
人生を決めた15分 創造の1/10000(奥山清行/ランダムハウス講談社)
奥山氏は、3大スポーツカーと言われるコルベット、ポルシェ、フェラーリ、すべてのデザインを手がけた経験がある、唯一のデザイナーだ。「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」でもあるらしい。
この本を読むと、彼自身、とても強烈なポリシーを持ってこれまで仕事をし続けてきたことがよく伝わってくる。日本に生まれて、日本の大学を出てはいるけれども、それ以降はずっと世界を活動の舞台としてきた。だからこそ、奥山氏には日本と、日本以外との違いがよく見えるのだろうと思う。
筆者の姿勢でとても尊敬出来るのは、誰よりも多くのデザイン画を描き続けてきて、今もまだ描き続けているという、その仕事量だ。
タイトルの、「人生を決めた15分」というのは、2年がかりで取り組んできたデザインをフェラーリ会長が却下した際に、最後のチャンスとして与えられた15分の中で描いたデザイン画が採用になったというエピソードからきている。
誰よりも量をこなしてきた奥山氏だからこそ、15分という時間で自分の持つ力のすべてを凝縮して、発揮することが出来たのだと思う。
デザイナーの描いた、まだ物が出来上がる前のラフデザインというのは、それを描いた人の素の気迫が伝わってきて、とても面白い。
この本は、奥山氏のデザイン画が、全ページにわたって公開されていて、その数々の美しい作品を見るだけでも充分に価値のある本だった。
【名言】
「好きなこと」というのはそんな風に、後から考えると一貫して自分の人生の上に存在しているものなのかもしれない。ふと気がつくと、或る一本の道を知らず知らずのうちに歩んでいたことになる。(p.40)
注文が来てからデザインをするのでは遅い。どんなプロジェクトにも常に準備ができていることが大切だ。来るか来ないかわからない仕事のためにアイデアを出すわけだから、無駄も覚悟の上だ。(p.45)
この手の絵は今までに何枚描いたかわからない。もう天文学的な数に上ると思う。思いついたら描き、描いた絵を見て新たな着想を得る。脳から手へ、手から脳へのキャッチボールにより、小さな発想が大きなアイデアへとふくらんでいく。だから僕は、今でも世の中で一番絵をたくさん描くデザイナーだと思う。(p.66)
世界中のどんなデザイナーよりもたくさんの絵を描き、数多くのクレイモデルを削ってきた自負がある。「自分より多くクルマの絵を描いた人はいない。粘土をいじった回数も自分が一番多い」という事実があるからこそ「だから負けるわけがない」という自信に繋がってきた。(p.75)
お客さんの生活を豊かにしたいと願う姿勢があれば、そこには自ずと何らかのストーリーが生まれるはずだ。それを知ってもらうだけでも、ファンは作れる。(p.107)
手で描いていると、ときどき頭でイメージしていたのとは違う線が描けてしまうことがある。すると、そこを起点として新たなイメージがふくらんでくる。こういう偶然性はコンピュータには期待できない。だから手で描くことが大事なのだ。(p.120)
人間はみな、自分で自分の人生をデザインする存在だ。少なくとも僕はそう信じている。ビジョンを持ってそれを実現していくことで、人生は豊かに彩られるのだ。(p.140)
» 2008 » 7月のブログ記事

私塾のすすめ(齋藤孝・梅田望夫/筑摩書房)
自分は、齋藤さんの本も、梅田さんの本も、ほとんどの本が好きだ。考え方や価値観が、自分にとって、とてもしっくりくる、ということなのだと思う。その二人が対談をしている本なのだから、これは面白くないわけがない。
二人が対談をすることで、その両者の考え方の違いも見えてくる。梅田さんが、一部の「やる気のある人」をさらに引き上げることにモチベーションを感じているのに対して、齋藤さんは、全体のレベルの底上げをするということにやりがいを感じている、というところなど。
