
論理哲学論考(ウィトゲンシュタイン/岩波書店)
ウィトゲンシュタインは、この本によって、哲学問題をすべて解決したと考えて、哲学から離れたのだという。とんでもない話しだけれども、そう言いたかった気持ちはよくわかる。
この本を書く時、おそらく著者は、さっさと哲学などという曖昧なものの根本的な部分を整理して見通しを立てて、余計なことを考えずに済むように片付けておきたいと思って書いたのだろうと思う。
この論考は、人は何を理解することが出来て、何を理解することは出来ないのか、を区別することを目的としている。それは、哲学というものの輪郭をはっきりさせて、その限界を明確にしようという試みでもある。
そのたった一つのことを証明するために、きっちりとナンバリングされた一つ一つの論考によって、徐々に論理を展開して結論へと収束していくわけだけれども、その展開の仕方が、一分の隙もないぐらいに、アリの通る隙間もなくレンガを積んでいくようなやり方で進んでいく。ここまで徹底して構築された思考というのは、美しいと思う。
その思考のベースにあるのは記号学と論理学で、それは、ロジックによって世界を記述するために最も適した方法として選択されたものなのだろう。
この本が出版された当時には、コンピューターというものは、まだ世の中になかったわけだけれども、コンピューターの設計には、このウィトゲンシュタインのような考え方は必要不可欠なものだろうし、もし、コンピューターが現実世界というものを解析しようとした場合には、間違いなくこの「論理的哲学論考」と同じ手法によって、世界を記述するはずだ。
これは、世界を表現するための一種の記述体系で、その点で、ニュートン力学やアインシュタイン物理学が創りだしたものと同等の意味と価値を持つ、偉業なのだと思う。
【名言】
おそらく本書は、ここに表されている思想、ないしそれに類似した思想、をすでに自ら考えたことがある人だけに理解されるだろう。それゆえこれは教科書ではない。理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。(序文 p.9)
私の為そうとしたことが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私にはそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私がいっさい典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかどうかなど、私には関心がないからにほかならない。(序文 p.10)
3.02:思考は思考される状況が可能であることを含んでいる。
思考しうることはまた可能なことでもある。(p.23)
4.112:哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。(p.51)
4.115:哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。(p.52)
5.453:論理に数が現れるとき、それは必ずしかるべき理由を示されねばならない。
あるいはむしろこう言うべきだろう。論理には数など存在しないということをはっきりさせねばならない。(p.92)
5.454:論理においてはすべてはひとつひとつ自立している。それゆえいかなる類別も不可能である。
論理には、より一般的とか、より特殊といったことはありえない。(p.93)
5.6:私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(p.114)
6.4311:死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。(p.146)
6.44:神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(p.147)
6.5:答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。
「謎」は存在しない。
問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。(p.147)
6.52:たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。(p.145)
