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2008年04月30日
神は妄想である
タイトルからして、本を手にとった瞬間から面白そうな予感に満ちていて、実際、予想にたがわず、ものすごい面白さだった。
アメリカにおいては、無神論者であると公表することは、同性愛者であるとカミングアウトすることよりも居心地が悪い思いをするものであるらしい。無神論者は、選挙で選ばれる公職に就くことも難しい。そのような中で、大胆にもこのような著書を出版したことが、まずスゴい。ヘタをすれば、狂信的な人からの攻撃を受けたり、命の危険にもかかわる行為だ。映画「コンタクト」を見ても、無神論の科学者というのは、かなり不利な立場に置かれることが多いことがわかる。
しかも、ドーキンスは失うものがない無名の学者というわけではなく、生物学・遺伝学の権威としてその道では知らぬ人のない、ひとかどの生物学者だ。
そのような、広範にわたる影響力を持つ彼だからこそ、この本は大きな意味を持つのだと思う。彼が言う以上は、宗教界の権威の人々も、一学者の世迷言として無視することは出来ないからだ。
世の中の生物は、進化論や偶然によって成長したとするには、あまりにもうまく行き過ぎているから、かならずやそれを「設計」した存在があるはずだ、というのが有神論者や理神論者の一般的な主張だ。自分も、この本を知るまでは、それと同じような考えを持っていた。
しかし、この本を読んでよくわかったのは、「自然淘汰」のメカニズムというのは、「設計」説よりもはるかに整然と、このうまく行き過ぎている仕組みの現実を説明出来る理論を備えているということだった。
「設計」説というのは、その説によって、どれだけこのあり得ない現実を説明したとしても、「それを設計出来るほどの存在は、ますますあり得ない」という矛盾を含んでいる。
この本では、様々な科学者、哲学者、文学作品の中からの言葉が数多く引用されていて、それぞれの立場の人が、いったいどのように神について考えていたかがよくわかる。この、「神はいるか」という命題ほどに、長年にわたって多くの人々の興味をひいてきたテーマは他にないかもしれない。
この本の中でも、第4章の「ほとんど確実に神が存在しない理由」が、特にスゴい。重要なエッセンスはすべてこの章に含まれていて、他の章はその前置き、あるいは補足的な内容と言っていいので、この章だけを拾い読みしても充分に価値はある。
これほどまでに、自分の蒙を啓いてくれた本はかつてなかった。有神論、無神論いずれのスタンスであったとしても、得るものがある本であると思う。
【名言】
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく、ある種の宇宙的な知性である点で汎神論者と異なる。汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。(p.34)
フランスの数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無についてまちがった推測をしたときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。「あなたは神を信じたほうがいい、なぜなら、もしあなたが正しければ永遠の幸福という利益を得るが、まちがっていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、正しかったとしても、何の利益もない。」けれどもこの論証には、はっきりとおかしいところがある。(p.156)
ありえなさという難問に対する答えの対立候補としてよく設計と偶然というペアがあげられるが、この組み合わせはまちがっている。それを言うなら、設計と自然淘汰とすべきなのだ。偶然は、私たちの見ている生物のありえなさのレベルが非常に高いことを考えると答えではありえず、まっとうな生物学者で、偶然が答えだと言う人間は一人もいない。設計も、これから見ていくように、本当の答えではない。しかし、さしあたり私は、いかなり生命理論も避けては通れないこの問題について説明をつづけたいと思う。それはいかにして偶然から逃れるかという問題である。(p.179)
「このすべてが偶然によって生じたのでしょうか?あるいは知的な設計によって生じたのでしょうか?」もう一度言うが、もちろん、それは偶然によって生じたのではない。知的な設計は偶然に代わる適切な代替案なのではない。自然淘汰こそ最節約的で、説得力があり、優雅な唯一の答えであるというだけではなく、これまで提案されてきた偶然の代案として最も有効なものである。(p.180)
捕食者は餌動物を捕まえるために美しく「設計されている」ように見えるが、餌動物のほうも同じように彼らから逃れるために美しく「設計されている」ように見える。神はどっちの側についているのだ?(p.201)
本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。多宇宙は、いかに法外なものに思えようとも、単純である。しかし神は、あるいはどんな知的で、意思決定をし、計算する作用者であれ、それによって説明される事柄とまさに同じ統計学的な意味で、高度にありえないものだと言わざるをえない。(p.219)
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。(p.363)
考えてみてほしい。ある惑星上で、そしてあるいは全宇宙でたった一つの惑星で、ふつうなら岩石の塊以上に複雑なものをつくらない分子が、おのずと寄り集まって、走ったり、跳ねたり、泳いだり、飛んだり、ものを見たり、音を聞いたり、他の同じような命をもつ複雑な塊を捕らえたり、食べたりすることができるような、信じがたいほどの複雑さをもつ岩石ほどの大きさの塊になるのである。それがときには考え、感じ、さらにまた別の複雑な物質の塊と恋に落ちることさえあるのだ。現在では、この軌跡がどのようにしてもたらされたかについて基本的には理解されているが、それは1859年以降のことにすぎない。1859年以前には、それは実際奇妙に、ただひたすら奇妙に思われていたことだろう。現在ではダーウィンのおかげで、それはせいぜい、「実に奇妙な」だけである。ダーウィンはブルカの窓をつかんでこじあけ、洪水のように理解が流れ込むようにしたのであり、その目も眩むような新しさ、人間の精神を高める力は、ひょっとしたら、前例のないものであったかもしれない。地球が宇宙の中心でないことに気づかせたコペルニクスを例外とすれば。(p.539)
私たちミドル世界の住人は、ブラウン運動に気づくには鈍重なほどに大きすぎる。同様に、私たちの生活は重力に支配されているが、表面張力の微妙な力にはほとんど気づかない。もっとも、小さな昆虫の場合は優先順位が逆になっていて、表面張力が微妙どころの騒ぎではないことを知っているだろう。(p.544)
2008年04月29日
わたしたちに許された特別な時間の終わり
文語ではなく、ほとんどが若者の話し言葉で埋め尽くされた文体。
