
死の家の記録(ドストエフスキー/新潮社)
シベリアというと、重罪を犯した人の、極めつけの流刑地というイメージがある。
そのシベリアでの獄中記を、ドストエフスキーが書いているというのだから、それだけで興味が湧く。自分自身の手記であるとはまったく言っていないけれど、読んでみると、体験にもとづいてかなり詳細に描写されたノンフィクションであることがわかる。
書かれているテーマは、監獄の中での習慣や出来事、周りの囚人についての解説など、あらゆる場面にわたっていて、ほとんど自分が監獄の中にいるという疑似体験が出来るくらい細かくその様子が伝わってくる。特に、クリスマスの祭りの時や入浴の時など、日常のルーチンと異なる出来事があった時の監獄の様子というのはとても特殊で、その情景の描写はかなり面白い。
監獄の中では金など必要とされないし、あったとしてもほとんど使い道はないのに、それでもみんなが必死になって金を得ようと盗んだりだましたりを繰り返すというところなど、不思議だけれど、そういうものなんだろうなあという気がする。
人は大病、倒産、投獄の経験を経て一人前になるといわれるけれども、確かに、この作品を読むと、刑務所の中というのはこれ以上ない人間観察の舞台であるし、自分自身を深く知るためには最もふさわしい環境であるのだろうと思う。
【名言】
おそろしい苦痛が、獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができないことにあろうとは、わたしはぜったい想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎に戻れば二百人の仲間がいて、ぜったいに、一度も、一人きりになれない。しかも、わたしが慣れなければならなかったのは、この程度のことではなかった。(p.20)
実際、わが国にはいたるところに、その境遇や条件のいかんを問わず、常にある不思議な人々、温順で、間々ひどく勤勉だが、永久に貧しい下積みから浮かび上がれないように運命によって定められている人々がいるものだ。これからもおそらくあとを絶たないだろう。彼らはいつも素寒貧で、いつもきたない格好をして、いつも何かにうちのめされたようないじけた様子をして、年じゅうだれかにこきつかわれて、洗濯や使い走りなどをやらされている。およそ自分で何かを考えて、自分で何かをはじめるなどということは、彼らにとっては苦労であり、重荷なのである。彼らはどうやら、自分からは何もはじめないで、ただ他人につかえ、他人の意思で暮らし、他人の笛でおどることを条件として、この世に生まれてきたらしい。彼らの使命は、他人から言われたことをすることである。それに、どんな事情も、どんな改革も、彼らを富ませることはできない。彼らはいつの世も貧しい下積みである。わたしの観察では、こういう人間は民衆の中だけではなく、あらゆる社会、階層、党派、新聞雑誌社、会社などにもいるものである。(p.108)
わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴逆になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受け入れるようになる。このような権力は誘惑的である。約言すれば、他の人間に対する体刑の権利がある人間にあたえられるということは、社会悪の一つであり、社会がその内部にもつ文明のいっさいの萌芽と、いっさいのこころみを根絶するもっとも強力な手段の一つであり、社会を絶対に避けることのできぬ崩壊へみちびく完全な要因である。(p.366)
自由というものが監獄ではほんとうの自由よりも、つまり実際にある現実の自由よりも、何かもっと自由なもののように思われていた。囚人たちは現実の自由についての観念を誇張して考えていたし、そしてこれは囚人には特有のことで、すこしも不自然ではなかった。きたない服を着た名もない従卒が、監獄では、ただ頭を剃ることもなく、足枷もつけず、警護もつかずに歩きまわっているというだけで、囚人たちの身にひきくらべて、ほとんど王様か、自由な人間の典型のように考えられていたのである。(p.555)
» 2008 » 3月のブログ記事

魔笛(野沢尚/講談社)
渋谷のスクランブル交差点で実行された爆弾テロの犯人と、それを追う刑事の物語。話しは犯人の側の視点から書かれており、逮捕後に、犯人が刑事にインタビューした内容を元に書いた手記という形式になっている。
江戸川乱歩賞の候補になっていたというけれど、実在する、特定の新興宗教団体を想起させる内容のために、取り下げになったらしい。