こういう、互いが違う考えを持っている部分のやりとりというのは、それぞれが持っている価値観のルーツが鮮明に見えてきて、とても興味深い。これは、自身の考えに明確なポリシーを持っていないと語れないことであるし、対談であるからこそ浮かび上がってくる面白さなのだと思う。
特に、齋藤さんからは、かなり激しい発言が多く出ていて、普段の論理的な語り口からすれば意外な感じだった。一人で本を執筆した場合は、きっとこういう部分は表面に出てこないはずで、それぞれが個別に本を出した場合より、素の本音の部分がはっきりと表われていると思った。
この本のメインテーマとなっている「私塾」という概念についても、とても共感が持てる提言だった。「私塾」の可能性について論じながらも、二人の活動分野が異なり、梅田さんはネット領域、齋藤さんは非ネット領域を専門にしているというポジションの違いも面白い。かなりやる気が出るメッセージが満載の本だった。
【名言】
「自分探し」という言葉には以前から違和感があります。僕は、「自分がやりたいこと
」を模索していた時期はありますが、「自分」を探したことは全くないです。自分はここにいるのだから、自分を探しにいくことはないですよ。僕は常に、自分とは仲がいいです。自分のことは好きだし、自己肯定できるし、自分が敵になる状況というのは、どんなに悲惨な状況でもありえません。(齋藤)(p.29)
オープンソースのプロジェクトでも、リーダーが没頭しているものではないとうまくいかないのです。その情熱にみんな引き寄せられてくる。(梅田)(p.45)
よく、「言葉の端々にでる」といいますが、Eメールでも、いろいろな人から仕事の依頼がきますが、そのメールの文章を見ただけで、相当のことがわかる。その人の経験値もわかるし、人間関係のクセもなんとなくわかる。(齋藤)
ブログだともっとわかります。履歴書を見るよりも、その人のブログを見たほうが人物がよくわかります。(梅田)(p.53)
今の時代は、話し言葉のようでないと多くの人にはなかなか伝わっていかない。話し言葉ぐらいが丁度いいという実感をもっています。密度の高い書き言葉で通じる層は、若い人全体の1、2割くらいではないかと思います。(齋藤)(p.73)
梅田さんは、メンタル・タフネスがありますね。いきなりの言いがかりを面白いと思えるというのは。僕は、気性はふだんはおだやかなんだけど、根に激しいものがあります。こちらを安く値踏みしてちょっかい出してくる人に対して、攻撃をし返してしまいかねない。(齋藤)(p.93)
ある時、ふと思ったのですが、死ぬときにきっと「『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝氏死す」みたいな書かれかたをするのだろうな、と。何十冊、何百冊と本を出してきたけれど、結局そんなもんなんだな、納得がいかない、何十年も難しいことを考えてきたのに結局そこか、と最初は思いました。でもだんだん、人が世の中に定着させられるものは限られていて、そういうのは運命みたいなものだと思うようになりました。(齋藤)(p.105)
目を外に転じれば、オープンソースの世界では、お金をもらわなくても、朝から晩まで仕事ををしている人がいます。そういう環境ができたからです。だから僕は、大組織にせよ、組織以外での仕事にせよ、自分とぴったりあったことでない限り、絶対に競争力が出ない時代になってきていると思います。朝起きてすぐに、自分を取り巻く仕事のコミュニティと何かをやりとりすることを面白いと思える人でなければ、生き残れない。これが幸せな仕事人生になるのか、不幸なのかは一概に言えないのだけれど、いま、過渡状態で起きていることというのは、そういうことだと思う。(梅田)(p.145)
大抵の領域では、もうほかの誰かがすでにやってしまっているということがあります。ここまでやっちゃうのか、という人がけっこういる。そういう意味で厳しい時代です。厳しいからこそ、簡単ではないけれども、自分の志向性にぴったり合った場所を探して移っていかないといけない。(梅田)(p.148)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記


