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2008年07月31日
人生を決めた15分 創造の1/10000

人生を決めた15分 創造の1/10000(奥山清行/ランダムハウス講談社)
奥山氏は、3大スポーツカーと言われるコルベット、ポルシェ、フェラーリ、すべてのデザインを手がけた経験がある、唯一のデザイナーだ。「イタリア人以外で初めてフェラーリをデザインした男」でもあるらしい。
この本を読むと、彼自身、とても強烈なポリシーを持ってこれまで仕事をし続けてきたことがよく伝わってくる。日本に生まれて、日本の大学を出てはいるけれども、それ以降はずっと世界を活動の舞台としてきた。だからこそ、奥山氏には日本と、日本以外との違いがよく見えるのだろうと思う。
筆者の姿勢でとても尊敬出来るのは、誰よりも多くのデザイン画を描き続けてきて、今もまだ描き続けているという、その仕事量だ。
タイトルの、「人生を決めた15分」というのは、2年がかりで取り組んできたデザインをフェラーリ会長が却下した際に、最後のチャンスとして与えられた15分の中で描いたデザイン画が採用になったというエピソードからきている。
誰よりも量をこなしてきた奥山氏だからこそ、15分という時間で自分の持つ力のすべてを凝縮して、発揮することが出来たのだと思う。
デザイナーの描いた、まだ物が出来上がる前のラフデザインというのは、それを描いた人の素の気迫が伝わってきて、とても面白い。
この本は、奥山氏のデザイン画が、全ページにわたって公開されていて、その数々の美しい作品を見るだけでも充分に価値のある本だった。
【名言】
「好きなこと」というのはそんな風に、後から考えると一貫して自分の人生の上に存在しているものなのかもしれない。ふと気がつくと、或る一本の道を知らず知らずのうちに歩んでいたことになる。(p.40)
注文が来てからデザインをするのでは遅い。どんなプロジェクトにも常に準備ができていることが大切だ。来るか来ないかわからない仕事のためにアイデアを出すわけだから、無駄も覚悟の上だ。(p.45)
この手の絵は今までに何枚描いたかわからない。もう天文学的な数に上ると思う。思いついたら描き、描いた絵を見て新たな着想を得る。脳から手へ、手から脳へのキャッチボールにより、小さな発想が大きなアイデアへとふくらんでいく。だから僕は、今でも世の中で一番絵をたくさん描くデザイナーだと思う。(p.66)
世界中のどんなデザイナーよりもたくさんの絵を描き、数多くのクレイモデルを削ってきた自負がある。「自分より多くクルマの絵を描いた人はいない。粘土をいじった回数も自分が一番多い」という事実があるからこそ「だから負けるわけがない」という自信に繋がってきた。(p.75)
お客さんの生活を豊かにしたいと願う姿勢があれば、そこには自ずと何らかのストーリーが生まれるはずだ。それを知ってもらうだけでも、ファンは作れる。(p.107)
手で描いていると、ときどき頭でイメージしていたのとは違う線が描けてしまうことがある。すると、そこを起点として新たなイメージがふくらんでくる。こういう偶然性はコンピュータには期待できない。だから手で描くことが大事なのだ。(p.120)
人間はみな、自分で自分の人生をデザインする存在だ。少なくとも僕はそう信じている。ビジョンを持ってそれを実現していくことで、人生は豊かに彩られるのだ。(p.140)
2008年07月30日
私塾のすすめ
自分は、齋藤さんの本も、梅田さんの本も、ほとんどの本が好きだ。考え方や価値観が、自分にとって、とてもしっくりくる、ということなのだと思う。その二人が対談をしている本なのだから、これは面白くないわけがない。
二人が対談をすることで、その両者の考え方の違いも見えてくる。梅田さんが、一部の「やる気のある人」をさらに引き上げることにモチベーションを感じているのに対して、齋藤さんは、全体のレベルの底上げをするということにやりがいを感じている、というところなど。
こういう、互いが違う考えを持っている部分のやりとりというのは、それぞれが持っている価値観のルーツが鮮明に見えてきて、とても興味深い。これは、自身の考えに明確なポリシーを持っていないと語れないことであるし、対談であるからこそ浮かび上がってくる面白さなのだと思う。
特に、齋藤さんからは、かなり激しい発言が多く出ていて、普段の論理的な語り口からすれば意外な感じだった。一人で本を執筆した場合は、きっとこういう部分は表面に出てこないはずで、それぞれが個別に本を出した場合より、素の本音の部分がはっきりと表われていると思った。
この本のメインテーマとなっている「私塾」という概念についても、とても共感が持てる提言だった。「私塾」の可能性について論じながらも、二人の活動分野が異なり、梅田さんはネット領域、齋藤さんは非ネット領域を専門にしているというポジションの違いも面白い。かなりやる気が出るメッセージが満載の本だった。
【名言】
「自分探し」という言葉には以前から違和感があります。僕は、「自分がやりたいこと
」を模索していた時期はありますが、「自分」を探したことは全くないです。自分はここにいるのだから、自分を探しにいくことはないですよ。僕は常に、自分とは仲がいいです。自分のことは好きだし、自己肯定できるし、自分が敵になる状況というのは、どんなに悲惨な状況でもありえません。(齋藤)(p.29)
オープンソースのプロジェクトでも、リーダーが没頭しているものではないとうまくいかないのです。その情熱にみんな引き寄せられてくる。(梅田)(p.45)