現役の刑事が服役中の囚人と結婚をしたり、新興宗教の幹部が元公安の人間だったりと、ちょっと設定が現実離れしすぎな感じはあるし、爆弾処理班の人も、実際にはあり得ないぐらいの勇敢さなので、あまりリアルさは感じられないけれど、展開や人間関係がドラマチックで、物語としての面白さは充分にある作品だと思った。
【名言】
無思想とは、思想をゼロにすることではない。思想を取り替え可能な技術にすぎないものとして扱う態度である。日本人が、仏教やキリスト教やマルクス主義を本来の思想としてではなく、組み換え可能な技術として受容してきたのは、神道という「たたずまいの美意識」というマナーを持っているからだ。(p.102)
私と同じように出家した信者は、どれも同じ顔に見えた。
彼らは一様に「純粋病」にかかっていた。不純な世の中を自分の手で立て直したい。こうした欲求を引き受けてくれたのが、かつてはファシズムや左翼イデオロギーだった。純粋なるものがこの世の宝石であると信ずる病気に、誰でも青年時代に一度はかかるものだが、いつまでたっても純粋病患者を卒業できない人間とは、本人は自覚していなくても、実は裏返しの権力主義者なのだと私は思う。(p.123)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー/岩波書店)
何故、プロテスタントの人々は、そうでない人々よりも資本主義において優れた特性を示すことが多かったのか、ということについての解説なのだけれど、キリスト教圏の読者に向けて書かれているためか、キリスト教についての基本的な知識がないと、さっぱり通じないところがたくさんある。
キリスト教徒の諸宗派といっても、カトリックかプロテスタントかぐらいしかわからないし、それすらどういう違いがあるのかはっきり区別がつけられないところに、この本では、クェーカーだの敬虔派だのメソジストだの数多くの宗派が登場して、まったくイメージが湧かない。
生まれた時からプロテスタントに囲まれた環境で育った人であれば、簡単に通じる部分も多いのだろうし、きっともっと興味深く読める本なのだろうと思う。
全体の3割くらいは、本文についての注釈で占められていて、そこで脇道にそれてかなり詳しく説明がされていたりする。読み物としてのエンターテイメント性はまったくなく、学術書というか、ほとんど論文そのものだ。
テーマとして面白いのは、「禁欲」を大きな教義としているプロテスタントが何故、利潤を追求することを目的とする資本主義において、その能力を発揮出来たのか?という、この一見矛盾した問題を解き明かそうとしている点だ。この作品の見所は、この一点に尽きるといっていい。
訳者による解説が、要点がよくまとまっていてとてもわかりやすいので、本文より先に解説を読むのがおすすめ。
【名言】
労働は、昔から試験ずみの禁欲の手段である。東洋はもちろん、ほとんど全世界のあらゆる修道者の規律とははっきりと異なって、西洋の教会では、労働は古来そうした禁欲の手段として評価されてきた。それは、とりわけ、ピュウリタニズムが「汚れた生活」という観念で一括した一切の誘惑に対する独自な予防手段であり、しかも、その役割は決して小さいものではなかった。(p.300)
専門の仕事への専念と、それに伴うファウスト的な人間の全面性からの断念は、現今の世界ではすべて価値ある行為の前提であって、したがって「業績」と「断念」は今日ではどうしても切り離しえないものとなっている。こうした禁欲的基調を、ゲーテもまたその人生知の高みから「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」と、ファウストの生涯の終焉によって、われわれに教えようとしたのだった。彼にとって、この認識は、ゆたかで美しい人間性の時代からの断念を伴う、そうした決別を意味した。そうした時代は、古代にアテナイの全盛期がくりかえし現れなかったのと同様に、われわれの文化発展のなかでもう一度現れてくることはもはやないのだ。(p.364)

廃用身(久坂部羊/幻冬舎)
廃用身というのは、耳慣れない言葉だけれども、麻痺などで動かずに回復する見込みもない手足のことであるらしい。
この廃用身を切断すれば、体重が軽くなって身動きがしやすくなるし、周りの人も介護がしやすくなるのではないか、ということを思いついた医師の手記、という形式で話しは進んでいく。
植木や植物を間引きするのと同じように、不要となった部分をなくすことで、健康な部分の機能を向上させる効果も期待できる、という理由も廃用身の切断にはあるが、そういったメリットを考えに入れても、やはり心情的にはそう簡単に割り切れないところがある。
