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2008年05月31日

ヘルタースケルター

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ヘルタースケルター(岡崎京子/祥伝社)

美しさというのは、尊い価値を持っている。
しかし、イデアとしての美しさではなく、外見の美しさのみを追い求めた場合、それはとても儚いもので、それに固執しようとした人間には相応の悲劇が待ち受けている。

この作品は、美しさと若さという妄想に取り付かれたアイドル(偶像)と、その美を取り込もうとした人々、その美に取り込まれてしまった人々、という魍魎が巣食う世界を描いた物語だ。主人公のりりこは、ひたすらタフに、自分のアイデンティティーすらも棄てて、終わることのない整形の無間地獄に堕ちていく。

美しさと若さは、古今東西、あらゆる女性の夢であったけれども、所詮、夢は夢のままあった。しかし、大量消費社会では、欲望を満たすためのあらゆるものは売買の対象となる。「美」もまた人が持つ有限の資源の一つであり、定められた割り当てというものがあるけれども、それも、限りない欲望を持つ人々にとっては、トレード可能な品物になり得てしまう。

必要以上の美を今、要求した場合、それは自分自身の未来を担保にした借入れということになり、それでも間に合わない場合は、ついに魂と引き換えということになる。
何かを得た代償は、必ず何らかの形で対価を支払わなければいけないという点で、それは非常にフェアな世界ではないかと思う。

岡崎京子という人の天才は、僕が考える「良く出来たマンガ」というラインを軽く飛び越えて、その遥か先まで一気に到達してしまっている。この作品は、岡崎京子氏が事故に遭って執筆を停止する直前に描かれたもので、そのために、通常であれば単行本化にあたって大幅に加筆することを常とする筆者の意向は反映されなかった。もし、更に手が加えられていたならば、更にクオリティーは高くなったのかもしれないけれど、それを嘆くよりも、これほどの作品が完成して世に残ったことを奇跡と思いたい。


【名言】
「私は私を入れるような倶楽部には入りたくない」つまり「私は私を愛するような人間を愛したくはない」ということ。(p.129)

だから言ったでしょ?12時をすぎると馬車はカボチャに馬丁はねずみにドレスはぼろくずになりますよ。(p.152)

おまえはとてもみじめで貧しくみにくかったが、こんな痛みは知らなかっただろう・・こんな類の涙は流さなかっただろう・・(p.174)

「いやですわ。何故神は、まず若さと美しさを最初に与え、そしてそれを奪うのでしょう?」
「若さと美しさは同義じゃないよ。若さは美しいけれども、美しさは若さではないよ。美はもっとあらゆるものを豊かにふくんでいるんだ。」(p.177)

別に・・なんでも・・どうでもいいです。有名になるとかお金とかも別に・・でも別に他にやることもないし出来ないし・・服も好きだけど・・そんな・・別に・・。いつかみんなあたしのこと忘れちゃってもいいです。20年10年ううん5年たったら、きっとあたしのことなんてみんな忘れてる。むしろそのことのほうがたのしみです。(p.239)

彼女は思う。「面白いけど、ばかみたい。だからりりこはあたしを嫌ってたのね。くだんないの。人間なんて皮一枚剥げば血と肉の塊なのに。くだらない。」しかし彼女がごうまんにそう思うのは彼女じしんがその皮一枚で美しいからである。生まれたときから。(p.258)

2008年05月30日

時生

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時生(東野圭吾/講談社)

東野圭吾氏にしては珍しく、ミステリーの色合いはあまり濃くない。
あえてジャンル分けするとすれば、「家族系タイムスリップ型SF」ということになるだろうと思う。それと同じジャンルに含まれそうな、重松清氏の「流星ワゴン」に、物語の空気や、登場する親子の距離感が、とてもよく似ていると思った。

かなり長い話しなのだけれど、中盤では、本筋と関係ないような部分が続き、「これは、途中の部分、ほとんど要らないんじゃないか?」という気もする。設定としても、「バックトゥーザフューチャー」からあるような、いっそ古典的と言っていいようなパターンで、あまり目新しい感じはしない。

東野圭吾氏の作品にはたいがい、どこかで驚かされるのだけれど、それを期待しすぎたためか、この作品ではあまり意外性を感じるところはなかった。その点では、凝ったひねりはほとんど無く、ちょっと物足りない感じはしたものの、それでも構成や文章がとても上手いために、最後にはきちんと余韻を残して、見事にまとまってしまうところはさすがだ。


【名言】
たしかなのは、こいつと一緒にいれば、自分が少しずつだが変わっていけるということだ。もちろんまともな人間に、だ。それだけで十分じゃないか。(p.485)

2008年05月29日

Visited Countries

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Visited Countries

今までに訪問した国が塗られた地図を作成してくれるwebサービス。これは面白い。
数えてみると、行ったことがある国は25カ国。その中に面積の大きい国があると、なんとなく得した気分になる。

■1994年9月
モスクワ(ロシア)、ロンドン(イギリス)、アムステルダム(オランダ)
■1996年8月~9月
香港、マカオ、バンコク(タイ)、クアラルンプール(マレーシア)、ペナン(マレーシア)、シンガポール、ニューデリー(インド)、ヴァラナシ(インド)、ムンバイ(インド)、カルカッタ(インド)
■1997年1月
エルサレム(イスラエル)、ヨルダン、カイロ(エジプト)、マナーマ(バーレーン)
■1997年10月
ロンドン(イギリス)、コッツウォルズ(イギリス)、ストックホルム(スウェーデン)、ヨーテボリ(スウェーデン)、ノルウェー
■2000年1月~3月
ロンドン(イギリス)、ウィーン(オーストリア)、ブダペスト(ハンガリー)、プラハ(チェコ)、ドイツ、ユングフラウ(スイス)、パリ(フランス)、ローマ(イタリア)、ナポリ(イタリア)、ヴェネツィア(イタリア)
■2001年5月
ニューヨーク(アメリカ)、ワシントンDC(アメリカ)
■2002年2月
ロスアンゼルス(アメリカ)、ティファナ(メキシコ)
■2002年10月
フィレンツェ(イタリア)、ナポリ(イタリア)、シチリア(イタリア)
■2003年9月
香港
■2004年4月
香港、深セン(中国)
■2005年6月
パリ(フランス)
■2006年5月
マルセイユ(フランス)、ニース(フランス)、エズ(フランス)、モンテカルロ(モナコ)、モンペリエ(フランス)
■2006年7月
ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)
■2007年6月
サンディエゴ(アメリカ)、サンフランシスコ(アメリカ)、ロスアンゼルス(アメリカ)
■2007年11月
台北(台湾)

2008年05月28日

すごいよ!!マサルさん

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すごいよ!!マサルさんウ元ハ王版 5 (5) (ジャンプコミックス)
すごいよ!!マサルさん(うすた京介/集英社)

※ウ元ハ王版は全5巻、通常版は全7巻

ワイド版になって、2色刷、全5巻組で復刻した完全(ウ元ハ王)版。
5巻のあとがきで、うすた京介氏自身が12年ぶりに「マサルさん」について書いているのだけど、これがかなり面白い。「マサルさん」は、連載当時最後のほうになって内容が粗くなり、かなりグダグダになって突然打ち切りという、週刊ジャンプに典型的なパターンで連載が終了した。あの急な変化は一体何だったんだろうと不思議だったのだけれど、このあとがきを読んで、その当時の作者の苦悩がよくわかった。

うすた京介氏は連載開始当初21歳で、連載を持つということ自体が始めてだったところに、いきなり週刊ペースで描き続けることになった。特にギャグマンガでネタを出し続けるというのは大変なことで、そう考えれば、あのクオリティーの高さで一年以上の間、連載が維持出来たということが奇跡的だったと思う。

昔に読んだマンガというのは、今読み返すと昔ほど面白く感じられないことが多いけれど、このマンガは今読んでも変わらずに面白い。と、いうより、小学生じゃわからないんじゃないかと思うようなマニアックなネタも多数あり、今思えば、かなりの独自路線を突っ走っていた作品だった。

2008年05月27日

システム哲学入門

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システム哲学入門(アーヴィン・ラズロー/紀伊国屋書店)

生物や社会のような小さな「個」の複合体が、どのように有機的に関連しながらシステムとして成立しているかということを語った本。最近の著作である「叡知の海」と比べると、かなり内容的にはシンプルで淡々としているのだけれど、源流となる思想にはやはり共通したものを感じる。純粋なシステム論の話題がほとんどで、哲学的な内容については特に言及されていない。

