに語った、スケールの大きな作品だ。

2008年01月30日

(笑)

エレベーターで外国の人と目が合った時に、ニコッと笑ってくれることがあるけれど、あれはスゴいなあと思う。
日本の場合、あまりじろじろ見ないのが礼儀、みたいな雰囲気があるから、知らない人と目が合っても、つい目をそらすのがクセになってしまっている。

向こうから笑いかけてきた場合、こちらも同じように返さないと失礼な気がするけれど、そういう習慣もないのに、とっさに出来るものなんだろうか。
ハハハでもなく、ニヤリでもなく、ニコッと上手に笑うというのは、出来るようになってみたいことの一つだ。

2008年01月29日

海市

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海市(福永武彦/新潮社)

かなり、素晴らしい本だった。40歳の、あまりさえない画家が主人公であるにもかかわらず、この小説には、はっきりと青春が描かれていると思った。
ヒロインの安見子(やすみこ)という人物が、ものすごく魅力的だったことがあって、読んでいる最中はひたすら先が気になる。「海市」というのは海の上に見える蜃気楼のことであるらしく、それと似たつかみどころのない面が安見子にはあり、それがこの上なくミステリアスな魅力となって、読んでいる自分まで翻弄される感じがした。

構成として面白かったのは、言葉を発している人物の名前が表されず、ただ「彼」「彼女」としか記していない2人の人物の会話で成り立っている章が時々挟まれていて、そのため章の出だしの部分では、一体誰が話している内容なのか、さっぱりわからないという作りだ。
しかし、読み進むうちにこれが誰と誰との会話なのかが自然にわかるようになっている。一種の謎解きのような仕掛けで、会話の内容によって徐々に人物の正体がわかってくるという面白さがあった。

過剰な盛り上げ方も伏線もないし、現実離れしたほどのドラマチックな場面もない。ただ、やはりこの小説に描かれているような出来事というのは、人生において時々起こるのだろうなあと思わせる。
主人公の太吉が、「生きていることってのはいいものなんだなあ」とつぶやくシーンがあるのだけれど、その、彼が思わず口に出したつぶやきに、読みながらとても共感してしまった。
優れた小説というのは、登場人物が自分の代わりに生きているような錯覚を覚えて、その人生を追体験出来るものだと思う。この「海市」という作品は、まさにそういう種類の小説だった。

2008年01月28日

護身術

千尋の紹介で、彼女が通っているという護身術のトレーニング場を見学させてもらった。イスラエルが発祥の護身術ということで、SWATやスペツナズも正式教科として取り入れているという、まるで「ゴルゴ13」みたいな世界だった。

地下のトレーニングルームは、40畳ほどの畳敷きの広間で、前面が鏡張りになっている。見学したのは「レベル3」と「レベル2」のクラスで、ピストルを背中につきつけられた時の対応の仕方について、モデルガンを使って実習をおこなっていた。
日本でそんな事態に遭遇することがある時はよっぽどだと思うのだけど、もしそうなった時には、確かにこれは知っておくと役に立つ技術だろう。
クラスはレベル1から始まって5まであり、レベル5になると、自分の身を護るだけでなく、同行している人の身を警護する技術に発展するらしい。

待合室でベンチに座っている時、隣りにいた実習生同士の会話で
「この前貸した防弾チョッキどうでした?」
「あー、あれ意外に重いんだね。あれなら至近距離から撃たれても大丈夫って気がしたよ」
というやりとりが聞こえてきて、一体この人たちは何者?という謎が残った。

2008年01月27日

死刑

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死刑(森達也/朝日出版社)

死刑という制度へのスタンスについては、反対派と存置派の2通りのポジションがあるけれども、日本では現在、8割が存置派でマジョリティを占めている。
しかし、世界の趨勢としては、死刑は廃止の流れにある。先進国で死刑があるのは、日本とアメリカのたった2国だけだ。
この本は、スタート地点としてはどちらの立場に立つこともなく、公平で客観的な視点から、多くの関係者に話しを聞く、というポリシーで組み上げられたドキュメンタリーだ。

いのちの食べ方」を読んだ時も思ったけれど、世の中には、知っている気になっていても、実際にはその本質をまったく何も知ってはいない、ということがある。
死刑については、世のほとんどの人がその実態を知らない。大きな事件が起こった後、その犯人が死刑判決を受けたということをニュースで知ることはあっても、その後、その犯人がどうなっているかや、どのように処刑がされているかということを知っている人は誰もいない。
処刑の場に立ち会うのは、刑務官と教誨師のほか数人のみで、それ以外は、記者やマスメディアはもちろん、遺族も決して立ち会うことは出来ない。処刑された日にちや被告の名前すら、一般に公開はされない。
いわば死刑というのは、公然の暗部になっていて、入口の部分だけはわかっても、それ以降は完全に闇の中に隠されている制度なのだ。そのようなテーマをドキュメンタリーとしてまとめるにあたって、この、森達也さんほどふさわしい人は他にいないだろうと思う。

この本は、死刑制度について考える上で、様々な角度から、充分な材料を与えてくれる。ありがたいと思う。後は、それを踏まえて、自分がどのスタンスを選ぶのか、ということだ。
死刑の是非は解がない問いでもあるし、一人一人の価値観も考え方もまちまちなので、とても難しい問題だし、完全に妥当な結論はこの先も出ないだろうと思う。
しかし、たとえ結論は出ないにしても、死刑についての現状や、遺族や被告からの意見を知った上で「自分は果たしてどう思うのか」ということは考えておくべきなのだと思った。


【名言】
世の中には多くのことがある。多くのことが起きる。本を書くうえでも様々なテーマがある。勇気に感動、涙に慈愛、恋に革命、そんなテーマを選ぶことだってできる。何もよりによって死刑制度を題材に選ぶことはないじゃないかと我ながら思う。でも仕方ない。僕は気づいている。ここにはきっと何らかの本質がある。とてもしぶとくて重い本質だ。気づいてしまったからには、もう目を逸らすことはできない。いや、目を逸らすことはできたとしても、視界の端にそれはある。たぶん二度と消えることはない。ならば方法はひとつ。直視することだ。深淵を覗くとき、その深淵もまた、こちらを覗いているとニーチェは言った。たぶん僕は覗かれているのだろう。その実感はある。(p.10)

拘置所にいる確定死刑囚は、箱の蓋を開ける前のシュレディンガーの猫そのものだ。第三者からすれば、生きているか死んでいるかわからない。あるいは生きているか死んでいるかに意味がない。だから人はいつのまにか目を逸らす。こうして死刑は不可視の領域に置かれる。誰も触れない。誰も見えない。(p.43)

「とにかく徹底した秘密主義です。なんて言うのかな、分業システムも含めて、人が死ぬというリアルさが希薄になるような装置です。その意味では、うまく出来ているなあという感想を持ちましたね。」(p.98)

「よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ。」(p.297)