内容がシンプルに伝わるように文章を整理すれば、きっとこの半分くらいの分量にシェイプアップされるのだろうけれど、それでは、この作品の味はほとんどが死んでしまう。
しゃべり言葉というのは生き物だと思う。言葉を聞いただけで、その場の雰囲気や、話し手のキャラクターが、顕著にそこに顕れてしまう。
この本の文章は、あまりに素の思考の流れに近く、見苦しくはあるけれど、その違和感も含めて、見事な表現だと思う。
アメリカが、イラク戦争に突入した時に、自分はいったい何をしていたか。あまりそのことをはっきり思い出せないぐらいに、その戦争は自分とは関係のない遠い世界でおこなわれていた出来事だったような気がする。
同じ地球の上で起こっているニュースを知ってはいるけれども、それと自分はどういう形でも具体的に関わることは出来ないという無力感を、あの戦争は多くの人々の無意識に刷り込んだはずだ。
はっきり言って、あまりストーリーや、意味というほどの内容のない話しだ。思想もなく、教訓もなく、何かを示唆しているわけでもない。しかし、これこそが、当時の日本の空気を切り取って蒸留した末の、残留物なのだろうと思った。
【名言】
確かに若く見えた。肌がそうだったのだ。でも顔はだめだった。彼女の若さは、彼女の顔をフォローするのでなしに、自分の顔の程度は何より自分が一番分かっているのだということが引き起こすあの卑屈さが行う顔への侵食を、むしろ助長していた。形も尊厳も押し潰されてしまっていて、見るに堪えなかった。(p.15)
私は彼の名前だけは絶対知りたいと思った。そうじゃないと今日の私は意味なさすぎになってしまう。そんなの、おそろしい。私は私なりに必死に、すいません、えっと、ちょっとお願いというか、ほんと別に本名とかじゃ全然なくていいんで、なんか適当な、ハンドルとかみたいなので全然可なんで、単に今、(あなた)を、私なんて呼べばいいですか?っていうのがすごくあるんです、はい、それもあって、はい、今そういうこと訊いちゃおうかなってすごく思っていて、それを訊いてみたいなって思って、っていう今、ところなんですけど、はい、と言った。でも彼は、彼の名前を結局教えてくれなかった。適当なハンドルすら、嘘でもいいのに言ってくれず、無視されたので、私の頑張りは、結局おそれていた通り、何の意味も持たずに終わった。(p.28)
2008年04月28日
アイ・アム・レジェンド
キャストとしてはほぼ全編、ウィル・スミス一人しか登場しない。
ウィルスや核兵器による人類滅亡をテーマにした映画は数多くあるけれど、たった一人生き残った後の世界を描いたというところは変わっている。
この一人芝居のような状態を、最初から最後までひたすらやりきるというのは、ものすごい演技力だと思う。
途中から、何故か、ウイルスによって凶暴化したゾンビに襲われるという、まるで「バイオハザード」のような展開になってしまって、「なんでそうなる!?」と、このリアリティのなさにはがっかりだった。
ニューヨーク市街での鹿狩りも、本筋とまったく関係ないところで、何故こんなにこのシーンに時間を取るのか?というのもしっくり来なかった。
アクションの要素を入れないと退屈してしまうという理由で、こういうカットを挟まざるをえない事情はあるとしても、意味なく驚かせたり、不必要にドタバタしすぎで、肝心のストーリーの部分は、かなりおざなりになってしまっていた。
こうなると、キャストが一人というのも、予算を低く抑えるための策だったのではないかと勘繰りたくなる。
人類が滅亡した後の、荒廃したマンハッタンの街並みはとても良かった。自分が一人ぼっちでこの世に残されたら、どのぐらい悲しい光景になるのかということが想像出来る映像だ。
愛犬を伴にして、戦闘機の翼の上から摩天楼に向けてゴルフの球を打つシーンは、特に詩的だった。
■アイ・アム・レジェンド(2007年)
出演:ウィル・スミス
監督:フランシス・ローレンス
2008年04月27日
外套
信じられないくらい垢抜けない主人公、アカーキー・アカーキエヴィチ。
しかしこういう、地味な生活をこよなく愛する人も、その周りの役人や警官も、いかにも日本にもいそうなキャラクターだ。登場人物こそロシア人の名前だけれど、この「外套」で展開されている物語は、落語に非常に近い感じがあると思った。
訳者の人もそれを意識してか、語り手の口調を江戸っ子調にしているので、一層、これがロシアの話しとは思えない親近感が湧く。
話しそのものは、なんとも物悲しい話しなのだけれど、基調がコミカルなので、マンガっぽい感じもする。悲劇と喜劇は紙一重のものがあり、そのどちらの風味も丁度いい具合にブレンドされた物語であるところに、しみじみとした味わいがあるのだと思う。
2008年04月26日
ウォーレスの人魚
岩井俊二氏は、映画監督としてだけでなく、小説家としても尋常でない力量の持ち主なのだということが、この本を読んで充分すぎるほどに伝わった。
映画を作るかたわらに、これほど面白い物語を書くというのだから、どれほど多才な人なのだろうと思う。
ダーウィンと同時期に、進化論についてほぼ同じ結論を導き出していた、アルフレッド・R・ウォーレスという学者をモデルに、そのウォーレスが香港で人魚に出会うところから物語は始まっている。
人魚というと、メルヘンチックな雰囲気があるけれど、この作品の中の人魚は、徹底的にリアルに描かれている。
進化論の学者であるウォーレスが主題と関わっていることからも明らかなように、人魚というものを進化論と生物学をベースにして、どこまでも学術的に追求したのが、この物語だ。
類人猿から人間への進化の間には、不思議なほどにまったく化石が見つからない「ミッシング・リンク」と呼ばれる期間がある。これを説明するためのストーリーの一つとして、この時期、いったんヒトは海に棲んでいたのではないかという、「ホモ・アクアリウス」説という仮説がある。
さらにここから、人間と人魚の分化が起こったというのは、かなり魅力的な仮説だ。人魚を題材にして、ここまでのストーリーをゼロから構築するというのは、とにかく、ものすごい想像力だ。
端々にあらわれる、言葉の選び方もすごく好きだった。
第二章のタイトルである「眷属」という言葉など、すごいセンスだと思う。
基本的には、暗く悲しく、陰鬱な物語だ。
実際に人魚というものがいた場合、人間の反応というのは、見世物にするか研究対象として解剖するか、どちらかになるだろう。
いずれにしろ、そこには美談よりは悲劇の生まれる可能性のほうが高い。
しかし、未知なるものを知ろうとすることが難しいという点では、人間と人魚の間であっても、人間同士の間でも変わりはないことだ。この本は、その難しさを乗り越えて、他者を理解することの尊さを描いた作品なのだと思った。
【名言】
とにかくイルカっていうのは音のプロフェッショナルだからな。奴らが使いこなす音の情報量はオーケストラ並みだ。我々人間の言葉とかいうのをハモニカに例えればね。(p.77)
彼等はどこからか火を見つけて来たのだ。恐らく道具を作っている時、偶然火を起こす方法を見つけてしまったんだろう。この発見は誰かが一回発見してしまえばいいのだ。(p.233)
2008年04月25日
DELI BREEZE