よく、「言葉の端々にでる」といいますが、Eメールでも、いろいろな人から仕事の依頼がきますが、そのメールの文章を見ただけで、相当のことがわかる。その人の経験値もわかるし、人間関係のクセもなんとなくわかる。(齋藤)
ブログだともっとわかります。履歴書を見るよりも、その人のブログを見たほうが人物がよくわかります。(梅田)(p.53)
今の時代は、話し言葉のようでないと多くの人にはなかなか伝わっていかない。話し言葉ぐらいが丁度いいという実感をもっています。密度の高い書き言葉で通じる層は、若い人全体の1、2割くらいではないかと思います。(齋藤)(p.73)
梅田さんは、メンタル・タフネスがありますね。いきなりの言いがかりを面白いと思えるというのは。僕は、気性はふだんはおだやかなんだけど、根に激しいものがあります。こちらを安く値踏みしてちょっかい出してくる人に対して、攻撃をし返してしまいかねない。(齋藤)(p.93)
ある時、ふと思ったのですが、死ぬときにきっと「『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝氏死す」みたいな書かれかたをするのだろうな、と。何十冊、何百冊と本を出してきたけれど、結局そんなもんなんだな、納得がいかない、何十年も難しいことを考えてきたのに結局そこか、と最初は思いました。でもだんだん、人が世の中に定着させられるものは限られていて、そういうのは運命みたいなものだと思うようになりました。(齋藤)(p.105)
目を外に転じれば、オープンソースの世界では、お金をもらわなくても、朝から晩まで仕事ををしている人がいます。そういう環境ができたからです。だから僕は、大組織にせよ、組織以外での仕事にせよ、自分とぴったりあったことでない限り、絶対に競争力が出ない時代になってきていると思います。朝起きてすぐに、自分を取り巻く仕事のコミュニティと何かをやりとりすることを面白いと思える人でなければ、生き残れない。これが幸せな仕事人生になるのか、不幸なのかは一概に言えないのだけれど、いま、過渡状態で起きていることというのは、そういうことだと思う。(梅田)(p.145)
大抵の領域では、もうほかの誰かがすでにやってしまっているということがあります。ここまでやっちゃうのか、という人がけっこういる。そういう意味で厳しい時代です。厳しいからこそ、簡単ではないけれども、自分の志向性にぴったり合った場所を探して移っていかないといけない。(梅田)(p.148)
2008年07月29日
マッドメン
ニューギニアの未開部族を舞台にした、おどろおどろしい話し。
日本とニューギニアは民俗学的なつながりがあると聞いたことがあるけれども、その古来の神話をモチーフにした、かなり変わった作品だ。こんなマンガを描ける人は諸星大二郎以外にはいないだろう。
人類がもともと持っていた智恵の多くは、現代までの間に失われてしまっている。それは、文明化によって必要性がなくなってしまったものだけれど、それらを今に伝え続けている部族も、この地球上にはある。テレビ番組では決して報道されることがない、密かに護り伝えられてきた儀式と技術。
宮崎駿や水木しげるも、日本の伝統的な精霊を描くけれども、このマッドメンはもっと暗く、人間の原初的な、神に対する畏敬の感情を、独特のタッチで表現している。他に類をみない、かなりユニークな作品であることは間違いない。
【名言】
おまえたちは何も知らない。おまえたちがばかにしているあの小さな村の住人こそ、おまえたちの聖書がいう無原罪の人間なのだぞ!(2巻 p.37)
2008年07月28日
スカイ・クロラ
読み始めた最初は、この、妙に淡々とした文章になかなか慣れず、退屈だと思っていたけれど、独特な文体に馴染んでくるに従って、これはかなり詩的で面白い、と感じるようになってきた。戦争を描くのに、ここまで徹底的に善悪の感情を排除して、無機的に表現したというのは芸術的だと思う。
誰かが憎いわけでも、何かを守るためでもなく、それが仕事だからという理由で戦闘機に乗り、敵機を墜とす。ただそれだけだと、何とも味気ない話しになるのだけれど、主人公のパイロットたちは彼らなりの思考方法で、自分自身の存在意義について常に意識をしている。
物語の時代背景とか、舞台設定はよくわからなかったのだけれど、そんなところはまったく気にならない。もともとそういう細かい説明は省かれていて、この作品はひたすらに、「一介の飛行機乗り」である主人公の目を通して見える世界だけが描かれている。
森博嗣という人が本当に書きたかったのは、ミステリーよりも、こういう小説のほうだったんじゃないかという気がした。
各章の扉には、サリンジャーの小説からの引用が挿入されている。
サリンジャーの原文を読んだことがないので、元がどんな文章なのか知らないのだけれど、そういえば、この「スカイ・クロラ」という小説の、妙に力の抜けた雰囲気は、サリンジャーの小説にかなり似ていると思った。
この作品は、映画化されて、2008年8月2日から公開されるらしい。
この作品を映画化するというのは、かなり難しいことだっただろうと思う。いったいどのような映像になっているのか?映画化がこれほど期待出来る作品は久しぶりだ。
【名言】
途中で、火を吹いている方の一機が湖面に墜ちるのが見えた。脱出はなかったようだ。可哀相に、という言葉は思いつく。けれどたぶん、僕はそうは思っていない。(p.48)
ところで・・僕はどうして、そんなことを知りたいのだろう?