今となっては、新しさはあまり感じないのだけれど、この本が出版された1980年当時ではかなり斬新だったのではないかと思う。こういう、生物学・社会学とシステム論を組み合わせた話しというのは、自然の美しさを見事に表現していることが多く、とても面白い。「システム哲学」というのはラズローがみずから名づけて開拓をした学問分野で、しかしその名称は、残念ながら現在に至るまでの間に根付くことはなかったようだ。入門的位置づけということもあり、非常に簡明で読みやすい本だった。


【名言】
われわれの人間中心主義的なおごりに対して痛烈な一撃が加えられた。人間のような資質は必ずしも「より高度な」達成物でも進化発展の痕跡でもないということが、実際に知られたのである。進化は他の諸種のほうではなく人間の方に進むとは限らないし、また他の種の部分に起こった失敗がもとで進化がなされるとも解釈されてはならないのである。恐らく人間の方への発展は、何度も何度も取捨選択を繰り返した他の諸種の莫大な数の試行錯誤の一結果であろう。人間の方への発展は、キリンのような長い首、鳥類の羽、アリクイのむちのような舌への発展よりも良いとも悪いともいえない。進化は、特殊な状況下では人間的資質を優遇しているようではあるが、決して人間的資質に向かって「ドライブ」をかけているわけではない。(p.105)

社会文化的システムは、幅のある-大統領から靴磨きの少年までというような-役割をもっている。充分な資質を備えた人々は、ユニークな個性をもっていても仕事を得ることができる。役割は所与の個々人のために作られているのではなく、資質に基づいて区分けされた個々人の質のために作られているのである。その役割がみたされているときには、新しい人の個々の独特なパーソナリティーが他の人々との相互関係のなかに現れてきて、組織構造内に変革をもたらすように作用する。どんなシステムにも、部分が部分に働きかけられるような柔軟性が存在するのである。(p.140)

われわれは宇宙の中心的存在でもないし進化の目的因(telos)でもないのである。しかしわれわれは、特殊地球的変形物となって現れてきた宇宙の諸過程の具体的な権化なのである。しかも偶然ではあっても、内省というまれにみる特性を進化発展させてしまった。そのおかげで、世界を意味づけ、それに呼応するのみならず、自分自身の感覚を知り宇宙の本質に関してもまた理性的な結論を下すことができる、宇宙の自然システムのなかでも実にまれな種であるということになろう。人間であるということはそれ故、自分自身と自分の生きている世界を知ることができるすこぶるユニークな機会をもっているということなのだ。確かに、そういう機会をなおざりにしたり自分自身を単に生きることのみに閉じ込めてしまうことは、近視眼的である。(p.146)

2008年05月26日

音楽誌が書かないJポップ批評 Mr.Children

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音楽誌が書かないJポップ批評 Mr.Children(別冊宝島編集部/宝島社)

30人くらいのライターがそれぞれ思い思いの記事を書いたものを寄せ集めた本。宝島の編集だけあって、全体的にかなりマニアックな傾向に偏っている。ミスチルがこれまでにリリースした全アルバムと全曲を網羅した解説集付きという、執拗なまでのこだわりもスゴい。

書き手によってその切り口はかなりまちまちで、内容も玉石混交ではあるけれども、この混沌さがいい。特に面白かったのは、ポカリスエットのCMで使われた「未来」のサビ部分15秒が何故これほどキャッチーなのかを分析した記事と、中原中也と桜井和寿の共通点について分析した記事だった。こういうマイナーなテーマは、確かに一般の音楽誌はあまり書かないだろう。他の記事もニッチな視点満載で、かなり密度の濃い本だった。


【名言】
そもそも相反関係にある「深海」と「BOLERO」が組み合わさって、「ホワイトアルバム」になる可能性も排除できないだろう。しかし、この時期のミスチルにそこまで屈強な心技体を期待するのは尚早だったし、まだ「物語」は序章を終えようとしているにすぎなかったのだ。蛇足ながらそんな仮定を持ち出したのは、05年のヒット曲「未来」における「陽/陰」の圧倒的な融和について触れておきたかったからだ。2枚に分離したアルバムを作ることでしか「両面価値」を表現できなかった時期のミスチルと比して、この「未来」1曲で彼らは希望と怖れの両方を瑞々しく消化させている。(p.176)

周知の通り、ミスチルはJポップ界有数の人気を誇り、そのCDは百万枚単位で売れる。一方、中原中也の処女詩集は初版200部しか作られず、初版600部の第2作が世に出た頃にはすでに彼はこの世にいなかった。その差をもたらしたものは、中也の夭折という事情だけではない。両者とも青春、ありていにいえば「若気の至り」というものをうたっているが、その需要が違いすぎるのだ。中也が生きていた時代、青春というものはほんの一部の人のものだった。こういうと奇異に感じる向きがあるかもしれないが、「青春」とは近代の産物で、それ以前は「大人」と「子供」という区分しか存在しなかったのである。(p.292)

2008年05月25日

チベット密教

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チベット密教(ツルティム・ケサン/筑摩書房)

チベット密教も、おおもとの源流としては仏教と同じところにあるわけだから、仏教と似た部分がかなりあるだろうと思っていたのだけれど、かなり理解を超えた内容だった。言葉や文字によってわかりやすく説明される顕教と違って、密教が容易に理解出来るものではないことは想像がつくのだけれど、ここまでちんぷんかんぷんな世界だとは思っていなかった。これだけを専門にして修行している人でさえ、その内容を習得するには20年以上がかかるというのだから、相当に難解なものなのだろう。

実際のところはどんな感じなのかは、いまいちピンとこないけれども、チベット密教の歴史や、修行の内容について、この本はかなり詳しく書かれている。そうとう細かい部分に至るまで、一つ一つきちんと理屈を考え抜いた末に出来上がった体系であるということはよくわかった。巻末に詳細な参考文献の一覧や、マンダラの世界観についての解説もあり、入門書としてはとても優れた本であると思う。


【名言】
大僧院で学ばれる内容を修学するには、少なくとも二十年を越える年月が必要となる。学堂によっては、二十五年を要することもあった。(p.106)

こうして顕教を学び終え、ゲシェーの称号をえて、最優秀であることの証明を果たした僧侶だけが、いよいよ密教の修行に入るのである。確率的にいえば、密教の修行に入ることをゆるされるのは、十人に一人かそれ以下であった。この事実を見ても、密教の修行がいかに難しいものかがわかる。年齢的には、若くても三十代後半、ふつうは四十代の達しているにちがいない。かつてツォンカパ自身が三十代の終わりで密教の本格的な修行を開始したことからいっても、この年代の設定は当をえているといわざるをえない。(p.108)

シェーラブ・テンジン師によれば、ゾクチェンは孤独な修行であり、禁欲を必須とする。彼は厳格な戒律を守り、むろん妻帯せず、完全な菜食主義である。文化大革命の際には、反政府容疑で逮捕され、約十年間を牢獄の中でおくった。そのほとんどの期間は独房に閉じ込められ、食事はろくにあたえられず、つねに餓死すれすれの日々であったらしい。しかし、こうして極めて過酷な環境こそ、ゾクチェンの修行には理想的な環境であり、おかげで修行がすすんだという。ゾクチェンは頓悟的とされるが、じつはみずからの死と長期間にわたって向き合うだけの力がなければ、決して成就しない修行の道であるようだ。(p.199)

ダライ・ラマは常々、密教を学ぶためには、その前に上座部(小乗)の経典を、そして大乗経典を徹底的に学び、その後に初めて密教に進んでいくという、三段階の学習の階梯を強調するが、それはゲルク派の宗祖ツォンカパの主張そのものであり、顕教と密教の統合を重んじる、バランスの取れた見方を提示している。仏教学者以外は上座部仏教の経典など学習することはない、日本の僧侶のあり方と比べてみても、それは顕著なものである。(p.258)

2008年05月24日

やがて消えゆく我が身なら

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やがて消えゆく我が身なら(池田清彦/角川書店)

タイトルからもわかるように、かなりシニカルなエッセイ。
帯には「ヒトの死亡率=100%・・誰であろうが同じです。」と書いてあった。
構造主義生物学の先生らしく、生物学の見地からの世情の分析といった内容が多い。

一つの章につき5~6ページずつで完結する形になっており、時事ネタを扱っていることが多いために、今となっては風化してしまっている話題も多くあるけれども、いずれも単なる新聞の社説のような当たり障りのない内容ではなく、かなりはっきりとした持論を展開している。

養老猛さんの本を読んでも思うことだけれど、生物学者の視点というのは、非常にシンプルで面白い。世の中の余計なしがらみを除外して、いきなり本質的な思考に入るストレートさがある。人間もまた生物の一種として単純化してとらえていることがよく伝わってきて、今まで思いつきもしなかった新しい視点を多く与えてくれた本だった。


