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2008年03月31日

死の家の記録

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死の家の記録 (新潮文庫)
死の家の記録(ドストエフスキー/新潮社)

シベリアというと、重罪を犯した人の、極めつけの流刑地というイメージがある。
そのシベリアでの獄中記を、ドストエフスキーが書いているというのだから、それだけで興味が湧く。自分自身の手記であるとはまったく言っていないけれど、読んでみると、体験にもとづいてかなり詳細に描写されたノンフィクションであることがわかる。

書かれているテーマは、監獄の中での習慣や出来事、周りの囚人についての解説など、あらゆる場面にわたっていて、ほとんど自分が監獄の中にいるという疑似体験が出来るくらい細かくその様子が伝わってくる。特に、クリスマスの祭りの時や入浴の時など、日常のルーチンと異なる出来事があった時の監獄の様子というのはとても特殊で、その情景の描写はかなり面白い。
監獄の中では金など必要とされないし、あったとしてもほとんど使い道はないのに、それでもみんなが必死になって金を得ようと盗んだりだましたりを繰り返すというところなど、不思議だけれど、そういうものなんだろうなあという気がする。

人は大病、倒産、投獄の経験を経て一人前になるといわれるけれども、確かに、この作品を読むと、刑務所の中というのはこれ以上ない人間観察の舞台であるし、自分自身を深く知るためには最もふさわしい環境であるのだろうと思う。


【名言】
おそろしい苦痛が、獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができないことにあろうとは、わたしはぜったい想像できなかったろう。作業に出ればいつも監視され、獄舎に戻れば二百人の仲間がいて、ぜったいに、一度も、一人きりになれない。しかも、わたしが慣れなければならなかったのは、この程度のことではなかった。(p.20)

実際、わが国にはいたるところに、その境遇や条件のいかんを問わず、常にある不思議な人々、温順で、間々ひどく勤勉だが、永久に貧しい下積みから浮かび上がれないように運命によって定められている人々がいるものだ。これからもおそらくあとを絶たないだろう。彼らはいつも素寒貧で、いつもきたない格好をして、いつも何かにうちのめされたようないじけた様子をして、年じゅうだれかにこきつかわれて、洗濯や使い走りなどをやらされている。およそ自分で何かを考えて、自分で何かをはじめるなどということは、彼らにとっては苦労であり、重荷なのである。彼らはどうやら、自分からは何もはじめないで、ただ他人につかえ、他人の意思で暮らし、他人の笛でおどることを条件として、この世に生まれてきたらしい。彼らの使命は、他人から言われたことをすることである。それに、どんな事情も、どんな改革も、彼らを富ませることはできない。彼らはいつの世も貧しい下積みである。わたしの観察では、こういう人間は民衆の中だけではなく、あらゆる社会、階層、党派、新聞雑誌社、会社などにもいるものである。(p.108)

わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴逆になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受け入れるようになる。このような権力は誘惑的である。約言すれば、他の人間に対する体刑の権利がある人間にあたえられるということは、社会悪の一つであり、社会がその内部にもつ文明のいっさいの萌芽と、いっさいのこころみを根絶するもっとも強力な手段の一つであり、社会を絶対に避けることのできぬ崩壊へみちびく完全な要因である。(p.366)

自由というものが監獄ではほんとうの自由よりも、つまり実際にある現実の自由よりも、何かもっと自由なもののように思われていた。囚人たちは現実の自由についての観念を誇張して考えていたし、そしてこれは囚人には特有のことで、すこしも不自然ではなかった。きたない服を着た名もない従卒が、監獄では、ただ頭を剃ることもなく、足枷もつけず、警護もつかずに歩きまわっているというだけで、囚人たちの身にひきくらべて、ほとんど王様か、自由な人間の典型のように考えられていたのである。(p.555)

2008年03月30日

魔笛

魔笛 (講談社文庫)
魔笛(野沢尚/講談社)

渋谷のスクランブル交差点で実行された爆弾テロの犯人と、それを追う刑事の物語。話しは犯人の側の視点から書かれており、逮捕後に、犯人が刑事にインタビューした内容を元に書いた手記という形式になっている。
江戸川乱歩賞の候補になっていたというけれど、実在する、特定の新興宗教団体を想起させる内容のために、取り下げになったらしい。
現役の刑事が服役中の囚人と結婚をしたり、新興宗教の幹部が元公安の人間だったりと、ちょっと設定が現実離れしすぎな感じはあるし、爆弾処理班の人も、実際にはあり得ないぐらいの勇敢さなので、あまりリアルさは感じられないけれど、展開や人間関係がドラマチックで、物語としての面白さは充分にある作品だと思った。


【名言】
無思想とは、思想をゼロにすることではない。思想を取り替え可能な技術にすぎないものとして扱う態度である。日本人が、仏教やキリスト教やマルクス主義を本来の思想としてではなく、組み換え可能な技術として受容してきたのは、神道という「たたずまいの美意識」というマナーを持っているからだ。(p.102)

私と同じように出家した信者は、どれも同じ顔に見えた。
彼らは一様に「純粋病」にかかっていた。不純な世の中を自分の手で立て直したい。こうした欲求を引き受けてくれたのが、かつてはファシズムや左翼イデオロギーだった。純粋なるものがこの世の宝石であると信ずる病気に、誰でも青年時代に一度はかかるものだが、いつまでたっても純粋病患者を卒業できない人間とは、本人は自覚していなくても、実は裏返しの権力主義者なのだと私は思う。(p.123)

2008年03月29日

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー/岩波書店)

何故、プロテスタントの人々は、そうでない人々よりも資本主義において優れた特性を示すことが多かったのか、ということについての解説なのだけれど、キリスト教圏の読者に向けて書かれているためか、キリスト教についての基本的な知識がないと、さっぱり通じないところがたくさんある。
キリスト教徒の諸宗派といっても、カトリックかプロテスタントかぐらいしかわからないし、それすらどういう違いがあるのかはっきり区別がつけられないところに、この本では、クェーカーだの敬虔派だのメソジストだの数多くの宗派が登場して、まったくイメージが湧かない。
生まれた時からプロテスタントに囲まれた環境で育った人であれば、簡単に通じる部分も多いのだろうし、きっともっと興味深く読める本なのだろうと思う。

全体の3割くらいは、本文についての注釈で占められていて、そこで脇道にそれてかなり詳しく説明がされていたりする。読み物としてのエンターテイメント性はまったくなく、学術書というか、ほとんど論文そのものだ。
テーマとして面白いのは、「禁欲」を大きな教義としているプロテスタントが何故、利潤を追求することを目的とする資本主義において、その能力を発揮出来たのか?という、この一見矛盾した問題を解き明かそうとしている点だ。この作品の見所は、この一点に尽きるといっていい。
訳者による解説が、要点がよくまとまっていてとてもわかりやすいので、本文より先に解説を読むのがおすすめ。


【名言】
労働は、昔から試験ずみの禁欲の手段である。東洋はもちろん、ほとんど全世界のあらゆる修道者の規律とははっきりと異なって、西洋の教会では、労働は古来そうした禁欲の手段として評価されてきた。それは、とりわけ、ピュウリタニズムが「汚れた生活」という観念で一括した一切の誘惑に対する独自な予防手段であり、しかも、その役割は決して小さいものではなかった。(p.300)

専門の仕事への専念と、それに伴うファウスト的な人間の全面性からの断念は、現今の世界ではすべて価値ある行為の前提であって、したがって「業績」と「断念」は今日ではどうしても切り離しえないものとなっている。こうした禁欲的基調を、ゲーテもまたその人生知の高みから「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」と、ファウストの生涯の終焉によって、われわれに教えようとしたのだった。彼にとって、この認識は、ゆたかで美しい人間性の時代からの断念を伴う、そうした決別を意味した。そうした時代は、古代にアテナイの全盛期がくりかえし現れなかったのと同様に、われわれの文化発展のなかでもう一度現れてくることはもはやないのだ。(p.364)

2008年03月28日

廃用身

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廃用身 (幻冬舎文庫)
廃用身(久坂部羊/幻冬舎)

廃用身というのは、耳慣れない言葉だけれども、麻痺などで動かずに回復する見込みもない手足のことであるらしい。
この廃用身を切断すれば、体重が軽くなって身動きがしやすくなるし、周りの人も介護がしやすくなるのではないか、ということを思いついた医師の手記、という形式で話しは進んでいく。

植木や植物を間引きするのと同じように、不要となった部分をなくすことで、健康な部分の機能を向上させる効果も期待できる、という理由も廃用身の切断にはあるが、そういったメリットを考えに入れても、やはり心情的にはそう簡単に割り切れないところがある。

「廃用身」という言葉自体も結構ショッキングなものがあるけれども、それ以上に、ここで描かれている老人介護の現場も、かなり凄惨な印象を受けた。
色々と、とにかく描写が細かくて、うんざりしてしまうぐらいはっきりとシビアさが伝わってくる。しかしそれは実際、老人介護の現場では避けて通れない現実なのだ。

今後、数十年ののちには、3人に1人が高齢者という時代が確実にやって来る。この「廃用身」という話しは、単なるフィクションではなく、医師でもある筆者が、小説という形をとって老人介護問題に対する問題提起をしている作品なのだと思う。


【名言】
年寄りたちに対して、ぼくは圧倒的に優位なんです。一から十まで、どこを取っても・・。だから、親切にできたんです。ぼくの親切の源は、圧倒的な優越感だったんです。老人介護には常にこういう構図があります、弱肉強食みたいな。年寄りは若い者にぜったい逆らえない・・。ぼくは、純粋に親切のつもりで、やってきたんですがね、卑劣きわまりない・・。(p.332)

2008年03月27日

いのちの食べかた(映画)

inochino.jpg

渋谷のイメージフォーラムで単館上映している、ドイツ映画。
ジャンルとしてはドキュメンタリーで、食べ物を作るあらゆる現場をひたすら撮り続けている。ナレーションすらまったく入らないので、この作品には意見の主張はまったくなく、ただ、観客が観たそのままを感じるタイプの映画になっている。