マッドメン(全2巻)(諸星大二郎/創美社)
ニューギニアの未開部族を舞台にした、おどろおどろしい話し。
日本とニューギニアは民俗学的なつながりがあると聞いたことがあるけれども、その古来の神話をモチーフにした、かなり変わった作品だ。こんなマンガを描ける人は諸星大二郎以外にはいないだろう。
人類がもともと持っていた智恵の多くは、現代までの間に失われてしまっている。それは、文明化によって必要性がなくなってしまったものだけれど、それらを今に伝え続けている部族も、この地球上にはある。テレビ番組では決して報道されることがない、密かに護り伝えられてきた儀式と技術。
宮崎駿や水木しげるも、日本の伝統的な精霊を描くけれども、このマッドメンはもっと暗く、人間の原初的な、神に対する畏敬の感情を、独特のタッチで表現している。他に類をみない、かなりユニークな作品であることは間違いない。
【名言】
おまえたちは何も知らない。おまえたちがばかにしているあの小さな村の住人こそ、おまえたちの聖書がいう無原罪の人間なのだぞ!(2巻 p.37)

スカイ・クロラ(森博嗣/中央公論新社)
読み始めた最初は、この、妙に淡々とした文章になかなか慣れず、退屈だと思っていたけれど、独特な文体に馴染んでくるに従って、これはかなり詩的で面白い、と感じるようになってきた。戦争を描くのに、ここまで徹底的に善悪の感情を排除して、無機的に表現したというのは芸術的だと思う。
誰かが憎いわけでも、何かを守るためでもなく、それが仕事だからという理由で戦闘機に乗り、敵機を墜とす。ただそれだけだと、何とも味気ない話しになるのだけれど、主人公のパイロットたちは彼らなりの思考方法で、自分自身の存在意義について常に意識をしている。
物語の時代背景とか、舞台設定はよくわからなかったのだけれど、そんなところはまったく気にならない。もともとそういう細かい説明は省かれていて、この作品はひたすらに、「一介の飛行機乗り」である主人公の目を通して見える世界だけが描かれている。
森博嗣という人が本当に書きたかったのは、ミステリーよりも、こういう小説のほうだったんじゃないかという気がした。
各章の扉には、サリンジャーの小説からの引用が挿入されている。
サリンジャーの原文を読んだことがないので、元がどんな文章なのか知らないのだけれど、そういえば、この「スカイ・クロラ」という小説の、妙に力の抜けた雰囲気は、サリンジャーの小説にかなり似ていると思った。
この作品は、映画化されて、2008年8月2日から公開されるらしい。
この作品を映画化するというのは、かなり難しいことだっただろうと思う。いったいどのような映像になっているのか?映画化がこれほど期待出来る作品は久しぶりだ。
【名言】
途中で、火を吹いている方の一機が湖面に墜ちるのが見えた。脱出はなかったようだ。可哀相に、という言葉は思いつく。けれどたぶん、僕はそうは思っていない。(p.48)
ところで・・僕はどうして、そんなことを知りたいのだろう?
単なる退屈凌ぎなのか・・。きっと、そうだと思った。
仕事も女も、友人も生活も、飛行機もエンジンも、生きている間にする行為は何もかもすべて、退屈凌ぎなのだ。
死ぬまで、なんとか、凌ぐしかない。どうしても、それができない者は、諦めて死ぬしかないのだ。(p.122)
特に、誰かのために戦っているわけじゃない。国のためでもないし、まして特定の人々のためでもない。僕は賃金をもらっている。それに、僕たちにはこの仕事が向いているのだ。それは自分でもよくわかる。逆に僕には、普通の人が、僕たちをどう思っているのかが、本当のところ理解できない。(p.168)
「たとえば、将来の計画は?」
「計画って?」
「いつまで生きるつもり?」
「考えてない」
「どうして、考えない?」
「考えてもしかたがない。どうせ、いつか、誰かに撃たれて死ぬんだし。それは僕には想像もできない」
「でも、君の人生なんだよ」
「そうかな・・」僕は肩を竦める。「それ、よくそういうふうに言うけれど、僕の人生なの?これって」
「じゃあ、誰の人生?」