単なる退屈凌ぎなのか・・。きっと、そうだと思った。
仕事も女も、友人も生活も、飛行機もエンジンも、生きている間にする行為は何もかもすべて、退屈凌ぎなのだ。
死ぬまで、なんとか、凌ぐしかない。どうしても、それができない者は、諦めて死ぬしかないのだ。(p.122)
特に、誰かのために戦っているわけじゃない。国のためでもないし、まして特定の人々のためでもない。僕は賃金をもらっている。それに、僕たちにはこの仕事が向いているのだ。それは自分でもよくわかる。逆に僕には、普通の人が、僕たちをどう思っているのかが、本当のところ理解できない。(p.168)
「たとえば、将来の計画は?」
「計画って?」
「いつまで生きるつもり?」
「考えてない」
「どうして、考えない?」
「考えてもしかたがない。どうせ、いつか、誰かに撃たれて死ぬんだし。それは僕には想像もできない」
「でも、君の人生なんだよ」
「そうかな・・」僕は肩を竦める。「それ、よくそういうふうに言うけれど、僕の人生なの?これって」
「じゃあ、誰の人生?」
「誰の人生でもないんじゃないかな」
「うーん、まあ、そういう宗教もあるけど」草薙は何度も小さく頷いた。(p.185)
雲の上に出てしまえば、天候など無関係。だから、上がるときはひたすら地球の本能に逆らって、とにかく上がっていけば憂鬱からは逃れられる。ところが、天使になれなかった僕たちは、最後は地上に戻らなくてはならないのだ。高度が下がるとともに地面の憂鬱がぶり返すことになる。人間はそんな湿っぽい地面に張りついて、惨めに生きている存在なのだ。(p.203)
誰でも最初に出会ったときには、その相手が自分の将来にどれくらい関わる人物なのか判断がつかない。ただ、予感だけをピンでとめるしかない。(p.211)
僕は、いったい、何を望んでいるだろう?人生のための楽しみか?それとも、余裕だろうか?わからない。
ただ・・、理解、でないことは確かだ。人に理解されることほど、ぬるぬるして、気色の悪いことはない。僕はそれが嫌いだ。できるだけそれを拒絶して、これまで生きてきた。それは、たぶん・・、草薙も同じだろう。土岐野だって、同じだ。そういうタイプが、飛行機乗りには向いている。理解されたくない、という気持ちが、空へ高く上らせる力となる。いつ墜ちても良い。いつ死んでも良い。抵抗があっては、飛べないのだ。(p.289)
もし僕が殺さなかったら、彼女は自分で自分を殺しただろう。それでは、あまりにも孤独だ。(p.326)
【名描写】
飛行シーンの描写の臨場感が好きだ。専門用語が多くて、あまり意味はわからないのだけれど、たとえば次のようなセリフは、しびれる。
「黒豹のスカイリィ・J2が、キシヌマ機の下から上がってきて、もう少しのところで、キシヌマ機の後ろにつく、というところで突然半ロールした。こう、上を向いて、何かのトラブルかと思ったくらい。ところが、そこで、ストール・ターンをして、後ろから援護しようとしていたクマタケ機をやり過ごすと、スナップっぽい前転をして、こう、斜め上から被さるみたいに、至近距離で撃った(p.238)」
2008年07月27日
ビーチロックカフェ
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那覇空港に夜に着いて、今帰仁(なきじん)村にあるビーチロックカフェに行きたいと地元の友人に言うと、「今の時間から今帰仁に行くのは、あり得ない」と言われた。
自分の脳内では、沖縄というのは結構小さいと思っていて、どこに行くにも車で1時間くらいで移動出来るのかと思っていたけれど、思っていた大きさより5倍程でかかった。車で高速を飛ばして2時間以上かかるということだったが、構わずに決行した。
途中から国道を外れて、深い森に入って、完全な山道の中を、藪をかき分けながら20分ほど走り抜けた後にようやく到着。車で来てよかったと思った。もし歩いてきてたら、夜中には真っ暗闇の山の中を行進になるし、3回くらいハブに咬まれてると思う。
ここは「ビーチロックビレッジ」という、大きな村になっている。
その村にモンゴルの包(パオ)のような建物があって、その中には、沖縄に旅行中のバックパッカーが10数名と、地元の酔っ払い親爺が2人。
店のスタッフの人達は、ボランティアスタッフとして短期間だけ働いている人も多く、客に混じって座ってたりするので、区別がつかない。この雑多な感じは、ユースホステルに来たっぽい雰囲気で、かなり楽しい。店に入れば、みんな挨拶をして、お互い話しをして、気持ちがいい空間だ。
基本的には酒を飲むところなので、食べ物のメニューはかなり割り切っていて、「ジャークチキン」と「するめ」のみ。それに反してアルコールは豊富で、世界のビール勢ぞろいと48種類の泡盛、他、各種カクテル。
冷房はもちろんなく、戸が開けてあるので、虫が入ってきたりヒルが落ちてきたりもする。まあしかし、そんなことを気にする人は誰もいない。
「酔いつぶれたらテントがありますから、安心してください」とスタッフの人は言っていたけれど、そんなバーってスゴい。ここには終電もなく、見知らぬ人と語って、酔っ払ったら寝ればいい。
外を歩いてみると。簡易テントがずらりと20個ぐらい並んでいる。テントの一つに、さっき店にいた酔っ払い親爺が横になって、夢見心地で眠りについていた。この村は、山道の奥に作られた桃源郷だ。
■BEACH ROCK CAFE
沖縄県国頭郡今帰仁村謝名1331
0980-56-1126
2008年07月26日
沖縄
沖縄は、自分にとって、未踏の地だった。
「どうせいつでも行けるのでは」という思いからスルーし続けて、なかなか行く機会がなかったその地に、行くべき流れが来た。
この亜熱帯の気候は、たしかに独特だ。蒸し暑い。沖縄にいる間に、何度も何度も集中豪雨に遭った。さっきまで快晴だった天気が、次の瞬間バケツをひっくり返したようなスコールが降って、またすぐ快晴に戻る。本土じゃなかなか出遭わない、この極端な気候。このぐらい派手だと、別天地気分が出て素敵だ。