自由が丘駅南口すぐのところにある、持ち帰り専門の惣菜屋。
毎日レパートリーを少しずつ変えながら、30種類くらいの惣菜から、好きなものを自由に取れるようになっている。これだけ種類が豊富だと、飽きることがないし、全体のバランスも考えることが出来て良い。しかも、美味い。
基本は100gいくら、という量り売りで、色々と注文するとそれなりの値段になる。そこで、狙い目は、20時を過ぎた頃から始まる半額セール。
あまり早く行き過ぎるとまだ始まってなかったりするし、遅くなり過ぎると長い行列が出来ていて売り切れる惣菜も出てくるので、タイミングが微妙だけれども、この時間に買うと驚くほど安くなる。
ランチタイムには、4種類または6種類の惣菜をライスと組み合わせる、セットメニューが出ていて、これもお買い得。
一人暮らしの場合、自炊をするよりもはるかに数多くのメニューが食べられるので、近所にこういう店があるというのは、ものすごくありがたい。
■DELI BREEZE
東京都目黒区自由が丘1-31-2
年中無休


2008年04月24日
愛国殺人
非常にまっとうな、王道を行くミステリーだった。もはや、ミステリーというジャンルには収まらない、ドラマに重点が置かれた芸術品という気がする。
謎ときのトリックの奇抜さで勝負するのではなく、純粋に物語としての構成と、人物設定の念入りさを高度に組み合わせて、見事なまでのクオリティーを達成している作品だった。
犯人を途中で予測するのは、それほど難しくないかもしれない。しかし、この本の醍醐味は、謎解きではなく、一体どういう動機で人が殺されたのか、というところだ。
もともとの原題は「One,Two,Buckle My Shoe」だったけれども、日本語版では「愛国殺人」になっている。これは、非常によく出来たタイトルだったと思った。原題は、マザーグースの寓話から取ったもので、これは日本人には馴染みが薄いために、この「愛国殺人」というタイトルにしたのだろう。
優れた物語というのは、善と悪、白と黒にはっきりと分かれないものだと思う。完全な善も完全な悪もなく、それぞれの登場人物がそれぞれの事情を抱えて、その関連の中で時に利害関係が発生し、時に誰かが誰かを殺してしまうことがある。
そういう物語を読んだ後には、すっきりとしない気持ちも残る。それがしかし、この作品のようによく練られた末のものであれば、心地良い余韻として響くものなのだと思った。
【名言】
私はまったく妙な男です。すなわち、私は方法と順序と論理を尊びます。そして、私は理論を弁護するために、事実を曲解するのは嫌いです。その点が、まあ普通でないところとでもいうのでしょうかね。(p.231)
「まあこういいましょう。彼女がどこにいるかはわかりました、と」
「それじゃ、あの人は亡くなったの?」
「そうは申しあげません」
「じゃ生きてるのね」
「どちらとも申しあげませんでした」
「そう、彼女は死んでるか生きてるかどちらかでしょ、そうじゃなくて?」
「実際は、そんなに単純なものではありません」
「あなたは物事をむずかしくするのがお好きのようね!」
「私はよくそういわれますよ」
(p.290)
2008年04月23日
マイノリティ・リポート
2054年のワシントンDCを舞台にした、近未来SF。
その世界では、完璧な精度で未来の犯罪を事前に察知する予知者「プリコグ」によって、将来の犯罪者を摘み取ることで、前代未聞の低犯罪発生率が実現している。
原作者は、とんでもない未来世界を創りあげたものだと思う。これは、実現すれば究極の治安維持システムといえる。
予知した未来によって、犯罪が発生する前に未然に防ぐ、という行為は、それ自体が矛盾をはらんでいる。未然に防がれた犯罪は、防がれた時点で、もはや犯罪ではないからだ。
これは、タイムトラベルもののSFでは必ず起こるパラドックスで、その点が突っ込まれることは当然原作者も予測していたはずなのだけれども、それでも敢えて、この未来世界の構築に挑戦したことは称賛に値すると思う。
この世界では、プリコグの予知能力が完璧であるために、この矛盾を抱えていても、容認されてしまっているのだ。しかし実は、その予知も100%の精度ではない。ものすごく低い確率で、プリコグが誤った予測をすることがある。
その犯罪報告は「マイノリティ・リポート」と呼ばれるが、その存在は、一般に知れれば大混乱になってしまうために、極秘になっている。ある一つのマイノリティ・リポートをきっかけにして、この統治国家の真の姿が明らかになるという、非常にドラマチックなストーリー。
ストーリーも、主演のトム・クルーズも良いけれど、この映画は、なんといっても、未来都市の描写が素晴らしい。
網膜センサーによって個人の位置をリアルタイムで識別して、その動向をすべて把握する管理システム。それと連動して、過去の購入履歴を元に自動で始まる広告動画。
amazonが今のまま進化し続けると、最終的にはこういう世界に行きつくのだろう。そして、捜査官であるアンダーソンが操るコンピュータ画面の、超斬新で未来的なインタフェース。スピルバーグが撮ると、近未来もここまでリアルになるのかと驚かされる。
この、青みがかった、陰鬱で透明な空気感は人によって好き嫌いが分かれるところと思うけれど、自分としては、とても好きなテイストの映画だった。
■マイノリティ・リポート(2002年)
出演:トム・クルーズ、コリン・ファレル
監督:スティーブン・スピルバーグ
2008年04月22日
完全言語の探求
言葉は、その性質上、ものの本質を完全に表すことは出来ない。しかし、完全な言語というものは実現可能で、実際にそれは過去に存在したのではないか、ということについて追求したのが本書。これは、相当わくわくするテーマだ。
普遍言語といえば、人工言語であるエスペラント語のことが連想されるけれども、この本で追求している完全言語はそんなスケールにとどまらない。
たとえば、アメリカの砂漠に核廃棄処理物を埋めた数万年後、人類の言葉を解する生物がいなかったとしても、「この下に危険な物が埋まっています」ということを宇宙人に伝えるにはどうすればいいか、ということを実現する方法が、完全言語というものなのだ。
探求の第一歩は、人類が言葉を使い始めた時に使われていた言葉である「祖語」は一体何だったのか?というところから始まる。
バベルの塔の崩壊による混乱で、言語によって人々が分けられてしまう以前に、そもそも存在していたという言い伝えのある古典ヘブライ語は、祖語の有力候補ではあるが、いまやそれを証明するすべはない。
言語は、時が経つほどに変化し、分化して、数を増やしていくもので、その逆をたどることは非常に難しい。そこに敢えて挑戦するのが、完全言語の探求の旅でもある。
言葉というのは、コミュニケーションの手段であるだけでなく、力の象徴でもある。多くの賢者や魔術師は、言葉の中にこそエネルギーが宿っているものと考えてきた。
そして、言葉というのは哲学的思考の最も重要な道具でもある。だから、古代より、哲学者たちは言葉や記号については、とりわけ重点を置いて考察を重ねてきた。
この本を読むと、完全言語の実現というのが、どれほどの困難を抱えているかということがよくわかる。