「誰の人生でもないんじゃないかな」
「うーん、まあ、そういう宗教もあるけど」草薙は何度も小さく頷いた。(p.185)
雲の上に出てしまえば、天候など無関係。だから、上がるときはひたすら地球の本能に逆らって、とにかく上がっていけば憂鬱からは逃れられる。ところが、天使になれなかった僕たちは、最後は地上に戻らなくてはならないのだ。高度が下がるとともに地面の憂鬱がぶり返すことになる。人間はそんな湿っぽい地面に張りついて、惨めに生きている存在なのだ。(p.203)
誰でも最初に出会ったときには、その相手が自分の将来にどれくらい関わる人物なのか判断がつかない。ただ、予感だけをピンでとめるしかない。(p.211)
僕は、いったい、何を望んでいるだろう?人生のための楽しみか?それとも、余裕だろうか?わからない。
ただ・・、理解、でないことは確かだ。人に理解されることほど、ぬるぬるして、気色の悪いことはない。僕はそれが嫌いだ。できるだけそれを拒絶して、これまで生きてきた。それは、たぶん・・、草薙も同じだろう。土岐野だって、同じだ。そういうタイプが、飛行機乗りには向いている。理解されたくない、という気持ちが、空へ高く上らせる力となる。いつ墜ちても良い。いつ死んでも良い。抵抗があっては、飛べないのだ。(p.289)
もし僕が殺さなかったら、彼女は自分で自分を殺しただろう。それでは、あまりにも孤独だ。(p.326)
【名描写】
飛行シーンの描写の臨場感が好きだ。専門用語が多くて、あまり意味はわからないのだけれど、たとえば次のようなセリフは、しびれる。
「黒豹のスカイリィ・J2が、キシヌマ機の下から上がってきて、もう少しのところで、キシヌマ機の後ろにつく、というところで突然半ロールした。こう、上を向いて、何かのトラブルかと思ったくらい。ところが、そこで、ストール・ターンをして、後ろから援護しようとしていたクマタケ機をやり過ごすと、スナップっぽい前転をして、こう、斜め上から被さるみたいに、至近距離で撃った(p.238)」
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那覇空港に夜に着いて、今帰仁(なきじん)村にあるビーチロックカフェに行きたいと地元の友人に言うと、「今の時間から今帰仁に行くのは、あり得ない」と言われた。
自分の脳内では、沖縄というのは結構小さいと思っていて、どこに行くにも車で1時間くらいで移動出来るのかと思っていたけれど、思っていた大きさより5倍程でかかった。車で高速を飛ばして2時間以上かかるということだったが、構わずに決行した。
途中から国道を外れて、深い森に入って、完全な山道の中を、藪をかき分けながら20分ほど走り抜けた後にようやく到着。車で来てよかったと思った。もし歩いてきてたら、夜中には真っ暗闇の山の中を行進になるし、3回くらいハブに咬まれてると思う。
ここは「ビーチロックビレッジ」という、大きな村になっている。
その村にモンゴルの包(パオ)のような建物があって、その中には、沖縄に旅行中のバックパッカーが10数名と、地元の酔っ払い親爺が2人。
店のスタッフの人達は、ボランティアスタッフとして短期間だけ働いている人も多く、客に混じって座ってたりするので、区別がつかない。この雑多な感じは、ユースホステルに来たっぽい雰囲気で、かなり楽しい。店に入れば、みんな挨拶をして、お互い話しをして、気持ちがいい空間だ。
基本的には酒を飲むところなので、食べ物のメニューはかなり割り切っていて、「ジャークチキン」と「するめ」のみ。それに反してアルコールは豊富で、世界のビール勢ぞろいと48種類の泡盛、他、各種カクテル。
冷房はもちろんなく、戸が開けてあるので、虫が入ってきたりヒルが落ちてきたりもする。まあしかし、そんなことを気にする人は誰もいない。
「酔いつぶれたらテントがありますから、安心してください」とスタッフの人は言っていたけれど、そんなバーってスゴい。ここには終電もなく、見知らぬ人と語って、酔っ払ったら寝ればいい。