沖縄の人の、シーサーの信仰っぷりは、これはもう一つの宗教の域に達していて良い。たいていの家の門や玄関に、シーサーがきちんと対になって置かれているし、レストランや、マクドナルドでも、入口や屋根にシーサーが鎮座している。やたらとでかくて独特な形の墓も、こだわりを感じさせて好きだ。
真栄田岬にある「青の洞窟」は、素晴らしく美しかった。洞窟に入って、水の中に潜って洞窟の入口の方向を見ると、洞窟に射し込む太陽の光で、真っ青に染まってみえる。
目の前を、小さな魚の大群が通過していく。それが幾層にも重なって、無限に続くかに見える奥行きをもって、はるか遠くまで立体的に魚の群れが広がっている。水の中からそれを眺めていると、宇宙空間の真ん中に漂って、全方位から照らされる星の光を観ているような気持ちになる。
沖縄には、電車も地下鉄もないというのは面白い。沖縄は、都会と自然の両方のエッジが隣り合っている場所だった。国道沿いは24時間営業のチェーン店が立ち並び、やたらと便利なのに、そこから少しはずれると、途端に濃い自然に切り替わる。
この並立が、一つの国の中にあることは珍しくないけれど、沖縄のように限定された地域の中に際立った両方がひしめきあっているというのは、やはりインパクトがある。
マンハッタンの中のセントラルパークとか、ロンドンの中のハイドパークのような人工的な共存の仕方とはまったく別の、素材をぶった切ってそのまま盛り付けた皿鉢料理のような街だと思った。
2008年07月25日
二十六人の男と一人の少女
これは、ものスゴい作品だ。
異様な迫力と怨恨のエネルギーを持ったプロレタリア文学であり、尾崎豊の「はじまりさえ歌えない」を彷彿させる、ロックな小説だと思った。
尾崎豊の歌と違うところは、この物語の主人公にあたる男たちが「ひとりぼっち」ではないことだ。狭い地下室に押し込められて、劣悪な労働環境で朝から晩までひたすらパンを焼き続けている、二十六人の男たち。
これは、単なるワーキングプアをテーマにした話しであるに留まらず、そういう状況下に人が集まった時に人間はどうなるかという、群集心理を表現した話しでもある。
人数において資本家に勝る労働者が、階級闘争に勝利しにくいのは、彼らが自立した単独者として行動するよりも、集まって群れようとしてしまう習性によるものなのだということが、痛切に伝わってきた。
そして、陽の光の下で生きる少女は、そういう摂理を敏感に察知する。少女はまっとうな世間というものの代弁者であるかのように、快活で、気分屋で、無慈悲だ。だからこそ、彼女は最強の存在なのだ。単独では動かず、寄り集まって恨み言をいうだけの男たちがどれだけ束になったって、かなうはずがない。
この短編は、「チェルカッシ」というタイトルの短編集に収められているのだけれど、絶版になっていたので、古書店で見つけた。昭和12年発行、定価20銭、と書いてあり、それを1円で買った。70年前にタイムスリップしたような、おかしな気分だった。
【名言】
私たちは自分の仕事をはげしく憎んでゐた、だから私たちは自分の手でつくりだしたものを一度も口にしたことはなかつた。私たちは長い卓をはさんで九人づつ向ひあつて坐り、ながい時間ぶつつづけに、まつたく機械的に手のさきをうごかしてゐた。私たちはもう自分の仕事にすつかり慣れてしまつてゐたので、ほとんど一度も自分のやつてゐることを考へてみたこともないくらゐであつた。(p.93)
苦しい労働のためにあらゆる感情をおしひしがれ、まるで銅像かなんぞのやうに無感覚になつた、半分死んでゐるやうな人間に、どんな悪いことができるといふのだ?けれど、沈黙をおそろしいと思ひ、苦しいと思ふのは、何もかもすつかりしやべつてしまつて、もうそれ以上何もいふことがなくなつた人たちだけである。まだ自分の言葉を語りださない人人にとつては、沈黙をまもつてゐることは、かへつて氣らくで、さつぱりしたものなのだ・・しかし、ときをり私たちは歌をうたつた。(p.94)
二十六人がみんなで歌ふ。ずつと昔から歌ひなれた、よくとほる高い声が仕事場をいつぱいにみたす。このなかでは歌だつて窮屈だ。それは石の壁にぶつかつて跳ねかへり、呻きごゑをたて、泣きごゑをあげる、そしてこそばゆいやうな微かな痛みで心をちくりとさし、哀愁をかきたてる・・歌ひ手たちは深い、重重しい溜息を吐く。(p.95)
私たちの話といへば、いつもおなじもので、昨日も一昨日も話しあつたことを、そつくりそのままくりかへしてまた語りあつてゐるのだ、それはなぜかといふと、彼女も、私たちも、それから私たちのまはりのものも、何から何までが昨日一昨日とちつとも変つてはゐないからだ・・人間が生きてぴんぴんしてゐるのに、その人をとりまく周囲のものが何一つ少しの変化もみせないといふことは、實に苦しい、痛ましいことである。(p.98)
それからまたおそらくは、彼女がまだほんの子供で、しかも大へんに美しかつたからでもあらう、實際ほんたうに美しいものはすべて、私たちのやうな荒くれた男たちの心にさへも尊敬の念をおこさせるものであるからだ。それに、ここの懲役のやうな仕事が私たちをまるで間のぬけた牛みたいにしてしまつたけれど、それでも私たちはまだやはり人間であつた、だからすべての人間とおなじやうに私たちもまた、何でもいいから尊敬の的となるやうなものをもたずには生きてゆくことができなかつたのだ。さういふ意味で、彼女は私たちにとつては、何人にもまして貴重な存在であつた。(p.99)
人間の生活といふものは、ときには、仕方なしにせめて自分のわるいところでも大切にして生きてゆかなければならないほどに、惨めなものになることがある。これは別の言葉でいへば、人間といふものはときどき退屈のあまり罪を犯すものである、ともいへる。(p.113)
私たちは、私たちの女神の強さをためしてみたくてたまらなかつた。私たちはおたがひに一所懸命になつて、われらの女神はとても強いのだ、だからこんどの闘ひにだつてきつと勝利を得るだらう、といひあつた。(p.116)
2008年07月24日
荒野
本の帯に「直木賞受賞第一作」と書いてあった。最初、これの意味がどういうことかわからなかった。「直木賞受賞作」ではないが、「直木賞受賞後の第一作」ということらしい。