【名言】
生物が生きるということは、他種や他固体とコミュニケーションしながら変化していくということだ。いかなる権力をもってしてもこの変化を止めることは不可能である。私も保守主義者の一人として、気分としては日本の固有生物相は守りたい。しかしすでに侵入して混血児まで作っている高等動物の命を奪ってまで、私の気分を満足させようとは思わない。生物多様性の保全というのは、たかだか人間の考えた理念にすぎない。生物は人間が何をしようと、何を考えようと、総体としては決して絶滅することなく、したたかに生き延びていくだろう。(p.173)

遺伝的に優等なアーリア人の血統を増殖させ、劣等なユダヤ人の血統を絶滅させようとしたナチスの企ては、アーリア人は優秀に違いないという根拠なき誇大妄想の産物であった。遺伝的バリエーションについて言うならば、人種内の個人間の差の方が、人種の平均値の差よりも大きいのである。人種という概念を死守し、それを固定できると考えるのは人種差別主義者の頭の内にしかない夢である。人種は生物学的には定義できない。人々がこのような考えに取りつかれるのは、人間の多くの形質は遺伝的に決定されていると考えているからに違いない。しかし、どんな形質も遺伝子だけで決定されているわけではないのだ。(p.216)

個性や多様性が叫ばれて久しいが、清く正しく美しくの中だけの多様性じゃしょうがない。何といったって現実は、狡く醜くいかがわしいんだから。一人のエリートと百人の家畜ではなく、五人のエリート、五人の天邪鬼、三十人の働き者、五十人のわがまま、十人の怠け者、といったあたりがちょうどよいと私は思う。(p.230)

2008年05月23日

蛇を踏む

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蛇を踏む(川上弘美/文藝春秋)

主人公がうっかり踏んでしまったために関わりを持った蛇(のようなもの)は、ある時は蛇であり、それと同じ確率で母でもある。それは、量子的な重ね合わせ状態のような、境界が曖昧で、それでいて一瞬にしてその両方を行ったりきたりする存在なのではないかと思う。

この作品は、果たして「蛇は何を象徴したものなのか」について、どう解釈するかによって、かなり見方が変わってくるだろうと思う。
蛇というのは、世界各地の民話に現れる、人類が共通に持っている原初的なイメージなのだと聞いたことがある。国によっては「死と再生」や「神の使い」を象徴するらしいけれども、日本の場合、蛇というのは「道成寺」の話しに出てくるような、粘着質の、薄気味の悪い印象があるような気がする。

自分は、この蛇は、主人公の内側にある様々な願望や嫌悪感などの無意識を象徴したものではないかと思った。普段は分からないし、分かりたくもない存在だけれども、分かちがたく確かに心の内部にある無形の念のようなもの。
この物語は、「鶴の恩返し」のような伝統的な民話の雰囲気を持ってはいるけれども、それを非常に現代的な舞台とテーマに置き換えて書き直した、最先端の寓話なのだと思う。


【名言】
女の皮膚がぬらりと光って、たいそう蛇らしい様子になった。今のこの今、私はこの女をしょってしまった、と思った。(p.26)

蛇といえば、思うことがあるのだ。人と肌を合わせるときのことである。その人たちと肌を合わせる最初のとき、私はいつも目をつぶれない。その人たちの手が私を絡め私の手がその人を巻き、二人して人間のかたちでないような心持ちになろうというときも、私は人間のかたちをやめられない。いつまでも人間の輪郭を保ったまま、及ぼうとしても及べない。目を閉じればその人に溶けこんでその人たちと私の輪郭は混じりあえるはずなのに、どうしても目をつぶれないのである。(p.44)

2008年05月22日

吉原御免状

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吉原御免状(隆慶一郎/新潮社)

隆慶一郎氏のデビュー作であるけれども、とてもこれが初作品とは思えないぐらいの文章と構成の見事さ。作者はこの時、既に61歳だったというのがスゴい。
宮本武蔵の直弟子である松永誠一郎が主人公で、「一夢庵風流記」(「花の慶次」の原作)と共通する、カッコよさがある。

吉原という土地がどのようないきさつで成立したかという謎がメインのテーマとなっていて、作者が独自に展開する仮説がベースになっている。
これが、「明智光秀は、実は生き延びて天海僧正として家康に仕えた」というような、かなり突拍子もないストーリーなのだけれど、かなり裏づけもしっかりとしていて、フィクションとして切り捨てることが出来ないリアリティーがある。

登場人物も、「八百比丘尼」や「裏柳生」など、戦国時代末期の個性豊かなオールスター勢ぞろいのような賑やかがある。後の「影武者徳川家康」につながるような、奇想天外なエピソードもあり、かなり贅を尽くしたエンターテイメント大作というべき作品と思う。


【名言】
「誠さまは慣れていなんす」と禿の一人がいったが、これは間違いだ。水づかいの確かさは剣士の心得の一つなのである。水を使って、ぽたぽたたらすのは心に隙があるからだ。行住坐臥、隙のないことを心がける剣士の立居振舞は、自然に無駄がなく、端正で確かなものになる。(p.267)

人が死ぬと、必ず枕元にたてられたしきみの一本花をもって、熊野詣をすると云います。だからこそ、生きている人が熊野詣をすると、途中でよく死んだ親族や知り人に会うのです。熊野の黒い森の経が、死出の山路と交叉しているあたりでね。(p.298)

江戸の中で、これほどの自治が許されているのは寺院しかない。そして寺院と吉原に共通していることはただ一つ、無縁ということだ。無縁とは俗世間や、そこにいる一切の身内、親族、友人と完全に縁を絶つことを云う。(p.495)

2008年05月21日

Murder on the Orient Express

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Murder on the Orient Express (Hercule Poirot Mysteries)
Murder on the Orient Express(Agatha Christie/HARPER)

往年のオリエント急行という、非日常空間の舞台と雰囲気が、まず素晴らしい。事件は、バグダッドからイスタンブールを経由してカレーに向かう途中の、ユーゴスラビアあたりで起こる。舞台もインターナショナルだし、登場人物も、様々な国籍の乗客が集まっている。

その章立てが、論文のように理路整然と組み立てられている点が、とても特徴的な構成の作品だ。まず列車の中で人が殺されたという事実の提示があり、その次に、列車に居合わせた乗客一人一人の証言が明らかにされ、最後にポワロの導き出した結論が披露される。
数学の証明のように筋道立てて検証は進められていき、色々な証拠品や証言は着々と増えていくにもかかわらず、なかなか真相には近づかない。そのあたりの、推理小説としてのトリックはよく練られていると思う。

しかし、それだけだったとしたら、おそらくこの作品はここまで世に知られることはなかっただろう。この作品は、プロットの裏側に潜ませた人間模様が非常によく出来ている。それを見事に浮き上がらせる、ポワロから乗客一人一人への、ユーモアと機知にあふれるインタビューがスゴい。

トリックに力点が置かれているというよりは、いったい何故この事件は起こったのかという物語のほうが完全に中心になっていて、推理小説というよりは、文学と呼ぶにふさわしい格調がある作品だと思う。


【名言】
You do not understand, Monsieur. I have been very fortunate in my profession. I have made enough money to satisfy both my needs and my caprices. I take now only such cases as - interest me.(p.46)

If you will forgive me for being personal - I do not like your face, M. Ratchett, he said.(p.46)

'It is true that America is the country of progress,' agreed Poirot. 'There is much that I admire about Americans. Only - I am perhaps old-fashioned - but me, I find the American women less charming than my own countrywomen. The French or Belgian girl, coquettish, charming - I think there is no one to touch her.'(p.235)

There is something is this case - some factor - that escapes me! It is difficult because it has been made difficult. But we will discuss it. Pardon me a moment.(p.252)

'Then,' said Poirot, 'having placed my solution before you, I have the honour to retire from the case...'(p.347)

2008年05月20日

宇宙を復号する

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宇宙を復号する(チャールズ・サイフェ/早川書房)

宇宙論の本かと思って読み始めた本だったのだけれど、実際のところは、宇宙論である以上に、情報理論についての本だった。しかし、これは期待していた以上の内容で、かなり予想を上回る面白さだった。