外を歩いてみると。簡易テントがずらりと20個ぐらい並んでいる。テントの一つに、さっき店にいた酔っ払い親爺が横になって、夢見心地で眠りについていた。この村は、山道の奥に作られた桃源郷だ。
■BEACH ROCK CAFE
沖縄県国頭郡今帰仁村謝名1331
0980-56-1126
沖縄は、自分にとって、未踏の地だった。
「どうせいつでも行けるのでは」という思いからスルーし続けて、なかなか行く機会がなかったその地に、行くべき流れが来た。
この亜熱帯の気候は、たしかに独特だ。蒸し暑い。沖縄にいる間に、何度も何度も集中豪雨に遭った。さっきまで快晴だった天気が、次の瞬間バケツをひっくり返したようなスコールが降って、またすぐ快晴に戻る。本土じゃなかなか出遭わない、この極端な気候。このぐらい派手だと、別天地気分が出て素敵だ。
沖縄の人の、シーサーの信仰っぷりは、これはもう一つの宗教の域に達していて良い。たいていの家の門や玄関に、シーサーがきちんと対になって置かれているし、レストランや、マクドナルドでも、入口や屋根にシーサーが鎮座している。やたらとでかくて独特な形の墓も、こだわりを感じさせて好きだ。
真栄田岬にある「青の洞窟」は、素晴らしく美しかった。洞窟に入って、水の中に潜って洞窟の入口の方向を見ると、洞窟に射し込む太陽の光で、真っ青に染まってみえる。
目の前を、小さな魚の大群が通過していく。それが幾層にも重なって、無限に続くかに見える奥行きをもって、はるか遠くまで立体的に魚の群れが広がっている。水の中からそれを眺めていると、宇宙空間の真ん中に漂って、全方位から照らされる星の光を観ているような気持ちになる。
沖縄には、電車も地下鉄もないというのは面白い。沖縄は、都会と自然の両方のエッジが隣り合っている場所だった。国道沿いは24時間営業のチェーン店が立ち並び、やたらと便利なのに、そこから少しはずれると、途端に濃い自然に切り替わる。
この並立が、一つの国の中にあることは珍しくないけれど、沖縄のように限定された地域の中に際立った両方がひしめきあっているというのは、やはりインパクトがある。
マンハッタンの中のセントラルパークとか、ロンドンの中のハイドパークのような人工的な共存の仕方とはまったく別の、素材をぶった切ってそのまま盛り付けた皿鉢料理のような街だと思った。

二十六人の男と一人の少女(ゴーリキイ/岩波書店)
これは、ものスゴい作品だ。
異様な迫力と怨恨のエネルギーを持ったプロレタリア文学であり、尾崎豊の「はじまりさえ歌えない」を彷彿させる、ロックな小説だと思った。
尾崎豊の歌と違うところは、この物語の主人公にあたる男たちが「ひとりぼっち」ではないことだ。狭い地下室に押し込められて、劣悪な労働環境で朝から晩までひたすらパンを焼き続けている、二十六人の男たち。
これは、単なるワーキングプアをテーマにした話しであるに留まらず、そういう状況下に人が集まった時に人間はどうなるかという、群集心理を表現した話しでもある。
人数において資本家に勝る労働者が、階級闘争に勝利しにくいのは、彼らが自立した単独者として行動するよりも、集まって群れようとしてしまう習性によるものなのだということが、痛切に伝わってきた。
そして、陽の光の下で生きる少女は、そういう摂理を敏感に察知する。少女はまっとうな世間というものの代弁者であるかのように、快活で、気分屋で、無慈悲だ。だからこそ、彼女は最強の存在なのだ。単独では動かず、寄り集まって恨み言をいうだけの男たちがどれだけ束になったって、かなうはずがない。
この短編は、「チェルカッシ」というタイトルの短編集に収められているのだけれど、絶版になっていたので、古書店で見つけた。昭和12年発行、定価20銭、と書いてあり、それを1円で買った。70年前にタイムスリップしたような、おかしな気分だった。
【名言】
私たちは自分の仕事をはげしく憎んでゐた、だから私たちは自分の手でつくりだしたものを一度も口にしたことはなかつた。私たちは長い卓をはさんで九人づつ向ひあつて坐り、ながい時間ぶつつづけに、まつたく機械的に手のさきをうごかしてゐた。私たちはもう自分の仕事にすつかり慣れてしまつてゐたので、ほとんど一度も自分のやつてゐることを考へてみたこともないくらゐであつた。(p.93)