直木賞受賞作である「私の男」とは、まったく作風も文体も違う。だから、この帯が目についてこの本を手に取った人は、きっと期待していたものと違うものだったという感想を持つだろうと思う。これはこれで、まったく別の系統の作品だ。
少年少女向けという層を想定して書いたもののようで、少女マンガをそのまま小説化したような、さわやかな空気感だと思った。だから、文章はかなり平易なのだけれど、著者の他の作品から考えると、ターゲットに合わせてわざと易しく文章を変えているのだろうと思う。鎌倉の一軒家を舞台にしているというところもいい。
主人公の、中学生~高校生の時代の話しなので、ちょっと感情移入しにくいところがあったのだけれど、きっと、学生時代にリアルタイムに読んだとしたら、はるかにその世界に入っていきやすかったのだろうと思う。昔のことを思い出して、そういえばそんな感じだったかもなあ、、という気持ちになる。
「大人が想像で作り出した中学生の話し」ではなく「中学生の目線になって書いた中学生の話し」という雰囲気の作品だった。
【名言】
この世には、ハングリー・アートと呼ばれる仕事があるんだ。この本にはジャズがそれだと書いてある。あと、ボクシングとか。ジャズは孤独な道だからさ。この世の大事なものを犠牲にしなきゃ、その場所には立てない。ジャズの神様はエゴイスティックなんだ。幸福で、満足して、それでジャズをやろうったって無理な話さ。小説もきっと、ハングリー・アートなんだよ。あの人はきっと、恋愛小説を書き続けるために、あんな、蜻蛉みたいな男になったんだ。あれは人間じゃない。言葉に憑かれた生霊さ。女って餌を食っては書き、書いては食うんだ。きっと、死ぬまでやめないんだ。(p.137)
まわりの女たちを、見てみなさい。大人という生き物は、そうそう、ときめいたりしないものなんだよ。そうして、そうなってからのほうが、人生は長い。(p.267)
前に立つ阿木くんも黙っている。その足元からじわじわと、怒りのような、妄念のような、暗く湿った空気が漂ってきて、荒野に近づいてくる気がする。パパをめぐる女たちにも似た、なにか。甘さはない。あたたかさも。ただ暗く、冷えた感情。(p.294)
荒野は自分がべつに傷つかないことに気づく。おんなのこころ、はとても薄情で、愛していない男の言葉なんかで傷つかないのだ。(p.346)
どう見ても、奥さんに逃げられ中の人には見えない、天性の明るさ。興味のなさ。小説を書いていないときのパパは、まっさらに空っぽで、にこにこしていても、なーんにも考えていないように見える。荒野は一緒に歩きながら落ちつかなくって、この人はパパだけれど、いつだってなにかの抜け殻みたいだ、と首をかしげる。(p.478)
2008年07月23日
ネットで買うべき物
普段、ネットで買い物というのはamazon以外ではあまりしないのだけれど、
これはネットで買うに限る、と思っているものがある。
水(ボルヴィック)
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ボルヴィックは、近くのコンビニで買うと1.5リットルで242円。
しかし、ネットで買うと89円。
どういう流通の仕組みになっているのか詳しくわからないけど、中間マージンがかからないので安くなるらしい。
それに加えて、便利なのは、配送されて届くことだ。
1.5リットルのペットボトルをまとめて持って帰るのは、さすがに重い。
まとめて買い置きをしておけば、災害対策にもなる。
自分はボルヴィックが好きなので、それ以外は買わないのだけれど、コントレックスなど、たいがいの水はネットで安く買える。クリスタルガイザーはなんと、500mlで10円。
水は、ネットショッピングで買うのに最も向いた物だと思う。
2008年07月22日
2days 4girls
精神を病んだ女性を預かり、壊れた心を「オーバーホール」する、通称プラントハンターと呼ばれる主人公と、その治療対象となった4人の女性の物語。
主人公は、カウンセラーのような役割を持ちながら、その手法は精神科医がとるアプローチとはまったく違う。一様に自己評価が低い彼女たちの自己評価を高め、さらに「信頼」という概念を植えつけることによって、精神のバランスを正常に近づけようとする。そのために、彼女たちに新しい世界を教えこんでいく様は、「プリティ・ウーマン」にちょっと近い。そこに、精神的な要素が加わった感じだ。
たとえば、女性を癒す場面で、幸せな記憶を想像して作り上げさせるというシーンがある。この女性は、とても狭い家で育ち、そのために両親や祖母の間にケンカが絶えなかったことが自分の不幸の原因であったと考えていた。
女性は、想像の中で、「豊かな生活」というものを頭の中に作り上げるが、その中に出てくる部屋や小物のイメージは、実際に自分がそれを知らなければ想像することが出来ない。だから、その空想を完成させるために、主人公は、イメージの素材となる経験と考え方を身につけさせようとする。
村上龍の小説は、金銭的な豊かさを幸福に置き換えて語ることを否定しない。
金銭的に豊かだからといって幸福とは限らないけれども、少なくとも、貧しいがために得ることが出来ない幸福があるということを、容赦なく突きつけてくる。
物語は、夢の中のようにぼんやりとした世界を彷徨いながら進んでいき、どことも知れない庭園を延々と歩きまわって、主人公の過去の記憶を遡っていく。同じメッセージが執拗に繰り返される、非現実的な感覚も、夢の中に近い。
退行催眠にかけられているように、精神世界の奥深くに入り込んでいく気分になる、不思議な作品だった。
【名言】
ある種の人間にとっては大金を稼ぐのは大してむずかしいことではない。それはインサイダー取引の一種だ。どこに投資すればいいか知っている人間と知らない人間がいて、知っている人間は知らない人間から合法的に金を奪い取る。(p.7)