2008年01月26日

死海の水

死海の水の塩分が濃いのは、湖に塩水がどんどん入ってくる一方で、そのあと大量の水が蒸発するというサイクルが繰り返されているからだ。

物事の密度を濃くするには、そういう流れが必要なのだと思う。
多くのことを取り込む一方で、多くのことを蒸発させて放出していくという流れ。
そのサイクルの中で残り続けたわずかなものだけが、本当に重要な要素なのだろう。

2008年01月25日

コンタクト


コンタクト

この映画が問うているのは、人が、もし自分たちの文明をはるかに超えた生命体に出遭った時に、それを理解する助けになるものは科学か、それとも宗教か、という命題なのだと思った。
この映画では、地球外生物に接する地球人のモデルとして、非常に強い探究心を持ったエリーという人物を提示した。主人公のエリーは、生粋の科学者でありながら、哲学的な自己批判の精神をも持ち合わせている。
特定の宗教を無条件に信頼することもなく、かといって、科学で証明出来ることの限界を知らないわけでもない。だからこそ、彼女は地球外生物とのコンタクトから大きな気づきを得ることが出来た。
人類がかつて遭遇したことのない事態に直面した時、必要になるのは、これまで自分が持っている常識を壊しながら、いかにして新しい枠組みを論理的に構築出来るかという知性なのだと思う。

設計図を入手したというだけで、技術的なことはわからなくても何故か星間移動の宇宙船が作れてしまうという、非現実的なところもあるけれども、それは話しの展開上しかたないところだろう。
SF映画というよりは、文学小説のような映画で、根源的な問いを観る者に投げかけてくる作品だった。

「コンタクト」(1996年)
出演:ジョディ・フォスター
監督:ロバート・ゼメキス

2008年01月24日

レイトン教授と不思議な町

レイトン教授と不思議な町(特典無し)
レイトン教授と不思議な町

様々な謎解きをしながら物語を進めていく、ちょっと変わったタイプのアドベンチャーゲーム。音楽やグラフィックが、かなりセンスがいい。
物語そのものも細部までとても丁寧に作りこまれていて、さすがレベルファイブはいい仕事をする、と感心した。
最後に遊んでからしばらく日にちが経った後にやり直しても、それまでのあらすじがいつでもわかるようになっていたり、次に何をすればいいかアドバイスをくれたり、行き詰って途中でやる気をなくす原因となるような要素をとことん排除しているところも、細かい心配りだ。
ナゾは、終盤がかなり難しくなるものの、ほとんどの問題はヒントを見たり、じっくり考えれば解けるようになっているので、時間をかければ誰でもクリアまでたどりつけるゲームバランスになっている。
(最後の最後に出てくるナゾ、「究極の脱出パズル」はハンパなく難しかった。)
Wi-Fi通信でダウンロード出来るナゾも含めると、かなり多くの問題が入っているので、相当長く楽しめる、お買い得な1本だと思う。

「レイトン教授と不思議な町」
プラットフォーム:NintendoDS
開発:株式会社レベルファイブ

2008年01月23日

死の島

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死の島 上下巻(福永武彦/新潮社)

この小説は、非常に複雑な構成をしている。
物語の中に別の物語があり、更にその中にも複数の物語が入り込んでいるという重層構造になっている上に、特定の人物の主観描写と、ナレーションとしての客観描写が交互に入り乱れている。
それに加えて、全ての章が時系列を無視したランダムな配列になっているという、これ以上ないぐらいの、ややこしい構造になっている小説だった。
そのため、読み進めるにあたって、かなりの集中が必要になったけれど、それを通り過ぎた先には、予想をはるかに超える展開が待ちかまえていた。

人が過去の記憶をたどる時には、必ずしもその時系列順に並んでリニアにイメージが浮かぶわけではなく、思考の流れにしたがって、イメージはあちこちに逍遥する。この小説は、人の主観的な記憶に極めて近い形で構成された、挑戦的な作品だといえる。
「死の島」が発表されたのは1971年。その時代を考え合わせれば、ゆき過ぎなくらいに前衛をゆく小説であっただろうと思う。著者は明らかに、小説としての枠を超えて、小説以上のものを表現しようとしてこの作品を構想したはずだ。この緻密な構成を用意した理由がわかった時には、よく練られた推理小説の謎解きを読んだ時以上の衝撃があった。

この本は、友人のご母堂である和子さんの蔵書からお借りしたもので、残念なことに、現在は絶版になっていて、古書としてしか入手が出来ない。時の経過とともに、こうして失われていく名著があるというのは、惜しい気持ちがする。


【名言】
僕等のように原爆を体験した人間が、何かを信じるということが出来るものだろうか。僕は被爆者がキリスト教を信じたり、仏教を信じたり、世界の平和共存を信じたりしているのが不思議でならない。あれだけの不条理を押しつけられて、今さら何かを信じられるなんて変じゃないか。僕等はみんな内部的に壊れて行きつつある。信じるものがなければ壊れていくのは当たり前だ。(上巻p.339)

相馬さん、あなたは臆病な、卑怯な、馬鹿な男だ。あなたは愚にもつかない議論と、目移りばかりしている教養と、小説を書こうなどというつまらない野心とのために、わたしが何を求めているのかを見抜くことが出来なかった。あなたのような馬鹿な人に、どうして愛が分かろう。いな、愛がないということが、どうしてあなたに分かろう。そんなものはありはしない。ただこうして、一つの身体を抱きしめ、隠された肌を探り、その冷たさを解きほぐす行為の中にだけ、愛のようなものがある。それなのにあなたは、それなのにあなたは・・。(上巻p.348)

分からないでしょうね。わたしの眼にはここにいる人たちがみんな骸骨に見えるのよ。比喩じゃなくて、本当に。ここに勤め出してから時々そういうことがある。音楽に合わせて骸骨が踊っている。死の舞踏ってのがあるけど、わたしは何もそんなロマンチックなことを言っているのじゃない。正真正銘にそう見えてしまって、いくら眼をこすってもその幻覚が消えない。きっと幻覚じゃないのね。それがわたしの見る現実なのね。(下巻p.155)

そうよ、相馬さんが現れたわ、とてもいい人、立派な人、あたしの愛した人と較べたら百倍もいい人よ。でもね、それは違うのね、あたしの愛した人がどんなにつまらない人間でも、あたしはその人を選んであたしの魂をすっかりその人でいっぱいにしたんだから、今さら魂が空っぽになったからといって、他の人でそれを埋めることは出来ないわ、そうでしょう。(下巻p.395)

2008年01月22日

ムダの末

時間術の本で、どうしたら効率的に読書が出来るかということについて、「いい本を読む時間を作るには、ムダな本を読まないことです。」と説明をしている本があった。
ものすごくナンセンスなことを言っていると思った。
まず、ムダな本かどうかは読んでみないとわからないということがあるし、それがムダな本だったとしても、ムダな本を読んだからこそ、良い本の本当の良さがわかる、ということもある。
後から振り返れば9割5分くらいはムダな本かも知れないけれど、それでも無数のムダの積み重ねの末にしか、いい本にはめぐり合えないのだと、自分は思う。