苦しい労働のためにあらゆる感情をおしひしがれ、まるで銅像かなんぞのやうに無感覚になつた、半分死んでゐるやうな人間に、どんな悪いことができるといふのだ?けれど、沈黙をおそろしいと思ひ、苦しいと思ふのは、何もかもすつかりしやべつてしまつて、もうそれ以上何もいふことがなくなつた人たちだけである。まだ自分の言葉を語りださない人人にとつては、沈黙をまもつてゐることは、かへつて氣らくで、さつぱりしたものなのだ・・しかし、ときをり私たちは歌をうたつた。(p.94)
二十六人がみんなで歌ふ。ずつと昔から歌ひなれた、よくとほる高い声が仕事場をいつぱいにみたす。このなかでは歌だつて窮屈だ。それは石の壁にぶつかつて跳ねかへり、呻きごゑをたて、泣きごゑをあげる、そしてこそばゆいやうな微かな痛みで心をちくりとさし、哀愁をかきたてる・・歌ひ手たちは深い、重重しい溜息を吐く。(p.95)
私たちの話といへば、いつもおなじもので、昨日も一昨日も話しあつたことを、そつくりそのままくりかへしてまた語りあつてゐるのだ、それはなぜかといふと、彼女も、私たちも、それから私たちのまはりのものも、何から何までが昨日一昨日とちつとも変つてはゐないからだ・・人間が生きてぴんぴんしてゐるのに、その人をとりまく周囲のものが何一つ少しの変化もみせないといふことは、實に苦しい、痛ましいことである。(p.98)
それからまたおそらくは、彼女がまだほんの子供で、しかも大へんに美しかつたからでもあらう、實際ほんたうに美しいものはすべて、私たちのやうな荒くれた男たちの心にさへも尊敬の念をおこさせるものであるからだ。それに、ここの懲役のやうな仕事が私たちをまるで間のぬけた牛みたいにしてしまつたけれど、それでも私たちはまだやはり人間であつた、だからすべての人間とおなじやうに私たちもまた、何でもいいから尊敬の的となるやうなものをもたずには生きてゆくことができなかつたのだ。さういふ意味で、彼女は私たちにとつては、何人にもまして貴重な存在であつた。(p.99)
人間の生活といふものは、ときには、仕方なしにせめて自分のわるいところでも大切にして生きてゆかなければならないほどに、惨めなものになることがある。これは別の言葉でいへば、人間といふものはときどき退屈のあまり罪を犯すものである、ともいへる。(p.113)
私たちは、私たちの女神の強さをためしてみたくてたまらなかつた。私たちはおたがひに一所懸命になつて、われらの女神はとても強いのだ、だからこんどの闘ひにだつてきつと勝利を得るだらう、といひあつた。(p.116)

荒野(桜庭一樹/文藝春秋)
本の帯に「直木賞受賞第一作」と書いてあった。最初、これの意味がどういうことかわからなかった。「直木賞受賞作」ではないが、「直木賞受賞後の第一作」ということらしい。
直木賞受賞作である「私の男」とは、まったく作風も文体も違う。だから、この帯が目についてこの本を手に取った人は、きっと期待していたものと違うものだったという感想を持つだろうと思う。これはこれで、まったく別の系統の作品だ。
少年少女向けという層を想定して書いたもののようで、少女マンガをそのまま小説化したような、さわやかな空気感だと思った。だから、文章はかなり平易なのだけれど、著者の他の作品から考えると、ターゲットに合わせてわざと易しく文章を変えているのだろうと思う。鎌倉の一軒家を舞台にしているというところもいい。
主人公の、中学生~高校生の時代の話しなので、ちょっと感情移入しにくいところがあったのだけれど、きっと、学生時代にリアルタイムに読んだとしたら、はるかにその世界に入っていきやすかったのだろうと思う。昔のことを思い出して、そういえばそんな感じだったかもなあ、、という気持ちになる。
「大人が想像で作り出した中学生の話し」ではなく「中学生の目線になって書いた中学生の話し」という雰囲気の作品だった。
【名言】
