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2008年06月30日
論理哲学論考
ウィトゲンシュタインは、この本によって、哲学問題をすべて解決したと考えて、哲学から離れたのだという。とんでもない話しだけれども、そう言いたかった気持ちはよくわかる。
この本を書く時、おそらく著者は、さっさと哲学などという曖昧なものの根本的な部分を整理して見通しを立てて、余計なことを考えずに済むように片付けておきたいと思って書いたのだろうと思う。
この論考は、人は何を理解することが出来て、何を理解することは出来ないのか、を区別することを目的としている。それは、哲学というものの輪郭をはっきりさせて、その限界を明確にしようという試みでもある。
そのたった一つのことを証明するために、きっちりとナンバリングされた一つ一つの論考によって、徐々に論理を展開して結論へと収束していくわけだけれども、その展開の仕方が、一分の隙もないぐらいに、アリの通る隙間もなくレンガを積んでいくようなやり方で進んでいく。ここまで徹底して構築された思考というのは、美しいと思う。
その思考のベースにあるのは記号学と論理学で、それは、ロジックによって世界を記述するために最も適した方法として選択されたものなのだろう。
この本が出版された当時には、コンピューターというものは、まだ世の中になかったわけだけれども、コンピューターの設計には、このウィトゲンシュタインのような考え方は必要不可欠なものだろうし、もし、コンピューターが現実世界というものを解析しようとした場合には、間違いなくこの「論理的哲学論考」と同じ手法によって、世界を記述するはずだ。
これは、世界を表現するための一種の記述体系で、その点で、ニュートン力学やアインシュタイン物理学が創りだしたものと同等の意味と価値を持つ、偉業なのだと思う。
【名言】
おそらく本書は、ここに表されている思想、ないしそれに類似した思想、をすでに自ら考えたことがある人だけに理解されるだろう。それゆえこれは教科書ではない。理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。(序文 p.9)
私の為そうとしたことが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私にはそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私がいっさい典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかどうかなど、私には関心がないからにほかならない。(序文 p.10)
3.02:思考は思考される状況が可能であることを含んでいる。
思考しうることはまた可能なことでもある。(p.23)
4.112:哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。(p.51)
4.115:哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。(p.52)
5.453:論理に数が現れるとき、それは必ずしかるべき理由を示されねばならない。
あるいはむしろこう言うべきだろう。論理には数など存在しないということをはっきりさせねばならない。(p.92)
5.454:論理においてはすべてはひとつひとつ自立している。それゆえいかなる類別も不可能である。
論理には、より一般的とか、より特殊といったことはありえない。(p.93)
5.6:私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(p.114)
6.4311:死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。(p.146)
6.44:神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(p.147)
6.5:答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。
「謎」は存在しない。
問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。(p.147)
6.52:たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。(p.145)
2008年06月29日
マイクロソフト・ウェイ

マイクロソフト・ウェイ(ランダル・E.ストロス/ソフトバンククリエイティブ)
マイクロソフトがいかに成功し、その陰でいかに多くの失敗をしてきたか、について、マイクロソフトの「一部の超優秀な人材を極端なまでに優先する」という独特の企業文化を軸にして分析をした本。
マイクロソフトというのは、とかく世論や世間的なイメージが先行して、偏った見方をされがちな企業だけれども、この本は、かなり中立な立場から、客観的にマイクロソフトという会社のエッセンスを取り出している本だと思う。
出版が1997年ということで、本の中には「google」についての記述は、影も形も見当たらない。だからこそ、この本はとても絶妙なタイミングで出された本だと、今では思える。
googleが台頭した後だったら、そのことによる余計なノイズが入って、正確にマイクロソフトという会社のみを取り出して評価することは難しかっただろうし、そもそもマイクロソフトについて書いたということの注目度も、世間的にはかなり下がってしまっていただろう。
今の時代に適したものかどうかはわからないけれども、ビル・ゲイツがマイクロソフトにおいてとってきた経営手法は、かなりオリジナルなものがあって、そこから学べる内容も多い。この本が出版された後の10年間の遷移も含めて、今ではさらに、その成功と失敗についてより多くの事例を併せて俯瞰することが出来る。
この本は、現在においても、充分に一読に値する内容だと思う。
【名言】
知性至上主義の裏に潜む反平等主義を目の敵にする人々にとっては、ゲイツは悪魔のような存在だ。しかし、マイクロソフトと関わりのないプログラマーも、いろいろな理由でマイクロソフトを憎悪する人々も、ゲイツやマイクロソフトの人間がいっているのと同じことをどこかで耳にしているはずである。「最高のプログラマーと単によいプログラマーとの差は小さくない」。概念の独創性、コーディングの速度、設計のうまさ、問題解決能力など、どのような点においても、最高のプログラマーのほうが数段上をいっている。いくつかの会社が同じスタートラインに立ったとしても、このようなスーパー・プログラマーを一番多く集めた会社が最後に勝利をつかむことは、だれの目にも明らかだろう。(p.65)
ゲイツは、優秀なプログラマーを集めれば、同じレベルのプログラマーを引きつけることができることを見抜いていた。スター・プログラマーは、自分のフィールドで最高といわれる人たちが集まるところで仕事をしたがるものだ。(p.66)
1971年、半導体技術が幾何級数的なベースで発達を遂げる可能性があることをゲイツに教えたのは、一緒にマイクロソフトを設立したポール・アレンだった。「幾何級数的なベースの現象」などめったにあるものではない。ゲイツは疑い深げにアレンに聞いた。「きみは真面目にいっているのか?」。(p.76)
私たちは、ゲイツとマイクロソフトの社員たちを「実物大で」見るべきである。そうすれば、彼らがもたらす「恩恵」も実際のサイズで見えるはずだ。マイクロソフトの人間はどんなことでも徹底的に、しかも効率よく検討する。彼らは、評価と改訂という終わりのないプロセスへの答えは経験からしか得られず、経験を積めば積むほど新しい答えが生まれてくる、ということを知っている。だから、いつでも彼らは「仮の答え」で行動し、「次の答え」を探し続ける。(p.373)
2008年06月28日
きの山さん
聞いてみると、意外に答えが分かれる質問というのがある。
【今までに聞いてみて、結構答えが分かれた質問】
・カロリーメイトの何味が一番好きか?
・「ジョジョ」の第何部が一番好きか?
・目玉焼きには塩か醤油か?
・「きのこの山」と「たけのこの里」どっちが好きか?
自分は、圧倒的に「たけのこの里」のほうが好きなのだけれど、
「きのこの山」のほうに新キャラクターが登場したらしい。
http://kinotake.jp/
きの山さん
![]()
大阪府高槻市出身(32)
爆笑!!