この本では、あらゆる事物の説明の中心に情報理論をおいている。生命も含めて、宇宙にあるあらゆる物は「情報」に置き換えられるというスタンスだ。それは、最も普遍的な概念であるために、現在まったく別々の挙動をしている相対性理論の世界と量子力学の世界を結びつけられる可能性がある唯一の道具であるのだという。
「光よりも速く動く物質はない」というのが、これまで習った常識だったけれども、現在、セシウムガスで満たされた容器を通過させると、光の速度よりも速くパルスを送ることが実証されているらしい。しかし、それでもなお、「光よりも速く情報を伝達させることは出来ない」という原理は有効なまま残されている。

「納屋の中の槍」というパラドクスについての説明はとても面白かった。二つの出来事が「同時に起こった」という時、その「同時」という概念には何の意味もないのだという。
このパラドクスの説明には、情報の伝達速度というものが深く関わっている。情報が移転される時には、時間とエネルギーというコストを必ず消費する、ということを考慮すればきちんと説明が出来るし、どのような状況においても、情報が光より速く伝達されることはない。

この本の中でも、量子情報についての章は、特に面白い。通常の情報(ビット)は、1か0かのどちらかの状態しか有り得ない。しかし、量子情報(キュービット)では、1&0という重ね合わせが可能になってくる。これは、「1と0の中間」というアナログ的な意味とはまた別の概念で、有でも無でもない、仏教の「空」に非常によく似ていると思った。

この本を読んで、「シュレディンガーの猫」のパラドックスのどこに誤りがあるのかということが、初めてはっきりと理解出来た。重ね合わせの状態にある物質は、ほんの一つの粒子や分子にあたっただけでも「情報」が周りの環境に伝わってしまうために、量子状態を保つには、極めて小さな物質である必要があるというのが、その本質的な理由であるらしい。
「情報」という視点から宇宙を解読するというのは、かなり興味深いアプローチで、とてもわかりやすく、面白い本だった。


【名言】
情報はエントロピーおよびエネルギー、熱力学の主題、と密接に関連している。ある意味で熱力学は情報理論の特殊な場合にすぎないのだ。(p.93)

英語にはフランス語の単語が数多く採り入れられ、フランス系の単語とゲルマン系の単語を注意深く分析するだけで、言語学者は1066年のヘイスティングスの戦いでどちら側が勝ったかを推定することができる。それには、食べ物を表す単語を見ればいい。牛肉という意味のbeefはフランス語(bouef)からきており、牛という意味のcowは古英語からきている。ヒツジの肉を意味するmuttonはフランス語(mouton)から、ヒツジを意味するsheepは古英語からきている。豚肉を意味するporkはフランス語(porc)から、豚を意味するpigはもともとの英語からきている。英語を話す農奴たちは戦いに負けて、動物を飼育した。そして、フランス人の貴族たちは戦いに勝って、その動物たちを食べたのだ。(p.145)

アインシュタインは相対性理論を愛し、量子論を嫌ったが、どちらもアインシュタインの子供だった。この兄弟は同じ源から発していた。どちらも熱力学および情報と結びついており、光を理解しようという試みの中で生まれたのだ。(p.194)

アインシュタインの論文が解決した問題というのは、一見しては情報と熱力学の問題と関係があるもののようには思えない。にもかかわらず、この問題の解決法はまぎれもなく、情報理論的なものだ。アインシュタインの相対性理論はその核心において、場所から場所に情報をどのように伝送できるかという理論なのだ。(p.154)

相対性理論の副作用の一つに、同時性の概念が崩れるということがある。二つの出来事が同時に起こったのか、それとも、一方がもう一方より先に起こったのか、あるいはその逆かについて、観測者によって見方が食い違うことがありうるのだ。(p.175)

情報は、だれかがそれを引き出したり操作したりしていなくても存在する。粒子が量子状態をもつのに、粒子の量子状態を測定する人間は要らないのだ。(p.253)

デコヒーレンスこそ、微視的な対象と巨視的な対象がどう異なるのかを理解する鍵だ。ある対象から環境に情報が流れると、その対象は重ね合わせ状態を失う。ゆえにその振る舞いが古典的な対象に似てくるのだ。だから理屈の上では、ネコが環境に情報をもたらすのを防ぐことができれば、ネコを重ね合わせ状態に保つことができる。それにはデコヒーレンスを止めなければならない。(p.258)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年05月19日

大統領特赦

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大統領特赦 上下巻(ジョン・グリシャム/新潮社)

CIAの陰謀によって世界各国の諜報機関に追われる男の逃亡劇、という、けっこうベタなストーリー。そのサスペンス的な部分も結構ベタで、驚いたりハラハラするような展開はまったくなかったのだけれど、主人公のバックマンが、イタリアのボローニャに潜伏するくだりが、かなり面白かった。

バックマンは、自分がどこにいるのかも知らされず、もちろんイタリア語もまったく話せないという状態で、いきなりボローニャでの生活を強いられる。ほとんど「電波少年」の企画に近い。
そこで、なんとか自分を監視している連中を出し抜いて脱出するために、もう老年に達しようという男が、イタリア語を勉強して、イタリアの風習を学んで、、と、必至に猛勉強を始める。これが、なんとも感動的な姿なのだ。
自分が世界各国の諜報機関に追われる図は想像出来ないけれども、自分が突然、見知らぬ国で生活を始めなければいけないという状況は、もしかしたら将来あり得る。その時に自分だったらどうするか?を想像しながら読むと、これは一層興味深い。
サスペンスものとしてはさっぱりなのだけど、全然本筋と関係ないところで、非常に面白い小説だった。


【名言】
クレイバーンは世界に超大国がふたつしかなかった往時は、いかに人生が単純なものですんでいたことか、と思い出話を口にした。われわれの敵はソヴィエトだと決まっていたよ。(上巻p.299)

2008年05月18日

マトリョーシカ

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今までに観た舞台で最も衝撃的だった作品。
1999年にPARCO劇場でこの舞台を観た時、そのあまりの完成度の高さに言葉が出なかった。
モーツァルトの音楽は、曲全体のバランスがあまりにも完璧であるゆえに、人間が作ったものとは思えないと言われることがあるけれども、同じ種類のスゴさを、この脚本からは感じる。

「劇中劇」というのは、演劇ではよくある手法だけれども、この「マトリョーシカ」はそれをさらに進めて、演劇とは一体何なのか?ということを、これ以上ないくらいに突き詰めた作品だと思う。
ステージがあるということが演劇の必要条件というわけではなく、緞帳が開いてから閉まるまでが上演の時間であるという決まりもない。その空間に「演じる人」と「観客」さえ揃っていれば、それがいつ、どこであっても演劇というのは現出する。

この脚本を活かして、映画やテレビドラマ化することが出来るだろうか?と考えると、やはりおそらく、舞台ほどの内容には到底及ばないだろうと思う。舞台でしか出来ない仕掛けを、惜しげもなくすべて出しきっていて、演劇向けに極限まで最適化された作品だからだ。

登場するキャストはたったの3人。全員、とても上手いのだけれど、特に、松本幸四郎の上手さは芸術的だと思う。自然で、存在感があって、彼にしか出せない軽妙で洒脱な雰囲気がある。そこから生まれるユーモアは、他の誰にも真似出来るものではないだろう。

この作品は、いくつもの仕掛けが何重にも組み合わされていて、ミステリーのような色合いも濃い。タイトルになっている「マトリョーシカ」というのは、ロシアの入れ子人形のことで、まさにこの作品には、そういう、マクロコスモスとミクロコスモスが組み合わさったような美しさがある。
演劇を知り尽くした三谷幸喜さんの真骨頂ともいうべき作品だと思う。

■『マトリョーシカ』
作・演出:三谷幸喜
キャスト:松本幸四郎、市川染五郎、松本紀保
上演:1999年4月~5月

2008年05月17日

聞き上手は一日にしてならず

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聞き上手は一日にしてならず(永江朗/新潮社)

黒柳徹子、田原総一郎、ジョン・カビラ、糸井重里、小松成美、吉田豪、河合隼雄、石山修武、松永真理、刑事、といったプロの聞き手10人に対して、そのやり方についてインタビューをした対談集。
どの人をとっても聞き手としてのエキスパートばかりだけれども、特に黒柳徹子さん、糸井重里さん、小松成美さん、の3人の話しはとても面白かった。いずれも、その技術においても、心構えにおいてもプロフェッショナルだと思った。
更にその中でもとりわけ、糸井重里さんの話しが、とにかくスゴい。「ほぼ日刊イトイ新聞」をみていても、やはりあの新聞の対談は、あらゆるインタビューの中でダントツに面白いと思う。その糸井さんが、インタビューにおいての心得について話しているというだけれも、この本は相当な価値がある。