(この、ナンセンスなことを言っていると思う本から、こうして一つの気づきが生まれたので、この本は結果的にはムダではなかった)

2008年01月21日

ボーイズ・オン・ザ・ラン

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ボーイズ・オン・ザ・ラン 8 (8) (ビッグコミックス)
ボーイズ・オン・ザ・ラン(花沢健吾/小学館)

※2008年1月現在、8巻まで発売中

読んでいてここまで激しく続きが気になるマンガは、久しくなかった。
主人公が一喜一憂して天国と地獄を行ったりきたりしながら、一歩先がまったく読めないジェットコースターのような展開が続く。

話しの流れとしてはかなり荒唐無稽なのだけれど、ところどころで、妙にリアルだ。特に現実味があるのがヒロインのちはるという子で、こういう思わせぶりな態度取ったり、こういうこと言う人いるよなあ、と思わせるシーンが随所にある。

絵がクセがあって、それが最初とっつきにくいものの、読んでいるうちにそれも一つの味だと感じられるようになってきた。
物語のベースになっているのは、ダメな主人公が困難を乗り越えていくという典型的なビルドゥングスロマンなのだけれど、ここまで様々な試練が起こると、心の中で応援せずにはいられない。
最新の8巻がまだ出たばかりなので、続きがとても待ち遠しい。

2008年01月20日

言葉と行動

言葉と行動では、行動こそがその人の真意を示すものだと、少し前まで思っていた。
言葉では何とでも言えるけれども、行動は嘘をつかない、と。

その考えが、最近ちょっと変わったきた。
言葉は何とでも言えるものではない。あらかじめ用意された言葉を読み上げるのでない限りは。
逆に、行動では短期的には自分の意思に反することを行うことが出来たとしても、言葉というのは、その言葉を発した人の内部と密接につながっているから、まったく思っていないことや、その人の中に存在しない考えは、決して口からは出てこないのだと思えてきた。

ふとした言葉や、口グセの中には、その人の思考や価値観がよく表れる。だから、どういう言葉を無意識のうちに発しているかということは、とても重要なことだ。
自分が普段どういう言葉を口にしているかを客観的に意識すると、それは自分の考え方を知る上で、かなり大きな手がかりになるだろうと思う。

2008年01月19日

「朝30分」を続けなさい

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「朝30分」を続けなさい(古市幸雄/アスコム)

言っていることは「とにかく毎日、継続しなさい」ということで、その点、前著の「1日30分を続けなさい」とほとんど変わっていないばかりか、グレードダウンしている。付け加わったポイントは、「朝のほうが効率がいいから、朝やりなさい」ということなのだけれど、そのことの説得力がない。
何故継続したほうがいいのか、何故朝のほうがいいのか、ということについての筋の通った説明はなく、「成功している人はみんなそうしているから」という語り口だった。
「当たり前のことをバカにする人は成功しない」ということで、自著で当たり前のことを書いていることをむしろ当然というように、誇らしげに語っているのだけれど、それにしても、この本の内容では中身が薄い気がしてしまう。
勉強や仕事は朝型がいい、というのは常識のようにして語りつくされていることだけれども、いまだに、心底から納得させられるだけの説得力のある説明には出会っていない。この本を読んでも、まったく心に響くところがなく、残念だった。
ただ、この著者が、勉強において質よりも量を絶対的に重視していることは、とても共感できた点だった。

【名言】
「子どもといい関係を築くために大切なのは、子どもとの時間の質ではなく、時間の絶対量だ」という意味のことを世界的ベストセラー『7つの習慣』の著者スティーブン・R・コヴィー博士は言っています。ですから、高価な外食や旅行などの子どもとの時間の質を追及するのではなく、子どもとの時間の量を確保するように努めています。勉強と同じのようで、やはり大切なのは質よりも量。(p.151)

2008年01月18日

国境の南、太陽の西

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国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
国境の南、太陽の西(村上春樹/講談社)

この本を読んだのは、10代に読んだ時以来、2度目のことになる。
その当時に感じたことと、今感じることが大きく違うことに驚いた。
昔はまったくわからなかったことのうち、今では共感とともに、とてもよくわかることがあった。
それもそのはずで、この話しは、「失われてしまった時間」についての話しだから、貴重な時間の真っ最中にいるうちには、失われた時間のことについてなど理解が出来るはずがないのだ。
でも、その逆に、昔は気づいていたのに、今はまったく気づくことが出来ない事柄も、中にはあるんだろうと思う。読むときによって、本が変わっているのではなく、自分自身が変わっている。きっと、しかるべきタイミングで、しかるべき本に出会うように、上手く出来ているんだろう。
この本は、もし、ずっと後になってもう一度読み返したら、きっとその時にしかわからないことに気づかせてくれるテーマを含んでいるんじゃないかと思う。
ずっと後になってからもう一度読むことがあるかどうかわからないけれど、その時に一体、この作品のどの部分にひっかかりを感じるか、それが楽しみだ。


【名言】
そのときの彼女の手の感触を僕は今でもはっきりと覚えている。それは僕が知っている他のいかなるものの感触とも違っていた。そして僕がそのあとに知ったいかなるものの感触とも違っていた。それは十二歳の少女のただの小さくて温かい手だった。でもその五本の指と手のひらの中には、そのときの僕が知りたかったものごとや、知らなくてはならなかったものごとがまるでサンプル・ケースみたいに全部ぎっしりと詰め込まれていた。彼女は手を取りあうことによって僕にそれを知らせてくれたのだ。そのような場所がこの現実の世界にちゃんと存在することを。(p.20)

もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く、僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く、傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。(p.55)

僕はBMWのハンドルを握ってシューベルトの「冬の旅」を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだった。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。ハンドルを握っている僕の手の、いったいどこまでが本当の僕の手なんだろう。このまわりの風景のいったいどこまでが本当の現実の風景なんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。(p.80)

なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの「砂漠は生きている」っていう映画見たことあるだろう?あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ。(p.89)

僕は読んでいた本から顔をあげて、よくわけのわからないまま彼女を見た。でもそのとき何かが僕を打つのが感じられた。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がした。僕は吸引力のことを考えた。これはあの吸引力なのだろうか?(p.94)

まずまずの素晴らしいものを求めて何かにのめり込む人間はいない。九の外れがあっても、一の至高体験を求めて人間は何かに向かっていくんだ。そしてそれが世界を動かしていくんだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う。(p.118)

その写真は僕の胸を痛くさせた。その写真を見ていると、僕は自分がこれまでにどれほど多くの時間を失ってしまったのかを実感することができた。それはもう二度と戻ってくることのない貴重な時間だった。それはそのときのその場所にしか存在しなかった時間だった。僕は長いあいだじっとその写真を見つめていた。(p.159)

あのときに、彼女は本当に僕のことを求めていた。彼女の心は僕のために開かれていた。でも僕はそこで踏みとどまったのだ。この月の表面のようながらんとした、生命のない世界に踏みとどまったのだ。やがて島本さんは去っていき、僕の人生はもう一度失われてしまった。(p.170)