これはヤバいと思いますよ。
2008年06月27日
おかあさんががんになっちゃった

おかあさんががんになっちゃった(藤原すず/メディアファクトリー)
こういう本が、本当に素晴らしい本なのだと、自分は思う。
母親がガンということがわかった後の、家族の交流を、イラストを主体にして絵本調で綴った本。日常生活の中の、ありふれた場面の描写ばかりなのだけれど、家族の心情がとてもよく伝わってくる。
ガンというのは、いやな病気だけれども、死ぬまでの間に少しの時間が残されているという点では良いところもあるのだと思った。ガンになった本人にも、周りの人間にも、死ぬまでのわずかな時間の中で準備出来ることがある。
絵は、著者自身が描いたもので、上手いものではないのだけれど、そんなことは全然内容に影響ない。どんなビジネス書や哲学書よりも、多くのことを考えさせてくれて、どんな映画よりも感動した本だった。
【名言】
・・あのおかあさんはがんじゃない
うちのおかあさんはがん・・
なんで私のおかあさんなんだろう・・(p.24)
しまくんのピアノは心配したとおり下手だったけど
すごくすごく気持ちの伝わる演奏だった
おとうさんとおかあさんは泣いていた
先生も看護婦さんも見にきていた他の患者さんも笑顔と泣き顔(p.134)
2008年06月26日
ウィキノミクス
ウィキペディアに代表されるような、「集合知」を扱った経済活動の変化をテーマにした本。
オープンソースとして成功したLinuxのプロジェクトや、それに積極的に参画したIBMが果たした役割などについて細かく説明されている。
情報のオープン化という戦略は、従来の大企業にとってはなかなか採用しにくい選択肢だと思うのだけれど、この本では、オープン化によって成功を収めたボーイング社やBMW社などの事例が豊富に挙げられていて、とても希望に満ちた将来予測がベースになっている。
この、オープン化という動きは、インターネットによって加速されたものであるし、ソフトウェア開発という分野で特に威力を発揮するものなので、ソフトウェアやネット上のコンテンツ制作をおこなう時の方法論として語られることが多いけれども、実際にはもっと幅広く応用が利く概念で、様々な分野の製造業やサービス業の企業にとっても、参考になるところは非常に多いと思う。
今までは、「集合知」の活用というのは技術的に難しかったが、今後はインターネットを適切に利用することによって、世界中に散らばる無限の知的リソースを組み合わせることが可能になる。これは、ものスゴいポテンシャルを持つ変化だ。
この本の原著は2006年に出ているので、既に過去の話題となってしまっている内容も多いのだけれど、ここで紹介されている「ウィキノミクス」という考え方は、一過性のブームではなく、今後長い間にわたって影響を及ぼすコンセプトであることは間違いないと思う。
何よりも、フィクションではなく、実際に今、感度の高い企業がリアルタイムでおこなっていることが紹介されているというのが、たまらなく面白い。かなりワクワクする話しが満載の本だった。
【名言】
テクノラティのセリックは次のように指摘する。「結局、時間が限られていること、もっとはっきり言えば、創造力が限られていることが問題なのです。どれほど頭が良くても、どれほど熱心に働いても、立ち上げたばかりの会社にいる3人や4人では、あるいは会社がもう少し大きくなって30人程度でも、ひねりだせるアイデアにはかぎりがあります」このことを新世代のウェブ新興企業は、オープンソース・ソフトウェアのコミュニティから学んだ。社内の人材よりもすぐれた人が社外にいるのだ。APIを公開すると実験を低リスクで行える環境が生まれ、そのプラットフォームで何かを開発したいと思う人、だれもが自由に開発を行えるようになる。本当に価値のある何かを作れるだけのスキルと洞察力をもつ人が100万人単位で存在する可能性があるとセリックは言う。(p.73)
ピアプロダクションは、人のスキルと独創力、知力を従来企業以上の効率で効果的に活用できる新しい生産モデルとして注目を集めつつある。ピアプロダクションに対して企業各社がどのような姿勢で臨むかにより、その業界の未来が決まり、その生存可能性さえも左右される。(p.106)
なぜ、人々が無償でウィキペディア作成のピアプロダクションに参加するのか、その理由がわからない人もいるだろう。ウェールズは肩をすくめる。「なんでみんな、ソフトボールをするんだい?楽しいからだろ?人とかかわる活動だからだろ?」(p.116)
IBMは、オープンソース・コミュニティへの参加の常として、受け入れられる可能性が最も高いのは、だれかがやらなければならないが、だれもやりたがらない仕事を引き受けることだと判断する。(p.129)
IBMのジョエル・コーリーはリナックスなどの共有インフラストラクチャーに貢献したが、だからといって差別化する価値を得るチャンスが減ったということはなく、逆に、そのチャンスは増えたという。価値の創造というものをどう考えるか次第なのだ。「戦略実行時、本当の価値の源泉を見失うと混乱します。新しい価値を生み続けていれば、その価値を収穫するチャンスはあるものです。」(p.150)
19世紀後半に活躍した化学者・細菌学者、ルイ・パスツールの有名な言葉に「チャンスは備えあるところに訪れる」がある。同じことがイノベーションにも言える。企業は、日々、難しい課題に直面するが、世界のどこかには、その課題を解決できる知識と経験をもつ備えがある人材がいる。問題は、ことわざにある干し草のなかの針のように、そのような人物は見つけにくい点だ。(p.158)
2008年06月25日
自由が丘デンタルスタジオ
小さい頃は、やたらと虫歯が出来やすい体質だった。
学校の歯科検診で虫歯が見つかると、必ず歯医者に行かなくてはいけない。
当時、虫歯の治療は、日常生活の中で最も怖ろしいことの一つで、よく歯医者の予約をすっぽかして逃亡した。
時には、恐怖のあまり治療中に診療室から飛び出して出ていったこともあり、歯医者への通院は、完全にトラウマ的イベントになっていた。
その後、「虫歯になる前に予防する」ことを習慣にするようになって、今でも年に一回は歯医者に行って、虫歯になりそうな歯を治してもらう。
なので、中学生以降は、ごく小さな治療しかしたことはない。
驚くのは、麻酔の注射がまったく痛くないことだ。
昔は信じられないほど注射が痛かったような記憶があるのだけれど、今は、いつやったのかわからないくらいに、あっという間に麻酔が完了する。
そして、自分の記憶の中にある歯医者というのは、やたらと不気味で怖ろしいところだったが、今通っている歯医者は、真っ白い内装の中に、穏やかなBGMがかかっていて、モニターには映画が流れている。とてもキレイで居心地がいい。
当時の歯医者の、死刑執行場のようなたたずまいを思えば、隔世の感がある。
虫歯になる前に行くようにしたから、歯医者がイヤな場所でなくなったというのもあるけど、歯医者そのものの雰囲気による影響も、かなり大きい。
いい歯医者が近所にあるというのは、本当にありがたい。
■自由が丘デンタルスタジオ
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目黒区自由が丘2-12-21 ミソノビル2F
03-5729-4618
平日10:00~22:00(昼休13:30~15:00)
土・日10:00~17:00(昼休13:30~14:00)
祝日休診
2008年06月24日
東京島
与那国島のさらに先にある無人島に漂着した31人の男性と1人の女性のサバイバル生活、というむちゃくちゃな設定で、戦時中に起きた「アナタハン島事件」がモチーフになっているらしい。
なにしろ桐野夏生が書いているものなので、それが現代風にアレンジされて、とんでもなく陰鬱な話しになっている。
メンバーのほとんどは、与那国島でのアルバイトがツラくて逃げてきた途中で漂流したという若者ばかりで、無人島の中は、原始時代よりもタチの悪い、無法地帯と化してしまう。この弱肉強食の世界では、力の無い者や、心の弱い者、隙を見せた者から先に命を落としていく。
登場人物一人一人の、無人島に漂着する以前のプロフィールや、キャラクター設定の細かさが、またスゴい。文明社会では、生きる上でプラスに(あるいはマイナスに)働いていた個人の資質は、無人島での生活では果たして有用なのか、無用なのか。
無人島に着く前の生活水準が低いほど、島での生活にもスムーズに順応しやすいという逆転現象が起こるし、他の点でも、現代社会では役に立たなかった能力がサバイバル生活では優位に働くということが起こりえる。
大きな失意と小さな希望を抱えながら一日一日を生き延びていくうち、それぞれの個性は島に順応して、様々な変化を見せるようになる。他人を支配しようとする者、強い者に従おうとする者、宗教に走る者、発狂する者、島にとり憑かれたイスロマニアとなって島と同化しようとする者。
面白いのは、島の環境が、生存出来ないほどに過酷なわけではなく、最低限必要な程度の栄養源は確保が出来るというところだ。だから、ごく些細な文化的余裕が育つ余地もあるし、それゆえに、社会的な生物にしか起こらない派閥争いのようなものも生まれる。
無人島生活という設定は、普通、実生活とあまりにもかけ離れていて現実味が感じられないものだけれど、この作品では、食生活と日々の暮らし方について、やたら具体的に書かれているので、リアリティーがある。
実際に自分がここで暮らしていたらどうだろう?ということを想像しながら、かなり考えさせられる本だった。
【名言】
アタマは言葉と裏腹に明るい表情で言った。言語と表情が食い違うことを、ワタナベは奇異に思った。人間世界の複雑さをしばらくぶりに思い知った気がして、珍しく気分が沈むのだった。(p.112)
当時は、してやられたとばかりに、トウキョウ中に激しい怒りが沸騰していたものだが、自然消滅したらしい。いかにも、飽きやすいトウキョウらしかった。いや、相手が弱っている時にだけ膨張する、暴力の衝動だったのだろう。ということは、この島で弱さを見せてはいけないのだ。清子は急に用心深くなって、また決意を新たにした。(p.131)