エジプトや中国の象形文字は、形によって、言葉を超えて意味を伝達する可能性を持っているけれども、それでも表現出来る内容に限界がある。
最も難しいのは、この世に無数に存在する「物」や「概念」の一つ一つをどのように区別するかということだ。しかし、それらの困難を承知の上で、多くの人々を虜にするほどの魅力が、完全言語というものにはある。
その、数千年におよぶ軌跡をたどったこの本には、人類がこれまでに試みてきた、コミュニケーションの壁を乗り越えるための努力とその成果を追体験していく楽しさがあった。
【名言】
ヘブライ語は聖なる祖語である。アダムのつけたもろもろの名前は自然本性に一致しており、恣意によって選択されたものではないからである。(p.63)
フェン・ヘルモント自身は、言語についてまったく学んだことのない者にとってさえもっとも自然的な生まれつきのものとおもわれるような原初の言語が存在すると想定している。この言語はヘブライ語以外にはありえない。そして、ヘブライ語は人間の発声器官がもっとも容易に生み出すことのできる音をもつ言語であることをファン・ヘルモントは明らかにしようとするのである。(p.130)
アプリオリな言語があまりに哲学的であるとすれば、アポステリオリな言語はあまりに哲学的でなさすぎるのだ。(p.466)
英語が今日おさめている成功は、大英帝国がこのうえない植民地主義的ならびに商業的な膨張をとげ、アメリカ合衆国の工業技術モデルが覇権を握ったことに起因している。英語の膨張はそれが単音節語が豊富で外国語を吸収して新語をつくりだす能力をそなえた言語であるという事実によって促進されたと主張することはたしかに可能であるが、もしもヒトラーが勝って、アメリカ合衆国が中央アメリカの国家群のようにもはや強力で安定したものではなくなった小国の連合体と化していたならば、今日、全世界で英語と変わらない容易さでもってドイツ語が話されていると想定することは、はたして不可能であろうか。(p.468)
近年の研究は、アイマラ語は西欧の思考の基礎をなしている二価論理(真/偽)ではなくて三価論理に基礎をおいており、それゆえ、わたしたち西欧の諸言語が面倒な迂言法を駆使してなんとか獲得できるような繊細このうえない様態でも簡単に表現する力があることを明らかにしてきている。(p.488)
2008年04月21日
団地ノ記憶
自分は、1970年代に開発された、横浜南部の新興住宅地で育った。
駅を中心として、その周辺には大きな団地が無数に集まっていて、その中には一つの敷地の中に40棟を超える建物をかかえる、巨大な団地もあった。
小学校・中学校時代の友達は、ほとんどみんな団地に住んでいたので、自然と遊び場は、団地の中の広場や公園になる。夏には祭りが開かれ、集会所では習い事の教室や催事があり、そこは小さな近代的な一つの村だった。
そんな環境で過ごしたこともあってか、団地というものには、特別な愛着とノスタルジーを感じる。自分以外にもそういう人はいるようで、この本を見つけた時には、同好の士に出会った気持ちで、とても嬉しかった。
都市部に流入する人口を受け入れる器として、高度成長時代と共に急激にその数を増やしていった「団地」は、規格化された工業製品のような雰囲気がある。
極めて高い容積率と同時に、コストパフォーマンスも追及した団地というものは、時代が生み出した一つの芸術品だと思う。それは、ある時期には必要とされても、この先の日本では、おそらく二度と必要とされることのないものであるのだろう。
当時は真新しかった団地も老朽化を迎えて、その多くは今、建て替えられるか、解体されるかしている。その、失われゆく記憶をとどめておく意味でも、こういう本は貴重な存在だと思う。
2008年04月20日
赤朽葉家の伝説
物語は戦後の、鳥取の外れにある小さな一つの村から始まる。村の高台に住む赤朽葉家は、たたら製鉄で財を成した、その土地の領主で、その旧家や土地には旧い伝説が残されている。
ある人物をクローズアップした物語ではなく、ある「家」を中心にして、三代にわたって定点観測した物語であるというところが、とても面白い。
戦後の日本で、まだテレビによって情報が均一化される前は、日本じゅうにこういう村や旧家がたくさんあったのだろうと思う。近代化の波は、山陰の小さな村にも例外なくやってきて、その領主たる赤朽葉家もその流れを避けることは出来なかった。
この物語は、日本の民俗学のテキストであり、戦後日本がたどった現代史のテキストでもある。一つの村を見続けることで、この60年間に日本がどんな道を歩んできたのかが、とてもよくわかった。
この小説には、一つの大きな謎が隠されている。だから、書店でのジャンルとしてはミステリーに分類されるのかもしれないけれど、それよりは、このスケールの大きさからして、大河小説という分類がぴったりとくる気がする。
人の人生は、本人の個性(内部的要因)と、時代や様々な環境(外部的要因)の組み合わせによって織りなされる織物のようなもので、どの家にも、歴史と共に様々な横糸と縦糸が組み合わされ、独特の模様が形づくられていく。
その中でも、この赤朽葉家の伝説は、ひときわ絢爛な模様によって彩られた一幅のタペストリーと言うにふさわしいと思う。
【名言】
瞳子と名づけられたからにはなるほど、瞳はある程度ぱっちりとしていたが、母のような人目を引く美女でもなく、万葉のような力をもってもいなかった。わたしは、いわゆる、普通の女である。だからこそこうして、赤朽葉家の女たる、祖母と母の物語に心惹かれてしまったのかもしれない。二人は輝ける過去であり、歴史であり、わたしのルーツなのである。この平凡な、若い女でしかない、わたしの。彼女たちのことを考えるとき、わたしは、自分にもなにがしかの価値があるように感じるのだ。(p.220)
わたしは「足りてない」と確信している。だけど、「それでいい。過度な期待なんて人生にしちゃいけない」と戒める声も聞こえてくる。「足りてない」の声はわたし自身の心の叫びであり、「それでいい」と戒めるのは時代の声である。そんな気がする。叫びだしたいほど、ほんとうは不安だ。だけど、なにを叫ぶ?(p.229)
自分は薄ぼんやりとした、無気力気味な、ただの消費者のままで過ごしたい、と勝手なことを考えてみた。生産者になんてなれない。なりたくない。社会で責任を負いたくない。だけど社会において逃げ切っても、人間関係では逃げ切れなかった。人とのつながりもまたちいさな社会であり、わたしはそこでも見事に、みっともなく躓いていたのだ。(p.284)
ようやくたどりついたこの現代で、わたし、赤朽葉瞳子には語るべき新しい物語はなにもない。なにひとつ、ない。紅緑村の激動の歴史や、労働をめぐる鮮やかな物語など、なにも。ただわたしに残されているのは、わたしが抱える、きわめて個人的な問題だけだ。それはなんと貧しい今語りであることか。しかし、もしもこの先もユタカと別れずにいて、何年かして結婚することになったら、わたしは祖母も母もしなかった唯一のこと、つまり恋愛結婚をする女になるのだ、とふと気づいた。これからどうなるのか、未来はまだぜんぜんわからないけれど。(p.296)