「廃用身」という言葉自体も結構ショッキングなものがあるけれども、それ以上に、ここで描かれている老人介護の現場も、かなり凄惨な印象を受けた。
色々と、とにかく描写が細かくて、うんざりしてしまうぐらいはっきりとシビアさが伝わってくる。しかしそれは実際、老人介護の現場では避けて通れない現実なのだ。
今後、数十年ののちには、3人に1人が高齢者という時代が確実にやって来る。この「廃用身」という話しは、単なるフィクションではなく、医師でもある筆者が、小説という形をとって老人介護問題に対する問題提起をしている作品なのだと思う。
【名言】
年寄りたちに対して、ぼくは圧倒的に優位なんです。一から十まで、どこを取っても・・。だから、親切にできたんです。ぼくの親切の源は、圧倒的な優越感だったんです。老人介護には常にこういう構図があります、弱肉強食みたいな。年寄りは若い者にぜったい逆らえない・・。ぼくは、純粋に親切のつもりで、やってきたんですがね、卑劣きわまりない・・。(p.332)
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渋谷のイメージフォーラムで単館上映している、ドイツ映画。
ジャンルとしてはドキュメンタリーで、食べ物を作るあらゆる現場をひたすら撮り続けている。ナレーションすらまったく入らないので、この作品には意見の主張はまったくなく、ただ、観客が観たそのままを感じるタイプの映画になっている。
この作品が被写体としている共通しているのは、食料を大量生産している現場、それも「原料」に非常に近い場所にフォーカスして撮っているということだ。
それは、野菜であれば大規模農園になるし、動物であれば食肉加工場ということになる。食料を大量生産している現場というのは、それが何を扱っていたとしても、工場と呼ぶにふさわしい。
ヒヨコはテニスボールのように機械から投げ出されるし、豚や鳥はベルトコンベアに乗せられて単調に部分ごとに切り分けられていく。
対象がどんなものであっても、機械を使ってオートメーション化してしまう人間の頭の良さというか、横着さにはびっくりしてしまう。これは、動物を徹底してモノとして見なさないことには到底作れないシステムだと思った。
しかし、この映画が語っているのは、残酷とか無慈悲とか人工的とかそういうことではなく、ただ、現実としてこういう光景は地上のどこかで毎日繰り広げられていて、その結果として数多くの食べ物が食卓の上に並んでいるという、その事実なのだ。
一つのカットが意味なくだらーっと続いて、「長いよ!」と突っ込みたくなるようなところもあり、テンポは非常に悪いので、その点は忍耐力と持久力が必要。
一切の解説無しのため、何をやっているところなのかまったくわからないカットもあるけれど、この思い切った割り切り感はいい。
もともとの原題は「OUR DAILY BREAD」だったところが、邦題では「いのちの食べかた」になっている。おそらく森達也氏の同名の著書に合わせたものなのだろうけれど、内容的にはまったく違うものであるし、このタイトルと内容もズレているので、原題そのままのほうがこの作品にはふさわしいと思う。
■いのちの食べかた(映画)
公式サイト
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
渋谷イメージフォーラム上映時間
~3/28(金)(11:00/13:00/15:00/17:00/19:00)
3/29(土)~(11:00/21:00)
■「いのちの食べかた」読後の芝浦食肉市場見学記
http://suishodo.net/archives/2007/12/post_280.html

自分を知るための哲学入門(竹田青嗣/筑摩書房)
入門書として、とても素晴らしい本。
どの分野の学問でもそうだろうけれども、最初に何の手がかりもないまま独力で学ぼうとすると、その全体像も、大きさもわからないまま、闇の中を手探りで進んでいるような状態になり、途方に暮れてしまう。
たいがいの哲学書は、その原著をいきなり読もうとすると、まず間違いなく途中で行き詰ってしまうけれど、そこであきらめて哲学を学ぶことを止めてしまう愚を阻止するように、哲学の概観をとてもわかりやすく説明してくれている。
著者の、「哲学は、自分を知り、よく生きるためのツールにすぎない」というスタンスはとても好きだ。この本では、難しい言葉は一切使わずに、出来る限り誰にでも理解出来るように、古今東西の主要な哲学の全体図が、かなり噛みくだいて書かれている。