» 2008 » 6月のブログ記事

マイクロソフト・ウェイ(ランダル・E.ストロス/ソフトバンククリエイティブ)
マイクロソフトがいかに成功し、その陰でいかに多くの失敗をしてきたか、について、マイクロソフトの「一部の超優秀な人材を極端なまでに優先する」という独特の企業文化を軸にして分析をした本。
マイクロソフトというのは、とかく世論や世間的なイメージが先行して、偏った見方をされがちな企業だけれども、この本は、かなり中立な立場から、客観的にマイクロソフトという会社のエッセンスを取り出している本だと思う。
出版が1997年ということで、本の中には「google」についての記述は、影も形も見当たらない。だからこそ、この本はとても絶妙なタイミングで出された本だと、今では思える。
googleが台頭した後だったら、そのことによる余計なノイズが入って、正確にマイクロソフトという会社のみを取り出して評価することは難しかっただろうし、そもそもマイクロソフトについて書いたということの注目度も、世間的にはかなり下がってしまっていただろう。
今の時代に適したものかどうかはわからないけれども、ビル・ゲイツがマイクロソフトにおいてとってきた経営手法は、かなりオリジナルなものがあって、そこから学べる内容も多い。この本が出版された後の10年間の遷移も含めて、今ではさらに、その成功と失敗についてより多くの事例を併せて俯瞰することが出来る。
この本は、現在においても、充分に一読に値する内容だと思う。
【名言】
知性至上主義の裏に潜む反平等主義を目の敵にする人々にとっては、ゲイツは悪魔のような存在だ。しかし、マイクロソフトと関わりのないプログラマーも、いろいろな理由でマイクロソフトを憎悪する人々も、ゲイツやマイクロソフトの人間がいっているのと同じことをどこかで耳にしているはずである。「最高のプログラマーと単によいプログラマーとの差は小さくない」。概念の独創性、コーディングの速度、設計のうまさ、問題解決能力など、どのような点においても、最高のプログラマーのほうが数段上をいっている。いくつかの会社が同じスタートラインに立ったとしても、このようなスーパー・プログラマーを一番多く集めた会社が最後に勝利をつかむことは、だれの目にも明らかだろう。(p.65)
ゲイツは、優秀なプログラマーを集めれば、同じレベルのプログラマーを引きつけることができることを見抜いていた。スター・プログラマーは、自分のフィールドで最高といわれる人たちが集まるところで仕事をしたがるものだ。(p.66)
1971年、半導体技術が幾何級数的なベースで発達を遂げる可能性があることをゲイツに教えたのは、一緒にマイクロソフトを設立したポール・アレンだった。「幾何級数的なベースの現象」などめったにあるものではない。ゲイツは疑い深げにアレンに聞いた。「きみは真面目にいっているのか?」。(p.76)
私たちは、ゲイツとマイクロソフトの社員たちを「実物大で」見るべきである。そうすれば、彼らがもたらす「恩恵」も実際のサイズで見えるはずだ。マイクロソフトの人間はどんなことでも徹底的に、しかも効率よく検討する。彼らは、評価と改訂という終わりのないプロセスへの答えは経験からしか得られず、経験を積めば積むほど新しい答えが生まれてくる、ということを知っている。だから、いつでも彼らは「仮の答え」で行動し、「次の答え」を探し続ける。(p.373)
聞いてみると、意外に答えが分かれる質問というのがある。
【今までに聞いてみて、結構答えが分かれた質問】
・カロリーメイトの何味が一番好きか?
・「ジョジョ」の第何部が一番好きか?
・目玉焼きには塩か醤油か?
・「きのこの山」と「たけのこの里」どっちが好きか?
自分は、圧倒的に「たけのこの里」のほうが好きなのだけれど、
「きのこの山」のほうに新キャラクターが登場したらしい。
http://kinotake.jp/
きの山さん
![]()
大阪府高槻市出身(32)
爆笑!!
これはヤバいと思いますよ。

おかあさんががんになっちゃった(藤原すず/メディアファクトリー)
こういう本が、本当に素晴らしい本なのだと、自分は思う。
母親がガンということがわかった後の、家族の交流を、イラストを主体にして絵本調で綴った本。日常生活の中の、ありふれた場面の描写ばかりなのだけれど、家族の心情がとてもよく伝わってくる。