わたしたちは、その時代の人間としてしか生きられないのだろうか。たたらの世界をめぐるこの村の男たちも、女たちも、生きたその時代の、流れの中にいた。人間というのはとても不器用なものだ。(p.308)
赤朽葉毛毬は猛女であり、鉄の女でもあったのだが、その人生のそこここで、不思議なほど死者に足を取られる女でもあった。(p.169)
毛毬から異様なほどの、張り詰めた気配が伝わってきた。時代を背負っている者に特有の、二つのオーラがからみあって毛毬から放たれていた。それは華やかさと、それと相反する死の気配であった。(p.194)
2008年04月19日
毒と薬
世の中に新しい病気が生まれると、必ず、それを治すための薬草がどこかに新たに生えてくるらしい。
どこで聞いた話しか忘れてしまったし、その真偽のほども、もちろん定かではないのだけれど、これは非常に納得がいく話しだった。
ゲームやファンタジーでは、強い敵が出てきたら、それに合わせて、その敵を倒すための武器の存在が明らかになる。「そんな都合のいいことが現実にあるか!」と言われそうだけれども、しかし実際そういうものなのだろうと思う。
苦があって楽があり、死があって生があるように、毒と薬は対になっている。だから、何か問題が起こった時には、それを解決するための手段も、同時に発生しているのではないかという気がする。
2008年04月18日
コンスタンティノープルの陥落
コンスタンティノープルという名前は、世界史の授業の中で登場した数々の地名の中でも、ひときわ深く印象に残っている。支配者の変遷と共に、ビザンチウム→コンスタンティノープル→イスタンブール、と何度も名前を変えた都は、その街自体が多くの歴史的事件の生き証人でもある。
1000年以上にもわたる東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の精華が凝縮されている、この小さな街は、波乱万丈な歴史を運命づけられている土地なのだと思う。地理的にも、ほんの数百メートルの幅しかない海峡によってアジアとヨーロッパを結ぶ交通の要衝であるこの街は、他にはない独特の魅力を感じさせて、いつかこの目で見てみたいと思っていた街だった。
15世紀当時、コンスタンティノープルを取り囲む三重の城壁は、最強の防御力を誇ると言われていた。
一方、トルコのスルタンの親衛隊であるイェニチェリと、トルコ軍が持つ大砲も、当時最強の攻撃力と言われていて、この二つがぶつかる戦いというだけでも、「最強の矛と最強の盾がぶつかったらどうなるのか?」という興味をひいて、非常にドラマチックだ。
この「コンスタンティノープルの陥落」では、単にその都が陥落した日の戦いについて書いているだけではなく、都の陥落前夜までに起こっていた出来事や、そこにつながるいくつもの伏線から始まり、丁寧に描写がされている。
コンスタンティノープルの陥落は、実に様々な人間の人生をがらりと変えるほどの大事件だった。そこには、当時その場に滞在していた人と同じ数だけのドラマがある。そのことをより鮮明に浮かびあがらせるために、この本では、コンスタンティノープルに関係のあった様々な周辺国家や、いくつかの人物にスポットを当てて説明している。
それらの人々が、ビザンチン帝国とトルコの衝突にどういった立場で関わり、戦いの中に何を見て、陥落の後にどのような人生をたどったか。その、複数からの視点を合わせることで、この一大イベントが見事に立体的に描き出されている。考証の正確さと、物語としての面白さが両立した、優れた歴史書だった。
【名言】
トルコの宮廷を支配する空気が、先のスルタンの時代とはまったくちがうものであるのは明らかだった。自分の主人は、家臣から、愛されるよりも怖れられる君主であろうとしている、とトルサンは思った。それでいて不思議なほど、重臣たちから兵士の端にいたるまで、マホメッドの手足のごとく動くのだ。十五万を超える大軍の移動とは信じられないほど、三度にわたった布陣は支障なく終わった。(p.127)
2008年04月17日
あさきゆめみし

あさきゆめみし(大和和紀/講談社)
※コミック版全13巻、文庫版全7巻
遅ればせながら、高校の古文の授業以来、初めて源氏物語を読むことにした。
といっても、いきなり原文は読めそうになく、現代語訳の小説でもまだ敷居が高いので、まずは、大和和紀のマンガ版から読み始めることにした。
この「あさきゆめみし」は、中高生の時から周りで評判だった覚えがあるけれど、よくある「まんが日本の歴史」みたいに、読む気が起きないようなヘタ絵のマンガを想像していたので、当時はまったくノータッチだった。
今にして読むと、この完成度はスゴい。源氏物語の世界観にぴったりとハマった絵柄。細かく描きこまれた建物や調度品や着物の模様。マンガといえど、表現においては小説に劣らないばかりか、当時の宮廷の雰囲気をわかりやすく伝えるという意味では、これに勝るメディアはないだろう。
登場人物の女性が多すぎて、時々、顔の区別がつかなくなって、「これは誰だ?」ということもあるけれど、これは誰が描いても、おそらくそうなるだろう。
源氏物語は、光源氏の優雅な生涯を描いた、華麗な物語かと思っていたのだけれど、実際にはそれは前半までの話しで、物語のほんの一面にしか過ぎないということを知った。
本当にスゴいのは、あまりよく知らなかった後半部分だ。諸行無常、因果応報を地でいくような、後半の展開はとんでもないことになっている。最後まで通してみると、外伝的な巻である「宇治十帖」が一番好きだ。
あらためて、源氏物語というのはよく出来た物語だと思った。これほど密度の濃い大作が、平安時代に作られていたということには、本当にびっくりする。そして、これだけの内容を持っているからこそ、1000年以上の長きにわたって人々に読み継がれてきたのだと思う。
この「あさきゆめみし」のおかげで、いったいどれほどたくさんの人が「源氏物語」に興味を持ったのかと思うと、作者には国民栄誉賞が与えられてもいいくらいだ。
2008年04月16日
らくらくホン
今まで使っていたN904iという携帯がいかに気に入らないかということを、前に書いた。
それから10ヶ月間耐え忍んできたけれども、海外に行く時にGSM規格に対応した通話機能がないのは不便ということもあり、機種変更をすることにした。
何よりも重要なことは、閉じた状態で背面ディスプレイの時計が常に表示されること(時計代わりに使うので)。それと、GSM対応のWORLD WING(海外通話)機能がついていることと、iモードのハイスピード通信に対応していること。
この3つが満たされていれば、その他には特に希望はない。
一つだけ、その条件を満たす機種があった。
今週月曜日に発売された、「らくらくホン」の新機種だった。
「らくらくホン」といえば、高齢者向けに、操作をシンプルにして最低限の機能にしぼった機種だと思っていたけれど、一つだけ、やたらと高性能な「らくらくホン プレミアム」という機種がある。
GSM対応の海外通話がついていて、ハイスピード対応で、ワンセグもGPSもついている。
それでいて、背面ディスプレイは一世代前のSTN液晶。
しかも、自分がまったく使わない、音楽関連の機能は徹底的に排除されている。
(完璧だ・・!)