この世には、ハングリー・アートと呼ばれる仕事があるんだ。この本にはジャズがそれだと書いてある。あと、ボクシングとか。ジャズは孤独な道だからさ。この世の大事なものを犠牲にしなきゃ、その場所には立てない。ジャズの神様はエゴイスティックなんだ。幸福で、満足して、それでジャズをやろうったって無理な話さ。小説もきっと、ハングリー・アートなんだよ。あの人はきっと、恋愛小説を書き続けるために、あんな、蜻蛉みたいな男になったんだ。あれは人間じゃない。言葉に憑かれた生霊さ。女って餌を食っては書き、書いては食うんだ。きっと、死ぬまでやめないんだ。(p.137)
まわりの女たちを、見てみなさい。大人という生き物は、そうそう、ときめいたりしないものなんだよ。そうして、そうなってからのほうが、人生は長い。(p.267)
前に立つ阿木くんも黙っている。その足元からじわじわと、怒りのような、妄念のような、暗く湿った空気が漂ってきて、荒野に近づいてくる気がする。パパをめぐる女たちにも似た、なにか。甘さはない。あたたかさも。ただ暗く、冷えた感情。(p.294)
荒野は自分がべつに傷つかないことに気づく。おんなのこころ、はとても薄情で、愛していない男の言葉なんかで傷つかないのだ。(p.346)
どう見ても、奥さんに逃げられ中の人には見えない、天性の明るさ。興味のなさ。小説を書いていないときのパパは、まっさらに空っぽで、にこにこしていても、なーんにも考えていないように見える。荒野は一緒に歩きながら落ちつかなくって、この人はパパだけれど、いつだってなにかの抜け殻みたいだ、と首をかしげる。(p.478)
普段、ネットで買い物というのはamazon以外ではあまりしないのだけれど、
これはネットで買うに限る、と思っているものがある。
水(ボルヴィック)
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ボルヴィックは、近くのコンビニで買うと1.5リットルで242円。
しかし、ネットで買うと89円。
どういう流通の仕組みになっているのか詳しくわからないけど、中間マージンがかからないので安くなるらしい。
それに加えて、便利なのは、配送されて届くことだ。
1.5リットルのペットボトルをまとめて持って帰るのは、さすがに重い。
まとめて買い置きをしておけば、災害対策にもなる。
自分はボルヴィックが好きなので、それ以外は買わないのだけれど、コントレックスなど、たいがいの水はネットで安く買える。クリスタルガイザーはなんと、500mlで10円。
水は、ネットショッピングで買うのに最も向いた物だと思う。

2days 4girls(村上龍/集英社)
精神を病んだ女性を預かり、壊れた心を「オーバーホール」する、通称プラントハンターと呼ばれる主人公と、その治療対象となった4人の女性の物語。
主人公は、カウンセラーのような役割を持ちながら、その手法は精神科医がとるアプローチとはまったく違う。一様に自己評価が低い彼女たちの自己評価を高め、さらに「信頼」という概念を植えつけることによって、精神のバランスを正常に近づけようとする。そのために、彼女たちに新しい世界を教えこんでいく様は、「プリティ・ウーマン」にちょっと近い。そこに、精神的な要素が加わった感じだ。
たとえば、女性を癒す場面で、幸せな記憶を想像して作り上げさせるというシーンがある。この女性は、とても狭い家で育ち、そのために両親や祖母の間にケンカが絶えなかったことが自分の不幸の原因であったと考えていた。
女性は、想像の中で、「豊かな生活」というものを頭の中に作り上げるが、その中に出てくる部屋や小物のイメージは、実際に自分がそれを知らなければ想像することが出来ない。だから、その空想を完成させるために、主人公は、イメージの素材となる経験と考え方を身につけさせようとする。
村上龍の小説は、金銭的な豊かさを幸福に置き換えて語ることを否定しない。
金銭的に豊かだからといって幸福とは限らないけれども、少なくとも、貧しいがために得ることが出来ない幸福があるということを、容赦なく突きつけてくる。