この作品が被写体としている共通しているのは、食料を大量生産している現場、それも「原料」に非常に近い場所にフォーカスして撮っているということだ。
それは、野菜であれば大規模農園になるし、動物であれば食肉加工場ということになる。食料を大量生産している現場というのは、それが何を扱っていたとしても、工場と呼ぶにふさわしい。
ヒヨコはテニスボールのように機械から投げ出されるし、豚や鳥はベルトコンベアに乗せられて単調に部分ごとに切り分けられていく。
対象がどんなものであっても、機械を使ってオートメーション化してしまう人間の頭の良さというか、横着さにはびっくりしてしまう。これは、動物を徹底してモノとして見なさないことには到底作れないシステムだと思った。
しかし、この映画が語っているのは、残酷とか無慈悲とか人工的とかそういうことではなく、ただ、現実としてこういう光景は地上のどこかで毎日繰り広げられていて、その結果として数多くの食べ物が食卓の上に並んでいるという、その事実なのだ。

一つのカットが意味なくだらーっと続いて、「長いよ!」と突っ込みたくなるようなところもあり、テンポは非常に悪いので、その点は忍耐力と持久力が必要。
一切の解説無しのため、何をやっているところなのかまったくわからないカットもあるけれど、この思い切った割り切り感はいい。
もともとの原題は「OUR DAILY BREAD」だったところが、邦題では「いのちの食べかた」になっている。おそらく森達也氏の同名の著書に合わせたものなのだろうけれど、内容的にはまったく違うものであるし、このタイトルと内容もズレているので、原題そのままのほうがこの作品にはふさわしいと思う。

■いのちの食べかた(映画)
公式サイト
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

渋谷イメージフォーラム上映時間
~3/28(金)(11:00/13:00/15:00/17:00/19:00)
3/29(土)~(11:00/21:00)

■「いのちの食べかた」読後の芝浦食肉市場見学記
http://suishodo.net/archives/2007/12/post_280.html

2008年03月26日

自分を知るための哲学入門

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自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
自分を知るための哲学入門(竹田青嗣/筑摩書房)

入門書として、とても素晴らしい本。
どの分野の学問でもそうだろうけれども、最初に何の手がかりもないまま独力で学ぼうとすると、その全体像も、大きさもわからないまま、闇の中を手探りで進んでいるような状態になり、途方に暮れてしまう。
たいがいの哲学書は、その原著をいきなり読もうとすると、まず間違いなく途中で行き詰ってしまうけれど、そこであきらめて哲学を学ぶことを止めてしまう愚を阻止するように、哲学の概観をとてもわかりやすく説明してくれている。

著者の、「哲学は、自分を知り、よく生きるためのツールにすぎない」というスタンスはとても好きだ。この本では、難しい言葉は一切使わずに、出来る限り誰にでも理解出来るように、古今東西の主要な哲学の全体図が、かなり噛みくだいて書かれている。
この手の本には珍しく、著者の体験に基づいて、自分自身がいかにして哲学の世界に興味を持ったのか、というところから書かれているので、その点でも、かなり興味を持って読める構成だと思う。

本の中で述べられていることは、飽くまでも、入口の部分までの紹介に過ぎないので、本当にその内容を理解するには、やはりいずれは原著を読む必要はあるだろうと思うけれども、そこに行く前に、こういった入門書による解説があるかないかということは、とても大きい。
巻末に付録として掲載された「読書案内」のリストも、とても参考になる。
こういう、よくその分野を熟知している先達の手引きというのは、その内容によっては、時間に換算すると数年分もの価値を与えてくれるものだと思う。


【名言】
哲学に多少興味を覚えるのだがなかなか入っていけないという人には、まずひとりの哲学者の基本問題をしっかり押さえてみることをすすめます。哲学の問題というのは、みなたいていつながっているものだから。(p.19)

わたしの予感のうち、古今の哲学書を読めばいわば「生き方」の「真理」をつかめるのではないか、という予感はみごとに外れた。わたしによく理解できたのは、まず、生き方の最終的な「真理」などというものは原理的に存在しない、ということだった。しかし、その代わりに、哲学が、自分自身に対する自分の了解の仕方を大いに助け、それは生を豊かにするようなものだ、ということもよく受け取れた気がする。つまり、哲学とは、自分を知り自分をよく生かすためのひとつの独自の技術だ、ということが分かったのである。(p.26)

信念の「独我論」を破る条件はただひとつである。それはつまり、自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出して、その間で「妥当」を成立させていくプロセスの有無にかかっている。(p.86)

カントは哲学の理論的側面については飛び抜けて優れた人だったが、こと人間的側面については、学級委員をずっとつづけてきた人みたいに人生の機微にうとい所がある。「なにがよいことか」ばかりに頭がいって、それがなぜ簡単に実現しないのかについては深く考えが回らないのだ。(p.170)

現在わたしたちの思想の大勢は、この「認識、思想、主体の死」ということを目新しい言葉で難解に語ることがカッコいいというような奇妙な思潮の中にあるといっていい。だが、それは思想の瑣末なシーンにすぎないのである。思想というものは、いつも必ず根本的で原理的な場所を掘り進んでゆくものだ。もしそれができなければ、しまいに思想的努力の意味そのものが枯渇することになるのだ。(p.228)

2008年03月25日

後世への最大遺物

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後世への最大遺物(内村鑑三/岩波書店)

この本は、内村鑑三がおこなった講演を記述したもので、「我々は何を後世に遺すことが出来るか」というテーマについて語られている。

要旨としては、次のようなことだ。
『お金を遺すことも立派なことである。しかし、それは誰にも出来ることではない。お金を遺すよりは事業を遺すほうが影響は大きいだろう。事業よりも、更に影響が大きいのは思想だ。そして、我々が遺せるもので最も影響が大きいことは、生き様を遺すことだ。』

内村鑑三は、生き様を遺すことだけが立派なことと言っているのではなく、お金や事業や思想を遺すこともそれぞれに立派なことだと言っている。ただ、それらは才能が必要で誰にでも出来るということではない。
しかし、この「生き様」というものだけは、その心構えさえあれば必ず誰にでも出来るということで、他のものと一線を画して、それを特に強く聴衆に訴えている。

内村鑑三の語った話しを元に出版されたこの本こそが、彼自身の「思想」を体現したものであり、実際、その後に遺した影響は計り知れない。
この本が時を超えて読み継がれているのは、そこで言われていることが、古今東西のあらゆる人々に共通する心性を揺さぶるものがあるからだろうと思う。


【名言】
天地は失せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足でもあります。私は今よりさらに三十年を生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。(改版に附する序文)

金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。この二つの考えのない人、この二つの考え方について十分に決心しない人が、金を溜めるということは、はなはだ危険のことだと思います。(p.28)

ただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。(p.47)

天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども点がわれわれを助けてくれる。(p.62)

たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう。あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起こる考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少なくして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う。(p.68)

2008年03月24日

パラレルワールド

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パラレルワールド(ミチオカク/日本放送出版協会)

またまた、宇宙論のテーマでハンパなく面白い本が見つかった。
この本は三部構成になっていて、第一部は、現代までに発展してきた宇宙論のあらすじのまとめになっている。第二部がメインのテーマである、最新の宇宙理論としての、11次元論や、M理論についての解説。そして、第三部は、いつか消滅する運命にあるこの宇宙から、人類は果たして脱出することは可能かということについて検証をしている。
宇宙論の様々な仮説は、いずれもまだ推測の域を出ない空想的なものかと思っていたのだけれど、宇宙の始まりがビッグバンであったという「ビッグバン理論」というのは、今では多くのデータによって裏付けられた、かなり確かな根拠のある理論であるらしい。
堅苦しい理論や数式が並べられた本ではなく、宇宙論の面白さや、それに関わる人たちのエピソードがメインになっているので、とても読みやすい。本人自身がとても優れた学者であると同時に、これだけ説明が上手いという人はめったにいないんじゃないかと思う。
叡智の海」が、著者の考える大胆な仮説を含んで、独創的な世界観を組みあげていたのに対し、この「パラレルワールド」は、純粋に一科学者としての視点から、現在までにわかっていることをとても客観的に解説している。
この著者は、たとえ話しにしても、身近な映画やSF小説の物語を引き合いに出してわかりやすく話しをすることが多く、難しい話しを面白おかしく語ることが本当に上手だ。ノンフィクションであるにもかかわらず、とても良く出来たフィクションの物語を読んでいるような感じだった。


【名言】
ここで私が言いたいのは、ビッグバン理論は憶測ではなく、複数の出所による何百ものデータにもとづいているということだ。それらのデータはどれも、自己矛盾のない一個の理論を裏づけている。科学では、どの理論も平等にできているわけではない。だれでも自由に自分なりの宇宙創成の理論を打ち出せるが、これまで集めたビッグバン理論と合致する何百ものデータを、それで説明できなければならないのだ。(p.62)

量子テレポーテーションの研究は急速に進歩している。2003年には、スイスのジュネーブ大学の科学者が、光ファイバーケーブルを使って、光子を2キロメートル離れた場所にテレポートさせるのに成功した。この実験にかかわったニコラス・ギシンは言っている。「分子のようにもう少し大きな物体も、私が生きているうちにテレポートできるようになるかもしれないが、本当の意味で大きな物体は、予測可能なテクノロジーではテレポートできないだろう」(p.215)

M理論の登場により、現代物理学が直面している最大の問題-一般相対性理論と量子論のあいだの溝を埋めるという問題-に立ち向かうことを余儀なくされているのだ。このふたつの理論に、なんと宇宙の基本的なレベルの物理的知識がすべて詰まっている。現時点では、M理論だけが、宇宙にかんするこの一見矛盾したふたつの理論をまとめて「万物理論」にする力を秘めている。(p.223)

先進文明の人々は、みずからの肉体的存在を、時間をさかのぼったり別の宇宙へ脱出したりする困難な旅を生き抜ける存在に変える決断を下し、炭素をシリコンに置き換え、意識を純粋な情報に還元するだろう。結局のところ、われわれの炭素ベースの体は脆すぎて、これほどのスケールの旅がもたらす物理的負荷に耐えられないのだ。(p.402)

現代生きている世代は、これまで地球上で暮らしてきた人類のなかで最も重要な世代なのではなかろうか。今までの世代と違ってわれわれは、自分たちの種の運命をみずから握っている。タイプI文明の実現へ向けて高く舞い上がるのか、それとも、混沌と汚染と戦争の淵に沈むのか。われわれの決断が、今世紀全体に影響を与えるだろう。(p.428)