この、「らくらくホン」というのは、誰でも使えるようにというコンセプトが第一優先にされていることもあり、とてもよくユーザビリティが考えられている。
高齢者向きというだけではなく、初めて使った人でも直感的にわかりやすく、ユニバーサルデザインの見本のような携帯だと思う。
ここまで素晴らしくセンスがいい携帯を開発した人に、感謝したい。
■らくらくホン プレミアム
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www.nttdocomo.co.jp/product/easy_phone/premium/
2008年04月15日
ルネサンスとは何であったのか
イタリア史の中でも、特にルネサンスという時代に焦点を絞って、その始まりから終わりまでを通して説明した、入門書的な本。
ルネサンスはフィレンツェでの出来事かと思っていたけれども、その舞台の中心は、フィレンツェ→ローマ→ヴェネツィアと、時代と共に変遷していったらしい。その、それぞれの時代ごとに、章を分けて特色が語られている。
教科書的な説明と違い、塩野七生氏による解説は独自の史観が入っていて、その視点からいったんまとめて説明がされているので、一つの流れに従って読み進めることが出来、とてもわかりやすい。
そして、彼女の話しは歴史的事実そのものよりも、誰を中心としてその出来事は起こったか、という観点から語られるので、物語としてのドラマ性が加味されて、一層面白い読み物になっている。
この本で特に面白かったのは、ヴェネツィアという都の特殊性だ。ヴェネツィアは、栄枯盛衰を繰り返すイタリアの諸国家の中で唯一、1200年の長きに渡って存続した。フィレンツェのメディチ家や、ローマにおける法王のような際立った存在はヴェネツィアにはなく、徹底した民主制と自由がそこにはあった。
異端審問や、宗教改革のような、キリスト教の激動の時代にも、ヴェネツィアは自由の砦としてその存在意義を保ち、様々な人材を受け入れ続けた。最終的に、ルネサンスの精神や成果を受け継いだのはこのヴェネツィアだったのだと思う。
ルネサンスについての見方をシンプルにわかりやすく教えてくれる、非常に中身の濃い本だった。
【名言】
私は、哲学とはギリシア哲学につきるのであって、それ以降の哲学は、キリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力の繰り返しではなかったか、と思っています。無用の労の繰り返しと言うのでは過激すぎるなら、ギリシア哲学の打ち上げた命題に、時代ごとの答えを与えようとして労力、と言い換えてもよい。なぜなら、宗教とは信ずることであり、哲学は疑うことです。(p.122)
いかに敢然と言い返しても、軍事大国であると同時に政治大国でもあった国家は、後にも先にもローマ帝国しか存在しなかったのが人間世界の現実。この現実を直視せざるをえなかったマキアヴェッリにとっては、政治の巧者ではあっても軍事は重要視していなかったロレンツォは、イタリアの現在を論ずる「君主論」には、とりあげる価値のない過去の人であったのでしょう。だからこそ、フィレンツェの過去を叙述した「フィレンツェ史」では、このロレンツォを高く評価したのです。そしてそれは当然だし、またロレンツォとマキアヴェッリの二人は、本質的には似たもの同士ではなかったか。二人とも、他のどこでもなく、フィレンツェにしか生まれえない人間であるという点で。(p.131)
レオナルドやミケランジェロやティツィアーノの作品の前に立ったときは、これらのルネサンスの天才たちを解説した研究書など読む必要はない。ガイドの説明も、聴き流していればよい。それよりも、あなた自身が「年少の天才」にでもなったつもりで、「虚心平気」に彼らと向き合うのです。天才とは、こちらも天才になった気にでもならないかぎり、肉迫できない存在でもあるのですよ。(p.240)
2008年04月14日
川沿いの桜の謎
目黒川の桜を見た時、不思議に思ったのだけれど、
何故か、川沿いに植えれられた桜の木というのは、川の方向にある枝を、地面よりも下まで伸ばして育つ。
これは、他の場所の、川沿いの桜も同じで、
川と反対側の枝は普通に上に伸びるのに、川の方向の枝は、そこに地面がないことを知っているかのように、川面の近くまで伸びていく。
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人が、枝を切り揃えて人為的に調整したのか?
それとも、桜は地面との距離を測りながら枝を伸ばしているのか?
これは、かなり謎だ。
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(追記)
ご意見をいただきました。
「水面に反射した光」に向かって枝が伸びていくことが理由のようです。
2008年04月13日
流星の絆
見事だなあと思う。
東野圭吾という作家は、これだけ多作でありながら、一つ一つの作品にムラがなく、必ず一定以上のクオリティーを保ちながら仕上げているという印象がある。
この本も、そういう作品だった。よく練られたストーリーと人物設定。的確に散りばめられた伏線と、その種明かし。非常に基本に忠実というか、読者をひきつけるためのツボをきちんとおさえた、丁寧な書き方。
次々と新曲を出しながらも、いずれもヒットチャートの上位にランクインさせていた、全盛期の小室哲哉氏の曲作りを彷彿させる。
おそらく、この作品もそのうちドラマ化されることになるんだろう。
ただ、この本からは一箇所も、「名言」と思うような文章は引用出来なかった。上手な文章なのだけれど、心に残るようなセリフや言葉は、フックにひっかかってこなかった。きれいにまとまりすぎてしまっているから、ということもある。
つまらない作品かというと、全然そんなことはない。この著者の本で、つまらないと思ったものは今まで一つもない。これはかなりスゴいことだ。どんなに好きな作家であっても、たいていその中にはドンピシャにハマるものもあれば、まったく面白くないと思う本も、両方あるのが普通なのだから。
そういう中にあって、東野圭吾氏の書くものは、たとえ波長が合わない時でも、ひどい失望を感じるようなことはないという意味で、やはり達人レベルの書き手なのだと思う。
2008年04月12日
携帯の法人契約
ドコモの携帯電話は、今まで、個人契約ではなく法人契約にしていたのだけれど、DCMXのような新しいサービスを申し込もうとする時、法人契約だとたいてい、利用出来なかったり、やたらと手続きが面倒なことになる。
ネット上での利用料金照会など、法人契約では対応していないサービスが多く、不便が多いので、個人契約に変更することにした。
法人契約の場合、ドコモの窓口で手続きをする時には、本人確認に「会社の登記簿謄本または印鑑証明書」と「名刺」と「来店者の本人確認書類(免許証など)」を提示する必要がある。これがまず面倒だ。
登記簿謄本か印鑑証明書を常に持ち歩くことにしたとしても、3ヶ月以内に発行したものでないといけないという規約があるので、たいがいその期限は切れている。そのたびに、法務局まで登記簿を取りにいかないといけない。
会社の登記簿謄本は関係者じゃなくても誰でも入手出来るし、名刺だってすぐに作れてしまうので、これだけの書類で本人確認になるというのは結構スゴい。本人確認が取れれば、パスワードの変更や、サービスの申込・解約など何でも出来てしまう。自分が青木雄二だったら、これをネタに一つ話しを書くところだろうと思う。
2008年04月11日
百年の孤独
この、「百年の孤独」という物語を読んで思ったことは、人間の生き方というのは何でも有りだな、ということだった。
人が想像できる程度のことは、それがどれほど忌まわしかったり、あり得べからざること思っていたとしても、たいていのことは起こり得るし、実際に起こってきたのだろうと思う。そして、起こったことは、起こった以上は結局どれも正しいのだ。
人にとっては百年という年月はあらゆる出来事が何度も繰り返されるに充分な長さだけれども、離れた視点から俯瞰して見ればほんの束の間の出来事だ。
その間に幾世代もの人が生まれ、死んでいき、それぞれに違った個性を持って、それぞれにふさわしい人生を生きていく。
一族の歴史がどれだけ数奇な運命に満ちていたとしても、神の視点からは、それもまた、世界のどこかであった出来事が再び、時を変えて再現されているだけに過ぎないのだろう。
その中で個々がどれほどあがいたとしても、大きな流れの中からは逃れることが出来ないし、どれほどその流れから逸脱してしまったように思えても、常に流れの中に位置している。それは、大きな落胆を感じさせると同時に、大きな救いでもあるのだと思う。
物語の中では、同じ名前が執拗に登場して、似たような出来事が執拗に繰り返される。この、果てしないように思える堂々めぐりには、しかし、きちんと始まりと終わりが用意されている。その百年の間の、ブエンディア一族の姿はやはり「孤独」としか言い表しようがない。
【名言】
アウレリャノ・ブエンディア大佐もまた自分をかこむ孤独の殻を破ろうとして、何時間もそれに爪を立てていた。父親のお供をして氷というものを見たあの遠い日の午後から、彼が自分を幸福だと思ったのは、金の小魚の細工をしているうちに時間がどんどん過ぎていtった、あの仕事場にいるときだけだった。(p.183)