【名言】
人には必ず話しがある。それから、人には聞きたいことがある、といつも感じます。しゃべるのは嫌いだという人にも、必ず話したいことはあるはずだと思います。絶対に面白くないはずがない。(黒柳徹子)(p.32)

人と人って、ワタシ語りをあまりしてないんですよ。特に「オレっていうのはさ」みたいなことを言わない人のほうが活躍しているから。(糸井重里)(p.101)

向こうもきっと自分としてはけっこう痛いようなことを、僕に聞いたりしているんだと思うんですよ。僕はそれに意外と気づかない。「言うねえ」なんて言ったりして。「言うねえ」と言い合えているときって、会話としていちばんおもしろいですよね。笑顔で「言うねえ」と言われて、「まて、あらためてゆっくり考えてみるから」って。それは「手伝え」ということなんですよ。「オレも手伝いますから、その会議をしましょう」ということ。インタビューをしているというよりも、ミーティングをしているようなものなんです。(糸井重里)(p.102)

2008年05月16日

Interpreter of Maladies

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Interpreter of Maladies: Stories
Interpreter of Maladies(Jhumpa Lahiri/Mariner Books)

ジュンパ・ラヒリの短編集で、9つの短編が収められている。
日常的な風景を題材にしながらも、それを素朴に淡々と描写している話しもあれば、かなり意外な方向に話しが進んでいくものもあった。どれも短い短編ばかりだけれども、この短さの中で、ここまでの余韻を読後に残すというのはスゴいことだと思う。

特に良かったのは、最後の「The Third and Final Continent」という短編で、カルカッタ→ロンドン→ボストンと、三つの大陸を移り住んだインド系移民を主人公とした物語だ。著者自身も、アメリカに住むインド系の二世で、どの話しもみんなインド系の人々が主人公になっている。
といっても、ほとんどの物語の舞台はアメリカで、登場人物の名前がインド系の名前だというだけで、それほど強く「インド」を感じさせる話しはないのだけれど、そこにあらわれる感覚は、一般的なアメリカとはやはり少しだけ違っている。それは、登場人物の食べ物や衣装にもあらわれているし、もっと微妙なニュアンスとして、考え方や文化にもあらわれている。

これは、世界規模の文化の中で強い主導権を持っているアメリカという国の中においてマイノリティであるインド系移民の視点からしか書けない作品だろうと思う。刺激的な描写はまったくないのに、強い印象を残す、不思議な短編集だった。


【名言】
When she whipped out the hairbrush, the slip of paper with Mr.Kapsai's address on it flutterd away in the wind. No one but Mr.Kapsai noticed. He watched as it rose, carried higher and higher by the breeze, into the trees where the monkeys now sat, solemnly observing the scene below.(p.105)

As strange as it seemed, I knew in my heart that one day her death would affect me, and stranger still, that mine would affect her.(p.282)

At last Mrs. Croft declared, with the equal measures of disbelief and delight I knew well:
"She is a perfect lady!"
Now it was I who laughed. I did so quietly, and Mrs. Croft did not hear me. But Mala had heard, and, for the first time, we looked at each other and smiled.(p.282)

2008年05月15日

世界の飛び地領土

「世界飛び地領土研究会」というサイトがある。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/
ものすごく面白い。

旧東パキスタン(バングラデシュ)や、旧東西ベルリンのように、大きな領土の飛び地は、世界中の注目も集まるし、政治的にも大きな意味もあるからきちんと報道もされる。
しかし、小規模であるために世の中にまったく知られていない飛び地は、世界中に相当たくさんあるらしい。

その、飛び地になるまでのいきさつは、かなりいい加減でびっくりするような話しばかりだ。その多くは、帝国主義時代の係争に由来するもので、バングラデシュとインドの間だけでも、小さな飛び地が200箇所以上あるという。

インドにある、旧フランス領ポンディシェリーの国境線のむちゃくちゃさもスゴい。インドはイギリスの植民地だったけれども、その中でもあちこちにフランスが領土を持っていた場所があり、その係争が激しかった場所は、国境線もぐちゃぐちゃになる。
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色々な飛び地の歴史をみると、イギリスというのは帝国主義時代に、世界中に様々な爪あとを残した国だというのがわかる。そのやり方はまさに「腹黒紳士」というべきで、子どもがダダをこねたような、やりたい放題ぶりだ。

このサイトで紹介されている飛び地は、世界史の教科書には決して載らない国ばかりだけれども、その背景の歴史には、教科書の内容以上に学ぶものがある。素晴らしい着眼点のサイトだと思う。

2008年05月14日

もっとも美しい数学 ゲーム理論

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もっとも美しい数学 ゲーム理論(トム・ジーグフリード/文藝春秋)

「ゲーム理論」というのは、ものすごく魅力的な学問だと思う。
優れた学問というのは必ず、机上だけの理論に終わらず、現実世界の問題を考える上でとても便利なツールになる。その意味で、これほどに様々な事象に適用出来る、面白いセオリーはめったにないだろう。

ゲーム理論は、それが発表された当時は、現実的な問題にあてはめるには向かない内容と思われていたものが、その後、年を追うごとに重要性が再認識されていって、今や、生物学や経済学、社会学など様々な分野で必要不可欠な存在にまでなっている。
そうなるまでの間に、フォン・ノイマンや、ジョン・ナッシュなど、数々の偉大な数学者が、ゲーム理論の魅力にとりつかれて飛躍的な革命を起こしてきたというドラマチックさも面白い。

もし、人間の行動をある程度の精度で予測することが出来れば、それは経済にも政治にも大きな手助けになる。しかし、お互いに利害関係にあるような二人の行動を予測することは、かなり難しい。
それが三人、四人と増えていくと、もうとても予測不可能なぐらいの難しさになる。ゲーム理論というものの面白さは、その人数が膨大になれば、逆に、簡単に予測が出来る、としたところだ。人間一人一人の行動は予想がつかないけれども、ある程度の人数が集まった後の行動というのは統計的に予想が出来る。

この本の中で特に面白かったのは、「神経経済学」という新しい学問分野についての説明だった。
人間にとっての価値は「貨幣」の交換によって表されるというのが経済学での考え方だけれども、すべての人間がお金だけを求めて行動しているわけではない。
この、神経経済学では、ドーパミンという神経内の快楽物質を、生物全般に共通する通貨とすることで、より広い範囲の人間の行動を説明するのだという。こういう、共通貨幣さえ定義出来れば、「進化」や「戦争」など、世の中の多くの事象はゲーム理論が分析する対象となりえる。
もう一つ、面白かったのは、「均衡点は普通、混合戦略になる」ということで、このことは、これほど多様な生物や、色々な性格の人々がこの世に存在する理由を、とても見事に説明していた。

この本は、現在までのゲーム理論の発展や歴史をとても詳細に、しかも関わった人物について物語的に楽しく紹介をしている。ゲーム理論について、ここまで興味を惹く形で書かれた本は他にないのではないかと思う。難しい数式もまったく出てこなくて、非常にわかりやすく、素晴らしい解説書だった。


【名言】
ゲーム理論は、すべての科学の統一言語になる可能性がある。ゲーム理論は、すでに社会科学を制覇して、生物学にまで入り込んでいる。そして今や、数人の先駆者たちの成果から見て、物理学とも強力に結びつこうとしているようなのだ。(p.17)

「知的な」設計に基づいて作れるものは、せいぜい人間にも簡単に理解できるありきたりで単純なシステムに限られる。科学者たちが途方に暮れるような複雑なシステム、たとえば体や脳や社会といったものは、ただ設計どおりに作られたのではなく、細胞や人間など、己のために動くエージェントが相互に作用しあうことによって生まれてきた。そして、このような競争による相互作用を扱う学問はといえば、ゲーム理論ということになる。(p.19)

19世紀後半に発表されたダーウィンの「種の起源」は、世界を科学的に理解し要約した三部作の、最後の一冊といえるかもしれない。17世紀には、ニュートンが物理世界を手なずけ、18世紀にはスミスが経済学を体系化し、19世紀にはチャールズ・ダーウィンが生物界を体系化した。スミスがニュートンの足跡をたどったように、ダーウィンはスミスの足跡をたどった。(p.48)

進化は、あらゆる生命が参加するゲームなのだ。すべての動物が、そして植物も、さらにはバクテリアも、このゲームに参加している。生命体に、理性や推論の力があると考える必要はない。彼らの戦略は、彼らの性質や傾向の総和にすぎないのだから。低い木になるのと高い木になるのと、どちらがよい戦略か。ひじょうにスピードの出る四本脚歩行と、ゆっくりしているがきびきびとした二本脚とでは、どちらがよい戦略か?動物たちが戦略を選んでいるのではなく、それぞれの動物自体が、戦略そのものなのだ。(p.128)