ガンというのは、いやな病気だけれども、死ぬまでの間に少しの時間が残されているという点では良いところもあるのだと思った。ガンになった本人にも、周りの人間にも、死ぬまでのわずかな時間の中で準備出来ることがある。
絵は、著者自身が描いたもので、上手いものではないのだけれど、そんなことは全然内容に影響ない。どんなビジネス書や哲学書よりも、多くのことを考えさせてくれて、どんな映画よりも感動した本だった。
【名言】
・・あのおかあさんはがんじゃない
うちのおかあさんはがん・・
なんで私のおかあさんなんだろう・・(p.24)
しまくんのピアノは心配したとおり下手だったけど
すごくすごく気持ちの伝わる演奏だった
おとうさんとおかあさんは泣いていた
先生も看護婦さんも見にきていた他の患者さんも笑顔と泣き顔(p.134)

ウィキノミクス(ドン・タプスコット/日経BP社)
ウィキペディアに代表されるような、「集合知」を扱った経済活動の変化をテーマにした本。
オープンソースとして成功したLinuxのプロジェクトや、それに積極的に参画したIBMが果たした役割などについて細かく説明されている。
情報のオープン化という戦略は、従来の大企業にとってはなかなか採用しにくい選択肢だと思うのだけれど、この本では、オープン化によって成功を収めたボーイング社やBMW社などの事例が豊富に挙げられていて、とても希望に満ちた将来予測がベースになっている。
この、オープン化という動きは、インターネットによって加速されたものであるし、ソフトウェア開発という分野で特に威力を発揮するものなので、ソフトウェアやネット上のコンテンツ制作をおこなう時の方法論として語られることが多いけれども、実際にはもっと幅広く応用が利く概念で、様々な分野の製造業やサービス業の企業にとっても、参考になるところは非常に多いと思う。
今までは、「集合知」の活用というのは技術的に難しかったが、今後はインターネットを適切に利用することによって、世界中に散らばる無限の知的リソースを組み合わせることが可能になる。これは、ものスゴいポテンシャルを持つ変化だ。
この本の原著は2006年に出ているので、既に過去の話題となってしまっている内容も多いのだけれど、ここで紹介されている「ウィキノミクス」という考え方は、一過性のブームではなく、今後長い間にわたって影響を及ぼすコンセプトであることは間違いないと思う。
何よりも、フィクションではなく、実際に今、感度の高い企業がリアルタイムでおこなっていることが紹介されているというのが、たまらなく面白い。かなりワクワクする話しが満載の本だった。
【名言】
テクノラティのセリックは次のように指摘する。「結局、時間が限られていること、もっとはっきり言えば、創造力が限られていることが問題なのです。どれほど頭が良くても、どれほど熱心に働いても、立ち上げたばかりの会社にいる3人や4人では、あるいは会社がもう少し大きくなって30人程度でも、ひねりだせるアイデアにはかぎりがあります」このことを新世代のウェブ新興企業は、オープンソース・ソフトウェアのコミュニティから学んだ。社内の人材よりもすぐれた人が社外にいるのだ。APIを公開すると実験を低リスクで行える環境が生まれ、そのプラットフォームで何かを開発したいと思う人、だれもが自由に開発を行えるようになる。本当に価値のある何かを作れるだけのスキルと洞察力をもつ人が100万人単位で存在する可能性があるとセリックは言う。(p.73)
ピアプロダクションは、人のスキルと独創力、知力を従来企業以上の効率で効果的に活用できる新しい生産モデルとして注目を集めつつある。ピアプロダクションに対して企業各社がどのような姿勢で臨むかにより、その業界の未来が決まり、その生存可能性さえも左右される。(p.106)
なぜ、人々が無償でウィキペディア作成のピアプロダクションに参加するのか、その理由がわからない人もいるだろう。ウェールズは肩をすくめる。「なんでみんな、ソフトボールをするんだい?楽しいからだろ?人とかかわる活動だからだろ?」(p.116)
IBMは、オープンソース・コミュニティへの参加の常として、受け入れられる可能性が最も高いのは、だれかがやらなければならないが、だれもやりたがらない仕事を引き受けることだと判断する。(p.129)
IBMのジョエル・コーリーはリナックスなどの共有インフラストラクチャーに貢献したが、だからといって差別化する価値を得るチャンスが減ったということはなく、逆に、そのチャンスは増えたという。価値の創造というものをどう考えるか次第なのだ。「戦略実行時、本当の価値の源泉を見失うと混乱します。新しい価値を生み続けていれば、その価値を収穫するチャンスはあるものです。」(p.150)