俊夫にとって、逆鉾団地はひとつの国、それも天国だった。団地内に、ないものはなかった。小学校、中学校、交番、八百屋、肉屋、出張所、郵便局、パン屋、クリーニング屋、本屋を兼ねた文房具屋(後に貸しビデオ屋も兼ねた)、生活雑貨店(後に百円ショップになった)、蕎麦屋、ラーメン屋、鮨屋、遊び場。十年前には、似非マクドナルドも出来た。団地には、スターハウスに住める貴族もいれば、賃貸棟に暮らす庶民もいるし、単身者棟には、やもめ老人や、司書を引退した独身老女、学生もいた。あそこでは、誰もが満ち足りて暮らしていた。選択する必要がないからだった。逆鉾団地に住んでいる限り、生きるための迷いなんてひとつもない。そして、自分たちのような問題のある家族でさえも、団地ではひとつの役割を果たしていたはずだ。(p.142)
ワタナベはゆっくりと首を振った。他には誰もいない、という最大にして、犯罪的な嘘だった。内心は、これでとうとうトウキョウにもホンコンにも勝った、と誇らしくてならなかった。船が動く気配がした。離れろ、早く遠くへ行け、俺だけを乗せて。トウキョウ島から離れろ。海流を越えろ。ワタナベは強く念じた。(p.193)
母親の方は、ひたすらバランスを大切にして、自分が傷ついたことを誤魔化していた。曰く、夫が出て行ったのは衝撃だけど、自分はライターの仕事ができるようになってよかった。やっちゃんが父親を失ったのは可哀相だけど、父親について考えるきっかけができたのはよかった。とにも角にも、感情の収支のバランスさえ保たれていればいいのだった。それは、ポジティブ・シンキングの一種ではあったが、開き直りと取れることもあり、始終言われると、正直うざくはあった。でも、確かに便利な理論だった。自分の盗癖も、このバランスシートで考えれば、見事に解決するのだった。(p.251)
2008年06月23日
レベル7
よく出来ていると思った。よく練られたミステリーという感じで、謎めいた導入部分から、その解決編まで含めて、見事な構成だと思う。この作品を高く評価する人が多いということは納得出来る。
しかし、何故か余韻が残らない。読み終わってしばらく経つと、たぶん、その内容のほとんどを忘れてしまうだろうという気がする。作者が発信する思想やメッセージのようなものが、何もひっかかってこなかったからじゃないかと思う。
これだけ長い物語の中で、【名言】として抜き出す部分が一つもなかったというのは珍しい。セリフがいかにも台本に書かれた言葉っぽい感じで、「実際には、そんなことを言う人はいないだろう」というセリフばかりにみえる。上手にまとまっているのだけれど、優等生すぎて印象に残らないという、なんというか、教科書的な作品と思った。
2008年06月22日
「三十歳までなんて生きるな」と思っていた
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「三十歳までなんて生きるな」と思っていた(保坂和志/草思社)
この作者がテーマとして選んで、書き綴っている内容は、自分の関心とドンピシャだった。物事の考え方の点で、とても共感出来る部分が多かった。
語り口は、書きながらあっちにこっちにと、移動することが多くて、全体としてあまり論理的ではないのだけれど、そもそものテーマが、論理的に書くことが難しい内容なのだ。だから、このふわふわと逍遥してしまう感じもわかるし、そうならざるを得ないテーマをあえて選んで書いていることに感心する。
【名言】
「早い話しが抽象画だ」という説明はあまりに乱暴と思われるかもしれないが、世間一般では「早い話が抽象画だ」でじゅうぶんというか、それ以上の説明は必要とされないし、実際に絵を前にしても「早い話しが抽象画だ」という感想しか持たない人がほとんどなのだ。人物を描いてあっても、顔の中に目や鼻や口がちゃんと描いてなければ、世間の人たちは「わけがわからない絵」と一蹴してしまう。(p.15)
テレビや雑誌でしょっちゅう出てくる「あなたにとって××とは何ですか?」という一見謙虚な質問も同じだ。「保坂さんにとって小説とは何ですか?」何が知りたくてそんなことを訊くのか。そんな大雑把な質問で何か実のある答えが得られると本気で思っているのか。その答えを聞いて質問者は自分自身の人生と照合させて何かを真面目に考えようとしているのか。そういうつもりなどまったくなく、ただその人たちは自分に探究心があるふりを装うために、型にはまったそんなことを口にしているだけだ(型にはまったことさえ言っていれば褒められる学校や社会というのがその背景にあるわけだが)。(p.20)
何かについて自分の力でしつこく考えようとしない場合、価値観でも方法でも理論でもすべてが「固定したもの」に見えるのだ。努力するとはつまり、「正しい」とされることをただこつこつやることではなくて、「正しい」とされていることの根拠を考えることであって、それを考えずに定説を鵜呑みにして形だけの努力をした人は、自分が教える側に立ったときに、相手の疑問や反論を認めない強圧的で教条主義的な人になる。(p.30)
数学は考える対象が限定されているために、「十代にひらめいたことをその後、十年二十年かかって証明する」などとわかりやすく言いやすいけれど、ふつうの人間でも世界に対する根源的な手触りは十代のうちに(場合によっては幼児期に)経験したことが元になる。しかし十代に経験したそれを言える言葉は誰にもなく、その言葉は三十歳になっても四十歳になっても七十歳になっても探しつづけなければならない。「それができるのは哲学者とか文学者のような特別な職業の人だけだ」なんてことを言って、考えることから逃げる人のことは私は知らない。世界と自分のことを考えずに仕事だけして何になるのか。そして最期になって、自分の死を前にしたときに、わかりやすく噛みくだかれた仏教の講話とかそれ以下の出来合いの言葉にすがっていたら、自分の人生にならないじゃないかと言いたい。(p.32)
小説家が社会的なことについて批判したり、批判しないまでもあれこれ考えたりしても所詮本業と関わりのない安全な地点での発言でしかない。ここでう「安全」というのは、社会的な評価が傷つかないという意味での安全も含まれているが、それ以上に、「考えることが自分のやっていることを脅かさない」という意味の方がずっと強い。考えることとやっていることがリンクしなければ、「言ってることとやってることが違うじゃないか」ということになる。他人からそう言われるのではなく、自分の心の中でそれを感じる。そういうリンクする地点で考えたり書いたりしなければ意味がない。(p.72)
すべての人間が奇跡的な偶然によって、出産時の衝撃にはじまる数々の衝撃を乗り越えて、精神の均衡をかろうじて保っていまに至っている。だから見方を変えてフロイト的な言い方をすれば、すべての人間には乳幼児期のトラウマもあれば脅迫観念もあれば、神経症的な要素もある。(p.100)
何よりもまず読むこと、そして次ぎに簡単に答えを出そうとしないでそれをプールしておくこと。「文学を読むことの効用は何か?」という類いの短絡的というか気が短いというか、”溜め”のない質問にはそもそも文学は答えるのが苦手だが、文学に接していない人とつき合ってみると何度目かに(場合によっては一回目に)薄っぺらさに気づく。もちろんその薄っぺらさに本人は気づいていない。文学の価値がわかるには時間がかかる。しかし今の社会は時間がかかることをただの「非効率」と切り捨てる。必然的に文学の価値を知る人が育たない。(p.101)
人が生まれてくるための受精の瞬間は偶然の極地だし、親はこの私でなくても自分たちの子どもでありさえすれば誰でもよかった。しかし、そのように偶然からはじまったものが時間の厚みによって、取り替えが不可能なものになる。現に生きている私たちが見なければいけないのは、この時間の厚みであって、はじまりの偶然ではない。(p.153)
天体の運行にしろ気象の変化にしろ、私たちは現状の説明でじゅうぶん納得していて、それ以上の「何かがある」とは思わない。私は専門家ではないから本当の本当のところはわからないが、天体は気象にはもうこれ以上何もない。「何もない」と言われてそれで気懸かりが残ったりしない。だからそこには神もいない。科学的世界観というのはそういう状態のことだ。(p.206)
2008年06月21日
由比ガ浜の月
由比ガ浜で、満月の夜に、水面に映る月を見た。
満月の夜というのは、びっくりするぐらい明るい。
空の月と海の月、両方が照って、さらに明るくなる。
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素晴らしいと思うのは、この景色は、何千年か前であっても、この浜から同じように見えたのだろうということだ。
たった10年そこそこ経っただけで、街の景色も人の姿も大きく変わってしまうけれど、数千年のスパンで変わらないだろう風景というのはスゴい。
2008年06月20日
天切り松 闇がたり
「天切り」というのは、屋根の瓦をはずして侵入する泥棒のことをいうらしい。
この、天切りで名高い盗っ人の松蔵が、留置場で周りのチンピラや看守に向かって、若かりし頃の昔語りをするという設定になっている。
もう70歳を越えた松蔵が思いを馳せて語るのは、古き良き大正浪漫が残る東京下町の出来事で、それを、シェラザードのように一夜に一話ずつ語って聞かせる。
その話しのテーマになっているのは、義賊ともいうべき、松蔵の師匠や兄貴分たちの物語で、いずれも盗みにかけては天下一品の腕利きの、「粋」を絵に描いたような連中で、やたらとカッコいい。
山県有朋や永井荷風のような、歴史上の人物が登場して物語に絡んでくるところも面白い。
語り手である松蔵は生粋の江戸っ子で、その江戸言葉がとにかく歯切れがよくて、テンポが良い。とてもよく出来た講談を、ベテランの講談師から聞かされているような気分になる。この絶妙なリズムを、母国語で味わうことが出来るというのは幸せなことだと思った。
【名言】
無益だって?ふん、いいかい閣下。世の中にゃ銭金より大事なもんが、いくらだってあるんだ。てめえのような長州の芋侍にゃわかるまい。どうりで薄ぼんやりと花火を見てやがると思ったら、ハハッ、どんと上がって消えちまう無益なもんの有難味を、てめえは知らなかったんだねえ。(p.77)
おまえは、わしを長州の芋侍と呼んでくれた。わしにとって、それにまさる誉れはない。一介の武弁で死ぬるは本望じゃ。このような気持ちになれたのも、みなおまえのおかげじゃよ。さあ、去ね。槍は、忘れずに持って行け。(p.95)
まああの一本気てえのァ、形はちがうにせえ根岸の棟梁ゆずりの職人気質さ。人に媚びねえ、へつらわねえ。口数はむっつりと少ねえが、嘘は決してつかねえ。それともうひとつ、シャツの袖口や足袋の裏が、いつもふしぎなぐれえ真白だった。あれァ、男の中の男だ。(p.137)