2008年01月17日

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怖い映画だけれど、ホラー映画と違うのは、何か得体の知れない怪物が襲ってくるわけではなく、「集団」による心理的な恐ろしさを表現しているところだ。カモメやスズメのような、一羽一羽は何の危険性もないような鳥でも、それが何百羽も集まると、人間にとって充分な脅威になる。
無数の鳥が静かに集まってくる場面や、人間を攻撃する場面の映像の迫力がとにかくスゴい。今ならCGでいとも簡単に表現出来る映像だろうけれども、やはりホンモノの鳥を使った臨場感には、どれだけ精巧なCGを駆使しても敵わないものがあると思わせる。
当時、ヒッチコックには「サイコ」のヒットという実績があったために、これほど前衛的な映画を撮る予算や環境を得ることが出来たのだろうけれど、そうでもなければ、こんな映画は撮ることが出来なかっただろう。
この物語の終わり方には、結構意表をつかれた。そういう終わり方をするのか?とびっくりした。
いったい、この作品の中の「鳥」とは何を象徴したものだったのか。その点は、かなり観客の想像にゆだねられる構成になっているけれども、一つには群集というものの恐ろしさ、そしてもう一つにはやはり、人間がないがしろにした自然からの逆襲、というのが大きなテーマになっているのだろうと思う。

「鳥」(1963年)
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ロッド・テイラー、ジェシカ・ダンディ

2008年01月16日

earth

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「ディープブルー」のスタッフが総力を結集して作った、巨大スケールのドキュメンタリー映画。
「ディープブルー」は「海」を舞台にしていたけれども、今回は、「地球」全体を、北極から南極に向かって旅する形でストーリーが展開してゆく。
やはり、とにかく、映像がスゴい。無数の渡り鳥が空を飛ぶところなど、CGと見まがうばかりの数の多さで、その、現実をとことんリアルに映すことによって究極の幻想的風景を作り出すという手法には「ディープブルー」と共通する美学がある。

この作品を見て思ったのは、地球という惑星の、その奇跡的なまでのバランスの見事さだった。
昼と夜の割合、酸素と二酸化炭素の割合、針葉樹林と砂漠の割合、公転面に対する地軸の傾きの割合、そのすべてが、たったわずかでもズレれば今のような多様な生物が生まれることはあり得なかった。
生物同士の関係でも、その絶妙なバランスに感心させられるところがいくつもある。
狼がトナカイを追うシーンがあるのだけれど、その二匹の走るスピードは見事に拮抗している。種類も、体の構造も違う動物同士であるにもかかわらず、逃げる側と追う側の差が、まったく縮まらない。トナカイが、石につまずくような失敗をしなければ逃げ切れるが、たったわずかでもミスをすると、その途端に狼に捕まってしまう。
象とライオンの関係というのも面白い。どちらも強い動物なので、昼間は同じ水場を共有して、お互いに争うことがない。しかし、夜になると、目が見えない象に対して、ライオンは完璧に夜目が利くため、力の均衡が崩れて、ライオンが巧みに集団で子供を狙えば象を狩ることも可能になる。
誰が作ったのかわからないけれども、どれも、とんでもなく精巧に出来た真剣勝負だ。

自分が目にすることがないだけで、今この瞬間にも、地球では数え切れないほどたくさんの生き物が、想像を絶する光景を繰り広げているのだということを感じた。
地球温暖化の防止ということを根底のテーマとしているらしいのだけれど、その点はあまりピンとこなかった。逆に、人間の営みによる温暖化などものともせず、その環境の変化に合わせて適応を続ける力を、地球と、地球上の生物は持っているのだと思わせる作品だった。

【earthホームページ】
http://earth.gyao.jp/
2008年1月12日から、各地の映画館で上映中。
この映画は、字幕版と吹替版があるのだけれど、吹替版のほうをお勧めしたい。
渡辺謙のナレーションが素晴らしかったことと、文字を読むよりも声で話しを聞いたほうが、映像の世界に深く入り込めるからだ。

2008年01月15日

求めているものは物語か言葉か

本を読む人には2種類いて、物語を求めている人と、言葉を求めている人とがいる。
それが小説であっても、数学や哲学の本であっても、見る人によってはそこに物語を見い出すし、別の人は言葉を見つけることもある。

物語からの視点というのは、極論をすればそれが何語で書かれていても通じるものがあるということだ。
言葉からの視点では、物語性がなかったとしても、意味を為す言葉が含まれていれば、そこに価値がある。
この2つの視点はまったく別個のもので、その視点の違いによって、同じ本でも見え方はまったく変わってくる。

2008年01月14日

神の神経学

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(村本治/新生出版)

「神」は人間の脳が作り出したものだと考えて、脳の機能から、宗教の成り立ちを考えた本。
瀬名秀明氏の「BRAIN VALLEY」は、まさにこの、「脳によって作り出される神」をテーマにした小説だったけれども、それをより詳細に、医学的に検討をおこなった内容になっている。
アルツハイマーの患者の人は、症状が進むと、自分と自分以外との区別がつかなくなってしまうという。それは病気の症状ではあるのだけれども、宗教的な見地からすると、その状態というのは「無我」や「空」の境地と同じような状態になる。

宗教の熱心な信者には、必ず何らかの、個人的な宗教体験がともなう。
幻覚を見たり、神の声が聞こえたりした時には、それが一種の啓示のように思えるけれども、それは単に脳の一部が変性していたり、機能していないというだけのことなのかもしれない。
てんかん症状を持つ人が「神がかり」的な言動をおこったという記録は昔から多く、それは、脳の中でてんかんをひき起こす部位と、神を感じる部位が一致しているからであるという。

神を脳の機能が作り出したものと考える、かなり実もフタもない分析の仕方なので、たとえば純粋なキリスト教信者からすれば、冒涜とも見えるだろう。そのため著者は、慎重に、脳機能から宗教を考えることは、宗教を否定することではなく、一つ先の段階に進めるためのことなのだと説明をしている。
確かに、それまでの文化をくつがえすような大きな宗教の発生は、この2000年以上の間起こっていない出来事なので、科学的な見地から世界観を揺るがす大発見があれば、そこから新たな宗教が生まれる可能性は十分にあると思う。

【名言】
宗教固有の完成を伴った体験こそは、歴史上一環して宗教の根底にある、本質的なものと考えられる。もちろん宗教はこの根本的基盤から発達して、様々な側面を持つ人間の社会活動となっている。しかし、その起源を理解し、その本質とメカニズムを理解するには、この宗教固有の体験を理解することが不可欠なのである。このような体験を基盤に持たない限り、宗教団体は結局、本質的には政党や組合と同じく、観念や理念と行動目標を共有する単なる人間の集まりに過ぎなくなるであろう。こうした人間の集団活動と宗教とを本質的に分けるのは、この基盤にある超自然的な宗教体験ということができるであろう。(p.79)