見物する側にまわるほうが生き残る上で有利なのは一目瞭然だ。戦うよりも見物しているほうが、殺される可能性は低い。とはいえ、戦いの危険を避けるだけなら、別に見物する必要はない。できる限り戦いの場から遠ざかればすむことだ。それならなぜ見物するのか。ゲーム理論を使うと、ごく自然にその答えが得られる。やがていつの日か、どうしても戦わざるをえなくなったとして、そのときに、相手の戦歴を知っているほうが役に立つのだ。(p.133)

ジャングルでは評判がものをいう。観客のいる前で鳩のようにふるまってしまえば、次の戦いで相手が攻撃的に出ることは必至だ。一方、自分は残忍な鷹だということをみんなに見せつけておけば、次の相手は、こちらの姿を見ただけで一目散、ということになる。というわけで、見物人がいるからこそ暴力がエスカレートする。しかも、明日戦うことになるかもしれない見物人にとっては、今日暴力を見ておいたほうが有利になる。いいかえれば、見物という個人にとってはプラスになる行為、リスクの高い衝突を避けるのに役立つ行為が、逆に社会全体を、リスクの高い衝突が増える方向に推し進めていくことになるのだ。(p.135)

実際、脳は効用を、金ではなくドーパミンで測っているらしい。(p.157)

「人間の行動は・・実は決して食い違うことがない。たとえどれほど気まぐれに見えようと、普遍的な秩序に従う膨大なシステムの一部をなしているのだ」(ヘンリー・トーマス・バックル)(p.202)

ネットワークに新たなノードが加わってネットワークが成長する場合、新たなリンクはでたらめに形作られるわけではない、と考えた。むしろ新しいノードはすべて、すでにたくさんのリンクを持っているノードとつながりたがる。いいかえれば、富めるものはますます富む。そうやって成長した結果、ひじょうに豊かなハブを持つスケールフリーなネットワークが生まれるのだ。(p.248)

脳の力に限界があって、参加しなければならないゲームがたくさんある場合には、純粋かつ理想的なゲーム理論に基づいてどのような選択肢が望ましいかを算出するよりも、一般的な行動の指針を適用するほうが「合理的な」行動となる。(p.282)

量子力学とゲームには、少なくとも確率分布という明らかな類似点がある。ゲームにおける混合戦略にも、量子力学における現実の重なり合いにも、確率が絡んでいるのだ。どうやら生命と物理学はすっかり混じり合っているらしい。(p.307)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年05月13日

なぜ本の悪口を書かないか

このサイトを読んでくれている人から、
『水晶堂は、本の感想で、いい事しか書いてないから、なんだかウソっぽくて薄っぺらい感じがする。面白くなかった本についても、どうしてそれが面白くないと思ったかまで含めて書かれていれば、より、水晶堂の嗜好のツボがよくわかるし、他の本についての感想も信頼性が上がる』
という指摘をもらった。
なるほどと思った。

読んでいる本の中には、どうしようもなくつまらないと思う本もあって、ほめる部分が一つも見当たらないこともある。
そういう本の感想も自分用には書き留めてあって、どちらかというと、そういう、毒舌めいた感想のほうが、読んでいる人には面白い文章なんじゃないかという気もする。
でも、そういう感想を、このブログにアップすることはしていない。

その感想を読んで、気分を害する人がいるかもしれないからだ。
それは、その本の著者かもしれないし、関係者かもしれないし、その本をとても面白いと思っている人かもしれない。
だれか一人でも面白いと思っている人がいる本を、自分がつまらないと思う場合、それは100%、自分にその本の面白さを理解する能力と感性がないことが原因だ。
それを棚に上げて、人の批評をするというのは、自分の無知をさらしているようなものだと思う。

たとえ100人の人がその感想を読んで面白いと思ったとしても、
たった1人でも、不快な気分になる人がいる可能性があるなら、それを公開することはしないようにしようと思う。
そう思ってはいても、自分の気がつかないところで、自分の文章が誰かを傷つけていることはあるかもしれないのだけれど、それを少しでも減らすために、少なくとも、他人の作品についての悪口をネット上に発信することはやめようと思っている。

2008年05月12日

刑務所のリタ・ヘイワース

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刑務所のリタ・ヘイワース(スティーヴンキング/新潮社)

「ゴールデンボーイ」という短編集の中に、併せて収録されている作品で、この短編集の中では一つの小作品的な扱いでありながら、のちに「ショーシャンクの空へ」として映画化されることで、見事に昇華された。
映画も名作だったけれど、この原作もよく出来ている。映画ほど描写は派手ではないけれど、主人公の地道で堅実な性格が、小説ではさらにはっきりと現れている。そして、この小説の中では、物語のエッセンスがさらに凝縮されている感じだ。これだけの短い作品の中で表現をしきってしまう、スティーブン・キングの力量は、やはりものすごいものがあると思った。

【名言】
わたしは最善を願い、最悪を予想していた。ただそれだけだ。わたしはハリケーンの進路から家財を運びだした。しかし、思ってもみなかったよ。そのハリケーンが・・こんなに長く続くとは。(p.117)

2008年05月11日

本音発言

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本音発言(江原啓之/講談社)

この本は、インタビューを元に書き起こされたもので、変わった特徴がある。江原さんに対してかなり否定的な意見を持っている人がインタビューをしているということだ。

この本のインタビュアーをしている男性記者のプロフィールがスゴい。
『40代後半。長らく週刊誌の記者・編集者を務めてきた。基本的に「あの世」や「霊」の存在は一切、信じていない。したがって、江原啓之についても「インチキくさい人物」と認識している。それなのに妻や周囲のOLが「江原さんはホンモノよ」と断言し、書籍を買い込みテレビ番組に見入ることに言いようのない不快感を覚えている。対談に臨むにあたり、「スピリチュアルなものを信じないオッサンの代表」として、江原啓之の化けの皮を剥がしてやろうという意気込みを抱いている。』というもの。

週刊誌やワイドショーからのバッシングに対して、怒らずに気にしない、というだけでもスゴいと思うけれど、そこから一歩進んで、積極的にバッシングに正面から回答をしようとする姿勢に驚いた。

気に入ったのは、この手の企画では、最終的にはインタビュアー自身も納得して丸く収まってハッピーエンドという、それこそ、やらせっぽい構成にまとまりがちだけれども、そういう安易なまとめもしていないことだ。
インタビュアーは、ところどころで同意はしつつも、基本的には両者の価値観は平行線を続けながら話しが進んでいく。インタビューアーの質問や発言はいかにも俗っぽい内容が多いけれども、あえてそういう聞き手を相手にしていることで、一般に疑問に思われるだろうという点が余さず尋ねられていて、それがとても良かった。
発想の転換ともいえる、この企画は本当に見事だ。

2008年05月10日

絶対音感

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絶対音感(最相葉月/新潮社)

「絶対音感」という能力を切り口にして、様々な音楽家へのインタビューをとりまぜながら、音楽を多角的に分析した構成したノンフィクション。
絶対音感というのは、音楽家にとって、あればかなり便利な能力であるけれども、それが絶対必須であるというわけでもないらしい。絶対音感を学ぶことによって、店で流れるBGMを単純に音楽として楽しめなかったり、瞬時に転調をすることがやりにくかったりという弊害もあるのだという。

絶対音感というのは、不思議な世界だ。高校の時の同級生で絶対音感を持っている友達がいて、その人が、一度聴いた曲をいとも簡単にピアノで演奏するのを見て、ほとんど魔法のようにしか思えなかった。
音楽の専門家でない人々からみれば謎の領域である「絶対音感」というところを入口にして、音楽について書いたというのは、とても興味深い。ただ、内容は盛りだくさんなのだけれども、寄せ集め的なバラバラな構成で、一本通った筋道や作者自身の意見というものがなく、それが残念なところだった。

絶対音感というのは、音楽家にとって魔法の杖であるだけに、そこには様々な思惑がうずまく。その能力を持っていない人にとってはコンプレックスの原因となるし、たとえ持っていたとしても、その中で、それぞれの能力には微妙な差異がある。そこから起こるドラマまでを含めて描いているというのは、この本の見事なところだと思った。


【名言】
絶対技術というのものがあるとすれば、音楽は上達していくときにどうしてもそういうプロセスを通るんです。技術偏重に陥る危険性が大いにあるのです。でも、十三歳の子どもがショパンについて何をいうべきか。自分がやっていることが何なのか、わかると思いますか。音楽は自分と音楽がコミュニケーションをとれるようになるまでがものすごく大変なんです。フィジカルなものは自分の思想を伝達する手段なのです。(p.59)