わたしには付き合っていた女に裏切られたという空洞のような部分があり、その部分でカオリと知人のプロデューサーのやりとりを翻訳していたような気がする。その空洞のような部分から、ただ一つの事実がわたしに届く。お前には価値がない、というどうしようもない事実だ。裏切った女はわたしから去っていったが、そこから導かれる事実はわたしの価値に関することだけだった。わたしに価値がないということだ。女が去ってからわたしは色々とその理由を考えた。結婚したかったのだろうとか、将来を考えて不安になったのだろうとか、他の男のほうが安心できたのだろうとか、そういった下らないことだ。だが、要するに事実は一つしかなくて、去っていった女にとってわたしにそれだけの価値がなかったのだ。(p.37)
あのオーナーは意気地のない男でした。人間のランクで言えば、中堅だったのではないでしょうか。わたしはもっと上のランクの人にも飼われたことがあります。その人は、黒人とのハーフの日本人で、刀剣を集めるのが趣味で、貿易会社の社長でした。いつかわたしを日本刀で切りたいといつも言っていました。わたしがその男から逃げたのは、日本刀で切られるのがいやだったからではありません。ちょっと上のランクだったといっても結局その男も中くらいの人間にすぎなかったからです。
たとえばの話ですが、このカフェで裸になってはいけないと決めたのは、とるに足らない人間たちです。そういう決まりに従うのはこれもまたとるに足らない人間たちの成せるわざで、わたしはそういう人間と歩調を合わせて生きていく気は最初からないわけです。そこのところを理解していただけるかどうかが、わたしが人間を見るときのポイントです。(p.129)
イメージはディテールだけでできていて物語性はないが、だからといって効果がないわけではない。現実が戻り、リワインドが終わって、不安定になっても、さやかには理想の家族のイメージが残っている。それは、さやかの家族が別の生き方ができたかも知れないという可能性で、幻想ではない。その可能性を反芻することで、さやかは少しずつ自分を肯定することができるようになった。(p.185)
わたしは人を救ったことなどない。わたしは信頼という概念を彼女たちに教えようとした。それはわたしが仕事を通じて学んだことで、奇妙で危ういバランスの上に成立している概念だった。信頼を前提にして金融市場と付き合うのはバカだけだが、市場のほうは企業にも国にも個人にも信頼を要求する。重要なのはファイナンスで、債務超過の企業でも、通貨危機に陥りそうな国でも、融資の保証があれば市場は黙認する。しかし本当にファイナンスされているのかどうかは関係ない。大多数の市場関係者がファイナンスされていると判断すればそれで充分なのだ。嘘をつかない人間がいないのと同じで、完全にファイナンスされている企業も国も存在しないが、それでも信頼を築くことは不可能ではない。ファイナンスされているということを、コミュニケーションを通じて、どうにかして市場に認めさせればいいのだ。(p.252)
笑いは、脳からの指令だけで起こるものじゃないし、脊髄からの指令だけで起こるものでもない。ただ、神経細胞の強い発火が必要だと言われている。脳からちょろちょろと普通の信号が送られるわけじゃなくて、強烈な信号がぼっと燃え広がるように伝わってくる。(p.274)
わたしは不機嫌な顔の、このあなたの写真が好き。ミユキはそう言った。わたしはいつも笑いたくないときに笑ってきたから、不機嫌なときに不機嫌な顔をしているあなたが好きなんだと思うの。(p.329)
2008年07月21日
最近の素朴な疑問(ver.20080721)
・牛乳のパッケージに書いてある「130℃2秒殺菌」というのは、どうやって2秒間だけ130℃の状態を作り出すのか。
・何故食パンは「食パン」という名前なのか。パンだから食べるものに決まってるのではないのだろうか。
・アジア圏以外の国では、レストランであまり爪楊枝を見かけないけれど、代わりに何を使っているんだろうか。
・昔、血液型の人数割合は、A型:B型:O型:AB型で、4:3:2:1と聞いた覚えがある。これはでも、世代が進むと、割合が変わってくるはず。
ある時点での血液型(OO、AA、AO、BB、BO、ABの6種類)の分布の数が与えられた時、組み合わせと確率の計算で、数世代先のほぼ確かな分布を求めることは出来るものなのだろうか。
・最近、妙にB型の人が多い気がするのは気のせいなのだろうか。自分の周りだけなのか。
2008年07月20日
ネクスト・マーケット
世界には、1日2ドル未満で生活する貧困層(BOP:Bottom Of the Pyramid)が約50億人いるのだという。
この本に、とても共感をおぼえるのは、発展途上国の貧困層の人々を、「援助してあげる」対象として見ているのではなく、対等なビジネスの顧客として見ているということだ。
1日2ドル未満の収入の人を相手に、先進国の企業は商売出来ない、というのは、そもそも先入観によって勝手に作り上げた前提で、見方を変えれば、世界にはものすごく巨大な市場が手つかずのまま残されているということなのだ。
発展途上国に対して何かをしようとした時、一番考えなくてはいけないのは、実効性ということなのだと思う。
どれだけ見栄えのいいボランティア活動でも、それが実際に本当に誰かの役に立っているのか疑わしいものもあるし、どれだけ多額の資金援助をしたとしても、それがまったく効果のない使われ方がされていたり、きちんと末端までその援助が行き届かなければ、何の意味もない。
この本は、徹底的に現実的に、どうすれば貧困層に対してビジネスを成立させることが出来るのかということを追求している。それは、自分が持っている先入観をくつがえすような内容が多いのだけれども、言われてみれば納得!ということばかりだった。
多くの大企業が、実際にこの本に書かれているような方法論で発展途上国でのビジネスを成功させることが出来れば、その企業自身のノウハウや技術力も大幅に拡大されるし、結果的に、途上国の人々の生活の質を向上させることにもつながる。
論文調の形式と文章なので、ちょっと読みづらいけれど、とてもたくさんの気づきがあった本だった。内容は大きく第一部と第二部に分かれていて、第二部は過去に実際におこなわれた活動のケーススタディーなので、第一部のみを読めば、そこに要点は充分に含まれている。
【タメになった点メモ】