ドイツの精神医学者で哲学者でもあったカール・ヤスパースはその著書「歴史の起源と目標」の中で紀元前800年から紀元前200年前後を「軸の時代」と呼び、世界の大宗教の基礎がこの時代に各地で成立したことに注目している。何故このような時代が世界の各地で一斉に出てきたのか。これを最も合理的に説明できるのが、脳の進化に伴う必要な神経回路の発達であろう。人類の脳がこの「軸の時代」と呼ばれる頃に、世界的に一定の認知機能にまで発達したために、ギリシャ、エジプト、イスラエル、メソポタミア、インド、中国などで、一斉に宗教や哲学が成熟した体系を整えることが出来たのであろう。(p.157)

日本の代表的哲学者、西田幾多郎は宗教の起源を、人が根本的に持つ「我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の生命を得んと欲するの要求」のあらわれとしている。(p.175)

一般に現代人が宗教より科学に惹かれる傾向があることは、二十世紀の目まぐるしい科学の発達の中ですでに経験されている。しかし、宗教が科学で説明された後に道徳的退廃の世の中が来ると恐れるのは、根拠のない恐怖にすぎないと私は考える。宗教が科学によって完全に説明された時、われわれは改めて宗教がなぜ人間の進化と共に存在し、宗教の何が人間にとって必要なものなのかを明らかにするであろう。その時、「内なる神」は「外なる神」の支配から脱出できるだろう。その時、宗教と道徳は荒廃するのでなく、逆に新たな、より人間を中心とした宗教と倫理が提示されるであろう。(p.245)

2008年01月13日

金底の歩

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将棋で、「金底の歩、岩より固し」という格言がある。
金の下に歩がある形は、シンプルではあるけれども攻守のバランスが取れていて、非常に優れた陣形なのだ。

パン屋の「サンジェルマン」のレジ横で、お金を置くトレイの下にセロハンテープが設置されているのを見た。トレイを使う時の動きは上方向に限定されるのに対し、セロハンテープを使う時の動きは手前方向に限定される。
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この2つのセットは、空間を上手く利用しながら、どちらも互いの機能を妨げることのない形になっている。こういう、シンプルで、かつ機能的な組み合わせは美しい。

2008年01月12日

漫画手

自由亭カップで、紘一がギャグみたいなとんでもない手をあがった。

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門前清自摸和
海底
清一色
断ヤオ
平和
二盃口
ドラ5

全部で18飜の数え役満。しかも、親。
その時に同じ卓だったオレと多苗とセリは、不運としかいいようがない。こんな、マンガみたいな手、初めて見た。

2008年01月11日

神話の力

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神話の力(ジョーゼフ・キャンベル/早川書房)

神話には、人生を豊かにするための叡智が散りばめられているのだということを、この本から学んだ。
神話というのは、娯楽のためにあるものではなく、人間の成長にとって、とても重要なことを隠喩(メタファー)の形で伝えるために存在しているのだと、著者のジョーゼフ・キャンベルは語っている。
たとえ民族や時代が異なっても、あらゆる神話には、多くの共通点が見られるという。それは人類が共通して持つ、根源的な部分に訴えかけるものだからなのだろう。
今の現代生活では、昔の時代に比べると、神話に接する機会はかなり少なくなっている。ニュースや新聞で、世界で起こっている最新の出来事については、詳しくその情報を入手出来るようになっているけれども、その代わりに、代々受け継がれてきたような人類の英知に接する時間は少なくなってしまっているということだ。

神話は、人間の成長にとって本質的に必要不可欠なものなので、人は無意識のうちに、何らかの物語を探そうとする。栗本薫氏は、「わが心のフラッシュマン」の中で、人間には誰にでも物語欲がある、と言っていたけれども、それは人が生きていくための本能のようなものなのだと思う。
今ではすっかり姿を消してしまったけれど、人が集まる所にはどこでも、子供から大人になるための通過儀礼(イニシエーション)が社会の中の仕組みとして用意されていた。いまや、日本の成人式などを見ても、それはほんの形式的なものになっているけれども、本来、そういう儀礼をおこなうというのは、子供から大人への変化を意識的に区別して、きちんと成人するために必要なものだったのだ。
今、学校でいじめがあったり、部活や暴走族の中に厳密な上下関係や掟があったりするのも、昔からあったイニシエーションの代わりの機能として、必然的に生み出されたものなのかも知れないという気がする。
そして、そういうイニシエーションへの予習をおこなうために、神話というものがあったのだけれども、現代では、優れた小説や映画が、神話の代わりを果たしているだろうと思う。「スターウォーズ」が、旅立ち→試練→帰還、という神話の基本構造に忠実に作られているというのはよく知られた話しだけれども、優れた小説や映画にはやはりどれにも、神話と共通する物語性がある。
日々の新聞を読むことよりも優先して、まず、神話というものをきちんと知ろうと思った。

【名言】
現代の問題のひとつは、人々が精神ないし霊魂について書いたものにあまりよく通じてないことです。私たちはきょうのニュースに、いまこの時間の問題に興味を持ちます。私たちが年をとり、目先の諸問題は全部だれかが引き受けてくれるというので、ようやく内面生活に目を向けようとするその時、内なる生はどこにあるのか、どんなものか、わからないとすればみじめでしょうね。(p.30)

語られざる神話、と言っていいかもしれません。フォークとナイフはこんな具合に使う、人々にはこんなふうに対応する、などといったことは、全部本に書いてあるわけじゃありません。ところが、アメリカには非常に多様な背景を持った人々がいて、それがひとつの群れをなして一緒に暮らしている。だからこの国では法律がきわめて重要なものになっているのです。そこにエトスはありません。(p.40)

意識をなにか頭特有のものと考える、頭脳が意識を生む器官であるかのように考えるのはデカルト的思考の一部ですが、それは事実に反します。私はなぜか、意識とエネルギーは同じものだと感じています。ほんとうに生命エネルギーのあるところには意識がある。植物の世界には確実に意識があります。ある種の食べ物を摂取すると、胆汁はそこに自分の働き場所があるかどうかを知る。そうした作用のすべてが意識です。(p.50)

現代は境界線がありません。今日価値を持つ唯一の神話は地球というこの惑星の神話ですが、私たちはまだそういう神話を持っていない。私の知るかぎり、全地球的神話にいちばん近いのは仏教でして、これは、万物には仏性があると見ています。重要な唯一の問題はそれを認識することです。まず行動を、というのでは決してありません。大事なのはただ、在るものを在るがままに知ること。(p.63)

神話が負っている主要な課題のひとつは、あらゆる生の冷酷な前提条件と知性とに折り合いをつけることです。生きとし生けるものはすべて他の生命を殺して食べなければならない、という冷厳な事実がありますね。私は野菜だけしか食べないといって自分をごまかしてはいけません。野菜だって生き物なのです。だから、生命の基本は生命そのものを食べているというこの事実です。生命は生き物を食うことによって成り立つ。そして、人間の知性や感性をそういう根本的な事実と和解させることは、主として殺戮からなる非常に野蛮な儀式の機能の一つです。知性を生存の条件と和解させることは、あらゆる創造神話にとって基本的な不可欠なことです。どれもその点ではよく似ています。(p.93)