2008年03月23日

言葉の馴染み度合い

目を使った慣用表現は、
・目を丸くする
・目が点になる
・目を皿にする
など数多くあるけれど、上の3つの中では「目が点になる」だけはかなり最近になって生まれた慣用句であるらしい。
この慣用句は、マンガで目を点として描写するところからきた言葉だからだ(広辞苑)。

そうすると、ある言葉が使われている時間の長さと、馴染み度合いというのは、あまり大きな相関はないんだなあと思う。
最近生まれている新しい慣用句も、今は耳慣れなくても、一世代くらい後にまで残れば、他の慣用句と変わらないくらい、昔からあったもののように定着してしまうんだろう。

2008年03月22日

マシアス・ギリの失脚

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マシアス・ギリの失脚 (新潮文庫)
マシアス・ギリの失脚(池澤夏樹/新潮社)

太平洋の南洋に浮かぶ、ナビダード共和国という島国を舞台にした物語。
主人公のマシアス・ギリ大統領は、ナビダードで生まれながら、その父親は日本人であり、若い時代を日本で過ごし、ナビダードと日本の属性を半分ずつ持っている。
この物語は、ナビダード的文化と日本的文化の中間的存在であるマシアスの目から見た、ナビダードの変遷の歴史がテーマになっている。

ナビダード共和国は、大航海時代にスペインの航海士によって発見され、19世紀以降の帝国主義や世界大戦に巻き込まれて、アメリカや日本の統治下におかれた。
この島国はもちろん、仮想の国ではあるのだけれど、ここで過去に起こった出来事は、実際にポリネシア・ミクロネシアの諸島国家に起こった史実を下地にしている。

まだ土着の民俗文化が色濃く残る島民に、西洋型の文化や資本主義が流入してきた時にいったいどんな化学反応が起こるのか。
マシアスは島の独裁者ではあるけれども、横暴な支配者ではない。二つの文化の軋轢を一身に引き受けてきた彼には、両方の文化の良い面と悪い面がとてもよくわかっている。そのために生まれる葛藤と悲しみは、彼にしかわからない孤独なものだろうと思う。

この本には、物語としての豊かさを感じる。設定やリサーチがものすごく細かいということもあり、汲めども尽きない井戸のように、どこまでもナビダードという舞台の深くまで入っていけそうな奥行きがある。
話しのテンポはゆっくりとしていて、冗長な部分もたくさんあるのだけれど、そういう部分も含めて、南洋の島国らしい雰囲気にひたれる物語だった。


【名言】
「天皇陛下が立派な方だから、それで日本が優れた国であるのではない。違うんだ」とこの若い合理的帝国主義者は言った。「どんな天皇がいらっしゃっても、その性格や能力や容貌の如何にかかわらず、日本臣民はこれを心から敬愛し、この国に生まれて陛下の慈愛を受けて育ったことへの報恩として、死ぬ気になって働くんだ。大事なのは、陛下のお人柄ゆえに一身を捧げるのではなく、陛下を最上に戴く国家であるからこそ、一番上に陛下という方がいらして束ねておられる、そういう形になっているからこそ、臣民は働く。このような制度そのものが実に優れているんだ。(中略)アメリカには大統領というものがいる。それはそれなりに機能する。しかし、選挙などという人気投票のようなことをして選ばれた者を本当に敬愛の目で見られるか?」(p.113)

独裁者を非難するための論法は世に山ほどある。後になって非難してい者はすればいい。どんな言葉で侮辱されようと、墓をあばかれようと、子孫代々辱められようと、かまわない。それを承知の上で、国というもののために一人が独断で動かなければならない時というのがある。(p.299)

二つの文化の間の距離というのは、個人の人生で学べる限界をはるかに超えて大きいんだ。そう。二つの文化システムを一身に備えるのは不可能に近い。(p.354)

政治家というものの第一の任務はいるべき場所にいることだ。健康な姿で人々の目にさらされることが大事なので、具体的な政策や判断などは二の次でいい。ある意味では消防士と同じ仕事なのである。いるべき時にしかるべき場所にいて待機していなければ失格。(p.371)

一つの意思。どうかな。この世界では、個人はきみが思っているほど個人ではないよ。ここは日本ではないから。生きた者、死んだ者、たくさんの人間の考えや欲望や思いが重なり合って、時には一つの意思のようにふるまうこともある。(p.546)

することなすことのすべてが熟慮から出てくるわけではないということを、彼はずいぶん遅くなってから知った。一瞬にしてわかってしまうこともある。それに身を任せるすべをようやく身につけた。あれはそういう行動だった。いわば彼は賽を振った。(p.591)

知らない土地の上を飛ぶのと違って、親しい土地を上から見るのは心を揺すられるほど懐かしく、切なく、それでいてその風景から隔離されているとい奇妙な寂しさをも覚える不思議な体験である。(p.599)

2008年03月21日

「大人の逸品」ミニコミ

手のひらに乗ってしまうサイズのマンガ「ミニコミ」。
これもまたスゴい企画の商品だ。

minikomi.jpg
50mm×68mmの大きさとはいえ、一応、頑張れば読めるというウワサで、旅行とかに持ち運びをする時に便利かもしれない。
移動中に読んだら、絶対に酔うけれど。

今のところ「手塚治虫全集」シリーズ以外に、「タイガーマスク」「デビルマン」などが発売中。やたらと古い作品ばかりなのは、版権の問題なのかもしれない。

この「大人の逸品」シリーズは、セガっぽいセンスが爆発してます。
セガはいいなあ。任天堂より、ホントは好きだったよ・・。
(結局、買ったのはいつも任天堂だったけど。)

■「大人の逸品」ミニコミ
http://www.segatoys.co.jp/products/adult/minicomic/

2008年03月20日

意識と本質

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意識と本質(井筒俊彦/岩波書店)

非常に難解。訳文じゃなく、日本人が書いた日本語だというのに、ここまで意味がわからないかというぐらい、難しい。
インド・中国起源の東洋哲学と、イスラム哲学についてかなり細かく解説がされている。イスラム哲学の考え方についてはほとんど初めて知ったので、イスラムでもここまで深く本質論について考察がされてきたということには驚いた。
もう一つ、かなり面白かったのは、カバラや密教の中心教義になっている「言葉」による世界解読のロジックが詳細に説明されていたことだ。その話しはやたらと込み入っているのだけれど、まだまだこの本に書かれていることはその入口に過ぎないのだろう。
この本で繰り返し説明されているのは、禅宗の考え方の話しで、禅は考案を通して「言葉」による対話を試みてきた。その中でも最も基本的な考え方では、「山は山である」というところからいったん「山は山ではない」という意識に変容して、その後また「山は山である」というところに戻るのだという。そして、最初と最後の「山は山である」が意味するものは、同じではない。
どの時代のどの地域の考え方でも、必ず出てくるのは「言葉」というものが持つ性質の難しさという問題だ。何かを説明するには「言葉」によって説明をせねばならず、しかし「言葉」を用いた時点で既に、説明しようとするものとは異なってしまうという矛盾。
しかしまた、「言葉」は力でもあり、言葉が持つ力によってこの世界は創造されたとする考え方は、あらゆる哲学において非常に根深い。
この「言葉が持つ力」については、ちょうど今興味を持っていたテーマとぴたりと重なったので、その点、この本ほど詳しく説明されている本は他にはなく、とても参考になった。


【名言】
リルケにとって、ものをその普遍的「本質」、すなわちマーヒーヤをとおして見ること、つまりコトバの普通の意味文節の網目をとおして「本質」定立的に認知することは、ただちにそのものの本源的個体性を最大公約数的平均価値のなかに解消してしまうことを意味した。我々がXを「花」と認めるとき、Xはその一回限りの独自性を奪われて、公共化され、画一化される。Xが花であるという形で意識されるとき、XはもはやXという個物ではなくて、どこにでもある無数の花の一つになってしまう。人間の日常的存在世界とは、マーヒーヤの生み出すそのような平均価値の巨大な体系機構にほかならない。(p.51)

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個別実在性として直観すべきことを彼は説いた。(中略)この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。(p.57)

程伊川が曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積もると、突然、自らにして貫通体験がおこるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。(p.95)

中国と日本を通じて、傑出した禅師たちの現在に伝わるおびただしい言葉の中で、「文節(I)→無文節(II)」の全体構造を的確かつ明快に提示したものといえば、青原惟信の「見山(水)是山(水)」→「見山(水)不是山(水)」→「見山(水)祇是山(水)」にまさるものを私は知らない。(p.145)

コトバの自己顕現の過程において、「深秘の意味」が言語アラヤ識に直結する最初の一点、コトバの起動の一点、を真言密教は「ア」音として捉える。いわゆる阿字真言、「阿字本不生」である。(p.232)

実範の『阿字義』に、「阿字は、すなわち是れ、本不生不可得空なり。この畢竟不可得空は衆徳を具足して、普く一切諸仏の法を摂す」と言われている。すなわち、いやしくも意識が意識として起動し、存在が存在として現れようとする時、「無」から「有」へのこの微妙な転換点に、必ずコトバが「ア」音の形で発現し、絶対無文節者の自己文節はそのまま進んで一切万有まで展開していく、というのだ。(p.234)

日本とでも「コト」は言であり事であるなどとよくいわれるが、ヘブライ語のdavarという語は明確にこの両義をもつ。つまり言葉と事物とを同一視するのだ。言い換えると、ヘブライ語を母国語とする人々の深層意識では、言葉とものとはもともと一つなのである。言葉とものとの、この深層意識における同一性の覚知を基礎として、その上にカバリストは彼ら独特の言語哲学を構想する。(p.235)
禅を無彩色文化とすれば、密教は彩色文化だ、と言った人がある。たしかに、密教的世界は極彩色の世界だ。禅は、「無」の境位における存在リアリティーの無色性を強調し、経験界、現象界についても、その「無」的性格を重視する。経験界の雑多で華麗な色彩の只中にすら、そこに顕現する「無」の無色性を、禅は見る。(p.254)

永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって粉乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論と正名論は一である。(p.298)

よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳したとたんに形象が違ってしまう。日本語で「パン」と訳せばますますです。はじめから食物の文節、つまり区分けの仕方が違っている。つまりずれがあるからです。それに第一、日本人の「パン」とフランス人のpainでは、それを取り巻く生活環境が違います。フランス人の生活の匂いの染み込んだpainを、今では日本的生活の一部になりきってしまった「パン」で置き換えても、意味内容は正確には伝達されない。(p.385)

単純率直に申しますと、形而上的深みを欠いた水平的言語コミュニケーションは、禅に言わせれば実存的意味のないあだ事であります。他人を理解しなければならないとか、他人に自分を理解させなければならない、などと申しますが、もし当の私が自分自らを理解しないでおいてそんなことをして一体何になるでしょう。それがまさに禅の問題とするところなのであります。(p.408)

【書評による対話】

藤沢烈BLOG

(彼のコメント)
ため息がでた。衝撃的な一冊だった。井筒さんのような方が、日本人におられた事が誇りになるし、ご存命中にお目にかかりたかった。
東洋哲学を、本質の見方に従って縦横無尽に区分・展開したのが本著だ。カバーする領域は、禅、朱子学、国学、イスラム、インド哲学からキリスト神秘主義にも至る。私が理解できたのは1割にも満たぬ。自分の思想の広がりを確認するために、死ぬまでに節目節目に読み返す一冊になるだろう。これが840円なのは奇跡、としか言いようがない。
今回は出現する未来、の関連から朱子学の箇所を引用した。
出現する未来では「思考を止める」と表現される部分を、朱子学では『静坐』と呼ぶ。その後『格物窮理』と呼ばれる意識によって、深層意識の奥底を体験することになる。これが宇宙につながる、とのことであろう(言うまでもなく、宇宙とは地球の外という意味ではなく、森羅万象をさす)。
引用した程伊川(北宋時代の儒学者。朱子学源流の一人)の言葉から、今の私の読書や行動がつながる。
読書とは、物をとらえ、理をきわめる一作業。表面的な知識ではなく、その裏側の本質を見極めていくこと。しかも、日々一つ一つ実践することにより、突如深層意識とつながり、次元がひらかれるという。
読者や行動により、断続的に自分の次元をあげていく。その先に、自分の役割が見えていくはずだ。

(水晶堂送辞)
烈が「理解できたのは1割にも満たぬ」と書いているのを読んで、ホッとしました。オレも9割以上、何言ってるんだかわからなかった。
上記で引用されている朱子学のくだりも面白かったけれど、オレが興味をひかれたのは、木戸さんが教えてくれた、「あ」から始まる、言語による世界体系が非常に詳しく説明されていたことでした。
まだまだ自分が知らない知識の中に面白い世界が広がっていることを感じさせてくれる、非常に密度が濃い本だった。

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2008年03月19日

「大人の逸品」グランドピアニスト

セガトイズが発売している「大人の逸品」シリーズが熱い。
今日紹介するのはグランドピアノ。(あと何回か紹介する予定)。

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写真で見ると、一見、普通のグランドピアノなのだけれど、その正体は鍵盤の幅4mmの超ミニチュアピアノ。
SDカードを挿すと、曲データを読み込んで自動演奏してくれる。
しかも!鍵盤が曲にあわせて動く。ものスゴい技術だ。

しかも!鍵盤もダミーではなく、鍵盤を押すと、本当に音が出る。
幅4mmなので、実際に弾けるのは目玉おやじか「南くんの恋人」のちよみぐらいなわけですが。この細かい部分のこだわりは実に熱い。

ホームスターの成功で、大人向けのこだわりアイテムの市場が拓けてきたのだろう。スゴくいい!
こういうのは、特にプレゼントに最適だなあと思う。

■「大人の逸品」グランドピアニスト
http://www.segatoys.co.jp/products/adult/grand-pianist/
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2008年03月18日

闇金ウシジマくん

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闇金ウシジマくん(真鍋昌平/小学館)

※2008年3月現在、10巻まで発売中

個人的に、ベストコミックオブザイヤーになりそうな予感がする本。
消費者金融からも金を借りることが出来なくなった人に金を貸す、「闇金融」にまつわる世界を描いた作品。その利息は、十日で五割(トゴ)または一日三割(ヒサン)。「ナニワ金融道」も、裏の金融業界を扱った話しだったけれど、あれよりも数段コワい。数段、絵も上手くて読みやすい。
登場人物が、アウトローな人物ばかりで、カタギの職種の人は、ほとんどまったく出てこない。言い方を変えれば、この作品には、社会的に弱い立場の人ばかりが登場する。
力を持った人が、力が弱い人を見つけて、踏みにじる。
その、踏みにじられた人は、自分よりも更に力の弱い人を見つけて喰い物にする。
その連鎖の先は、遠くに霞んで見えにくくなっているけれども、それが行き着くところは社会のどこかに確かに存在している。

幕末や戦国時代の動乱の時期には、傑物が雲のように湧き出たけれども、それは、それらの時代に特別に人材が多かったわけではなく、乱世のほうが目立ちやすいというだけで、どの時代にも等しい割合で人材というのは存在しているものなんじゃないかと思う。
この主人公の丑島という人物は、肝がすわっていて、常に冷徹で、決断が早く、行動力もある。こういう、乱世であれば奸雄になるような人物は、現代の日本のような治世に生まれれば、能臣になるか、さもなければ闇金融でも始めるんじゃないだろうか。

ここまで救いのないマンガというのもスゴい。闇金融で金を借りる客は「奴隷くん」と呼ばれるが、その奴隷くんたちは、どこまでもどこまでも堕ちてゆく。この作品には、美しい夢は一片も描かれていない。全体的にポップな、独特のノリがあるのだけれど、それにもかかわらず重い。
作品の中には、街の風景のみをポツリと描いたコマが時々現れる。その景色はどれも、街が持つ殺伐とした、乾いた空気を切り取っていて、美しくさえある。
そして、さらに特徴的なのは「眼」だ。よく、眼のアップのコマがあるのだけど、その眼がコワい。獣の目との区別がつかない、原始的な恐れに訴えかけてくるような眼は、この作品の根底に流れる、狂気を象徴している。
この作品に出てくる登場人物はどれも非常に個性が強いが、特に、「リロ&スティッチ」のスティッチに似た、肉蝮というキャラのインパクトはスゴかった。こんな人間に関わってしまったら、そこで人生終わりだろう。


【名言】
「かっ・・肝臓とか売るンスか?」
「は?そんなのどこの誰に売るワケ?知ってたら教えてくれよ!」(1巻)

「一度なくした信用取り戻すのは、最初に信用作るより大変なんだ。」(2巻)

「ジャニヲタの誓いは全部叶わないと思う。誰にでも出来る簡単なコトが本当に出来ない人間もいる。ジャニヲタはそーゆー人間だ。僕もそーゆー人間だからよくわかる。」(4巻)

私はもう若くない。今日よりも明日と一日ずつ価値が下がってく。今までは、人間関係も仕事先も、住む場所も、嫌になればすぐ替えてきた。年を取ると、バイト先すら選べない。でも、私にはお金がある。お金があれば安心出来る。でも・・一生暮らせるお金じゃない。(6巻)

「偽名で都合のイイ自分演じているとね、失敗してボロが出ても、2度と会わなければイイだけでしょ?だから、今はフツーに話せるンです。でも、学校の友達とかは簡単にリセット出来ないでしょ?誰にもキラわれたくないから、気を凄い遣って意見とか合わせるんだけど・・疲れるんですよ、すっごく・・。」(8巻)

俺が思ってるよりも俺は変わっちゃったのかな?見た目も、中身も。
友達がいないって、こーゆー事か。俺には、自分の立ち位置を映してくれる人がいない・・。(9巻)

2008年03月17日

アホのスープ

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タパスタパスには「アホ(にんにく)のスープ」というメニューがある。
ぐつぐつと煮えたぎったスープの中に、にんにくと、パンが入っている。
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オイリーなために沸点が高くなってるからと思うのだけれど、やたらと熱く、油で揚げているかのように、中でにんにくがパチパチと爆ぜている。
このスープが出てくるといつも、冷めないうちに食べなきゃ(何故?)と思って、あわてて飲み、案の定、毎回やけどする。
その時は大丈夫に思えても、後で、唇がただれる(医学的には、糜爛状になる)。まさにアホのスープと呼ぶにふさわしい。

2008年03月16日

自由からの逃走

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自由からの逃走(エーリッヒ・フロム/東京創元社)

ここまで素晴らしい本に、一生のうちにいったい何冊出会えるのだろうと思うぐらいの名著。
名言を抜き出そうとすると、ほぼ全ページにわたって名言だらけなので、丸ごと本をコピーしたほうが早いぐらいのことになってしまう。

そもそも、タイトルからして秀逸だ。
「自由」というのは、普通は、肯定的な意味で使われる。
自由は素晴らしいもの、もっと自由になりたい、という言い方をされる。
その自由から、「逃走」をするという。何故か?
自由というのは良い側面だけではないからだ。自由などというものを持ったおかげで、人は連帯感を失って、どうしようもないほどの孤独にもおちいる。

中世の封建社会の時代には、国王や領主を除いた個人個人に「自由」などというものはまったく存在しなかった。それぞれの役割や、日々やらなくてはいけないことをはじめとして、生き方のすべてが規定されていた。
それはしかし、そもそも「自由」などという概念がない時には、極めて自然な姿だったし、そのことに特別な疑問を持つこともないまま、家族や近隣の人々と、それなりに幸福に暮らしていた。
自由がないことが、そのまま不幸なことであるとは限らないのだ。
ルネサンスや宗教革命が起こって以降、自由という概念が生まれてしまってからは、中世は個人が尊重されることのなかった暗黒の時代などと言われることになったけれど、それは一つの価値化に縛られた、非常に偏った見方なのだということを、この本から知った。

話しの論理展開の仕方が非常に上手で、学術論文のような堅さを消しつつ、適度に親しみやすい事例を豊富に出している点も良い。他の著書から言葉を引用する時の、その文章についても、よくこんなにドンピシャな内容を見つけたものだ、と感心するような引用が多い。