19世紀後半に活躍した化学者・細菌学者、ルイ・パスツールの有名な言葉に「チャンスは備えあるところに訪れる」がある。同じことがイノベーションにも言える。企業は、日々、難しい課題に直面するが、世界のどこかには、その課題を解決できる知識と経験をもつ備えがある人材がいる。問題は、ことわざにある干し草のなかの針のように、そのような人物は見つけにくい点だ。(p.158)
小さい頃は、やたらと虫歯が出来やすい体質だった。
学校の歯科検診で虫歯が見つかると、必ず歯医者に行かなくてはいけない。
当時、虫歯の治療は、日常生活の中で最も怖ろしいことの一つで、よく歯医者の予約をすっぽかして逃亡した。
時には、恐怖のあまり治療中に診療室から飛び出して出ていったこともあり、歯医者への通院は、完全にトラウマ的イベントになっていた。
その後、「虫歯になる前に予防する」ことを習慣にするようになって、今でも年に一回は歯医者に行って、虫歯になりそうな歯を治してもらう。
なので、中学生以降は、ごく小さな治療しかしたことはない。
驚くのは、麻酔の注射がまったく痛くないことだ。
昔は信じられないほど注射が痛かったような記憶があるのだけれど、今は、いつやったのかわからないくらいに、あっという間に麻酔が完了する。
そして、自分の記憶の中にある歯医者というのは、やたらと不気味で怖ろしいところだったが、今通っている歯医者は、真っ白い内装の中に、穏やかなBGMがかかっていて、モニターには映画が流れている。とてもキレイで居心地がいい。
当時の歯医者の、死刑執行場のようなたたずまいを思えば、隔世の感がある。
虫歯になる前に行くようにしたから、歯医者がイヤな場所でなくなったというのもあるけど、歯医者そのものの雰囲気による影響も、かなり大きい。
いい歯医者が近所にあるというのは、本当にありがたい。
■自由が丘デンタルスタジオ
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目黒区自由が丘2-12-21 ミソノビル2F
03-5729-4618
平日10:00~22:00(昼休13:30~15:00)
土・日10:00~17:00(昼休13:30~14:00)
祝日休診

東京島(桐野夏生/新潮社)
与那国島のさらに先にある無人島に漂着した31人の男性と1人の女性のサバイバル生活、というむちゃくちゃな設定で、戦時中に起きた「アナタハン島事件」がモチーフになっているらしい。
なにしろ桐野夏生が書いているものなので、それが現代風にアレンジされて、とんでもなく陰鬱な話しになっている。
メンバーのほとんどは、与那国島でのアルバイトがツラくて逃げてきた途中で漂流したという若者ばかりで、無人島の中は、原始時代よりもタチの悪い、無法地帯と化してしまう。この弱肉強食の世界では、力の無い者や、心の弱い者、隙を見せた者から先に命を落としていく。
登場人物一人一人の、無人島に漂着する以前のプロフィールや、キャラクター設定の細かさが、またスゴい。文明社会では、生きる上でプラスに(あるいはマイナスに)働いていた個人の資質は、無人島での生活では果たして有用なのか、無用なのか。
無人島に着く前の生活水準が低いほど、島での生活にもスムーズに順応しやすいという逆転現象が起こるし、他の点でも、現代社会では役に立たなかった能力がサバイバル生活では優位に働くということが起こりえる。
大きな失意と小さな希望を抱えながら一日一日を生き延びていくうち、それぞれの個性は島に順応して、様々な変化を見せるようになる。他人を支配しようとする者、強い者に従おうとする者、宗教に走る者、発狂する者、島にとり憑かれたイスロマニアとなって島と同化しようとする者。
面白いのは、島の環境が、生存出来ないほどに過酷なわけではなく、最低限必要な程度の栄養源は確保が出来るというところだ。だから、ごく些細な文化的余裕が育つ余地もあるし、それゆえに、社会的な生物にしか起こらない派閥争いのようなものも生まれる。
無人島生活という設定は、普通、実生活とあまりにもかけ離れていて現実味が感じられないものだけれど、この作品では、食生活と日々の暮らし方について、やたら具体的に書かれているので、リアリティーがある。