創造的な本を書く人ならば、自分の心を開いて受け身になると、本が自分に語って、それ自身を作っていくことを知っています。ある程度まで自分は、ミューズと呼ばれてきたものから、あるいは聖書の言葉を借りれば「神」から、与えられたものを運ぶ役を果たしているのです(p.117)

クモが美しい巣を作るとき、その美はクモの本性から来ています。それは本能的な美です。私たち自身の生活の美は、生きていること自体の美しさにどの程度かかわっているのだろうか。それはどの程度まで意識的、意図的なんだろう。これは大きな問題です。(p.153)

他者の危機あるいは苦痛を目前にしたとき、人間が即座に、すべてを忘れて、その人のために自分の命を投げ出すことができるのはなぜだろう。ショーペンハウエルの答えはこうです。このような心理的危機は、ある形而上学的な認識、すなわち、私と他者とは一体である、私と他者とはひとつの生命の二つの外見であって、別々に見えるのは、空間と時間の条件下でしか形を経験できないという知能の限界の反映に過ぎない、という認識が飛び出してきた結果なのだ。(p.202)

英雄は指導者とはどう違うか、というのはトルストイが「戦争と平和」のなかで扱った問題です。ヨーロッパを荒らしまわり、いまやロシアに侵入しようとしているナポレオンがいる。そこでトルストイは疑問を提出します。ナポレオンは真の指導者なのか、それとも、単にひとつの波に乗った男にすぎないのか。心理学の立場から言えば、指導者とは、何を成し遂げられるかを見抜いて、それを実行した人間と言えるかもしれません。(p.224)

科学と神話とは矛盾しません。科学はいまや神秘の次元に突入しています。みずからを押し進めて、神話が語る世界に入り込んだのです。科学は剣の刃のような、ぎりぎりの縁まできている。(p.235)

神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にはできない。だから一歩手前なんです。(p.292)

家庭生活の中では、たとえ本人どうしが決めたのではない結婚の場合でも、夫婦のあいだに愛情が芽生えるという事実を認めなくてはならない。言い換えれば、この種のアレンジされた結婚にも愛はいっぱいあるということです。家族愛というものがある。そのレベルでは豊かな愛がある。しかし、その場合にはもう一つのものは得られない。自分の魂の片割れが相手のなかにあるのを認めた結果生まれてくる強烈な感情。吟遊詩人たちはまさしくそれを守るために立ち上がり、それが今日の私たちの理想になったのです。(p.352)

愛は道徳を破ります。愛が自己表現をするからには、社会的に認められた生活習慣に合わせた表現をするわけがない。だからこそ、愛の表現はすべて深い秘密なのです。愛は社会秩序とは無関係です。それは社会的に整えられた結婚の経験よりも、崇高な精神的経験です。(p.357)

言葉はいつも限定であり、制約です。しがない私たち人間に残されているのは、このみじめったらしい言語だけです。それは美しいけれども不十分なものだから、なにかを表現しようと思っても・・。(p.402)

2008年01月10日

意識されない情報

においを感じるのは、においを発している物体から飛んでくる粒子が、鼻の嗅覚細胞に反応するからであるという。
においを感じないから、その物体からは何も飛んでいないということではなく、「あらゆる物から粒子は飛んでいるのだけれども、その中に嗅覚細胞に反応する粒子としない粒子がある」ということだ。

そう考えると、たまたまにおいを感知しない粒子が大半であるというだけで、普段、自分の近くにいるあらゆる物体や生き物から飛んでいる粒子は、自分の体内に取り込まれていることになる。
だから、においという形で感知されなくても、脳の中では、その粒子から、何かの情報を受け取っている可能性は十分にある。
予感とか第一印象とかが割りと正確に当たるのは、そういう形で無意識のうちに受け取った情報がベースにあるからなのかも知れない。

2008年01月09日

誰も知らない世界と日本のまちがい

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誰も知らない世界と日本のまちがい(松岡正剛/春秋社)

勉強というのは、クロスワードパズルと似ていて、最初は空白のところから始まる。全体像を知る手がかりが初めはほとんどないので、一つ一つ、単純にマスを埋めていくことが最初になる。
面白くなってくるのは、ある程度のマスが埋まってきてからだ。ある時点から先は、既に埋まっているマスとの関連を確認しながら、今までわからなかった部分も、ちらばったキーワードで補完することによって二次元的な縦横のつながりが生まれて、全体像がわかるようになってくる。
学生時代の勉強というのは、白紙のパズルから始めてキーワードを書き込んでいくような作業だった。
それに対して、社会人になってからの勉強は、既にあるキーワードを元にして、縦横のつながりを作っていく作業だ。面白さという点では、格段にこちらのほうが面白い。

この、「誰も知らない世界と日本のまちがい」という本は、歴史を地域別の単純な時系列であらわした教科書的な説明とは違い、歴史という立体的なものをさまざまな角度から組み合わせて、切り取って、見せてくれている。
歴史というのはこれほど面白いものなのかと思わせる、新しい気づきに満ちた表現の仕方になっている。これだけの編集作業というのは、著者の松岡さんぐらい博覧強記な人にしてはじめて可能なことなのだと思う。
この本は「17歳のための世界と日本の見方」という本の続編にあたり、前著が古代から中世の歴史をメインに扱っているのに対して、本著では近現代史を中心のテーマにしている。近現代の歴史は、様々な国や文化が複雑に絡みあっているので、この本でおこなわれている、時代ごとに横断的に歴史を見るというやり方は、特に効果的な方法だと思った。

【名言】
フランスが太陽の国だったら、イギリスは星の国です。実際にもルイ14世は「太陽王」を名のり、エリザベス女王は「星界の女王(アストレア)」を自称した。(p.57)

自然淘汰という原理をもちこんだことで、科学としては、ダーウィンの一人勝ちでした。その後も、遺伝子生物学が加速している今日にいたるまで、ダーウィニズムはつねに進化の原理を提供するものとして、一人勝ちを続行しています。ことに集団遺伝学で、繁殖する生物種集団のなかでの遺伝子頻度の変化をもって進化の定義とする見方には、ゆるぎないものがあります。(p.280)

仏教というのは、「縁起」と「空」とを前提にした人間観や社会観をもったものです。ブッダはその前提に「一切皆苦」という認識をおきました。このような仏教思想からは、必ずしも未来志向型の進歩主義一辺倒という展望や構想は出てきません。世間に対しても人生に対しても、どちらかといえば、深く醒めてみるという姿勢が尊重されます。ここから「無常」という感覚も出てきました。ここには「変化」を認めるものはありますが、その変化を必ずしも「進化」とはとらえていません。仏教に象徴される社会観や人間観は、私はこれからいっそう大事になっていくだろうと見ています。(p.291)

社会はつねに変化するものであって、そこには「道理」があると思うしかないということです。道理はロジックではありません。何がおころうとも、それが道理だと思う心が、道理なんです。(p.450)