この本が、ここ十年くらいのうちに書かれたというなら、まだ衝撃は少ない。
しかし、この本が出版されたのは1941年。まだ、第二次世界大戦の行く末も定かでない時代から、その後アメリカが主導することになる資本主義経済や、自由至上主義の本質について、ここまで詳しく見抜いているというのは、スゴすぎる。

大衆になった時に、人はいかに「個性」や「自由」を自ら捨てることで、強大な権力に身をゆだねようとするか、という心理的状況について、フロムはナチスのやり方を例に出して細かく検証をしているが、これが書かれた時はまだ、ナチスがドイツにおいて圧倒的な支配力を持っていた時代であり、しかも、フロム自身もドイツ人なのだ。

東京創元社の「自由からの逃走」は、2008年現在すでに115版を重ねている。
この本は、この先も長い間、おそらく資本主義経済そのものよりも長生きをして、読み継がれていくのではないかと思う。


【名言】
根本的に人間のパーソナリティは、特殊な生活様式によって形成される。たとえば子どものときにすでに家族という媒介をとおして、かれは特殊な生活様式に直面している。そして家族というものは、特定の社会や階級に典型的な特徴をすべて具えているのである。(p.25)

近代社会とくらべて、中世社会を特徴づけるものは個人的自由の欠如である。当時ひとはだれでも社会的秩序のなかで、自分への役割へつながれていた。社会的にいっても、一つの階級から他の階級へ移るような機会はほとんどなく、一つの町や村から他の場所へ移るという地理的な移動さえ、ほとんど不可能であった。わずかの例外をのぞいて、生まれた土地に一生踏みとどまらなければならなかった。またときには、自分の好む衣装をつけることも、好きな物を食べることさえも自由ではなかった。(中略)しかし近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。(p.52)

ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅却とを要求した。ルッターの「信仰」は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点をもつ解決方法である。(p.90)

催眠術、とくに術後暗示の実験から、なにが証明されるであろうか。そこから明らかになることは、われわれは、思想や、感情や、願望、さらにまた官能的感覚さえも、自分自身のものを主観的に感じながらもつことができるということ、しかしわれわれがこれらの思想や感情を経験しているとしても、それは外部からあたえられたもので、根本的にわれわれと無縁であり、われわれが考えたり感じたりしているものではないということである。(p.207)

能動的な思考から生まれてくる思考は、つねに新しく独創的である。独創的ということは、必ずしも他の人間が以前に考えなかったという意味ではなく、考える人間が、自分の外の世界にしろ内の世界にしろ、そこになにか新しいものを発見するために、その手段として思考を用いたという意味においてである。(p.213)

女給であれ、外交員であれ、医者であれ、自分のつとめを売ろうと望むならば、感じのよいパーソナリティーをもつ必要がある。ただ社会的ピラミッドの底辺にあって、自分の肉体的労働しか売るもののない人間と、ピラミッドの頂上にいる人間だけが、とくに感じをよくする必要がない。(p.269)

2008年03月15日

ダロワイヨ

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自由が丘で、なにかテイクアウトして昼ごはんを買いたい場合、正面口改札を出て目の前にあるダロワイヨのパンは旨い。
自由が丘はパン屋だらけで、さらに、パン屋だけでなくケーキ屋やカフェでも、ひっそりと地味にパンが売られていることがある。
ダロワイヨは、手前においてあるケーキがやたら目立つので、それしか売ってなさそうに見えるのだけれど、奥のほうに行くとパンや弁当がある。

特に好きなのは、180円の、「チキンバジル」というパン。
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ダロワイヨの場合、小さなケーキが500~600円くらいすることを考えると、このパンはかなりお買い得なんではないかと思う。

2008年03月14日

無境界

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無境界(ケン・ウィルバー/平河出版社)

この本のタイトルにある「境界」という言葉は、「自分」と「自分以外」の間にある境界のことだ。その境界をどこに引くかは、それぞれの人の考え方によって、だいぶ違う。
「意識」と「無意識」に境界線を引いて、その「意識」が自分だという考え方もあるし、「思考」と「身体」に境界線を引いて、その「思考」が自分だという考え方もあるし、「自分の皮膚」を境界線として、その「内側」が自分だという考え方もある。
そして、もう一つ、そもそも境界など存在しないとするという考え方がある。ジョン・レノンが「I AM THE WALRUS」で歌った、「I am he as you are he as you are me and we are all together.」は、まさに「無境界」ということだろうと思う。

この「無境界」という概念については、言葉では絶対に表現することが出来ないという矛盾が最初からある。言葉自体が、物事の中に「境界」を引くために存在しているものだからだ。
だから、ここで説明されていることは、結局のところ、言葉の意味を読み解くというよりも、自分自身で感覚的に理解するしかない。
この本は、色々な思想の寄せ集め的なところがあり、仏教やら道教やら精神分析やら色んなところからとにかく山ほど言葉が引用されているのだけれど、それらを元に「考えるな。感じろ。」と言っているような雰囲気だ。どちらかといえば心理学書であり、セラピーの手順についての手引きにも近いところがある。

それにしても、人類がこれまで一生懸命に頑張って積み上げてきた科学という学問が、色々なものに明確な境界を引くことを主な目的としてきたことを考えれば、いったい何のために人はわざわざ技術を磨いて、バラバラに孤独になる方向に向かってしまったのだろうと、途方に暮れてしまう。
本の中で、量子論が登場した時のことについて、「そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった」という説明には笑った。量子力学によって、これまで科学が積み上げてきたものがいったん崩れてしまった今の時代というのは、新しいパラダイムが生まれる大きな節目なのかもしれないと思う。
そして、この「無境界」という概念は、東洋思想においてこそ最初の最初から常に意識され続けてきたことであり、この時代に、この日本という国に生まれた身として、今、この本に出会えて良かったと思っている。

【名言】
決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの境界線を引くことである。何かを欲するというのは、楽しいものと苦痛なものとに境界線を引き、前者を求めることである。一つの考えを主張するというのは、真実だと思える概念と真実でないと思える概念に境界線を引くという意味である。(中略)われわれの生活がさまざまな境界を設けるプロセスであることは明らかである。(p.39)

「量子革命」がなぜそれほどの激変であったかを理解するためには、二十世紀の曙までに科学の世界が1400年にわたる驚くべき成功を享受していたことを思い起こさなければならない。少なくとも、古典物理学者たちの目から見ると、宇宙は個別の物事のすばらしくはあるが不明瞭な一つの集合体であり、個々の物事はそれぞれ時間、空間の明確な境界によって、完全に隔離されていると見られていた。さらに、惑星、岩石、流星、リンゴ、人々のようなこれらの個別の実体は、正確に測定し、数量化できるものと考えられていた。そしてこのプロセスから科学的な法則や原理が生み出されてきたのである。この手法があまりにも成功したために、科学者たちは自然界全体がこれらの法則に支配されていると夢見るようになった。(中略)ところが、そうではなかった。まったくだめだったのである。そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった。(p.68)

ウエイ・ウ・ウエイは次のように語っている。
何故あなたは不幸なのだろうか。あなたが考えること、あなたが行うことの99.9パーセントがあなた自身のためであるにもかかわらず、あなたなどいないからだ。(p.97)

禅師雪峰は、つぎのように語っている。「もし、永遠が何を意味するか知りたければ、それはこのいまの瞬間をおいてほかにない。この現在の瞬間にそれをつかまえられないとすれば、何百万年にわたって何度生まれ変わろうとも、それをつかまえることはできないであろう」(p.111)

もし相当強い否定的な感情-完全な怒りの爆発-が生じてきたとしても、それほど心配するにはあたらない。それがあなたの人格のおもな部分を構成しているわけではないからである。演劇で端役が初めてステージに出てくると、全体の配役のなかではまったく重要ではないとしても、観客の目はすべてその端役に注がれる。それと同じように、何らかの否定的な感情が自覚の舞台に初めて登場すると、自分の感情の全配役の一断片にすぎないとしても、一時的に目を奪われてしまうことがある。だが、舞台裏でうろついているよりは、表に出てきてもらったほうがはるかにましである。(p.199)

あらゆるおとぎ話しの冒頭の「むかし、むかし」は、実際には「時を超えれば」という意味であり、それにつづき話しでは一時的に空間と時間が停止され、遊びが至上となって何でも起こりうる。神話の言語とイメージは線形的論理と抽象的思考より真のリアリティに近い。真実の世界が無境界だからである。(p.215)

【書評による対話】
藤沢烈BLOG

(彼の書評)
1998年、私は狐の木というサロンを経営していた。関係していたメンバーは、実に様々な道を歩んでいる。どこか世の中の枠組みから外れ、自分を生きている者が多いことだけ、共通している。年末には西麻布の辰野まどかの実家に皆集い、朝まで飲みながら、一年を振り返り、来年を想う。私は来年何をするか言葉で出すことはできなかった。ただ、自分なりの生き様を歩めればと思った。
 ケン・ウィルバーの『無境界』は、2007年の最後に読んだが、そして最も自分に影響を与える一冊となった。内の悩みと外の戦いの理由。悟りの理解。それは修行の先になく、いまここに在ること。自分の過去と将来を繋げる役目を、この一冊は担ってくれた。
 大晦日の気分がそうさせるのかもしれない。ケン・ウィルバーを読んで、これからの自分の在り方を決めたくなった。彼が指すところの無境界。これを思想として語るのではなく、生き様として社会に現すこと。2008年に向けた、小さな決意である。

(水晶堂送辞)
烈が、「大きな影響を受けた本」として紹介してくれたのと、丁度、尚志が読み始めたところだったので、最優先で読むことにしました。
オレも、この「無境界」ということは、思想として語るのではなく、生き様として表現をする以外にないのだと思っている。
あらためて思ったことは、やはり、目的達成思考で、不足しているものを逆算するという考え方は、この「無境界」から離れるアプローチになってしまうということ。「今、ここ」にすべてが不足なく存在しているという考え方を、これからの指針にしたいと思っているよ。

多苗尚志のヘヴンズドアァァァァッッッ

(彼の書評)

なんというか、あまり新しい発見はなかった。
これまでみてきたものの確信を強めるものだという感じがした。

気になるのは、方法論や導師との出会いを勧めていること。
そんなものは存在しないのだ。
いや、すべてがありだから、これもまたアリなのだ。
だが、己は好きではない。
嗜好の選択だ。