実際に自分がここで暮らしていたらどうだろう?ということを想像しながら、かなり考えさせられる本だった。
【名言】
アタマは言葉と裏腹に明るい表情で言った。言語と表情が食い違うことを、ワタナベは奇異に思った。人間世界の複雑さをしばらくぶりに思い知った気がして、珍しく気分が沈むのだった。(p.112)
当時は、してやられたとばかりに、トウキョウ中に激しい怒りが沸騰していたものだが、自然消滅したらしい。いかにも、飽きやすいトウキョウらしかった。いや、相手が弱っている時にだけ膨張する、暴力の衝動だったのだろう。ということは、この島で弱さを見せてはいけないのだ。清子は急に用心深くなって、また決意を新たにした。(p.131)
俊夫にとって、逆鉾団地はひとつの国、それも天国だった。団地内に、ないものはなかった。小学校、中学校、交番、八百屋、肉屋、出張所、郵便局、パン屋、クリーニング屋、本屋を兼ねた文房具屋(後に貸しビデオ屋も兼ねた)、生活雑貨店(後に百円ショップになった)、蕎麦屋、ラーメン屋、鮨屋、遊び場。十年前には、似非マクドナルドも出来た。団地には、スターハウスに住める貴族もいれば、賃貸棟に暮らす庶民もいるし、単身者棟には、やもめ老人や、司書を引退した独身老女、学生もいた。あそこでは、誰もが満ち足りて暮らしていた。選択する必要がないからだった。逆鉾団地に住んでいる限り、生きるための迷いなんてひとつもない。そして、自分たちのような問題のある家族でさえも、団地ではひとつの役割を果たしていたはずだ。(p.142)
ワタナベはゆっくりと首を振った。他には誰もいない、という最大にして、犯罪的な嘘だった。内心は、これでとうとうトウキョウにもホンコンにも勝った、と誇らしくてならなかった。船が動く気配がした。離れろ、早く遠くへ行け、俺だけを乗せて。トウキョウ島から離れろ。海流を越えろ。ワタナベは強く念じた。(p.193)
母親の方は、ひたすらバランスを大切にして、自分が傷ついたことを誤魔化していた。曰く、夫が出て行ったのは衝撃だけど、自分はライターの仕事ができるようになってよかった。やっちゃんが父親を失ったのは可哀相だけど、父親について考えるきっかけができたのはよかった。とにも角にも、感情の収支のバランスさえ保たれていればいいのだった。それは、ポジティブ・シンキングの一種ではあったが、開き直りと取れることもあり、始終言われると、正直うざくはあった。でも、確かに便利な理論だった。自分の盗癖も、このバランスシートで考えれば、見事に解決するのだった。(p.251)

レベル7(宮部みゆき/新潮社)
よく出来ていると思った。よく練られたミステリーという感じで、謎めいた導入部分から、その解決編まで含めて、見事な構成だと思う。この作品を高く評価する人が多いということは納得出来る。
しかし、何故か余韻が残らない。読み終わってしばらく経つと、たぶん、その内容のほとんどを忘れてしまうだろうという気がする。作者が発信する思想やメッセージのようなものが、何もひっかかってこなかったからじゃないかと思う。
これだけ長い物語の中で、【名言】として抜き出す部分が一つもなかったというのは珍しい。セリフがいかにも台本に書かれた言葉っぽい感じで、「実際には、そんなことを言う人はいないだろう」というセリフばかりにみえる。上手にまとまっているのだけれど、優等生すぎて印象に残らないという、なんというか、教科書的な作品と思った。
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「三十歳までなんて生きるな」と思っていた(保坂和志/草思社)
この作者がテーマとして選んで、書き綴っている内容は、自分の関心とドンピシャだった。物事の考え方の点で、とても共感出来る部分が多かった。
語り口は、書きながらあっちにこっちにと、移動することが多くて、全体としてあまり論理的ではないのだけれど、そもそものテーマが、論理的に書くことが難しい内容なのだ。だから、このふわふわと逍遥してしまう感じもわかるし、そうならざるを得ないテーマをあえて選んで書いていることに感心する。
【名言】
「早い話しが抽象画だ」という説明はあまりに乱暴と思われるかもしれないが、世間一般では「早い話が抽象画だ」でじゅうぶんというか、それ以上の説明は必要とされないし、実際に絵を前にしても「早い話しが抽象画だ」という感想しか持たない人がほとんどなのだ。人物を描いてあっても、顔の中に目や鼻や口がちゃんと描いてなければ、世間の人たちは「わけがわからない絵」と一蹴してしまう。(p.15)