ウルスラの考えでは一家の没落の原因となった四つの災厄である、戦争と闘鶏、性悪な女と途方もない事業にはいっさい縁のない人間、一族の名誉を挽回してくれるはずの有徳の人間を育てられる者は、彼女をおいてなかった。(p.204)
答えながら彼女は、死刑囚の独房にいたアウレリャノ・ブエンディア大佐と同じ返事をしていることに気づいた。たったいま口にしたとおり、時は少しも流れ図、ただ堂々めぐりしているだけであることを知り、身震いした。(p.350)
フランシス・ドレイクがリオアーチャを襲撃したのは、結局、いりくんだ血筋の迷路のなかで彼ら二人がたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになった怪物を産むためだったと悟った。マコンドはすでに、怒りくるう暴風のために土埃や瓦礫がつむじを巻く廃墟と化していた。
2008年04月10日
めがね
「めがね」というタイトルには深い意味があるのかと思いきや、(おそらく)単に登場人物がみんなメガネをかけているからという理由らしい。
「かもめ食堂」と同じスタッフと主要キャストで制作された映画。
「かもめ食堂」にあった独特な空気がそのまま引き継がれていて、続編というよりは、前作と同じ世界のパラレルワールドに入り込んだような気分になる。
大きな共通点は、画面に白い余白が多いことと、セリフとセリフの途中に微妙な空きがあることで、この「間」が、他の作品にはない雰囲気を醸し出しているのだろうと思う。この映画の舞台(どこだかわからない、南の方の島)の住人の、コミュニケーションの距離にも、ちょっと変わった間がある。
前作と違う点としては、「LOHAS」的な思想がテーマとして加わったことだろう。人によっては、その部分がたまらない魅力になるだろうけれど、自分は、そこにはあまり魅力を感じなかった。
とにかく良かったのは、出てくる食べ物がやたらと美味しそうだったことだった。これは「かもめ食堂」でも思ったことだけれど、食べ物をここまで美味しそうに撮るというのは、かなりすごい。それと、風景が美しい。海辺でカキ氷を食べるシーンは、特に素晴らしい。
構成やセリフが、映画というよりは、とても演劇的だと思った。しかし、演劇ともまた違うのは、セリフがなくて映像で魅せるシーンがとても多いことで、この作品では、そもそも、会話の内容に重きが置かれていない。言葉の代わりに、風景と空気で表現しているのだ。
話しの中で「この島にいるには、才能が必要なんです」というセリフがあったけれども、映画を観る人についても、この映画は、世界観にどっぷりと浸かれる人と、そうでない人をはっきりと選別する作品だと思う。
■めがね(2007年)
【キャスト】
小林聡美
市川実日子
加瀬亮
光石 研
もたいまさこ
【スタッフ】
脚本・監督:荻上直子
主題歌:大貫妙子
フードスタイリスト:飯島奈美
市販されているDVDは3枚組で、「メルシー体操 完全版」の映像などが特典として収録されているらしい。
2008年04月09日
シウマイ弁当
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新横浜駅から新幹線に乗る時には、必ず崎陽軒のシウマイ弁当を買う。
毎回必ず買うので、もう、自分の中のイメージでは新幹線での移動とシウマイ弁当が切り離せない存在になっている。
シウマイ弁当は、まあ、美味いのだけれど、とびきり美味いかというとそれほどではなく、その証拠に、新幹線での移動以外では、買って食べようと思ったことは一度もない。
旅の思い出とセットになっていて、シウマイ弁当にはとにかく楽しい印象がくっついているための刷り込みなのだと思う。
写真を見て思ったのだけれど、自分が好きな具が、多種類にわたって詰め込まれているというデラックスさは好みだ。
入っている具は、「白俵型ご飯(小梅、黒胡麻)、シウマイ、鮪の照り焼、かまぼこ、鶏唐揚げ、玉子焼き、筍煮、あんず、切り昆布&千切り生姜」。
どれも、好き度でいうと平均83点ぐらいだけれども、それが寄せ集まっていることで、かなりのお得感がある。
「SMAPだけはいないけれど、それ以外のジャニーズタレントはすべて出場する」というウワサの、「ジャニーズ忘年会コンサート」に似ている。
■崎陽軒「シウマイ弁当」
http://www.kiyoken.com/ajiwai/obento/shiumaibento.html
2008年04月08日
イワン・デニーソヴィチの一日
ソ連の、スターリン暗黒時代の強制収容所の一日を、一人の男の視点から描いた自伝的小説。この、ソルジェニーツィンという著者は、ただスターリンを批判する言葉を手紙に書いたというだけで10年もの苦役を強いられる国で、命の危険を冒してまでも、自分の主張を小説として発表した。
ロシアの収容所の記録といえば、ドストエフスキーの「死の家の記録」と同じテーマではあるけれども、この2つの作品はその視点が大きく違う。
「死の家の記録」では、収容所内の囚人の人間観察に非常に重点が置かれていたのに対して、この「イワン・デニーソヴィチの一日」は、徹底して収容所内の生活そのものを描くことに専念していて、人物についての描写はほとんどない。
特に、収容所で出される、野菜汁を中心にした食事については何度も何度も描写されていて、この著者がいかに食べ物について強い関心を持っていたかがよくわかる。その次に取り上げられる話題は、寒さのことや病気のことで、彼はひたすら、生存に関わる現実的なことを考えていたのだと思う。
ドストエフスキーが、非常に禁欲的に、生きることそのものにあまり執着をしない描き方をしていたのと対照的に、ソルジェニーツィンは、収容所の一日の生活を記録することで、リアルに塀の内側の様子を描いている。
その語り口は淡々としていて、読みながら、自分がもしこの環境にいたらと思うだけで絶望してしまいそうな話しだった。ソ連の収容所という環境が、生きのびるにあたっていかに過酷な場であるかということがよく伝わってくる小説だった。
【名言】
囚人にとっては、ラーゲルの門をくぐって、この夕べの点呼を受けるときほど、一日のうちで飢え、凍え、弱りはてているときはない。今の彼には、ただ熱いばかりでろくな実もはいっていない野菜汁の一杯が、それこそ干天の慈雨にもひとしいのだ。彼はそれを一息に平らげてしまう。この野菜汁の一杯こそ、今の彼には、自由そのものよりも、これまでの生涯よりも、いや、これからの人生よりも、はるかに貴重なのだ。(p.190)
2008年04月07日
ウェブ時代5つの定理
「ウェブ時代をゆく」「ウェブ進化論」の梅田望夫氏の新刊。
この本は今までの著書とは異なり、シリコンバレーのネット業界にまつわる人々の言葉を集めて、それについて解説をした、名言集のような構成になっている。
やたらゴードン・ベル(DEC社のコンピュータ技術者)と、googleに関係する言葉が多く出て、出典が偏っている気はするけれども、そこに筆者のセンスと個性があらわれていて、単に有名な言葉を集めたものよりも、楽しめた。
引用された言葉自体には、あまりひっかかるものはなかったのだけれど、その言葉についての著者の解説が面白い。
「ネットが負けるほうに賭けるのは愚かだ。なぜならそれは、人間の創意工夫と創造性の敗北に賭けることだからだ。」という、エリック・シュミット(googleのCEO)の言葉はとても好きだ。
梅田氏にも、この、ネットに対しての非常に肯定的な気持ちが常にベースにあるから、どの解説を読んでもワクワクしてくるのだと思う。
【名言】
優れたアントレプレナーに共通する特徴は、人生のある時期に、たいへんな集中力と気迫で、新しい知識を確実に習得している、ということです。貪欲なまでに強烈な意思を持って、自ら道を切り開いていく。好奇心旺盛なアントレプレナーたちは、不確実な未来にいかようにも対応できるよう、徹底して「学び続ける意思」を持ているのです。(p.23)
ハッカー集団においては、誰かが書いたコードの良し悪し、プログラミング能力のレベルは完全に見抜かれ、理解されてしまいます。コードの素晴らしさのみで、互いの序列は決まる。自分を理解してくれる周囲のハッカーによって評価され賞賛されることを何よりの喜びとします。(p.133)
ネットが負けるほうに賭けるのは愚かだ。なぜならそれは、人間の創意工夫と創造性の敗北に賭けることだから。(エリック・シュミット)(p.139)
私がいまグーグルについてもっとも危惧しているのは、彼らの創業のビジョンや会社運営の倫理がたとえ崇高なものであったとしても、人間の集団たる会社をこれほどのスピードで進化させようとする中で、本当にそれを維持できるのだろうかということです。しかしそういう挑戦をすることが、ウェブ進化のペースセッターの役割ということなのでしょう。(p.217)
私がアメリカに来て最初に実感したのは、どこに行っても常に「お前は何者だ」と問われていることでした。お前は何をやっている人間で、どんな実績があり、これから何をしようとしているのかと。(p.226)
エスターはグーグルを高く評価しています。でも、グーグルを倒す人が必ず出てくるという歴史を、また同じくらい好きだというわけです。(p.246)
2008年04月06日
今にしか見られないもの
桜が咲いている時には桜を見ればいいし、
雪が積もっている時には、その雪を見ればいいのだと思う。
雪の季節に桜を待ち望むよりは、今ある雪を見ておいたほうがいい。
今には今にしか見られないものがあって、
今、今以外のことを望むというのは、もったいない時間の使い方なのだと思う。
2008年04月05日
I’m sorry、mama.