と、ここまで書いてもう一度読み返し、↓の言葉に出会った。

『超個的自己を根源的に直感し始めた人であれば、存在するのはただ1つの自己であり、その自己が様々な形態を装っていることに気づき始める。』

これはスゴい。
そうだ。
そういうことだ。
ひとつなんだよ、元から。
だから言ってるじゃないか。さっきから。
なにを分かっていたんだよ。
ひとつなんだよ、すべて。
だから、己はあなたで、あなたは己なんだ。

我思う故に我あり
思考などに我はいない
我は既にあるのだ

原因にして結果
道にして目的地
「あ」にして「ん」

この世界がそのままで美しいことはよく分かった。
だが、世界はまだまだ哀しみに彩られている。
出発も到達もない。
だが、己は自分の「嗜好の戯れ」をもって世界にアクセスしたい。

(水晶堂送辞)

たしかに、「存在するのはただ1つの自己」というのは、近頃、聞き飽きた話しではあるのだけれど、それでもなお残るのは、今思考しているこの存在が、何故、ほかでもないこの身体を選んでいるのかという疑問だ。だから、オレは実感としてはまだ「己はあなたで、あなたは己」と思えていないところがある。
出発も到達もないという感覚は、同じくそう感じる。
皆が皆、既にあるべき場所にいるのだから、残るのは、いかに興味が指し示すままに考え尽くせるかということだけだと思っているよ。


(水晶堂書評に対する多苗氏コメント)

> いったい何のために人はわざわざ技術を磨いて、バラバラに孤独になる方向に向かってしまったのだろうと、途方に暮れてしまう。

君らしいコメントだ。笑。
感覚的に分かっていたことを科学的方法論で証明するためにここまで来たんじゃないかと己は思うよ。
大学受験とかでテストを受けて自分は合格してるって肌で感じてるのに、やっぱり答えをみないと気が済まないって奴が大勢いたんだろうな。
でも、科学のお陰で哲学は更に進歩したんじゃないかな。
君もご存知の通り両者は補完関係にあるわけだ。
でも、「統一意識」が哲学のゴールである真理だとすればそれ以上なんの進歩があるんだって感じもするね。

己は真理を知っても、なお生き続けるよ。
当然ね。
残るのはただ「嗜好の戯れ」だ。
己は道にして目的地なのだから、なにかの成功や成就にはなにも意味がない。
意味がないから戯れなんだ。
残るのは嗜好による選択のみだ。
己の好きなように世界にアクセスするのだ。

(そのコメントに対する水晶堂送辞)

科学的方法論がなかった時代の人のほうが、今の人よりも「無境界」の概念についてはよほど理解がしやすかったんじゃないかと、オレは思っている。
ただ、じゃあ科学的方法論は必要なかったのかというと、そうではなく、科学によってテストの答えあわせを一通りやり尽くしたところで、それら全てがいったん大きくくつがえされた後に、また揺り戻しが起こって、昔の人よりもまた一段高いステージ上で、「無境界」という概念を理解する時が来るのではないかと思う。
そう、科学によって、また、大きな周期で、今度は再び哲学が大きな進歩を遂げる順番なのかもしれないな。


(水晶堂が藤沢氏に向けたコメントに対する多苗氏コメント)
あらためて思ったことは、やはり、目的達成思考で、不足しているものを逆算するという考え方は、この「無境界」から離れるアプローチになってしまうということ。「今、ここ」にすべてが不足なく存在しているという考え方を、これからの指針にしたいと思っているよ。

そうそう。
だから、アレだよ。
「ここにあなたの満たされた感覚を示すコップがあります。
 コップには水がどれくらい入っていますか?」

と尋かれて、
「1杯は既に満杯です。
 それ以上に水を入れています。
 一杯以上は何杯満たしても満たさなくてもなんの意味もありませんが
 楽しいのでやってます。
 今、52杯目かな…」
 って答えなわけだ。

(そのコメントに対する水晶堂送辞)

そうそう。
オレのイメージでは、52杯目とかも、もうまったく関係なくてね。
ただ滔々と水を注ぎ続けながらも、いつまで経っても一杯は一杯の状態で変わりはないんだけど、止まっている状態の水よりも、循環している水のほうが美味しそうでしょ、という感じだよ。


水晶堂書評に対する多苗氏コメントに対する水晶堂送辞に対する多苗氏コメント

> それら全てがいったん大きくくつがえされた後に、また揺り戻しが起こって、昔の人よりもまた一段高いステージ上で、「無境界」という概念を理解する時が来るのではないかと思う。

んん?
どういうことでしょう?くつがえされるというのは。
無境界というのがひとつの真理であれば、これ以上はそれを知る人が増えるということだけじゃないでしょうか。

(そのコメントに対する水晶堂送辞)

「無境界」という概念の世の中での理解のされ方にも、質・量ともに段階があるということで、科学の側から哲学の側に揺り戻しが起こった後には、今までのどの時代よりも、質・量ともにパワーアップして世の中に理解されるだろうということ。
たとえば、コペルニクスの地動説は、それが発表された当初は「はぁ?何それ?」扱いだったけれど、現代ではそれ以外の世界観を想像することすら難しいぐらいの常識として、人の頭の中に定着してしまっている。
いつか、そのぐらいのレベルの常識的な概念に「無境界」もなるのではないかという想像。

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2008年03月13日

インサイド・マン

インサイド・マン

50人の人質をとって籠城する銀行強盗の話し。この作品は、「何のために」「どうやって」銀行強盗を実行しているのかがポイントになっていて、ちょっとサスペンスの風味が入っている。銀行強盗と渡り合う刑事や交渉人のほうも、いずれも腕利きで、その駆け引きが面白い。
デンゼル・ワシントン、クライブ・オーウェン、ジョディ・フォスターの3人とも、持ち味がうまく出ていて、その点も良かった。

とにかくスゴいのは、銀行強盗犯の頭の良さと、計画の用意周到さだ。
この映画のプロットは、細かいところまで本当によく出来ている。さりげない一言や、犯人の小さな動きに実は大きな意味があったことに、2回目を見て初めて「なるほど!」と気づいたところがたくさんあった。銀行強盗を題材にした映画は数あれど、その中でもとりわけ、犯人がカッコいい作品だ。

2008年03月12日

哲学と科学

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哲学と科学(澤瀉久敬/日本放送出版協会)

NHK教養大学の講座として、ラジオで放送された内容を元に書かれた本。
もともと、講義の形をとったものなので、授業のように、読者に向かって語りかける文体で書かれている。重要な部分は繰り返し、懇切丁寧に説明がされていて、とてもわかりやすい内容になっている。

哲学と科学という2つの方法は、ある意味では真逆のアプローチをするものであり、科学が分析によって現象を知ろうとするのに対し、哲学は分析をせずに全体から本質を知ろうとする。
その他に、相反する性質を持つ点としては、
・科学は実験を重視するのに対して、哲学は直観を重視する。
・科学が外から見るのに対して、哲学は内から観る。
・科学が空間を扱うのに対して、哲学は時間を扱う。
などがあり、この本が面白いのは、「どちらか片方だけでは不完全で、2つの方法がお互いを補完して、初めて人の役に立つ学問となり得る」と主張しているところだ。

この筆者の語る言葉はとても詩的で、単に「哲学と科学」それぞれの方法を説明するにとどまらず、人の為す学問というものがいかに崇高なものであるかということを訴える熱意が、とてもよく伝わってくる。
もし、大学時代にこの人の講義を聞いたとしたら、きっと自分は、その授業をとても好きになっただろうと思う。


【名言】
哲学というものはひとに見てもらうためにするものではありません。ひとからほめて貰うためにするものでもありません。いい成績を取るために哲学を勉強したり、他人から認められるために論文を書いたり、知らぬことを知った振りをするために哲学を勉強するほど、哲学にとって外道はありません。一言にして言えば、「衒う」ということが哲学の最大の敵なのです。哲学はただ自分一人のためにするものです。あるいはただほんとうのものを知るために、ひとは哲学するのです。(p.13)

一体、哲学は万人の学です。哲学するためには地位も要らず、肩書きも要りません。またそれをする人の職業も問わず、男女の性も問題ではありません。哲学は裸一貫の学問です。しかし、このように哲学が万人の学であるということは誰にでも容易に出来るということではありません。哲学するためには、いかなる問題に対してもあくまで闘い抜く強靭な精神が必要なのです。(p.18)

哲学というものはフランスのモラリスト達の得意とするような哲学的警句に終わってはならないのです。哲学はどこまでも論理的な体系をもたねばなりません。この点日本人は、一般的に言って、モラリスト的な哲学的警句つまり気のきいた言葉をよろこんで、体系化された哲学を嫌い、したがってまた、体系化への努力を欠きやすいのですが、これは改められねばならぬことだと思います。(p.66)

2008年03月11日

花粉がひどい

今年も、花粉が飛びはじめている。
くしゃみと鼻水と目のかゆみが、花粉症の症状だけれど、くしゃみが続くと、喉も痛くなるし、熱も出るしで、こうなると風邪となんら変わるところがない。

毎年、花粉の時期には「しばらく経てば花粉もなくなるから」と、なんとか耐え忍んできたけれど、今年のこの飛びようを見るに、これからかなり花粉が猛威をふるう予感がしている。

で、耳鼻科に行って、何に反応するアレルギーがあるのかを調べてもらった。
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反応があったのは、スギ、イネ、雑草。
スギよりも、どちらかというとイネのほうがアレルギーが強いらしい。
イネは5月~7月頃に飛ぶので、他の人よりもちょっと遅い時期まで花粉症の症状が続く理由がわかった。

この症状が、季節限定のもので本当によかった。
これが慢性的に一年中続いていたら、真剣に国外脱出を考えただろう。

2008年03月10日

完訳 ペロー童話集

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完訳 ペロー童話集(ペロー/岩波書店)