この手の本には珍しく、著者の体験に基づいて、自分自身がいかにして哲学の世界に興味を持ったのか、というところから書かれているので、その点でも、かなり興味を持って読める構成だと思う。
本の中で述べられていることは、飽くまでも、入口の部分までの紹介に過ぎないので、本当にその内容を理解するには、やはりいずれは原著を読む必要はあるだろうと思うけれども、そこに行く前に、こういった入門書による解説があるかないかということは、とても大きい。
巻末に付録として掲載された「読書案内」のリストも、とても参考になる。
こういう、よくその分野を熟知している先達の手引きというのは、その内容によっては、時間に換算すると数年分もの価値を与えてくれるものだと思う。
【名言】
哲学に多少興味を覚えるのだがなかなか入っていけないという人には、まずひとりの哲学者の基本問題をしっかり押さえてみることをすすめます。哲学の問題というのは、みなたいていつながっているものだから。(p.19)
わたしの予感のうち、古今の哲学書を読めばいわば「生き方」の「真理」をつかめるのではないか、という予感はみごとに外れた。わたしによく理解できたのは、まず、生き方の最終的な「真理」などというものは原理的に存在しない、ということだった。しかし、その代わりに、哲学が、自分自身に対する自分の了解の仕方を大いに助け、それは生を豊かにするようなものだ、ということもよく受け取れた気がする。つまり、哲学とは、自分を知り自分をよく生かすためのひとつの独自の技術だ、ということが分かったのである。(p.26)
信念の「独我論」を破る条件はただひとつである。それはつまり、自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出して、その間で「妥当」を成立させていくプロセスの有無にかかっている。(p.86)
カントは哲学の理論的側面については飛び抜けて優れた人だったが、こと人間的側面については、学級委員をずっとつづけてきた人みたいに人生の機微にうとい所がある。「なにがよいことか」ばかりに頭がいって、それがなぜ簡単に実現しないのかについては深く考えが回らないのだ。(p.170)
現在わたしたちの思想の大勢は、この「認識、思想、主体の死」ということを目新しい言葉で難解に語ることがカッコいいというような奇妙な思潮の中にあるといっていい。だが、それは思想の瑣末なシーンにすぎないのである。思想というものは、いつも必ず根本的で原理的な場所を掘り進んでゆくものだ。もしそれができなければ、しまいに思想的努力の意味そのものが枯渇することになるのだ。(p.228)

後世への最大遺物(内村鑑三/岩波書店)
この本は、内村鑑三がおこなった講演を記述したもので、「我々は何を後世に遺すことが出来るか」というテーマについて語られている。
要旨としては、次のようなことだ。
『お金を遺すことも立派なことである。しかし、それは誰にも出来ることではない。お金を遺すよりは事業を遺すほうが影響は大きいだろう。事業よりも、更に影響が大きいのは思想だ。そして、我々が遺せるもので最も影響が大きいことは、生き様を遺すことだ。』
内村鑑三は、生き様を遺すことだけが立派なことと言っているのではなく、お金や事業や思想を遺すこともそれぞれに立派なことだと言っている。ただ、それらは才能が必要で誰にでも出来るということではない。
しかし、この「生き様」というものだけは、その心構えさえあれば必ず誰にでも出来るということで、他のものと一線を画して、それを特に強く聴衆に訴えている。
内村鑑三の語った話しを元に出版されたこの本こそが、彼自身の「思想」を体現したものであり、実際、その後に遺した影響は計り知れない。
この本が時を超えて読み継がれているのは、そこで言われていることが、古今東西のあらゆる人々に共通する心性を揺さぶるものがあるからだろうと思う。
【名言】
天地は失せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足でもあります。私は今よりさらに三十年を生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。(改版に附する序文)
金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。この二つの考えのない人、この二つの考え方について十分に決心しない人が、金を溜めるということは、はなはだ危険のことだと思います。(p.28)
ただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。(p.47)
天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども点がわれわれを助けてくれる。(p.62)
たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう。あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起こる考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少なくして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う。(p.68)

パラレルワールド(ミチオカク/日本放送出版協会)
またまた、宇宙論のテーマでハンパなく面白い本が見つかった。
この本は三部構成になっていて、第一部は、現代までに発展してきた宇宙論のあらすじのまとめになっている。第二部がメインのテーマである、最新の宇宙理論としての、11次元論や、M理論についての解説。そして、第三部は、いつか消滅する運命にあるこの宇宙から、人類は果たして脱出することは可能かということについて検証をしている。
宇宙論の様々な仮説は、いずれもまだ推測の域を出ない空想的なものかと思っていたのだけれど、宇宙の始まりがビッグバンであったという「ビッグバン理論」というのは、今では多くのデータによって裏付けられた、かなり確かな根拠のある理論であるらしい。
堅苦しい理論や数式が並べられた本ではなく、宇宙論の面白さや、それに関わる人たちのエピソードがメインになっているので、とても読みやすい。本人自身がとても優れた学者であると同時に、これだけ説明が上手いという人はめったにいないんじゃないかと思う。
「叡智の海」が、著者の考える大胆な仮説を含んで、独創的な世界観を組みあげていたのに対し、この「パラレルワールド」は、純粋に一科学者としての視点から、現在までにわかっていることをとても客観的に解説している。
この著者は、たとえ話しにしても、身近な映画やSF小説の物語を引き合いに出してわかりやすく話しをすることが多く、難しい話しを面白おかしく語ることが本当に上手だ。ノンフィクションであるにもかかわらず、とても良く出来たフィクションの物語を読んでいるような感じだった。
【名言】
ここで私が言いたいのは、ビッグバン理論は憶測ではなく、複数の出所による何百ものデータにもとづいているということだ。それらのデータはどれも、自己矛盾のない一個の理論を裏づけている。科学では、どの理論も平等にできているわけではない。だれでも自由に自分なりの宇宙創成の理論を打ち出せるが、これまで集めたビッグバン理論と合致する何百ものデータを、それで説明できなければならないのだ。(p.62)
量子テレポーテーションの研究は急速に進歩している。2003年には、スイスのジュネーブ大学の科学者が、光ファイバーケーブルを使って、光子を2キロメートル離れた場所にテレポートさせるのに成功した。この実験にかかわったニコラス・ギシンは言っている。「分子のようにもう少し大きな物体も、私が生きているうちにテレポートできるようになるかもしれないが、本当の意味で大きな物体は、予測可能なテクノロジーではテレポートできないだろう」(p.215)
M理論の登場により、現代物理学が直面している最大の問題-一般相対性理論と量子論のあいだの溝を埋めるという問題-に立ち向かうことを余儀なくされているのだ。このふたつの理論に、なんと宇宙の基本的なレベルの物理的知識がすべて詰まっている。現時点では、M理論だけが、宇宙にかんするこの一見矛盾したふたつの理論をまとめて「万物理論」にする力を秘めている。(p.223)
先進文明の人々は、みずからの肉体的存在を、時間をさかのぼったり別の宇宙へ脱出したりする困難な旅を生き抜ける存在に変える決断を下し、炭素をシリコンに置き換え、意識を純粋な情報に還元するだろう。結局のところ、われわれの炭素ベースの体は脆すぎて、これほどのスケールの旅がもたらす物理的負荷に耐えられないのだ。(p.402)
現代生きている世代は、これまで地球上で暮らしてきた人類のなかで最も重要な世代なのではなかろうか。今までの世代と違ってわれわれは、自分たちの種の運命をみずから握っている。タイプI文明の実現へ向けて高く舞い上がるのか、それとも、混沌と汚染と戦争の淵に沈むのか。われわれの決断が、今世紀全体に影響を与えるだろう。(p.428)
目を使った慣用表現は、
・目を丸くする