絶対音感は持っていたほうがいいけれど、それだけではなく、音程の感覚はきっちり勉強しないとだめです。それに比べると、ピアノはチューニングから人任せ。これは音楽家としてかなり致命的な無精だということがわかりました。自分の表現の相当大きな部分を棄てているわけですから。(p.238)

絶対音感は物心がつく前に親や環境から与えられた、他者の意思の刻印である。音楽を職業とするには、それだけではまったく不十分なのである。(p.255)

2008年05月09日

水はなんにも知らないよ

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水はなんにも知らないよ(左巻健男/ディスカヴァー・トゥエンティワン)

「水に“ありがとう”と言うと美しい結晶ができる」という、巷間に出まわっている説に真正面から異をとなえた本。この本で言われていることはもっともなことばかりで、とても説得力があった。

「ありがとうと言うと美しい結晶ができる」というのは、悪い話しではないと思う。
それを利用して、水を売って儲けようというビジネスについてはいかがわしいと思うけれども、そうではない限り、罪のないファンタジーとして夢を与える存在は、あってもいいのではないかと思う。

水が言葉を理解するということが真実であるとは思わないけれど、ただ、この本が語っていることが100%真実であるとも思わない。人にはまだわからないことが数え切れないほどあって、「水」という物ひとつとっても、未知のことばかりだろう。

重要なのはバランスで、一つの意見だけではなく、色々な考え方や立場があるということを知ることなのだろうと思う。そのことを知れば、盲目的に他人の意見に追従することも、だまされることもない。
その意味で、この著書のようなカウンターオピニオンは歓迎されるべきもので、「よくぞこの本を出してくれた!」と喝采をおくりたい。

2008年05月08日

神々の山嶺

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神々の山嶺(全5巻)(画・谷口ジロー、作・夢枕獏/集英社)

山を登るクライマーの物語で、このドラマ性の完成度の高さにはひたすら圧倒された。
常に生きるか死ぬかの境で山に挑むこの緊迫感は、たとえ映画でも簡単には表現出来るものではないだろう。
「岳」を読んだ時も山のコワさを実感したけれど、この「神々の山嶺」は国内の山だけでなく、ワールドワイドなので「岳」よりもさらに数段コワい。

とにかく驚くのが、山の絵がものすごく上手いことだ。写真かと思うぐらいの質感を持って、山の美しさと険しさが迫ってくる。この質感があるからこそ、リアルに山の存在を感じながらクライマーの視点で世界に入ってゆくことが出来る。この作品を描けるのは、間違いなくただ一人、この谷口ジロー氏だけだろう。

山の頂上を目指す男たちは、自然そのものを相手にするだけではなく、同じ頂上を目指す他のクライマーたちとも対峙することになる。そこには、やはり山にしか生まれない人間ドラマがある。クライマーとしてしか生きられない羽生は、常に孤高の存在だけれども、その彼にもやはり、ライバルや仲間がいる。
それらの物語も含めて、この巨大なスケールの物語がクライマックスに向けて収斂していくところは本当に見事としか言いようがない。映画を超える迫力を持つ名作だった。


【名言】
岩を登るという分野には・・登攀者の努力だけではどうにもたどりつけない領域があるんです。そういう人間の岸壁登攀は速いだけでなく美しい。流れるようなリズムがあるんですよ。ま・・天才だったんでしょうね、羽生は。(1巻p.153)

たったこの25メートルを登るためだけにこれまでの20年間はあったのではないか。こんなことはもう二度とできないだろう。もう何もおれの中には残っていない。気力とか体力とか言葉で言いあらわせるものじゃなく、言いあらわせないものまですべてこの登りに使ってしまった。そして手に入れたのが、あとひと晩か数時間生きてもいいという権利だ。神がとか幸運がとは言わない。このおれがその権利を手に入れたのだ。(2巻)

「それで、どうなんだあんたは。何故山に登る?」
「正直・・よくわからないな。あのマロリーは、そこに山があるからだとそう言ったらしいけどね。」
「少なくとも、俺は違うね。そこに山があったからじゃない。ここにおれがいるからだ。おれにはこれしかなかった・・これしかないから山をやっているんだ。」(4巻p.83)

ここでテントを張ることができるのは唯一この岩の下だけだ。しかもここの狭いこの場所だけなんだ。他の場所にテントを張れば、ひと晩に何度か必ず落石が襲う。それが頭部にあたれば死ぬ。眠る時もその姿勢でいることだ。もしザックの上に上体を被せて寝込んでしまったら落石が直撃する。おれが山だったら、そういうミスを犯す人間の頭には遠慮なく石を落とす。(4巻p.270)

2008年05月07日

この国のかたち

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この国のかたち〈1〉 (文春文庫)
この国のかたち(全6巻)(司馬遼太郎/文春文庫)

雑談的に、日本の様々な歴史についてあっちへ行ったりこっちへ行ったり色々なテーマについて書き連ねている。本人にとってはほんとうに雑談のような気軽さで書いているのだろうけれども、それでも、この著者の、歴史についての豊富な知識を充分うかがわせる内容になっている。
毎回題材として挙げられる内容も、その展開も、まったくのアトランダムで、その縦横無尽さがいい。明治維新の話しをしていたかと思うと突然戦国時代や平安時代の話しになる。ふらふらしているようで、最後には一本の筋が通って話がまとまる。読んでいてなるほどと感心することばかりで、一つの筋道だった物語を読む時とはまた違った面白さがある。
一つ一つのテーマは、十数ページくらいのまとまりなので、とても読みやすい。物識りのおじいさんから、直接、昔話を聞いているような気分になる本だ。


【名言】
「私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。ところが、昭和十年から同二十年までのきわめて非日本史的な歴史を光源にして日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるようにおもえてならない。」(1巻p.83)

「日本史には、英雄がいませんね」と、私にいった人がいる。この感想は正鵠を射ていると思った。
この場合の英雄とは、ヨーロッパや中国の近代以前にあらわれた人間現象のことで、たとえばアレクサンドロス大王や秦の始皇帝、あるいは項羽と劉邦といった地球規模で自己を肥大させた人物をさし、日本史における信長、秀吉、家康という、いわば「統治機構を整えた」という人達を指さない。世界史的典型としての英雄を日本史が出さなかった--というよりその手の人間が出ることを阻みつづけた--というのは、われわれの社会の誇りでもある。(1巻p.144)

ふと思うことだが、一介の浪人の力で薩長という二大雄藩の握手が可能なはずがない。発言の立脚点として、海援隊の勢力があったといっていい。さらにかれは役人にはならないということをつねづね語っていた。大政奉還という奇手が可能だったのも、かれが新政府に官職をもとめるということをせず、いわば無私になることができたからだ。無私の発言ほど力のあるものはない。(1巻p.202)

思想というのは、結晶体のようであらねばならない。あるいは機械のように、ときには有機化合物のように論理が整合されていなければならないのだが、その意味で、日本における最初の「思想」は、九世紀初頭、空海(774~835)が展開した真言密教であるといえる。(2巻p.217)

「ここで、遊びとしての作業をしてみたい。まず、『江戸時代をそのままつづけていてもよかったのではないか』ということである。答えは、その場合、十中八九、どこかの植民地になっていただろう。(3巻p.21)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年05月06日

破裂

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破裂(上下巻)(久坂部羊/幻冬舎)

医療ミスをめぐる裁判をメインとした、医療ミステリーといえるカテゴリの作品なのだけれど、肝心のミステリー部分は、あまり驚くような内容ではなかった。病院内部の閉鎖体質は、確かに特殊な部分があるのだろうけれども、それにしても登場人物の設定や言動にまるでリアリティーが感じられなかったことが、その理由ではないかと思う。
しかし、作品がテーマとしている、日本の高齢化社会が抱える問題と、それに対して官僚が密かに計画する抜本的な改善策の部分はとても興味深かった。ミステリー小説というよりは、医療問題を扱った社会派小説として読んだほうが楽しめる本だと思った。


【名言】
もちろん今だって、腕のいい医者、悪い医者はいるだろう。患者はみんな自分だけはいい医者にかかりたいって血眼になる。そうすると名医は忙しくなりすぎて、ミスをする。そうでなくても、どんな医者でもミスはするのさ。それを自分だけはぜったいに助かりたいって患者が、しゃかりきになっても運命は変えられないだろうよ。(上巻p.62)

2008年05月05日

アンダーカレント

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アンダーカレント(豊田徹也/講談社)