シャルル・ペローが、17世紀に、それまでに伝わっていた民間伝承をまとめて、物語の形でわかりやすく書き残した童話集。
有名どころでは、「サンドリヨン(シンデレラ)」「長靴をはいた猫」「赤ずきんちゃん」「眠れる森の美女」などの童話が収められている。
民間伝承というと、マザーグースのような、意味がわかりにくい、ちょっと不気味な感じがするものかと思っていたけれど、この童話集は、シンプルすぎるくらいにわかりやすい話しばかりだ。
話しの中には、人を食う王妃や、自分の家の地下室で何人もの妻を殺している男など、色々ととんでもない登場人物は出てくるけれど、そういう人物は結局、退治されることになる。
この童話集は、それぞれの話しに作者による「教訓」がつけられていて、要するに子供に聞かせることを一番の目的としているので、基本的には勧善懲悪のストーリーになっているんだろうと思う。
唯一の例外が「赤ずきんちゃん」で、一般に知られている物語は、最後には猟師が狼の腹を裂いて赤ずきんちゃんは助かるというハッピーエンドなのだけれど、それは、オリジナルのストーリーに後からマイナーチェンジを加えたバージョンであるらしい。
この、ペロー版の物語に添えられた教訓は、「誰にでも耳を貸すのはとんだ間違い」。結構すごい結末になっている。

【名言】
「サンドリヨン」の教訓
美しさは女性にとってまれな財産、
みな見とれて飽きることはない、
しかし善意と呼ばれるものは、
値のつけようもなく、はるかに尊い。
これこそ名付け親がサンドリヨンにさずけた賜物、
熱心に仕込み、教育したので、
ついに王妃にまで仕上げえた次第。
(この物語の教訓はこうしたものだろうか)

美しいかたがたよ、この賜物は、美しく髪を結うことよりはるかに大事、
男の心を惹きつけ、目的をとげるには、
善意こそ仙女の真の贈物、
それなくしてはなにも出来ず、それあればすべてが可能。

もう一つの教訓
間違いなく有利なことは、
才知と勇気、家柄と良識、
神よりさずかった天賦の
その他もろもろの才能に恵まれること。
しかしそれらを持ち合わせても無駄なこと、
出世には何の役にも立たぬ、
もし、それらの才能をいかす、
名付け親の代父や代母がいなかったなら。(p.222)

2008年03月09日

突然変異による進化がどれほど起こりにくいか

生物の進化は「突然変異」と「自然淘汰」によってランダムな選択の結果おこなわれてきた、という説が現在有力だけれど、その説を否定している、フレッド・ホイルという天文学者のたとえ話しが面白かった。


選択肢がそれほど多くない場合でも、ランダムな選択によって有効な結果が生じるにはあまりにも時間がかかりすぎる。

目の見えない人が、めちゃくちゃに乱れたルービックキューブの色の面を揃えようとしているとしよう。この人は、ピースをねじるたびに、それによって色を揃えるという最終目標に近づいたのか、そこから遠ざかったのかを知ることができないという不利な条件を負っている。
彼はでたらめに試行錯誤することしかできず、そのため彼が六つの面の色を同時に揃えることができる確率は、1と、5×10の18乗分のあいだの範囲にあることになる。彼が一回の操作をするのに1秒ずつ使って、可能な操作のすべてを行うとすると、5×10の18乗秒かかることになる。だが、それは彼には不可能である。なぜなら、5×10の18乗秒は、1260億年に相当するからである。これはこの宇宙の年齢の約10倍の時間である。

この目の見えない人が、作業をしながら助言をもらえるとすると、この状況は一変する。彼が操作するたびに、それが正しいときは「イエス」、間違っているときは「ノー」という助言を正しく与えられるとすると、彼がキューブの色を揃えるのに必要な操作回数は確率の法則によって平均で120回となる。
1秒に1回の速さで操作を行うとすると、彼に必要な時間は1260億年ではなく、たったの2分となる。

このたとえ話しは、とてもわかりやすくて良い。

進化というのは偶然の成り行きにまかせた場合、上手くいく可能性はゼロではないけれども、果てしなくゼロに近いということで、なんらかの方針にもとづいたアシストがあると考えるのが妥当という話し。

2008年03月08日

フェイスキャッチ

今使っているデジカメ(FUJI Finepix)には、「フェイスキャッチテクノロジー」という機能がついている。
自動的に「人の顔」だと思われるところを判別して、そこにピントを合わせるという機能なのだけれど、まあ、普段使うことはない。

先日、レストランで出てきた食事の写真を撮る時、試しにこの「フェイスキャッチテクノロジー」をONにしてみたところ、このデジカメは色々なものを「顔」だと勘違いした。

緑色の枠部分が、カメラが「顔」と判定したところ。
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これはまあ、色味が顔っぽかったんだろうと思う。

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これは、形が顔っぽかったらしい。
気持ちはわかる。

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これは、納得。
「パイレーツオブカリビアンに出演したスネオ」っぽい雰囲気がある。

結局・・フェイスキャッチテクノロジーを使うことは今後もないだろう。

2008年03月07日

神々の沈黙

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神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡
神々の沈黙(ジュリアン・ジェインズ/紀伊國屋書店)

今から3000年以上前の人々には「意識」がなかったのだという仮説を、「イーリアス」「オデュッセイア」などの古代の様々な文献や、壁画などの資料を基に、丹念に検討して解明していく、巨大スケールの解説書。とにかく、古代文明についての調査の細かさと、その仮説の隙のない緻密さがハンパじゃない。
「意識」がなかった時代、人はどうして生活をしていたかというと、「右脳に聞こえてくる神々の声」に従ってすべての行動を決めていたのだという。今から3000年前というと、人類の歴史からすればつい最近のことで、これはびっくりする話しだ。

人は、自分の「意識」というものをかなり信頼しているけれど、それは、「意識」=「自分」という思い込みがあるからだ。
「我思うゆえに我在り」とは言っても、思わなかったことは自分自身では把握出来ないのだから、「我思わなかったとしても我在り」なのかもしれない。
「意識」というものは実は、アイデンティティーをそれほど明確に保障してくれるものではないだろうと思う。

学問的には、この本で説明されていることはまだ仮説の段階なのだけれども、これだけ筋道だった解説で、はっきりとした証拠を挙げられると、疑う余地がないくらいの説得力を感じる。
ある程度以上の人口が集まれば、そこには国家や文字を成立させなければいけない事情が生まれて、それらをきちんと存続させるには、どうしても「意識」を人が持たなければならなかった。そして、いったん意識を持ってしまった人類は、もう、元の「意識がなかった」状態には戻ることは出来ない。

自分の意識というものを持たず、頭の中に聞こえる声に忠実に従って生きるというのは、現代の感覚からすると奴隷のような不自由さにも思えるけれど、悩みを持つことがない分、幸せな気もする。
「意識」を持つことと引き換えに神の声が聞こえなくなるというのは、人類にとって進化ではなく、退化だったのかもしれないと思う。


【名言】
進化の不連続性は恐ろしいまでに厳然としていた。とりわけ、人間の意識の働きが、生物界一般の漸進的発達、さらに人類の肉体の進歩を決定したのと同じ法則によって進化したはずはなかった。(p.20)

人類と言語と都市が<二分心>に基づいて組織されるならば、いかなる歴史もほんの一握りの決まったパターンしかとりえないのではなかろうか。(p.192)

ギリシアの意識ある主観的心は、歌や詩から生まれた。この心は、そこから固有の歴史的変遷を遂げ、ソクラテスの<物語化>による内観へ、アリストテレスによる空間化された分類・分析へつながり、さらに、そこからヘブライ思想、ヘレニズム思想、ローマ思想へと発展する。そしてそれに続き、ギリシアの意識ある主観的心のおかげで、二度ともとへは戻れぬ世界の歴史が始まったのだ。(p.354)

しかし、話を先に進めよう。意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりははるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することができないからだ。これは言うのはたやすいが、十分理解するのはなんと難しいことか。暗い部屋で、まったく光の当たっていない物を探してほしいと、懐中電灯に頼むようなものだ。懐中電灯はどの方向にあろうと自分が向く方向には光があるので、どこにでも光があると結論づけるに違いない。これと同じように、意識は心のどこにでも行き渡っているように思えてしまう。実際にはそうではないのに、だ。

2008年03月06日

サーバルーム

昨日は朝から、東京郊外にある、客先のサーバルームで作業だった。
これまで5年くらいの間、1台のサーバで動かしていたシステムを、webサーバ2台+データベースサーバ1台、の構成に変更して、プログラムやデータの移行をする。

以前は、OSとデータベースにWindows2000とSQL Server2000を使っていたのが、今度はWindows2003とSQL Server2005に変更になる。
バージョンが違うと、様々な部分の設定が今までと変わるし、1台だったサーバが3台に分かれると、お互いにうまく繋がらないというトラブルも起きる。

動作確認をする中で、いくつもいくつも予想していなかった問題が発生して、そのたびに、あちこちの設定を変更したり、ネットで解決法を探したりの繰り返しで、一応の目処がついたのは夜遅くだった。

なかなか解決法が見つからない時は、ほんとうに消耗するし、うんざりするのだけれど、そういう過程で得た経験や知識は、後々まで役に立つことが多い。
この種のノウハウは、いくら本を読むよりも、実地で体験するほうがずっとよく身につく。昨日は、疲れたけれど、いい勉強になった一日だった。

2008年03月05日

愛の妖精

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愛の妖精 (岩波文庫)
愛の妖精(ジョルジュ・サンド/岩波文庫)

双子の兄弟と、一人の少女を描いた、とてもすがすがしい物語。
結局、登場人物みんな根はいい人、というところが、このすがすがしさの理由なのだろう。

都市部なら人の評判というのも、それほど気になるものでもないだろうけれど、農村の閉ざされた環境では、村人の評判というのはかなりの影響力を持つ。
そのような中で、いったん悪い評判(そのほとんどは誤解なのだけれど)を立てられてしまった少女が、どのように変貌を遂げて大逆転をするか、という物語で、これはもう、少女マンガの黄金パターンである気がする。

ためしに、「花より男子」を例にとって置き換えてみると、
『私立高校という閉ざされた環境(→農村)で悪い評判を立てられた牧野つくし(→ファデット)が、高校で実権を持っている道明寺司(→ランドリー)に反抗して楯突くが、つくしは次第に成長をしていき、そのうちに二人は仲良くなって、ライバル(→マドレーヌ)の妨害や、周りの仲間(→シルヴィネ)の反対を押し切ってつきあう。』という流れになる。
ほぼ問題なく、置き換えられそうだ。