「住んじゃおりやせんが、盆と正月の炊き出しにァ、一家を上げてめえりやす」
「あの、洒落者がか」
「なにをおっしゃいます、閣下、それが本当の洒落者のすることでござんすよ」(p.148)
「おいら、銭がねえんだけど」
「そんなものは要らない。もし坊さんに尋ねられたら、永井荷風の知り合いだと言いなさい」
「そこ、投げ込み寺なんか」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。生まれては苦界、死しては浄閑寺。べつにお女郎ではなくとも、人はみな似たようなものだよ。」(p.264)
2008年06月19日
殺人ピエロの孤島同窓会
自分では買うことがなさそうな本なのだけれど、贈っていただいたので、これも縁と思い、読むことになった。
贈ってくれた当人からは、「自分が読むんじゃないから買ったけど、自分じゃまったく読む気がしないし、興味もない。だから、キミがブログにこの本の感想を書いたとしても、それを読む気にもならない。」と言われて、その、意味のわからないシチュエーションで、かえって燃えて読んだ。
あらすじ:
『無人となった東硫黄島で、高校の同窓生36人が同窓会を開く事になった。
そこにピエロの格好をした人間が現れて、「この中に悪魔がいる。そいつを倒す為に今から1人ずつ殺してゆく。」と、宣言する。
かくしてピエロによる殺人ゲームが始まった・・。』
なんだか、あらすじからして、(えーー・・)と力が抜けていくような感じだ。
その、出だしの期待感の少なさが良かったのだと思うのだけど、最初に想像していたよりもはるかに面白かった。
話し自体は、リアリティーはないし、かなり強引な展開の連続なのだけれど、ヤマ場とオチがしっかりと用意されていて、読み終わった時には、(おお・・)という感じになっていた。
なんと、筆者は、この作品を書いた当時12歳だったのだという。盛り込まれている情報の内容をみると、とても12歳が書いたものとは思えない。
「12歳が書いた作品です」というのがウリらしいのだけれど、その宣伝文句は諸刃の剣だなあと思う。確かに、12歳ではありえないぐらいのクオリティーと思うけれども、逆に、12歳で書いたものではなかったら、この作品は世に出ることはなかったということの裏返しではないかと思うからだ。
でも、そもそも内容がいいとか悪いとかいう以前に、実際に手にとって読まれなければ何のメッセージも届かないわけだから、まず多くの人に読んでもらうために、そういう売り方もアリという気はする。
2008年06月18日
GHOSTS

GHOSTS(Paul Auster/Sun & Moon Pr)
これ以上ないくらいに単純化された舞台と、登場人物で構成された物語。
この物語では、登場人物への名前すら与えられていない。「Black」と「Blue」という名前には、抽象化された記号という以上の意味はなく、それがたとえ「a」と「b」であっても、「○」と「△」であってもこの作品には何の影響も及ぼさなかっただろう。まるで演劇のような、余計なものが削ぎ落とされたミニマムなステージの上で、物語は淡々と展開する。
そこには、観察する人間と観察される人間しか登場しない。そして、その2種類の人間を同時に見守る、観客としての役目を持った読者。そこまでを登場人物に含めたとしても、この物語に必要なキャストはたったの3人ということになる。
素粒子の縮尺の中では、「観察」という行為が非常に重要な意味を持つのだという。量子的世界では、物質は何者かによって観察されるまでの間は何物でもなく、いわば幽霊と似たような曖昧な存在ということだ。
社会的な存在である「人間」の場合でもやはり、自分を映してくれる他人という鏡の存在がなければ、自分について知るところは非常に限られたものになってしまう。自分自身の実体をはっきりと感じたいと思えば、他人が介在することによって自分を観察してもらうしかない。
この「GHOSTS」は、孤独がどれだけ人の心を蝕むかということを、誰もいない無人島ではなく、マンハッタンで表現した作品なのだと思う。
【名言】
To speculate, from the Latin "speclatus", meaning mirror or looking glass. For in spying out at Black across the street, it is as though Blue were looking into a mirror, and instead of merely watching another, he finds that he is also watching himself.(p.146)
Little does he realize that this is the beginning of the end. For something is about to happen, and once it happens, nothing will ever be the same again.(p.165)
Anything is possible, says Black. But first of all, I've got to finish it. There are days when I don't even know if I'll live that long.
Well, we never know, do we? says Blue, nodding philosophically. One day we're alive, and the next day we're dead. It happens to all of us.
Very true, says Black. It happens to all of us.(p.188)
But of course you did, says Black, in a slightly mocking voice. Of course we're friends. We've been friends from the beginning, haven't we? The very best of friends.(p.194)
To remind me of what I was supposed to be doing. Every time I looked up, you were there, watching me, following me, always in sight, boring into me with your eyes. You were the whole world to me, Blue, and I turned you into my death. You're the one thing that doesn't change, the one thing that turns everything inside out.(p.196)
2008年06月17日
おもてなしの経営学
著者は、コンピュータ黎明期のアスキーやマイクロソフトを知る数少ない日本人で、伝説的な存在ではあるけれども、この本の内容は20年以上前の昔話しについやされている部分が多く、新しい事柄について得るところは、あまりなかった。
だから、タイトルをそのまま受け取って、今のネット企業の経営学についての内容を期待してもダメで、どちらかというと、ネットが普及する以前の企業というのはどういう雰囲気だったのか、ということがよくわかる本として、より有用だと思う。
以前に雑誌に載った記事や、ブログのエントリからの転載で構成されている部分が多く、焼き直し的な感じがする構成だったのは残念だった。その上、後半半分は他の人との対談で占められているので、内容の密度的には、新書本というよりは雑誌に近い感じがある。
文調としても、テーマとしても、ブログとしてネット上でリアルタイムで読んだほうが、はるかにふさわしい内容だと思った。筆者のブログは、とても面白い。
→http://satoshi.blogs.com/
【名言】
スティーブ・ジョブズが復帰してからのアップルの躍進には、本当に感心してしまう。アップルを他の企業と大きく違う企業にしている要素は何かと言えば、すごく抽象的な言葉になってしまうが、「作る人たちの魂がひとつひとつの商品に込められている」としか言いようがない。(p.27)
ビル・ゲイツはその場でCairoプロジェクトの取り潰しを決めてしまった。それが、ウィンドウズ95が正式に次世代OSとなった瞬間です。しかし、あの決断のスピードには驚いた。その場で取り潰しですからね。(p.180)
インターネットの時代に生まれたのは幸運だと思っているんです。これだけの転換期だと、新しい職業がかっこう生まれるじゃないですか。古い職業では「教育」というと大学教授になることだったりするけど、50年後には、ブログを書いたりインターネット上にコミュニティを形成することが「教育」だと思われているかもしれない。(梅田望夫)(p.263)
2008年06月16日
冒険王・横尾忠則

かなり、素晴らしかった。
横尾忠則という人を今まで知らなかったのだけど、ほぼ日刊イトイ新聞に連載された、横尾さんへのインタビューを読んで、超笑って、ものすごく興味を持って、行きたくなった。
→http://www.1101.com/boukenooooo/
世田谷美術館での展示は6月15日が最終日で、それにあわせて、午前中に横尾さんと糸井さんの対談があり、それが、最高に素晴らしかった。
糸井さんの聞き方も、どうしてこんなに上手に言葉を使えるんだろうというぐらいに最高だったし、それに対する横尾さんの答え方も独特の味があって、こんなにも笑える対談は初めてだった。この内容がコンテンツとして残らないのは、非常にもったいない。
こういうイベントを最終日にやるということが変わっていると思うのだけれど、イトイ新聞への連載がおこなわれた中で、急遽決まったのだという。
対談の中で言っていたことで面白かったのは、
横尾さんは絵の「コンセプト」ということについてよく聞かれるのだけれども、そんなものは無いのだという。コンセプトという概念自体が、近代に出来たもので、たとえば縄文時代で物を作る時には、コンセプトとかいう以前に、まず「技術」がどうかというところが問題になるし、そこしか問題にならない。