とてもキレイで細かいタッチの、繊細な絵。初期の吉田秋生の絵によく似ていると思った。
微妙な表情の描き方がものすごく上手く、美しいのだけれど、それでも、なんとなく全体としてシンと冷えた印象を与えるのは、主人公の目に生気がないからだろうと思う。元気に笑っていても、心を映したその目には気が宿っていない。

この「アンダーカレント」というタイトルは絶妙なネーミングだ。表面上は何事もなく平穏と暮らしているように思える人々の中にも、その一つ下の層で何が流れているのかは、誰にもわからない。
それは目に見えないものであるだけに、当人がひたすらに隠し通せたとすれば、そこにどれほど大きな暗渠が巣食っていたとしても、他の誰にも気付かれないままやり過ごすことは出来る。
主人公の内部に空洞があるにもかかわらず、この物語が救われるのは、その周りにいるサブキャラクターの明るさのせいだ。その影響を受けて、主人公の表情も段々と変化を見せていく。とても良い後味を残す作品だった。


【名言】
彼がどういう人間だったか正直いってよくわからなくなってきてるんです。
彼はいろんなこと私に話してくれましたよ。でも本当に大事なことは話してくれなかったのかもしれない・・。今思い出すと、時々、彼は私に何か重要なことを伝えたがってたように思うんです。ちょっとした表情とか間とか・・沈黙とかそういったものを私も感じてたと思います。(p.202)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年05月04日

点から面へ

普段、バスを使うことはないし、仕事で移動する時などは、時間が予測出来ないバスは出来る限り避けようとするのだけれど、時間が空いた時にはたまにバスに乗りたくなることがある。
長いこと横浜と東京に住んでいても、「点」としてしか知らない街がいくつもある。電車でその街の中にいつの間にか到着してしまうので、その街がどういう場所にあるのか、頭の中でまったくイメージ出来ない街。
バスでの移動で見える景色は、「点」と「点」をつなぐ隙間を埋めてくれる。それによって、街の姿が平面的に自分のイメージの中ではっきりと把握出来るようになるし、今までまったく知らなかった街の貌を知ることもある。そういう経験が積み重なって、ようやく、一つの街を正しく理解出来るようになってくるのだと思う。

2008年05月03日

にぎやかな天地

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にぎやかな天地 上
にぎやかな天地 上下巻(宮本輝/中公文庫)

とても豊かな、素晴らしい小説だった。
この頃、個性が強かったり、異端なキャラクターが登場する小説ばかりを読んで意たせいか、この作品に登場する人々がまっとうな人たちに思えて、しかもそれが嫌味だったりわざとらしかったりせず、とてもすがすがしい印象だった。

この本の中にはロハスという言葉はまったく出てこないけれども、この作品がテーマとして語っているのは、それに通じる、じっくりと、長い長い持続的な時間をかけることによってしか得られないものについてなのだと思った。
人類が昔から利用してきた、発酵という仕組みもまた、まとまった長い時間を絶対的に必要とする。主人公が仕事の中で取材をする「発酵食品」の不思議な魅力とリンクして、主人公自身の人生観も、それまで積み重ねた体験を核として、少しずつ熟成していく。

この物語は、今より若い時に読んでも、きっと多くの部分を本当に理解することは出来ない話しだったのではないかと思う。そして、今であっても、この先もっと年を重ねて読んだ時と比べたとしたならば、だいぶその妙味を多く取りこぼしているのだろうという気がする。
この小説を読みながら、もう一つの人生を生きているような気持ちになり、そのもう一つの人生から多くの経験と知恵を学んだような気分に、この本はさせてくれた。小説が持つ醍醐味を体現した、素晴らしい作品だと思う。


【名言】
何事も時間というものが必要なのだ。いまの世の中は、時間をかけていない、拙速なものだらけだ。いかなる先端の技術をもってしても、この時間というものだけは短縮できない。時間が作りだす絶妙な作用は、金でも技術でも高尚な理論でも獲得することはできないのだ。三次元とか四次元とかの物理学で、祖母のあの糠床は作れないのだ・・。(上巻p.48)

仕事をするかぎりは、いっさい手抜きをせず、仕事とはかくあるべきだというものを為さなければならない。それは報酬とは無関係なのだ。いかに少ない報酬であろうとも、それが自分の仕事であるかぎり、決して手は抜いてはならない。仕事とはそうであらねばならない・・。(上巻p.213)

時間をかけて作られたもの、手間暇を惜しまず作られたもの。そういうものはこれからますます見直されていくであろう。そのようなことを知っている家庭で育った子は、舌そのものが、大量に作られたいかがわしいものに気づくようになる。(上巻p.333)

時間というものは、思いもよらんものを造りだしてくれる。時間というものが造りだす事柄を、人の手で速めようとすると、失敗するんや。感情というものも、おんなじやなァ。五十年間、怒り続けた人間なんておらんし、五十年間、哀しみつづけた人間もおらんわ。(上巻p.361)

物の何を、物のどこを、どう見てるかっていう眼力の問題やな。技術はその眼力に付いてくるんや。(下巻p.16)

血という言い方をするけどなァ、それは体のなかに流れてる赤い血のことやあれへん。仏教ではそれを業というのかもしれへん。その人間の命の根底にある波長というのは、目には見えんし、意識できるもんでもないけど、それはおんなじものを持ってる者同士を共鳴させるんやないかなァ。(下巻p.250)

すかっとしてる。しゃきっとしてる。これは大事なことや。その人間の心の芯の部分が、そういう印象となってその身を飾るんや。(下巻p.296)

ぼくは事業では気味が悪いほど幸運に恵まれつづけてきてね。ほんとに自分でも薄気味悪さを感じるくらい、こと事業に関してはほとんど全打席ホームランだったんだ。だけど、あるとき、どかんと大きな災厄に見舞われた。家族の突然の死、それから、自分自身の病気だ。立ち直るのに、ぼくは七、八年かかったね。医者がもう大丈夫ですよって言ってくれたのは病気にかかって五年目くらいだったけど、ああ自分はあの長い長い地獄から本当に蘇ったってことを教えてくれたのは、ぼくの家の三軒隣のおうちの庭に咲いていたバラだ。真紅のバラだ。そのバラがねェ、ある日、ぼくを見て笑ったんだ。こんなにきれいに咲けて嬉しいって、ぼくに話しかけてきたんだ。ぼくの心にはそう聞こえたんだ。そしたら、バラとはこんなに美しいものだったのかって驚いて、ぼくは周りを見たんだ。空には白い雲、近くには、どこかのおばあさんが散歩させてる雑種の人なつこい犬がいたよ。そのとき、ああ自分は立ち直った、自分が人間の形のジグソーパズルだとしたら、これまでの自分はあちこちに幾つかのピースの抜けた穴ぼこだらけのジグソーパズルだった。その足りないピースの幾つかが埋まった・・。そんな気分だったよ。そのとき以来、美しいものを美しいと感じるようになった。可愛いものを可愛いと感じる。悲しんでる人の悲しみが自分なりにわかる。恥ずかしがってる人の、その恥じらいの根元が少し見える。そんなふうになったんだ。(下巻p.302)

2008年05月02日

トリオリズム

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トリオリズム(叶恭子/小学館)

叶恭子の、とにかくぶっ飛んだエッセイ。ほとんど共感出来ないし、どちらかというと意味不明なのだけれど、ここまで行くと面白い。
どこまでが実話で、どこまでがフィクションなのかわからないが、すべてがフィクションであったとしても、スゴい話しばかりだ。この本は、叶恭子にしか書けないだろうという意味で唯一無二のブランドであって、その極端にアナーキーな意見も、ハンパに道徳を語るよりも、いっそ潔い。
他の誰にも真似出来ないという点で、実用書ではなく、ほぼ小説に近いので、そのつもりで読んだほうが楽しめる本と思う。

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年05月01日

SEのフシギな生態

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SEのフシギな生態(きたみりゅうじ/幻冬舎)

どの職業にも、それぞれの特徴はあるに違いないけれども、SEという職業はとりわけ特殊な労働環境にある仕事だと思う。
この本に出てくるエピソードは、どれも共感出来るものばかりで、システム開発の現場というのは、誰も似たような悩みを抱えているものなんだと思った。

この、きたみりゅうじという人の絵と構成は、ユーモアにあふれていて、それがどれほど悲惨なエピソードでも、悲壮さを感じさせない。日常に起こる、仕事でのトラブルをここまで面白くまとめるというのは、非凡な才能と思う。この人は、きっと何の仕事をしたとしても、その面白みをつかまえて、マンガにしてしまうのだろう。

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記