・中国は、法制度は整っていないけれど、賄賂をわたせば融通を利かせてくれる官僚がいるので、それによって一応、非効率ながらも物事は動いていく。逆に、インドは法制度は整っているけれど、それを実行させる行政力が充分でないから、なかなか物事は進まない。
・BOP市場では、シャンプーのような日用品「使いきりパック」がよく売れる。貧困層の収入は不安定で、多くの者が日当で生計を立てているので、現金があるときだけ買い物をし、その日に要るものだけを買う傾向にあるからだ。
・貧困層は、固定電話などのインフラがない分、いきなり3G携帯電話やiPhoneのような最先端の技術にワープすることが出来る。その普及は、既に旧来のインフラがある層よりも速く、爆発的に広がる。
・貧困層には「貧困による割増」という理不尽な不公平がある。ダラビの貧困者は、貸金業者から金を借りるのに600~1000%の利子を取られる。ここに、25%の利子で参入する銀行は、充分すぎる利子を得ながら、消費者からしてみれば銀行が参入することで、利子が24分の1に激減することになる。
【名言】
本書は、「実際にどうすればうまくいくのか」について考察している。これは、「誰が正しいか」を言い争うことではない。また、「何がいけないのか」にも、あまり関心はない。うまくいかない可能性などいくらでもあり、実際にそうなったケースは山ほどある。大切なのは、「数少ない成功事例から学べることは何か」で、それが今後の道筋を示してくれる。(p.14)
HLLのCEO、M・S・バンガは、BOP市場における真の難題とは、「I字カーブ」に対応しなければならないことだと述べている。ほとんどすべての大企業では、一連の経営プロセスを「緩やかな成長」に合わせているが、I字カーブはそれをくつがえす。「I字カーブ」は功罪二つの面を持つ。たとえば、最近の携帯電話は、単なる電話にとどまらず、時計、カメラ、コンピュータ、ラジオ、テレビの機能を備えている。では、携帯電話があるのに、わざわざ時計を持つ必要があるだろうか。つまり、I字カーブは、イノベーションを急速に推進する反面、従来の市場を急速に消滅させる可能性を持っているのだ。(p.104)
エジプトでは合法的に土地を取得して登記するには71の手続きが必要であり、31の機関を通さなければならないという。(p.155)
汚職とは、特権的に資源へアクセスできるように手配し、時間的な価値をお金に換算することである。つまり、特権的なアクセスのための市場メカニズムなのだ。官僚は、細かい条例を利用して、情報や資源へのアクセス、透明性、そして時間を支配しているのだ。(p.156)
BOPの人々に共通する問題の一つは、「アイデンティティ」がないことである。社会の片隅に追いやられ、選挙人登録、運転免許、出生証明などの「法的なアイデンティティ」を持っていないことが多い。パスポートであれ、社会保障番号であれ、我々が当たり前と思っている法的に身分を証明する手段が彼らには与えられていない。あらゆる場面で、彼らは法的に実在するものとして扱われていないのである。法律上で実在していなければ、彼らは近代社会の恩恵を受けられない。(p.189)
2008年07月19日
THE MASK CLUB
異様な迫力をもった作品だと思った。
いきなり、「わたしは死人だ」という衝撃的な書き出しで始まる。それは比喩ではなく、本当にこの小説は死人の目から見える世界が語られている。村上龍という作家は、そういうとんでもないことを平然とやってのけて、その異世界の中に強引に引きずり込んでしまうのだ。こんな荒唐無稽な書き方をして、作品として成立させてしまうというのは、尋常な筆力ではない。
舞台となっているマンションの一室は、この世の理が通用しない、トワイライトゾーンのような場所だ。そこでは物質的なものは何の価値も持たない。
もちろん、その死後の世界は想像であることには違いないけれども、そういうものなんだろうという納得させる力が、この文章にはある。書くにあたって、一つの題材についてものすごく勉強をしているんだろうなあと思う。その、テーマについての正確な描写が、そのまま説得力となる。圧倒的な、怖ろしいまでのリアリティーを持っている作品だった。
【名言】
もう死んでしまっているのだからこれ以上悪いことは起きないだろうと思うかも知れないが、それは間違いだ。良いことには限度があるが、悪いことにはない。だから、おれの名前はテツオだがお前は名前を持ってはいけない、お前はまだ知らないだろうが、名前を持つというのは強烈な欲求だ。いつかお前は名前を持ちたいと思うときが来るはずだ。だがそのときも決して名前を持ってはいけない。(p.41)
幼い子どもが幸福だとは限らない。実は子どもの頃は誰もが神経症的なのだと心理学の本で読んだことがある。子どもは外界とのずれの中で、しだいにあきらめを学ぶ。赤ん坊の容姿にはそれほど差がない。子どもから大人になる過程で、生きていくための選択肢が減る。どんなに頭脳と才能と容姿に恵まれた子どもでもそれは同じだ。何かを選ぶということは何かをあきらめるということでもある。(p.144)
2008年07月18日
Yの悲劇
名作の誉れ高い作品だけれども、あまり響いてこなかった。
物語の導入部分や、ハッター家の紹介のところなどは、いったいこの家族に何が起こるのだろうとかなりワクワクしたのだけれど、その後、期待していたほどの広がりは見せなかった。
登場人物に魅力が感じられないということや、差別的な描写や発言が多いことや、探偵役のレーンの価値観や行動に共感出来ないところ、などなどが読後にさっぱり納得感がなかった理由だと思う。
しかし、謎解きの部分の構成は、とてもよく出来ていると思った。伏線や材料はきちんと、作品の中に余すところなく提示されているし、読者との情報共有の仕方も非常にフェアだ。この、予想をはるかに上回る見事さには驚いた。
意味不明な騙しうちのようなことはなく、種明かしの過程での論理的整合もきちんとしていて、少なくとも、「なんじゃこりゃ!」という憤慨はまったくない。この点について言えば、読む価値は充分にある。
これで、謎解き以外の部分も含めて感動できていれば、間違いなく「好きな本」のリストに入っていたと思うのだけれど、物語全体で考えると、感覚的に、あまり好きになれる作品ではなかったのは残念だ。