これはとても納得がいく話しで、コンセプトなんてものがたとえあったとしても、それが具体的に形にならなくては何の意味もなく、やっぱり行き着くところは技術なのだろうと思う。
実際に展覧会の絵を見て、本当に驚いた。
今まで「好き」だと思っていた絵が遠く霞んでしまうくらい、強烈な魅力を持った絵ばかりだった。
「なんだ、これは!」の連続で、一つの絵の中に数えきれないぐらいの仕掛けが埋め込まれている。絵の上に写真のコラージュを散りばめたり、絵と同じ対象物を立体模型で造ってみたり、一つの絵の中に複数の画法を共存させていたり。
ここまで自由な発想で絵を描けるというのは、一体どういう感性をしているんだろう。
横尾さんは、子供が魅力的に思うような、不思議なものや未知のものへの純粋な好奇心と遊び心を持ったままに、高度な表現力を身につけた人なのだと思う。
好きな絵がありすぎて、とても挙げ切れないのだけれど、
特に好きだったのは、
「薔薇の蕾と薔薇の関係」
→複数の絵が、目に見えないマトリックス上でつぎはぎされた、幾何学的な図。
「夢日記」
→10cm四方くらいの小さいキャンバスに、夢の中で見た風景が描かれている。全部で24点ある連作。どれも色使いが青みがかっていて幻想的。
「20年目のピカソ」
→上下が逆さまになった絵の端から、ピカソのタッチを模写して描かれたピカソが絵を眺めている。
「赤い風景を描くミッキー」
→全面赤で統一された色調の絵を描いているミッキーを後ろから描いた絵。
「金の湯」
→赤色と金色の温泉に、幽霊のように輪郭がぼやけた人たちが浸かっている。
「タカラヅカを観た夜に見た夢」
→宝塚の雰囲気をそのままに、Y字路を舞台として踊っている図。
「Are You Ready for flying?」
→鉄腕アトムが横切る図の隣りに、鳥や飛行機などの写真がたくさん貼り付けられている。
「ナポレオン、シャンバラ越え之図」
→馬に乗ったナポレオンが、峠の途中にいる桃太郎と、その先にある電飾付きの城を目指している絵。
東京での展示会は終わってしまったけれど、同じ展示が、兵庫で6月27日から8月24日まで開催されるという。
イトイ新聞に連載されたレポートでも、その楽しさは充分に感じられると思う。
→http://www.1101.com/boukenooooo/
2008年06月15日
「超一流」の整理術
言っていることはとても極端なのだけれど、深く共感した。
本当の整理というのは、どういう基準で捨てる捨てないを決めましょう、ということではなく、「基本的には全部捨てる」というスタンスであるべきなのだと思った。使うか使わないかわからないような物を持つというのは、プラスマイナスゼロではなくて、負債なのだ。
そのことを、あらためて痛感させてくれたこの本に、今のタイミングで出会えてとてもよかった。
その人が何を持とうとするかというのは、人生観すべてに通じる。
やはり、持ち物はシンプルなのが美しいと思う。
【名言】
運気を高めるための整理術は、簡単です。
「全部捨てる」ということです。
これが一流と超一流の違いです。
一流の人は、名刺を残す基準と捨てる基準を教えます。
二流の人は、全部とっておきます。
超一流の人は、全部捨てます。
超一流の人が偉いからではありません。
もっとシンプルな「運気」という原則がわかっているからです。(p.20)
本当に運気のある人は、運気が下がっている集団には来ないのです。
むやみに人に会うよりも、一人でいることです。
それが本当の出会いのための準備になります。
出会うスペースが出来るのです。(p.61)
そもそも収納は、運をおさめておく場所です。
たまたまそこに洋服や書類が置かれているだけのことです。(p.84)
今は、ほとんどのモノは捨ててもまた買えます。
そのモノの値段と家賃を比較すると、家賃のほうが高くつくことが多いのです。(p.160)
2008年06月14日
ファウンデーション
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銀河帝国興亡史 1~3巻(アイザック・アシモフ/早川書房)
1巻「ファウンデーション」
2巻「ファウンデーション対帝国」
3巻「第二ファウンデーション」
アシモフの代表作といえるSF小説なので、いずれ読んでみたいと思っていた話しを、ようやく最近読んだ。
1巻~3巻までで一区切りということになっていて、1巻では、「銀河帝国」と「ファウンデーション」という、物語の基本的な世界観を組み立てた後、2巻、3巻と続いて推理小説のような謎解きが中心になる。特に3巻は、登場人物同士の推論の応酬が繰り返された後、最後になってタネ明かしがされるという、本格ミステリーの色合いが濃い。
物語の中でハリ・セルダンが提唱する、「心理歴史学」という概念がまずスゴい。
原子物理学と同様の考え方で、一つ一つの原子がどういう動きをするかは予測がつかないけれど、膨大な数の原子が集まった時の全体としての動きは確実に予測が出来る、という理論を人間の心理に応用した学問が、この物語のベースになっている。
今の地球の、数十兆というような人口の規模では心理歴史学は適用出来ず、1000兆という人口を対象とした時にはじめて予測が可能になる。それによって、いつ現在の帝国が滅びて、次の文明の復興がいつになるのかというところまでを、かなり高い確率で言い当てることが出来てしまう。
この、心理歴史学というのは、「ファウンデーション」シリーズで非常に重要なテーマになっていて、物語のすべては、ハリ・セルダンが打ち立てた「セルダン・プラン」という未来予測を中心として進んでいくことになる。
銀河帝国滅亡後、文明再興までの期間を、数千年というスパンから数百年にまで短くすることを目的とした「セルダン・プラン」は、果たして実現するのか、途中でついえてしまうのか。
この、宇宙全体を舞台にして、何千年という歴史を扱う年代記のスケールは、かなり壮大で魅力的だ。
文明復興の役目をおったファウンデーションという国家が、非常に小さな、資源に乏しい技術立国であるという点は面白い。この作品が最初に出版されたのは、第二次世界大戦直後の1951年だけれども、この重厚長大な銀河帝国と、小国ファウンデーションは、その後のアメリカと日本を連想させるものがあると思う。
【名言】
惑星全体の人々の心理歴史学的な流れは、きわめて強力な慣性を持っています。それが変化するには、それと同等の慣性を持つものと出逢わなければなりません。同じくらいの人数の人が関係するか、または、人数が比較的少ない場合には、変化のための膨大な時間を見込まなければなりません。おわかりですか?(1巻p.42)
今のところは次の事を知っているだけで充分だ。科学的避難所がターミナスに建設されるということ。そして、もうひとつが銀河系の反対側の端に、つまり、”星界の果て”に建設されるということ。その他としては、わたしは間もなく死に、きみはわたし以上に物事を見るだろうということ-いや、いや。びっくりしないでくれ。悪く思わないでくれ。わたしの寿命はあと1、2年だと、医者が言っている。しかし、わたしは意図したことを、生きている間に成し遂げた。どんな状況のもとでも、これ以上良い死に方があるだろうか?(1巻p.58)
この戦争全体は二つのシステムの間の闘いだ。帝国とファウンデーションとの。大きいものと小さいものとの。(1巻p.347)
今、攻撃しようと、全然、攻撃しまいと。ただ一隻の船でやろうと、帝国の全艦隊を繰り出そうと。軍事力を使おうと、経済的圧迫を加えようと。公明正大に宣戦布告して戦おうと、陰険な不意打ちをかけようと。あなたが自由意志を最高度に発揮して、何をしようと。それでも、あなたは負けるでしょう。(2巻p.45)
歴史の法則は物理の法則と同様に絶対的なものです。そして、もし、誤差の確率がより高いとすれば、その唯一の理由は、歴史学では物理学が扱う原子の数ほど多くは人間の数を扱わないので、個々の変化の重みがもっと強く効いてくるからです。セルダンはその一千年の成長の期間に一連の危機がやってくることを予言しました。そのひとつひとつが、あらかじめ計算された道にわれわれの歴史を押しこんでいく新たな曲がり角を否応なしに作りだしていくのです。(2巻p.144)
歴史の広大な流れは予言できると世間ではいうが、たったいま起こったことは、その中を潜り抜けてきたわれわれにとっては絶対の混乱でしかなかった。予言などとてもできるものではないと、感じないかね?(3巻p.315)
2008年06月13日
潮騒
自然とか若さとか、眩しいものを寄せ集めたような、キレイな小説だなあと思う。話しとしてはとてもベタで、作者自身も、意識的にそういう、物語の正統なパターンにあてはめる形で作品を作ったのだろうと思う。
ギリシャ小説に着想をえた作品らしいのだけれど、それを日本風にアレンジして、より、日本の自然や風土の美しさを際立たせた、素晴らしい文章だと思った。
この「潮騒」は、三島由紀夫っぽい感じはしないし、彼でなければ書けない作品であるという気もしない。
この作品は、ミスチルがヒット間違いなしというオーソドックスな曲をシングルで発売して、本当に自分が作りたい曲はそのB面に入れて出す、というのと似た戦略に基づいて書かれた小説なのではないかという気がする。
誰にでも普遍的に受け入れられるような「潮騒」という小説も出しておきつつ、それによって読者を得つつ、その後に、自分でなければ書けないような作品をぶつけてきているのだという感じがした。
【名言】
だれも忙しくて千代子に目もくれなかった。毎日のなりわいの単調なしかし力強い渦が、この人たちをしっかりととらえ、その体と心を奥底から燃やしており、自分のように感情の問題に熱中している人間は、一人もいやしないのだと千代子は思うと、すこし恥ずかしい気持ちがした。(p.120)
2008年06月12日
異次元は存在する
タイトルからして、サイエンス・フィクションの中の話しかと思ってしまうけれども、現在検討されている最先端の科学の中で、かなり確からしいと思われている学説であるらしい。
著者のリサ・ランドール氏は数学者で、5次元宇宙についてひたすらに数学的に分析をして、その存在を予測したらしいのだけれど、この本では、逆に一切の数式を利用せずに、3次元は、5次元の膜(ブレーン)に張り付いた存在、という概念を使って説明をしている。