テレビや雑誌でしょっちゅう出てくる「あなたにとって××とは何ですか?」という一見謙虚な質問も同じだ。「保坂さんにとって小説とは何ですか?」何が知りたくてそんなことを訊くのか。そんな大雑把な質問で何か実のある答えが得られると本気で思っているのか。その答えを聞いて質問者は自分自身の人生と照合させて何かを真面目に考えようとしているのか。そういうつもりなどまったくなく、ただその人たちは自分に探究心があるふりを装うために、型にはまったそんなことを口にしているだけだ(型にはまったことさえ言っていれば褒められる学校や社会というのがその背景にあるわけだが)。(p.20)
何かについて自分の力でしつこく考えようとしない場合、価値観でも方法でも理論でもすべてが「固定したもの」に見えるのだ。努力するとはつまり、「正しい」とされることをただこつこつやることではなくて、「正しい」とされていることの根拠を考えることであって、それを考えずに定説を鵜呑みにして形だけの努力をした人は、自分が教える側に立ったときに、相手の疑問や反論を認めない強圧的で教条主義的な人になる。(p.30)
数学は考える対象が限定されているために、「十代にひらめいたことをその後、十年二十年かかって証明する」などとわかりやすく言いやすいけれど、ふつうの人間でも世界に対する根源的な手触りは十代のうちに(場合によっては幼児期に)経験したことが元になる。しかし十代に経験したそれを言える言葉は誰にもなく、その言葉は三十歳になっても四十歳になっても七十歳になっても探しつづけなければならない。「それができるのは哲学者とか文学者のような特別な職業の人だけだ」なんてことを言って、考えることから逃げる人のことは私は知らない。世界と自分のことを考えずに仕事だけして何になるのか。そして最期になって、自分の死を前にしたときに、わかりやすく噛みくだかれた仏教の講話とかそれ以下の出来合いの言葉にすがっていたら、自分の人生にならないじゃないかと言いたい。(p.32)
小説家が社会的なことについて批判したり、批判しないまでもあれこれ考えたりしても所詮本業と関わりのない安全な地点での発言でしかない。ここでう「安全」というのは、社会的な評価が傷つかないという意味での安全も含まれているが、それ以上に、「考えることが自分のやっていることを脅かさない」という意味の方がずっと強い。考えることとやっていることがリンクしなければ、「言ってることとやってることが違うじゃないか」ということになる。他人からそう言われるのではなく、自分の心の中でそれを感じる。そういうリンクする地点で考えたり書いたりしなければ意味がない。(p.72)
すべての人間が奇跡的な偶然によって、出産時の衝撃にはじまる数々の衝撃を乗り越えて、精神の均衡をかろうじて保っていまに至っている。だから見方を変えてフロイト的な言い方をすれば、すべての人間には乳幼児期のトラウマもあれば脅迫観念もあれば、神経症的な要素もある。(p.100)
何よりもまず読むこと、そして次ぎに簡単に答えを出そうとしないでそれをプールしておくこと。「文学を読むことの効用は何か?」という類いの短絡的というか気が短いというか、”溜め”のない質問にはそもそも文学は答えるのが苦手だが、文学に接していない人とつき合ってみると何度目かに(場合によっては一回目に)薄っぺらさに気づく。もちろんその薄っぺらさに本人は気づいていない。文学の価値がわかるには時間がかかる。しかし今の社会は時間がかかることをただの「非効率」と切り捨てる。必然的に文学の価値を知る人が育たない。(p.101)
人が生まれてくるための受精の瞬間は偶然の極地だし、親はこの私でなくても自分たちの子どもでありさえすれば誰でもよかった。しかし、そのように偶然からはじまったものが時間の厚みによって、取り替えが不可能なものになる。現に生きている私たちが見なければいけないのは、この時間の厚みであって、はじまりの偶然ではない。(p.153)
天体の運行にしろ気象の変化にしろ、私たちは現状の説明でじゅうぶん納得していて、それ以上の「何かがある」とは思わない。私は専門家ではないから本当の本当のところはわからないが、天体は気象にはもうこれ以上何もない。「何もない」と言われてそれで気懸かりが残ったりしない。だからそこには神もいない。科学的世界観というのはそういう状態のことだ。(p.206)