スターウォーズが、「旅立ち→試練→帰還」という、神話の基本構造をプロトタイプにしているのだとしたら、世の多くの少女マンガの名作は、この、1851年に出版された「愛の妖精」をプロトタイプとしているのではないだろうか。


【名言】
もし一人一人に向かって、あの娘をどう思ってるか、あの娘がどんなことをしたか、正直に本当のことを言ってくれって言や、みんなあの娘のいいところしか言えないのさ。ところが、世間てやつはこうしたもんで、二三人の人間が誰かに難癖をつけると、みんないっしょになって、よくわけもわからずに、石を投げつけたり、悪い評判をたてたりするんだ。(p.213)

2008年03月04日

モンブラン

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この世で一番好きなケーキは、モンブランだ。
自由が丘はモンブラン誕生の地と言われていて、その点でも、このケーキにはとても愛着がある。
一番好きじゃない菓子はマカロン。メレンゲが好きじゃない。

そういうわけで、一番好きじゃないケーキは、底の部分がメレンゲになっているモンブランだ。期待していたモンブランにメレンゲが入っていた場合、かわいさあまって憎さ百倍ということになる。

モンブランの条件は、栗がケーキの上に乗っているかどうかということではない。
良いモンブランには、メレンゲが入っていないことはもちろん、生クリームがやたらと入っているということもない。
栗のペーストが、ケーキの中にもちゃんと入っているのが正しいモンブランだ(※私見です)。

写真は、パークサイドダイナーのモンブランの断面図。
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ケーキの中に、2層にわたって栗のペーストが入っている。
これぞ正統的モンブランと言いたい

2008年03月03日

叡知の海・宇宙

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叡知の海・宇宙(アーヴィン・ラズロ/日本教文社)

とんでもなく面白い本が、世の中にはあるものだと思った。こんな本が、千円そこそこで手に入ってしまっていいのかという戦慄すらおぼえる。訳が上手いために、語られている内容は込みいっているにもかかわらず、とても読みやすかった。
量子力学によって、「観測によっては決して確定出来ないことがある」ということが明らかになって以降、数十年間の間、科学の発展は停滞していた。それが、ここ最近の研究で突然、飛躍的に進歩してきているのだという。

この本には、びっくりするような話しがたくさん出てくるのだけれど、どれも、SFの中のフィクションではなく、多くの科学的な検証の積み重ねの末に明らかになってきたことばかりなのだ。
中でも最も面白いと思ったのは、「同じ原子核から分裂した2個の素粒子は、どれだけ離れていても、片方に変化を加えると、必ず同時にもう片方にも同じ影響が発生する」ということだった。
驚くべきことに、この現象は素粒子だけでなく、互いに似た波長を持つ生体においても同じように発生する。そして、その伝達速度は光よりもはるかに速いのだという。アインシュタインの物理学では、光より速いものは存在しないことになっているので、この点でも、これまでの常識を超えている。
今出ている仮説は、「水や真空には、それが過去に経験した膨大な情報が記憶されているのではないか」ということだ。そして、その情報は一瞬にして何千光年離れた場所にも伝わるのだという。確かに、そういう仕組みがあると仮定すれば、色々な謎が解明される気がする。

「運命の赤い糸」のような話しは、これまでは、非科学的だと一蹴されて終わりだったが、最先端の科学では、逆に、そういうことが基本的な共通認識になりつつある。
考えてみれば、自分が生まれて以降、現在までの間には、科学や思想の分野において、パラダイム・シフトを起こすほどの、大きな発見はなかったのだと思う。
この本に書かれていることが理論的にきちんと確立した時には、ダーウィンの進化論以上の、大きな転換期が訪れるのかもしれない。自分が生きている間にそのようなことが起こる可能性があるというのは、とても楽しみなことだ。


【名言】

人間の意識が常識的な範囲を超えてさまざまなことを成し遂げられることが今日発見されているが、これは半世紀前のアインシュタインの次のような発言を思い出させる。「一人の人間は、我々が『宇宙』と呼ぶ全体の一部、時間的、空間的に制限されている一つの部分である。人間は、自分の思考や感情を、他の部分からは独立したものとして経験するが、これは一種の錯覚、すなわち人間の意識が視覚によって騙されているのである。この錯覚のせいで、我々にはこの錯覚が一種の枷になっている」。(p.49)

神経生物学的な脳研究の最先端で、真の科学的な説明が出現しつつある。その鍵となるのは、脳は生化学的な機械ではないという洞察である。脳は、あるいは、生命体の全体は、「巨視的な量子系」なのである。(中略)個々の目的のために特殊化されたニューロンのネットワークの樹状突起構造に沿って生み出される、この高度な秩序をもったパターンの場は、脳のダイナミックな自己組織化の効果の表われである。これは混沌(カオス)の周辺部で起こり、脳の系全体に量子的一貫性(コヒーレンス)をもたらすプロセスである。(p.141)

空間は物を分離しているのではなく結びつけているのだという、古くからあった直感的知識に対して、本物の科学的説明が存在することに人々が気づいたとき、現代文明を代表する、新しいものを創造する天才たちは、これを実用に供する方法を見出すであろう。(中略)これによって量子コンピュータが実現するばかりか、一連の技術革新が次々と起こる道が開けるだろう。(p.154)

地球における生命進化は、偶然の突然変異に依存することはなかったし、また、生命の起源に関する「生命播種(バイオロジカル・シーディング)説」が主張するような、地球以外の太陽系のどこかからもたらされた生命体や「原・生命体」も必要としなかった。そうではなくて、最初の原・生命体がそこから出現した化学的混合液(ケミカル・スープ)は、Aフィールドによって伝播された、地球外生命の痕跡によって情報を与えられたのである。地球の生命は「生命播種」されたのではなく、「情報播種」されたのである。(p.188)

この古くからの「脳対心」の問題への新しい解決法に名前をつけるとするなら、「進化論的汎心論」が最適だろう。汎心論とは、すべての存在には心がある、心は世界のなかにあまねく存在する、とする哲学的立場である。「汎心論」を「進化論的」と修飾したのは、心はすべての存在に、一様に同じ成熟度で分布しているのではないという見解を明示するためである。私たちは、心も物質と同じように進化すると主張する。(p.205)

西洋文明の否定的な側面に存在する陰鬱な虚無感を、名高い哲学者バートランド・ラッセルは次のように表現している。「人間を生み出した原因は、その結果についての見込みなどまったくもっていなかったのだということ、人間の希望も恐れも、愛も信条も、原始の偶然の配列によって生まれたのだということ、どんな情熱や英雄的行為も、どんなに深い思考や感情も、個人の死を超えて存続することはないということ、古代から続けられた労働も、あらゆる努力も、すべてのインスピレーションも、まばゆいばかりの人間の天才のすべても、太陽系の終焉とともに消滅する運命にあるのだということ-これらのすべてが、完全に議論の余地がないわけではないにしても、やはりほどんど確実であるために、これらを否定して立ちあがる希望をもった哲学など存在しない」。
だが、ラッセルが言及している事柄はすべて、「議論の余地なし」ではなく、「ほとんど確実」でもないばかりか、単に旧い世界観が作り上げた妄想にすぎないかもしれないのだ。(p.11)

2008年03月02日

meeting

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大学時代のサークルのOB会に出席して、懐かしい面々に会った。
2年に1度開かれている会で、今回の出席者で最高齢の方は昭和31年卒。70歳を超えている。60歳を過ぎて退職してからMBAの勉強を始めた人がいたり、大学を卒業して以降ほとんどの月日を国外で過ごしてきた人がいたり、色々な人の話しが聞けた。
現役生からは、現在どういう活動をしているかという報告があって、当時やっていた活動が、ほとんどそのままの形で変わらずに残っていることを知った。

自分が学生の時に、この会を主催する側の立場だった時は、あまりその意味が実感としてわからなかったけれど、今、OBとしての立場で見るとこの会のありがたさがよくわかる。関係者への連絡や、場所の準備など、万端整えて手配をしてくれた現役生の人たち、ありがとう。

2008年03月01日

四季 春

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四季 春 (講談社文庫)
四季 春(森博嗣/講談社)

森博嗣氏の小説の中で、非常にインパクトのあるキャラクターとして現れた真賀田四季が、主役として登場する「春夏秋冬」四部作の1作目。時系列としては過去にあたる作品で、作中、真賀田四季の年齢はなんと6歳。
彼女は、代表作でもあり、著者の推理小説シリーズ最初の作品でもある「すべてがFになる」からの登場なので、元々、最強のバイプレーヤーといってもいいくらいの人物だ。
この本単体ではほとんど意味をなさず、ミステリとしても完成度はあまり高くない。ただ、過去の、森博嗣氏の推理小説シリーズの総集編的な位置づけとなっていて、その視点からは、非常によく出来た作品だと思った。
いわばファンサービス的な作品で、完成度の高い元ネタがあってこそ成立する、他の作品でいえば「百器徒然袋」「逆襲のシャア」「キン肉マンII世」のようなポジションの内容になっている。
森博嗣氏の本を読むにあたって、この本は決して最初に読んではいけない本で、最後の最後に読むべき作品だ。これから森博嗣氏の小説を読む人には、そこに到るまでの長い長い楽しみが残っているということで、それはとても羨ましいことだ。

【名言】
私が想像しているよりも、人間の感情コントロールは回路が多そう。何のためにこんなストラクチャになったのかしら。どうして、一つの身体に一つの精神を据えて、着実なコントロール系を構築しなかったのだろう。生きるためには、そちらのほうが絶対に都合が良いのに。無駄が多いというのか、あまりにも多くの条件に対応できるように設計がされているのに、何故か、周囲には、そんなに複雑で多数の条件が存在していない。それが不思議。(p.97)

私が自由を得るためには、どうしても周囲の犠牲は必要だと思います。前進するためには、同じだけのものを後方へ放り出す必要があるでしょう?(p.122)

生きていることが、彼女の自由を束縛している、という意味を僕はようやく納得した。少女の小さなその身体が、これほどまでに強力で巨大なシステムを支えているという不思議な構図、そしてその矛盾した構造。でも、それだからこそ、四季は四季なのであって、僕にとっては、それがこのうえなく愛おしい。(p.239)