物語は、夢の中のようにぼんやりとした世界を彷徨いながら進んでいき、どことも知れない庭園を延々と歩きまわって、主人公の過去の記憶を遡っていく。同じメッセージが執拗に繰り返される、非現実的な感覚も、夢の中に近い。
退行催眠にかけられているように、精神世界の奥深くに入り込んでいく気分になる、不思議な作品だった。
【名言】
ある種の人間にとっては大金を稼ぐのは大してむずかしいことではない。それはインサイダー取引の一種だ。どこに投資すればいいか知っている人間と知らない人間がいて、知っている人間は知らない人間から合法的に金を奪い取る。(p.7)
わたしには付き合っていた女に裏切られたという空洞のような部分があり、その部分でカオリと知人のプロデューサーのやりとりを翻訳していたような気がする。その空洞のような部分から、ただ一つの事実がわたしに届く。お前には価値がない、というどうしようもない事実だ。裏切った女はわたしから去っていったが、そこから導かれる事実はわたしの価値に関することだけだった。わたしに価値がないということだ。女が去ってからわたしは色々とその理由を考えた。結婚したかったのだろうとか、将来を考えて不安になったのだろうとか、他の男のほうが安心できたのだろうとか、そういった下らないことだ。だが、要するに事実は一つしかなくて、去っていった女にとってわたしにそれだけの価値がなかったのだ。(p.37)
あのオーナーは意気地のない男でした。人間のランクで言えば、中堅だったのではないでしょうか。わたしはもっと上のランクの人にも飼われたことがあります。その人は、黒人とのハーフの日本人で、刀剣を集めるのが趣味で、貿易会社の社長でした。いつかわたしを日本刀で切りたいといつも言っていました。わたしがその男から逃げたのは、日本刀で切られるのがいやだったからではありません。ちょっと上のランクだったといっても結局その男も中くらいの人間にすぎなかったからです。
たとえばの話ですが、このカフェで裸になってはいけないと決めたのは、とるに足らない人間たちです。そういう決まりに従うのはこれもまたとるに足らない人間たちの成せるわざで、わたしはそういう人間と歩調を合わせて生きていく気は最初からないわけです。そこのところを理解していただけるかどうかが、わたしが人間を見るときのポイントです。(p.129)
イメージはディテールだけでできていて物語性はないが、だからといって効果がないわけではない。現実が戻り、リワインドが終わって、不安定になっても、さやかには理想の家族のイメージが残っている。それは、さやかの家族が別の生き方ができたかも知れないという可能性で、幻想ではない。その可能性を反芻することで、さやかは少しずつ自分を肯定することができるようになった。(p.185)
わたしは人を救ったことなどない。わたしは信頼という概念を彼女たちに教えようとした。それはわたしが仕事を通じて学んだことで、奇妙で危ういバランスの上に成立している概念だった。信頼を前提にして金融市場と付き合うのはバカだけだが、市場のほうは企業にも国にも個人にも信頼を要求する。重要なのはファイナンスで、債務超過の企業でも、通貨危機に陥りそうな国でも、融資の保証があれば市場は黙認する。しかし本当にファイナンスされているのかどうかは関係ない。大多数の市場関係者がファイナンスされていると判断すればそれで充分なのだ。嘘をつかない人間がいないのと同じで、完全にファイナンスされている企業も国も存在しないが、それでも信頼を築くことは不可能ではない。ファイナンスされているということを、コミュニケーションを通じて、どうにかして市場に認めさせればいいのだ。(p.252)
笑いは、脳からの指令だけで起こるものじゃないし、脊髄からの指令だけで起こるものでもない。ただ、神経細胞の強い発火が必要だと言われている。脳からちょろちょろと普通の信号が送られるわけじゃなくて、強烈な信号がぼっと燃え広がるように伝わってくる。(p.274)
わたしは不機嫌な顔の、このあなたの写真が好き。ミユキはそう言った。わたしはいつも笑いたくないときに笑ってきたから、不機嫌なときに不機嫌な顔をしているあなたが好きなんだと思うの。(p.329)