NHKのテレビ番組を元に作成されているため、宇宙飛行士の若田さんがインタビューをしていたり、図表をたくさん用いていたりと、この本ではかなりわかりやすい内容にまとめられている。
ものすごく面白いと思ったのは、次の2つで、
・宇宙に存在する4種類の力(電磁力、重力、強い力、弱い力)のうち、重力だけが、不自然なほどに極端に弱すぎる。重力は、他の次元の宇宙と行き来することが出来るエネルギーなのではないかと考えられている。そうすると、重力を観測することによって他の次元を観測出来る可能性がある。
・通常の世界では、「エネルギー保存の法則」が常に成り立つが、ミクロの世界では、素粒子が完全に姿を消すという現象が起こることがある。これは、5次元空間の向こうにある、別の3次元空間に移動しているのではないかと考えられている。
ということだった。
実験によって検証が出来ない理論だけでは、ノーベル賞のような対象にはならないらしいのだけれども、なんと、この理論を実証するための装置がスイスで完成して、年内にその実験がおこなわれるらしい。この、SFの世界のような出来事が、現実世界で検証されようとしている今というのは、物理学に大きな革命がおころうとしている一歩手前の位置にいるのかも知れないと思う。
【名言】
若田「ところで、科学者として女性であることの難しさはありますか。」
ランドール「そうですね。実は、インタビューでこの質問を受けることがあまりに多くて、それが少し煩わしく感じます。たとえば、もしわたしが難解な物理学を説明するインタビューを5分受けると、そのうち2分は女性の科学者の自分を説明するのに費やさなければならないんです。」(p.45)
2007年、スイスのジュネーブ郊外にある静かな酪農地帯で、ひとつの実験が行われようとしている。実験場は、地下100メートルのところにつくられた。地中には、円周27キロメートルのトンネルが掘られ、そこに水素の原子核をつくる陽子を複数、超高速で走らせて衝突させる。衝突で粉々になった粒子の破片は、ある確率で姿を消すことが予想されている。本来消えるはずのない粒子が姿を消すことが確認された場合、粒子が姿を消した先が見えない5次元空間であると考えられる。(p.52)
2008年06月11日
人生生涯小僧のこころ
以前に、水晶堂で「千日回峰行」を達成した、星野圓道さんについて書いたことがあった。
http://suishodo.net/archives/2007/10/9.html
なんというすさまじい行かと驚き、このような行をやろうとする人は、いったいどのような生い立ちや動機から入るのだろうかという関心を持っていたところ、まさに、この千日回峰行を達成した行者である、塩沼亮潤さんの著書をいただいた。
塩沼亮潤さんのおこなった千日回峰行は、金峯山寺というところでおこなわれるもののため、比叡山のものとは少し異なる部分もあるけれど、ほとんど同じ内容で、やはりすさまじい。
1)奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から大峯山と呼ばれる山上ヶ岳までの往復48キロ、高低差1300メートル以上の山道を16時間かけて一日で往復し、それを千日間、合計48000キロを歩き続ける。
2)一度行に入ったら、病気や事故などのいかなる理由によっても途中でやめることは出来ず、行を続行出来なくなった時には、常に持ち歩いている短刀を使って自害する。
3)千日回峰行が終わった後、9日間のあいだ堂にこもり、「断食、断水、不眠、不臥」の状態で不動真言を唱え続ける「四無行」をおこない、満行となる。
この、千日回峰行の記録を読むと、本当に超人的な修行だということがわかる。
ただ一日48kmを歩くというだけではなく、人里離れた完全な山の中を進むので、この行を続ける間に、ありとあらゆる苦難がやってくる。
病気、怪我、雷、熊、マムシ、崖崩れ、虫、etc・・。
よくこんなにも無茶苦茶なコンディションの中で行を続けることが出来るものだと思う。
この行をやり遂げるという、精神力ももちろん並外れていると思うのだけれど、それ以上にスゴいと思うのは、実際に行に入るまでの準備を、可能な限りまでやり尽くすという周到な計画性だ。
堂に入る前には、足袋も26cmのサイズだけでなく、26.5cmと25.5cmもきちんと用意しておき、不測の事態にも対応出来る余裕を常に持っている。
ペース配分についても、千日回峰行でも四無行でも、「90%を半ばとする」という考え方で、全体の90%に到達した時点で、50%の余力があるように配分して、残りの10%で最後の力を出し切るのだという。
自分一人しか頼れる人はいない行の中では、こういう自律心が何よりも重要なのだろうと思う。
文中で、ところどころに、塩沼さんがつけていた日誌からの抜粋があるのだけれど、それを読むと、修行の日数を重ねるごとに、どんどん心境が澄みとおって、言葉が明晰になっていくのがわかる。「アルジャーノンに花束を」のような、短期間でびっくりするぐらいのめざましい変化のしようだ。
この日誌を読みながら、その心境を追体験するうち、塩沼さんが、人生や周りの世界に対して深い感謝の気持ちを持っている理由がわかってきた。これだけの行を乗り越えてなお死なずにいるというのは、「生きている」というよりは、「生かされている」という気持ちが湧いてくるものなのだろうと思う。「人生生涯小僧」という、塩沼さんの心がけの源が伝わってくる、素晴らしい本だった。
【名言】
この行には、たったひとつだけ掟がございます。それは、いったん行に入ったなら、決して途中で行をやめることはできないということです。足の骨を折っても、不慮の事故に遭っても、決してやめることはできない、後戻りができないということです。万が一この行を途中でやめるときには、「神さま仏さま申しわけございませんでした。千日間歩き通しますと申しておりましたが、自分の不徳によって途中でやめざるを得ません」と神仏にお詫びをして、左腰に携えている短刀で自分自身の腹をかき切って自害しなくてはならない、厳しい掟でございます。(p.12)
お寺の生活というのは非常にシンプルなものでございます。毎日、同じことの繰り返しです。この同じことの繰り返しというところに、実は行の意味があります。同じことを繰り返していくうちに、やがて一日として同じ日はないと気づくようになります。日々、気温も湿度も天気もすべて違うように、人の心も、気分の良いときもあれば悪いときもあり、さまざまに変化しております。その変化の中で、どのようにしたらありのままに生きることができるのか、なのです。(p.72)
大自然はとても手ごわく、何が起こっても現実を受け入れるしかありません。台風の日があり、嵐の日があり、雷の日があります。それらを、あぁこうきたか、今度はこうきたか、こう攻めてくるか、じゃあ自分はこうして乗り越えよう、と闘っていきます。(p.164)
千日回峰行は自分自身を向上させるための、自分のための行でありましたけれども、今日からは生きるか死ぬかの四無行という行に入ります。もし世のため人のために生きて帰ってきて皆さま方にお仕えしなさいというご神仏の判断がないならば、親族をはじめ皆さま方とは永遠にお別れになります、という挨拶でございます。(p.194)
「断食、断水、不眠、不臥」のうちでどれが一番辛かったですか、という質問をよく受けます。これははっきりしています。一番辛かったのは水が飲めないことでした。(p.198)
私は四無行に限らず、苦難に遭うといつも「これが自分の日常なんだ」と考えるようにしております。すると、一種の暗示効果で「あっ、こんなものか」と思えるのです。(p.209)
ある人は言いました。「自分ならば嫌いな人は避けてしまいます」と。しかし、避けたところで、世界中どこへ逃げても怨憎会苦(怨み憎む者に会う苦しみ)からは逃れられません。ありのままに与えられた環境を受け入れて、常に感謝をし、心豊かに日々を過ごすこと、これが私たちに与えられた定めのように思います。(p.231)
2008年06月10日
超・殺人事件
小説家は、書くネタが浮かばないことをすらネタにして小説を書くという。
推理作家である自分自身ついて、推理作家が書く。そういう、メタ小説的な構成からなる殺人事件の話しを集めてまとめられた短編集。この自虐的なユーモアは、筒井康隆氏の作風に似たものがある。
いずれの短編も、ショートショートと言っていいような短さで、その中にあっても、一種の推理小説としてのどんでん返しがきちんと用意されている。
出版界への風刺も含んだ「超読書機械殺人事件」は、特に面白かった。
東野圭吾という作家の、こういうものを書いてすら作品として成立させてしまう多才さには、これで何度目かわからないくらい驚かされた。彼にとっては余技に過ぎないのだろうけれど、たとえどんなお題を与えられてもまとめあげてしまう構成力というのは、やはりプロの技だと思う。
2008年06月09日
日々の泡
出てくる小道具や舞台設定が、どれをとっても幻想的で、とても美しい。
むりやり日本語にあてはめて訳している部分もかなりある感じなので、きっとオリジナルの原文はさらに美しい言葉で構成されているのではないかと思う。
物語の中に出てくるカクテルピアノというのは、特に幻想的な楽器で、一つ一つの鍵盤に異なったアルコールが結び付けられていて、演奏をし終わった後に、その音色によってブレンドされたカクテルが出来上がるというピアノだ。一体どのような想像力によって、こんなスゴい楽器が生み出されるんだろうと感心する。
ある日、主人公コランの恋人クロエが病気にかかってしまう。肺から睡蓮が咲く病気によって、どんどんと衰えていく。それをなんとか治そうと、有り金をすべて使いきり、あらゆる手を尽くしても、それでもどうしようもなく病状は悪化してゆく。なんだか、どうしようもない悲しさだ。
その悲しささえも、どこまでも幻想的に描き続けてしまうこの小説は、最初から最後まで、夢の中にいるような気持ちになる不思議な作品だった。
【名言】
なにが機械をつくることから妨げているかを知る必要がある。まず時間が不足しているはずだ。人はみな生きるのに時間を浪費しているよ。だからもう労働するだけの時間が残っていないんだ。もし機械をこしらえる時間があったとすれば、そのあとではもう何一つこしらえようとしなくなるだろう。ぼくの言いたいことは、彼らは労働せずに生きられる機械をこしらえる労働をしないで生きるために労働しているってことなんだ。(p.111)