2008年01月08日

自由が丘の本屋事情

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自由が丘には、主要な本屋が4軒ある。
格別に大きな本屋というのはないので、どの本屋も、小さいながらもそれぞれの特徴を出すことで棲み分けをしている気がする。一軒で全てをまかなえるような大きな本屋はないため、お互いに補完をしながら利用すると使い勝手がいい。

「青山ブックセンター」
マンガ本にカバーがかかっていないために、新刊の立ち読みが自由というのがすばらしい。洋書やインテリアなど、デザイン的な専門書の品揃えが充実している。ポイントカードを導入したり、雨の日の洋書値引きなど、新しい試みを積極的におこなっている。営業時間が23時までで、自由が丘でもっとも遅くまで開いている本屋。

「ブックファースト」
売れ筋の本をきっちりとわかりやすい場所に並べて、ランキングも頻繁に更新しているので、新しい情報が最も手に入りやすい本屋。マンガは、人気作品以外は最新刊のみしか置かず、コンピュータ関連の書籍も一切置かないという、結構極端な割り切り方をしている。地下にあるので携帯の電波が入りにくいため、待ち合わせには不便。営業時間22時まで。

「不二屋書店」
自由が丘駅の正面改札を出てすぐのところにある、とても立地がいい本屋。2階建ではあるけれど、かなり床面積は小さいので、通路が狭く、本を無理やり詰め込んでいる感じがある。品揃えは偏りがあり、マンガなどは、意外なものが全巻揃っていたりする。営業時間22時まで。

「ヴィレッジヴァンガード」
かなり選書の基準が特殊な上に、ほとんど品揃えが変化しない。店員の趣味でセレクトしているので、かなりレアな本が平積みされていたりする。他の本屋で見当たらない本を探しに行くのには最適な店。新刊もほんの少しだけ置いてあるけれど、新刊を買うなら他の店に行ったほうがいい。営業時間23時まで。

その他に、ピーコック4階と東急ストア4階にも小さな本屋あり。
古本屋としては、ブックオフ西村文生堂がある。

2008年01月07日

WindowsUpdate後の自動再起動を抑止する

WindowsUpdateで自動更新を有効にしていると、更新プログラムが自動インストールされた後、勝手に再起動がおこなわれてしまう。
後まわしにしようとして「後で再起動する」を選択しても、5分ほどするとまた、再起動のカウントダウンが始まってしまうので、何かの作業中で再起動したくない時にはとてもうっとうしい。
この、WindowsUpdate時の自動再起動の設定は、グループポリシーの設定から変更が出来るのだけれど、グループポリシーはコントロールパネルには含まれていないので、その存在があまり知られていない。
ここでは、グループポリシーを使った、WindowsXPでのWindowsUpdate後の自動再起動の停止手順を説明する。

1)[スタート]メニューの[ファイル名を指定して実行]で表示されるダイアログから「gpedit.msc」を実行して、グループ・ポリシー・エディタを起動する。
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2)エディタメニューの[コンピュータの構成]から、[管理用テンプレート]→[Windowsコンポーネント]→[Windows Update]とツリーを開く
3)右ペインの中から「スケジュールされた自動更新インストールに対しては自動再起動しない」を選択し、ダブルクリックする。
4)設定を「有効」にする。(初期値は「未構成」)

以上の設定で、自動更新がおこなわれた後に勝手に再起動がおこなわれることはなくなり、常に、指定をした時のみ再起動がおこなわれるようになる。

2008年01月06日

自分の所有物ではないもの

人間関係の衝突の多くは、他人を自分の所有物であると思い込んでしまうところから生まれているんじゃないかという気がする。
しかし、世のどの関係においても、誰かが誰かの所有物であることなどあり得ない。
子供は親の所有物ではないし、部下は上司の所有物ではないし、妻は夫の所有物ではない。
他人への執着は、一見すると、愛情と似た部分があるからわかりにくいけれども、それが「自分のものであると思うから」大切にするのか、「自分のものではないと知りながらも」大切にするのかで、その意味はまったく異なってくる。

実際のところは、他人ばかりか、自分自身すら、自分のものではない。
自分で自分を生みおとした人がいない以上、自分自身もまた徹頭徹尾、自分のものではないのだ。
自分のものではないのに、自分の所有物だと勘違いするから、適切な範囲を超えて支配を及ぼしたいという欲が起こってしまい、結局のところ、その欲が多くの争いを生み出してしまうのだろうと思う。

2008年01月05日

火宅か修羅か

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青年団の公演を観てきた。
青年団の舞台は、学生時代から、繰り返し観るたびに必ず新しい衝撃を感じる。
前衛的な部分はまったくない。
あまりにも自然で、それが演劇である感じがほとんどしないということ自体が前衛的と言えるのかもしれないけれども、派手な個性は何一つない。

青年団の舞台では、同時に複数の場所で会話が進行することが頻繁に起こる。
人間の脳には「カクテルパーティー効果」という仕組みがあり、自分から離れた場所の会話であっても、そこに集中をすればその部分の会話だけが聞こえるようになる。それと逆に、集中している会話以外の会話は、まったく意味を把握出来なくなる。
そういうわけで、観ている人が舞台のどのポイントに集中するかによって、舞台の内容自体が、人によってまったく異なってくる。
それは、日常生活ではよくあることではあるけれども、小説や映画の場合、視点をどこかに定めなくてはいけないし、同時にいくつもの会話が並行して進むということはあり得ないので、どこに意識を集中させるか、という観客の自由度は極めて制限されていることになる。

暗転や舞台装置の転換がまったくないことも、特徴の一つだ。
1時間半の公演では、きっちり、舞台の上でも1時間半の時間が経過する。
ある一つのパブリックスペース(今回の「火宅か修羅か」では旅館のロビー)の、特定の時間を切り出して、その場面を観客は透明人間として眺めているような構図になっている。
透明人間、というよりも、その場所に太古の昔から棲みついた精霊としての視点から物語を眺めている、と言ったほうが正確かもしれない。
人は、それぞれ自分の視点からしか人生を見ることが出来ないけれど、同じ場所に腰をすえて、そこで時間の経過と共に起こる出来事を眺めると、まったく違った景色が見えてくる。
例えば自分自身の性格というものは、常に主観的な視点から自分の人生を観じている自分自身からは一貫性があるように見えたとしても、実際には、シチュエーションや、周りにいる人との関係によって常に移り変わる。その、「シチュエーションや関係性によって移り変わる自分」というものを知るには、自分から完全に独立した客観的な観察者が必要だ。

そういう、人外の視点から、人の移ろいゆく様をありのままに見せることによって、本質をあぶりだすというのが、青年団の演出家である平田オリザさんの方法論なんだろうと思う。
この「火宅か修羅か」という話しは、ロールプレイングゲームのように作り手の意図した一本道をなぞっていく作品とはまったく対照的に、観た人と同じ数だけ、別々の物語が生まれる作品だ。

■「火宅か修羅か」
日程:2007年12月21日~2008年1月14日
場所:こまばアゴラ劇場(京王井の頭線「駒場東大前」駅徒歩3分)
http://www.seinendan.org/