また、ハンパなくダークな人物を主人公にして小説にしたものだと思った。
登場人物も、どこかしら破綻していたり、心に闇を抱えた人たちばかりで、ダークファンタジーのようなおどろおどろしさに満ちている。
「グロテスク」や「OUT」も、救いのなさが基調になっていたけれど、この作品は、話しが短くまとまっているためか、あまり一人一人を掘り下げることなく、わーっと詰め込んで、勢いで進んでいったような感じだった。主人公のアイ子が、考えるよりも先に行動を起こすタイプなので、その分話しのテンポがアップしているということもある。
衝動にまかせて行動して、刹那的に今だけを考えて生きて、面倒なことは先送りするか逃げ出すかする、という処世術を突き詰めると、この主人公のような生き方になるのではないかと思った。
それにしても、こういうダークな小説を書かせれば、桐野夏生の右に出るものはいないなあと感心する。
【名言】
娼婦の館で育ったアイ子には、金がすべてだった。金さえあれば、幼児でも生きていけると学んだのだろう。(p.47)
放っておいてほしかった。アイ子の脳味噌は、常に目先のことしか考えられない構造になっている。今やるべきは、危険を避ける本能に則った行動、原理。アイ子に都合の悪いことを喋ったり、書いて送り付けたりする奴を探し出して消すことだ。(p.160)
2008年04月04日
私の男
桜庭一樹という人の本は初めて読んだのだけれど、素晴らしい文章を書く人だと思った。どのシーンの描写をとっても、よくこんなにも上手い表現が出来るものだと思う。
「私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。」という、冒頭の出だしからして、かなりいい。
構成がまたスゴい。6章に分かれた物語は、現在を起点として、順番に過去へと遡っていく。そして、それぞれの章ごとに物語の中心となっている人物が異なり、語り手も違う。
読者は、物語の結果を最後に見るのではなく、結果からその原因をたどっていくという、通常と逆の流れに乗せられていくことになる。なんとドラマチックで、見事な構成になっているのかと思う。
それに加えて、この作品をさらに面白くしているのは、なんといっても、物語の主人公である、うらぶれた中年男の何ともいえない独特な雰囲気だ(腐野という名前は一体どういうセンスなのかと思うけれど・・)。
はじめ、著者を男性だと勘違いして読んでいて、それにしては描き方が不思議なほどに女性視点だなあと思っていたら、実は女性だった。
最初のページを読んだだけで「間違いなく面白い」と確信出来るような小説に出会ったのは久しぶりだった。そして、その期待を最後まで裏切らなかったという点でも、稀有な作品だ。
【名言】
私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウィンドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそうつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。(p.6)
あの男は、濡れて帰ったのだ。自分を粗末にすることにかけては、見所がある人なのにだめになることにかけては、彼はむかしからプロ級だった。(p.18)
ライターがふっと明るい炎を放ち、煙草に火がついた。吹雪の中で、橙色の小さな火が、光っている。つめたい光。でも、ふれればもちろん熱いのだろう。(p.105)
わたしのとよく似た切れ長の目が、笑いをこらえるような光をたたえて潤んでいた。おじいさんのほうには見えないわたしの憎しみが、この目にはいくらでも見えて、どんどん吸いこまれていくような気がした。(p.316)
2008年04月03日
写真には残せない美しさ
桜シリーズその3、目黒川沿いの桜。
東横線で、中目黒の駅出て渋谷方面に移動すると、車内から目黒川沿いに続いている桜並木が見える。
普通、桜は見上げて見るものだけれど、ここの桜の木は川の上まで枝が下がっていて、地面よりも低いところに桜が見える。そうなると、視界一面とさらにその奥も全部が桜、というスゴいことになって、このボリューム感は圧巻だ。
桜の花というのは、写真に写そうとしても、どうしてもそのままの色あいでは写らない。夕焼けのグラデーションや、月を撮る時にも同じことを感じるのだけれど、本当に美しいものほど、写真は現実の美しさを捉えることが出来ない。
だから、記憶にしっかりと刻みつけておくことにする。
2008年04月02日
Afternoon Tea
自由が丘南口マリクレール通りの桜並木を眺めるためのベストポジションを探す。
花見は屋外でやるのが普通だけれども、この時期、まだ花粉は飛んでいる。しかも花粉指数は、5段階のうち最高の「5」。
そういう都合で、屋内から桜が見れる場所に腰を落ち着けることにした。
「Afternoon Tea」には、オープンエアでないテラス席がある。
しかも3階なので、下からではなく真横から、すぐ隣りにある桜を眺めることが出来る。
東京は、ものすごい強風だったが、屋外での花見なら折り悪しいこの風も、屋内にいれば何ということもない。
風で桜の花が縦横無尽に舞い散って、いかにも桜吹雪という風情だった。桜は、散っている時が一番いい。
■Afternoon Tea TEAROOM
目黒区自由が丘1-8-7
03-3717-8099
営業時間11:00~20:00
年中無休

2008年04月01日
桜
桜の美しさには、桜が一年のうちのほんのたった一瞬しか咲かないということにも理由があると思う。もし、桜が何ヶ月もずっと咲き続けていたら、これほど人々を惹き付けることもなかっただろう。
自分の中では、桜の花というのは新学年の始まりの季節の記憶と強く結びついている。だから、学校の校舎の横に立っている桜の木を見ると、それが一番桜らしい姿であるように感じられる。



