・目が点になる
・目を皿にする
など数多くあるけれど、上の3つの中では「目が点になる」だけはかなり最近になって生まれた慣用句であるらしい。
この慣用句は、マンガで目を点として描写するところからきた言葉だからだ(広辞苑)。
そうすると、ある言葉が使われている時間の長さと、馴染み度合いというのは、あまり大きな相関はないんだなあと思う。
最近生まれている新しい慣用句も、今は耳慣れなくても、一世代くらい後にまで残れば、他の慣用句と変わらないくらい、昔からあったもののように定着してしまうんだろう。

マシアス・ギリの失脚(池澤夏樹/新潮社)
太平洋の南洋に浮かぶ、ナビダード共和国という島国を舞台にした物語。
主人公のマシアス・ギリ大統領は、ナビダードで生まれながら、その父親は日本人であり、若い時代を日本で過ごし、ナビダードと日本の属性を半分ずつ持っている。
この物語は、ナビダード的文化と日本的文化の中間的存在であるマシアスの目から見た、ナビダードの変遷の歴史がテーマになっている。
ナビダード共和国は、大航海時代にスペインの航海士によって発見され、19世紀以降の帝国主義や世界大戦に巻き込まれて、アメリカや日本の統治下におかれた。
この島国はもちろん、仮想の国ではあるのだけれど、ここで過去に起こった出来事は、実際にポリネシア・ミクロネシアの諸島国家に起こった史実を下地にしている。
まだ土着の民俗文化が色濃く残る島民に、西洋型の文化や資本主義が流入してきた時にいったいどんな化学反応が起こるのか。
マシアスは島の独裁者ではあるけれども、横暴な支配者ではない。二つの文化の軋轢を一身に引き受けてきた彼には、両方の文化の良い面と悪い面がとてもよくわかっている。そのために生まれる葛藤と悲しみは、彼にしかわからない孤独なものだろうと思う。
この本には、物語としての豊かさを感じる。設定やリサーチがものすごく細かいということもあり、汲めども尽きない井戸のように、どこまでもナビダードという舞台の深くまで入っていけそうな奥行きがある。
話しのテンポはゆっくりとしていて、冗長な部分もたくさんあるのだけれど、そういう部分も含めて、南洋の島国らしい雰囲気にひたれる物語だった。
【名言】
「天皇陛下が立派な方だから、それで日本が優れた国であるのではない。違うんだ」とこの若い合理的帝国主義者は言った。「どんな天皇がいらっしゃっても、その性格や能力や容貌の如何にかかわらず、日本臣民はこれを心から敬愛し、この国に生まれて陛下の慈愛を受けて育ったことへの報恩として、死ぬ気になって働くんだ。大事なのは、陛下のお人柄ゆえに一身を捧げるのではなく、陛下を最上に戴く国家であるからこそ、一番上に陛下という方がいらして束ねておられる、そういう形になっているからこそ、臣民は働く。このような制度そのものが実に優れているんだ。(中略)アメリカには大統領というものがいる。それはそれなりに機能する。しかし、選挙などという人気投票のようなことをして選ばれた者を本当に敬愛の目で見られるか?」(p.113)
独裁者を非難するための論法は世に山ほどある。後になって非難してい者はすればいい。どんな言葉で侮辱されようと、墓をあばかれようと、子孫代々辱められようと、かまわない。それを承知の上で、国というもののために一人が独断で動かなければならない時というのがある。(p.299)
二つの文化の間の距離というのは、個人の人生で学べる限界をはるかに超えて大きいんだ。そう。二つの文化システムを一身に備えるのは不可能に近い。(p.354)
政治家というものの第一の任務はいるべき場所にいることだ。健康な姿で人々の目にさらされることが大事なので、具体的な政策や判断などは二の次でいい。ある意味では消防士と同じ仕事なのである。いるべき時にしかるべき場所にいて待機していなければ失格。(p.371)
一つの意思。どうかな。この世界では、個人はきみが思っているほど個人ではないよ。ここは日本ではないから。生きた者、死んだ者、たくさんの人間の考えや欲望や思いが重なり合って、時には一つの意思のようにふるまうこともある。(p.546)
することなすことのすべてが熟慮から出てくるわけではないということを、彼はずいぶん遅くなってから知った。一瞬にしてわかってしまうこともある。それに身を任せるすべをようやく身につけた。あれはそういう行動だった。いわば彼は賽を振った。(p.591)
知らない土地の上を飛ぶのと違って、親しい土地を上から見るのは心を揺すられるほど懐かしく、切なく、それでいてその風景から隔離されているとい奇妙な寂しさをも覚える不思議な体験である。(p.599)