「ぼくは貧乏人で・・」とコランは言った。「それでクロエが亡くなりました・・」
「なるほど」と修道士は言った。「ただし、どんなときでも、礼儀にかのうたお葬式をしてもらえるだけのお金は持って死ぬべきでありましょうな。ところでと、あなたは500ドゥブルゾンでもお持ちではないかな」(p.278)
2008年06月08日
UltraVNCでPCをリモートコントロール
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普段使用しているPCと別に、サーバとして使用しているような別PCがある場合、わざわざその場所まで行かなくてもいいよう、ネットワーク経由で離れた場所から操作が出来ると非常に便利だ。
この「UltraVNC」は、ネットワーク経由でPCをリモートコントロール出来るようにするフリーソフトで、これを使うと、複数PCの管理がびっくりするぐらい楽になる。VNCという規格上で通信するので、接続先のサーバはWindowsに限らず、UNIXでもLinuxでも大丈夫。
ソフトウェアを利用したファイル転送にも対応しているし、「Ctrl+Alt+Del」を送信する、ということも出来てしまう。しかも、WindowsOSのセッションを使って通信しているわけではないので、ログイン画面の時点から接続することすら出来てしまう。
さらに素晴らしいのは、ブラウザのJavaScript上での動作も可能で、これを使えば、世界中どこからでも、インターネット経由でPCを遠隔操作することが出来るということだ。
外部からマシンを特定出来るようにするために、グローバルIPアドレスを取得しているか、ダイナミックDNSを使用する必要があるけれど、グローバルIPが用意出来るのであれば、世界中のPCをバーチャルコンソールにして、自宅のPCにアクセス出来てしまう。旅行先でノートパソコンを持ち歩かず、手ぶらで出かけて、現地から完全に自宅と同じ環境で作業をする、ということも可能だ。
海外まで行かない場合でも、たとえば、自宅のPCにVNCサーバをインストールしておいて、会社や出先から自宅PCに接続して操作する、という用途にも使える。
複数のPCを使用している人には特におススメ。
これだけの使い勝手の良さで、フリーソフトというのは素晴らしい。
■UltraVNC(日本語版)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se396437.html
2008年06月07日
生きるコント
かなり笑った。エッセイでここまで面白く書けるというのはスゴい。
色々と変わった出来事に遭遇しているというよりも、遭遇していることは普通なのに、それに対する本人の反応が普通じゃないんだろうと思う。
しかも、そのことを自分自身で客観的に理解をしているから、こういうエッセイを書いて他人に伝えることが出来るわけで、こうなると、日々のあらゆることがコントになってしまうに違いない。
これを読んで、明るい気持ちになるのは、毎日を面白くするもつまらなくするも、自分自身の選択次第と思えるからだ。どんな平凡な出来事の中からでも、自分の気の持ちようと観察眼によって、相当に面白いものを生み出すことが出来るというのは、希望が持てる話しだ。
【名言】
わたしの人生は自虐でできているのだ。だから、肩書きに書いてある映画監督は、わたしの勇気の証である。出演してくれた俳優さん、関わってくれたスタッフに対しての。わたしの肩書きがもし、「クリエーター」などという曖昧なものだったら、どうだろうか。言い訳のように映るのではないだろうか。俺たちはそんな逃げ腰の、逃げ場を用意した人間の映画に関わってしまったのか?と思うだろう。(p.65)
先生は理由が見つかってほっとしているようだった。「運動したほうがいい。してる?」なんて聞いてきた。そのうち、何か変な気配がした。わたしは自分でも驚いたのだが、大笑いしはじめた。わははは。
先生はさすがに怯えて「何を笑っているんだ」と聞いた。わたしはうつぶせのまま答えた。「だって、今、もしかして、鍼、うってません?」先生はちょっと間をおいて「よくわかったね。言うと怖がると思ったから」。ひど過ぎです。わたしは今までどんなに薦められても鍼だけは頑なに拒んで鍼灸院には行ったことがない。その鍼を、こんな、どさくさにまぎれて、太り過ぎだとかいう曖昧な理由で診断をされた上、こっそり打たれてしまうなんて。(p.128)
2008年06月06日
掌の小説
「掌編」というのは、短編よりもさらに短い作品のことを指していうらしい。
この「掌の小説」に集められた小説の多くは4~5ページ程度の分量で、中には2ページにも満たない、ごく短いものもある。
122ある掌編の中でも、特に好きだった話しは、「指環」「写真」「雀の媒酌」「神の骨」「離婚の子」「紅梅」だった。いずれも、日常のささいなことを題材にしていることが多く、その描写の繊細なことが一層分かりやすい。
川端康成は、この掌編集が出版されることを、頑なに拒んだという。
この、あまりにも飾り気のない率直な文章を読まれたくなかったという気持ちであったのだと思う。これらはきっと、人に見られることを想定して書いた話しではないし、決して読まれたくはないと思いながら書いた作品だろう。
それだからこそ、この掌編には川端康成という作家の、虚飾のない真情がとてもよくあらわれている。
小説というのは、短いものほど難しいのではないかと思う。たったこれだけの文字数の中で、これほどの叙情豊かな世界を描くというのは、ものすごい表現力だ。これらの作品が失われてしまうことなく、出版されて残っているのは、本当に幸いなことだったと思う。
【名言】
こんな空想を遊んでいると、彼の胸は彼の内の感情で一ぱいにふくらんで来た。しかし、生活を一つにしようと思う女はもうこの世に見つかりそうには思えなくなってしまっている。(p.60)
久しく自己的な孤独に住み慣れた彼は、却って自分の身を他人に捧げることの美しさにあこがれるようになった。犠牲というものの尊さも分かって来た。人間という種族を過去から未来へ伝えるための一粒の種子として、自分を小さく感じることにも満足した。人間という種族にしたところで、いろんな鉱物や植物なぞと一緒になって、この宇宙に漂う一つの大きい生命を支えている小さい柱に過ぎないもので、他の動物や植物よりも格別尊い存在ではないと考えることにも同感した。(p.122)
この娘のほかに自分の妻となるべき女がいるのなら、その顔を水に写して見せてくれ、と彼は泉水に頼んだ。人間は時間も空間も透視出来るものであると彼は信じている。彼はそれ程孤独である。(p.123)
君の写真を一緒に仏壇に飾ったのも、君と義妹との恋を葬ってしまえとか、君は義妹に墓穴まで附いて行けとか、僕はそんなことを考えていたのではないのだ。それでも、人々がその写真の前に涙を流したり、合掌したり、焼香したり、念仏を上げたりしているのを見ると、さすが僕は滑稽だった。黒いリボンの下に君がいるとは知らないのだからね。こんな風に人間というものは死者に礼拝しているつもるで生者にも礼拝していることがあるし、また生者を眺めているつもりでもその影に死者がいることだってあるのだね。君が汽車の窓から何心なく自動車を見るとそれが愛人の葬列であったりするのだね。(p.143)
戦争から覚めると生の夕暮れが迫っていた。そんなはずはないと思うものの、敗戦の悲しみは心身の衰えを伴っていた。自分達の生きていた国と時とはほろんだようであった。寂莫の孤独に追い帰された私は隣組のお産を他界からの生の明りと眺めるかの感じもあった。(p.453)
2008年06月05日
桜井さんの「今夜月の見える丘に」
ミスチルの桜井和寿が、B'zの「今夜月の見える丘に」を歌っている映像がある。感動的なスゴさだ。
稲葉浩志も、日本が誇る屈指のボーカリストと思うのだけれど、この桜井さんの歌った曲はさらに驚異的な上手さで、「手をつないだら・・」以降の部分は、原曲を超えて、完全に自分自身の曲にしてしまっている。本当に天才的だと思う。
2008年06月04日
Moon Palace

Moon Palace(Paul Auster/Faber and Faber)
この物語には様々な偶然があらわれる。小説に過度の偶然や運命を持ち出すことは、リアリズムを失う結果になりかねないけれど、そんなことはお構いなしで、無関係であったはずのあらゆる物事は次々と連鎖していく。
もちろん、実際にはなかなか、この物語で語られるような奇跡は起こりそうにはない。しかし、現実においては、更に驚くような偶然が、よりわかりにくい形で潜んでいるというだけで、それを単純化して取り出してわかりやすく見せるために描いたのが、この「ムーンパレス」という物語ではないかという気がする。
この世界観は、村上春樹の小説とよく似ていると思った。自分に正直でまっすぐで不器用で世間とのズレを埋められない主人公、という点も、とても近い雰囲気を感じる。
この物語は、人類が初めて月に降り立った年である1969年から始まる。この小説の中には非常に頻繁に「月」が出てくるのだけれど、レストランやバンド名などの固有名詞として「月」があらわれることはもちろん、アメリカの広大な砂漠は月の上の風景にたとえられるし、玉子や丸い頭をあらわす比喩的な表現としても「月」がとてもよく出てくる。
青春を描いた作品ではあるけれども、それはカラッとした明るさとはほど遠い、狂気的(lunatic)なエネルギーから成り立っている。満ち足りた余剰の力ではなく、常に何かが欠損しているがために心の底から渇望するような力。このシンとした寂寥感は、静かな夜に透きとおった光を放つ月が感じさせる切なさによく似ている。これほどに大きな余韻を読後に残す作品は、なかなかないと思う。
【名言】
You're a good boy, and you'll always be with me, no matter where I am. For the time being, we move off in opposite directions. But sooner or later we'll meet again, I'm sure of it. Everything works out in the end, you see, everything connects.(p.13)
'Who's that?' I said, pretending I didn't know.