2008年01月04日

Beau Temps

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学生時代からの友人の石井が、鎌倉の長谷にワインバーの店を出した。

就職活動の時に、「これだ!」と思える仕事にめぐりあわなかった彼は、惰性で就職をすることを潔しとせず、アルバイトをしながら、いくつもの紆余曲折を経て、ある時ワインの世界に触れて、開眼する。
もともと食への興味が深い男だったので、どんどんとその世界を掘り下げていき、語学やソムリエの資格を勉強したり、シチリアのワイナリーに働きに行ったり、それがワインに関係することであれば何でもやった。
シチリアから戻った後には、レストランのソムリエの仕事に就く。飲食業というのは体力的に過酷な仕事だ。週1回の休みで、朝から夜遅くまで働き続ける。興味に合った仕事ではあっても、長く続けるうちに、このまま消耗してしまうのではないかと思っていた。

そんな折、地元の鎌倉で自分の店をひらく機会が訪れた。細部に至るまでの美学と世界観を持つ彼には、オレは自分の店を出すというのは最もふさわしい選択だと思った。
店を、建物そのものから建てることにして、仕入れ先やメニューや内装など、すべてを彼が自分自身でプランニングをして、ようやく去年の終わりになって形になった。
そういう歴史があった末での、今回の店のオープンなので、オレは、この店が世に生まれたことが、とてもとても嬉しい。

■ボタン(Beau Temps)
鎌倉市長谷1-14-26
(江ノ電長谷駅から徒歩4分)
0467-40-6172

2008年01月03日

デス・スウィーパー

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デス・スウィーパー 1 (1) (KADOKAWA CHARGE COMICS)
デス・スウィーパー(きたがわ翔/角川書店)

※2007年12月現在、1巻まで発売中

スゴい連載が始まった、と思った。
スウィーパー(清掃人)というのは、死体のあった部屋を掃除する仕事で、この作品ではその現場をテーマにしている。病院ではなく自宅で死んでいるわけなので、その死にはたいがい、何らかの事情がある。死んでから発見までの間に長い時間が経過しているために、原型をとどめていないことも多い。
昔よく聞いた都市伝説で、「死体洗い」という高額なアルバイトが存在するという話しはあったけれど、この「デス・スウィーパー」という職業はそれを超える凄絶さだ。

この物語の中でも語られているように、日本では、死体というものが、不自然なくらいに社会の表舞台から隠蔽されている。雑誌やコマーシャルは、キレイなものばかりをアピールするので、死というものをイメージする機会は普段ほとんどない。しかし、毎日数多くの人が自殺や不審死で亡くなっていることを考えれば、気づかないところでそれらの死を隠密裏に処理している人が存在しているということは、間違いない事実だ。

スウィーパーである三輪の「諦めて覚悟しろ。生を受けた時から逃げ道なんてないんだ。お前も・・そしてもちろんオレにもだ。」という言葉は、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」の登場人物である、吉川こずえを思い出させた。
吉川こずえもやはり、川べりの湿地に棄てられた死体を見た後、「あたしはね、ザマアミロって思った。世の中みんなキレイぶってステキぶって楽しぶってるけどざけんじゃねえよって。ざけんじゃねえよいいかげんにしろ、あたしにも無いけどあんたらにも逃げ道ないぞザマアミロって。」とつぶやいたのだった。

きたがわ翔といえば、「NINETEEN」や「HOTMAN」のような、さわやか系やほんわか系が多いイメージだけれど、ものすごい方向転換をしてきた。あいかわらず絵柄はキレいだし、美形の登場人物が多いのだけれど、それでいてこのテーマというのはかなり思い切った選択だ。これからどのように物語が進んでいくのか、とても興味がある。


【名言】
生き物にとって唯一平等なのは死です。そのネックレス・・このネックレスの方があなたの命よりずっと長く残るでしょう。ずっとね・・。これが真実です・・。

諦めて覚悟しろ。生を受けた時から逃げ道なんてないんだ。お前も・・そしてもちろんオレにもだ。キレイ事並べても、生きているうちは平等なんて有りえないんだ。金持ちだろうが貧乏人だろうが美人だろうがブサイクだろうが、みんないずれは死ぬ。「死」だけは常に平等にやって来る・・。

この仕事についた時・・図書館やネットで死体の写真を探してみた。海外のものは見つかりやすいが、この国のものがない。まるで死体が存在しないかのように徹底してる。見つかってもせいぜい戦中や関東大震災のような古いものだ。オレは思った。これははたして正常だろうか?

2008年01月02日

イチローの仕事の流儀

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2日の夜に、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、イチロースペシャルが放送されていた。
ものすごく面白かった。

イチローは、メジャーリーグ入りした後の7年間、昼ごはんは必ずカレーを食べているという。それ以外は絶対に食べない。
球場入りすると、独自のウォーミングアップのメニューを寸分たがわずにおこなう。バッターボックスに入るまでの動きから、打球を打つ時の動きまで、毎回同じであるということに徹底的にこだわる。

茶道にしろ弓道にしろ、日本の「道」がどれも徹底してその動作の「型」にこだわるのは、精神を一定の状態に調整するために生み出された方法論であるらしい。
メジャーリーグでトップであり続けることのプレッシャーというのは、並たいていのものではないのだろう。だから、それを抑えて、余計なことを考えなくていいように、体の動作によって精神をコントロールするのだろうと思う。
茂木健一郎さんは、そのことについて、「脳の動きというのは、体の動きと連動して影響される部分はとても大きい。体中に行きわたっている神経繊維の数を考えれば、それは当然のことです。」と言っていた。

イチローの言動を見ていると、ほとんどパラノイアといっていいほどの完璧主義や自負心が満ちていて、どこに地雷があっていつキレるかわからない怖さがあるので、イチローにインタビューをするというのも、かなり気をつかうことなんだろう。
そういうことも含めて、やはり非凡な人であると思うし、普通の人には想像も及ばない高みを目指している人なのだということが伝わってくる番組だった。

【名言】
「毎年フォームを変え続けていて、今の自分が過去の自分を見返してみると『よく、あれで打てたな』って思うんです。」

「野球は、ほんのちょっとでも自分のベストのタイミングからずれるとギリギリでアウトになるように出来ている。いったい誰がこんなに上手く、野球というゲームを作ったのかと思う。」

「僕は、ホームランは、打とうと思えば打てるんです。だから、ここぞという時は狙っていってます。それは、僕の中では遊びなんです。」

■「プロフェッショナル 仕事の流儀」イチロースペシャル
再放送:1月9日(水)午後4:45~午後6:00[BS2]
http://www.nhk.or.jp/professional/

2008年01月01日

一富士

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昨年末に飛行機に乗って富山に行った時、とてもきれいな富士山が見えた。
飛行機の時間に無事間に合ったり、ちょうどいいコースを飛んだり、朝だったり、冬だったり、天気がとてもよかったり、窓際の席だったり、しかも左側の席だったり、様々な幸運が幾重にも重なって、こんなにもキレイな富士山が見えた。
ありがたい。
今年一年がよい年でありますように。