'It's the Dragon Lady,' Kitty said. 'She's coming to get you.'
I took hold of her hands, trying not to tremble as I felt the smoothness of her skin. 'I think she's got me already,' I said.
There was a slight pause, and then Kitty tightened her grip around my waist. 'You do like me a little bit, don't you?'
'More than a little bit. You know that. A lot more than a little bit.'(p.91)
'I'm talking about freedom, Fogg. A sense of despair that becomes so great, so crushing, so catastrophic, that you have no choice but to be liberated by it. That's the only choice, or else you crawl into a corner and die.Tesla gave me my death, and at that moment I knew that I was going to become a painter.(p.142)
Strangely enough, he said, this news came almost as a relief. He had been punished, and because the punishment was a terrible one, he was no longer obligated to punish himself. His crime had been paid for, and suddenly he was empty again.(p.183)
'It's remarkable, isn't it?' he shouted at me through the noise.
'It smells like rain. It sounds like rain. It even tastes like rain. And yet we're perfectly dry. It's mind over matter, Fogg. We've finally done it! We've cracked the srcret of the universe!'(p.208)
It was all a matter of missed connections, bad timing, blundering in the dark. We were always in the right place at the wrong time, the wrong place at the right time, always just missing each other, always just a few inches from figuring the whole thing out. That's what the story boils down to, I think. A series of lost chances. All the pieces were there from the beginning, but no one knew how to put them together.(p.243)
2008年06月03日
好き好き大好き超愛してる
ストーリーがあまりにぶっとんでて、意味不明なところも多々あるのだけれど、でも、びっくりするぐらいの文章の勢いがある。この表現力は天才的だと思う。
いくつもの物語が並行して流れていて、そのいずれの物語にも共通するテーマは「大切な人の死」ということで、何回も何回も繰り返し、それぞれの世界でそれぞれの大切な人が死んでいく。
この世には、今の現実とほんのわずかなズレをもって存在する無数のパラレルワールドがあるという説が、結構まっとうな宇宙物理学の理論としてあるらしいけれど、その中のどのワールドをとってみても、きっと「大切な人の死」という、最上級に哀しい事件は起こるのだろう。
どういうシチュエーションで死にゆくとしても、その死の間に優劣はなく「死は死」で、どれも等価値だ。そのことをとことんまで独特な手法で文学的に表現したのが、この作品なのだと思う。
【名言】
僕は約束のことを思い出す。生きる時間の長さが、一つの約束を反故にする。(p.102)
もちろん柿緒の死は僕が昨日食パンをかじったひと口目と僕の関心の惹きつけ方において同じではない。でも客観的な重要度では同じなのだ。トースターから出てきたばかりでマーガリンをさっと塗られたトーストの、指先に当たるミミの温かさ、柔らかさ、パン全体のしなやかさ、堅さ。湯気に混じるパンとマーガリンの香り、表面で溶けたマーガリンの艶、それらが僕に与える情報と柿緒の死が僕に与える情報の量は一緒なのだ。ただ僕がそれらに充分な注意を払っていないだけで、僕の生きるこの一瞬一瞬に僕に起こる一事一事が僕にとって全て等しいのだ。(p.166)
2008年06月02日
コンフィダント・絆
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19世紀末、パリのアトリエに集まる、4人の画家の交流を描いた作品。別の角度から観れば、3人の天才と1人の凡才の心理戦を描いた作品とも言える。
無邪気でわがままで子供のようなゴッホ、嫉妬深くて素直に気持ちを表現出来ないスーラ、荒っぽいけれども面倒見のいいゴーギャン、常識的で気さくな人柄のシュフネッケル。4人の性格はそれぞれ個性的で、その点においては優劣はないけれども、しかし天賦の才という点では、残酷なことに明白な差があった。
4人の芸術家は、友人であると同時にライバルでもある。
いずれの画家も、今の段階では世の中において何も認められておらず、無名の存在であるという点では変わりはない。それゆえに、表面上は友情が保たれてはいるけれども、お互いの画家としての実力を推し量りながら共に絵を描く4人の心中には、画家として一足先に有名になりたいという微妙な競争心が常に渦巻いている。
そこに一人の女性モデルが入ってきたことによって、ついにその均衡は崩れてしまう。
モーツァルトと対比させて、天才になれなかったサリエリの嘆きを表現した「アマデウス」も素晴らしかったけれど、この「コンフィダント」では、実在した4人の画家を組み合わせることによって、より奥行きをもたせて凡人の苦悩を描き出した。女性モデルという、画家からは一歩引いた客観的な視点を語り部として物語が語られるという点もいい。本当に見事な脚本だった。
このDVDの映像は、PARCO劇場で観客を一切入れずに撮影したらしい。その理由は、カメラの位置を自由に動かして撮影をして、映像的に臨場感を出したかったためらしく、その効果は抜群で、素晴らしい映像だった。固定カメラから映して撮った映像は決して生の舞台を超えることは出来ないけれど、このDVDは舞台でもない映画でもない、独特な表現を実現している。
【名言】
「一生のうち結局、1枚しか絵は売れなかったの。10万フランには程遠かったけどね。彼の名前が世間に知られるようになったのは、あの人が死んで10年以上たってからだった。」
「いずれにせよ、われわれは罪深い人間だということだ。
罪深きは芸術家だね。」
「でも皮肉なもんだなあ。
ここには、モデルと3人の画家。オレはいない。」
■コンフィダント・絆
http://www.parco-play.com/web/play/les/
キャスト:中井貴一、寺脇康文、相島一之、堀内敬子、生瀬勝久
作・演出:三谷幸喜
2008年06月01日
モディリアーニ展
モディリアーニの絵には、一目で彼の絵とわかる、独特の特徴がある。
瞳のない目、長く伸びた首、やや傾いた顔、粘土細工のように丸みを帯びたフォルム。
特に、目を描かないというのはかなりのインパクトがある。
本宮ひろ志氏は、どれだけ連載の数が増えて、アシスタントの人に代わりに描いてもらう部分が増えたとしても、目だけは必ず自分自身で描くという。それだけ、目というのは絵において重要な部分で、その描き方一つで大きく印象が変わってくるものなのだと思う。
その「目」を描くことを放棄するというのだから、かなり思い切った手法をとったものだ。しかし、結果的にはそれこそが、モディリアーニをその他すべての画家から独立した存在として成立させる契機になったのだと思う。
目を描かずに対象を表現しようとすれば、どうしても、対象を全体として捉えて、その特徴を描き出すことになる。だからこそ、表面にあらわれるものよりも、より、実際の本質に近い部分によって表現することになるはずだ。目というのは、あまりにその存在を主張しすぎるので、それが、絵全体で表現をするための邪魔にもなってしまうのだと思う。
サッカーで手が自由に使えたら、ゴールはきめることはずっと簡単に出来るけれども、それではゲームとしての面白さがほとんど失われてしまうから「手を使わないことにする」というルールを課す、ようなものかもしれない。
この展覧会で一番好きだった絵は、「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エピュテルヌ」という絵だった。
モディリアーニは、アフリカの原始美術や彫刻に影響を受けたらしいのだけれど、この絵は、そういうエネルギッシュなものとは遠く離れた印象があって、仏や観音の慈悲を思わせる。
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弥勒菩薩像にとてもよく似ていると思った。
■モディリアーニ展
http://modi2008.jp/html/
2008年6月9日(月)まで国立新美術館にて開催中
