【名言】
この家こそ、一世代にわたってとかくの評判を生んだ後、以前に起こった事件などはすべて、偉大なドラマのほんの序幕にすぎなかったと思われるほど苛烈きわまりない悲劇の舞台となる運命をもっていたのだ。(p.34)
あなたは、ご自分の職業道徳をこの上なく忠実に履行なさってこられたのです。だが、それと同時に、いま人間の道そのものが、思いきった措置をとるように迫っているのですよ。(p.292)
2008年07月17日
人生練習帳
古今東西の色々な著書や歌詞から、名言を抜き出してきて、それをどう自分の糧とするか?を、著者が指南した本。
セレクトされている本やアーティストにかなり偏りがあって、あまり、引用された名言そのものには響くものはなかったのだけれど、その、言葉についての齋藤さんのコメントが面白い。
自分も、本を読む時には「名言」を探して読むのでとても共感出来るのだけれど、自分にとっては読書というのは、名言をいかに咀嚼して自分の中に吸収するかという作業だ。
その意味で、齋藤さんがどのような言葉に助けられて、その言葉をどうとらえて考えてきたのか、という思考の道筋を知ることが出来たというのは、かなり面白かった。
この本を、一般の名言集のような内容を期待して読むと、期待はずれに終わると思う。単に名言を集めただけの名言集なら、たくさんあるし、名言だけを拾って読んだとしても、あまりそれに意味があるとは思わない。
より重要なポイントは、名言とどのように出会って、それをどのように解釈するべきなのかという編集技術の部分なのだ。その点、齋藤さんほどにその蓄えと技術がある人はまれで、その方法を説明しているというのは、とても貴重な本だと思った。
【名言】
わたしは、人生の醍醐味というのは、否定的な要素でさえも肯定に変わるところ、つまりオセロゲームのように、一気にコマがひっくり返って、黒のコマが全部白のコマになるかのような要素を含んでいるところだと知っています。
こう断言できる理由は、人生の意味は、道中になにが起ころうとも最終的には自分がどう意味づけするかできまるからです。自分がそれを幸せだと思えば幸せになってしまうし、不幸だと思えば不幸になってしまう。だからこそ、そこにあるひとつの人生は歓喜にも憤怒にもなりうる。つまり、人生の味わいは”編集技術”の手腕によって大きく左右される。(p.13)
苦しいときにふと言葉が手をさしのべてくれる、それで人は新たな感慨と新たなエネルギーを手にしていくわけですが、しかし、苦しいときにふと浮かぶ言葉は、人生の予習期に仕込んでおかなければ効果がありません。中年期以降こそ、真剣な予習が必要なときと言いましたが、この時期になると、新しいものを受け容れにくくなるので、やはり若いうちにどれだけ予習をして言葉を仕入れていたかの差がこの時期になって如実に出てきます。(p.62)
「ひとり」こそが人間のスタート地点なんです。それは、誰しも父母があるわけだけれど、この世に「ひとり」生まれ落ちる。まずはしっかりとした「ひとり」からはじめないと、あなたの人生ははじまらない。まだはじまっていない、ともいえる。(p.80)
いったん天職だと思えれば、他人からなんと言われようがゆらぎません。「個性よりももっと重要だな」と思うことだってできます。ですから、いじわるな言い方をするならば、個性という単語にこだわっている人はまだ天職に出会えていない人という見方も成り立ちます。もうひとついえることは、天職に出会うのは年齢できまらないということです。個性の発揮というのは、ある程度の年齢で証明しなければならない時期があるともう。しかし、天職は、歳が上になってからでもmeetすることができる。天職チャンスみたいなものが、いつの年齢にも許されている。天職はすべての人に、いつでm、どこにでも開かれているのです。人は天職に出会うために成長というハシゴを登りつづける。そして、人は天職を得てさらに上へと成長するのです。(p.221)
さまざまな天才論議がありますが、天才のイメージというものをわたしたちは改めなければならない。「全部わかっていて、全部説明できてしまうという、認知力と認識力をもってクリエイティブな活動をしている人」。これが正しい「天才の定義」だと思います。つまり、偶然に任せている人は天才ではないわけです。(p.237)
2008年07月16日
アンチウイルスソフトavast!
アンチウイルスソフトは、常駐させておくと、いろいろなソフトと干渉しあって、原因不明な不具合を起こしやすいので、普段は使わないようにしている。
とはいえ、定期的にウイルスのチェックはしておきたい。
各アンチウイルスソフトのメーカーは、ネット経由でウイルスの有無をチェック出来る無料のオンライン版を提供しているけれど、たいがい、それでウイルスの存在を発見したとしても、駆除するには製品版を購入が必要だったりで、結局、最終的には買わせられるはめになる。
「avast!」は無料でダウンロード出来るアンチウイルスソフトだ。
フリーソフトということで、ちゃんと動いてくれるのかが心配だったのだけれど、実際使ってみると、ウイルスの定義ファイルも頻繁に更新されているし、動作にも機能にもまったく不便を感じない。
PCが明らかに何かのウイルスに感染してしまっているのに、手元にアンチウイルスソフトがない、というシチュエーションの時には、とりあえずこの「avast!」で駆除出来るので、かなり重宝する。
■アンチウイルスソフト avast!

http://www.avast.com/jpn/download-avast-home.html
2008年07月15日
女ごころ
未亡人である美人のヒロインの周りに、まったく性格もバックグラウンドも違う3人の男が登場して、さあいったいどうなるのか?さあいったい誰を選ぶのか?という、まるでトレンディードラマのような物語。ちゃんと、サスペンス的要素まで加えられていて、全9回ぐらいでドラマ化すれば、いい作品になるに違いない。舞台も、フィレンツェの丘の上にある別荘地で、なんだかおしゃれだ。
先の展開がまったく読めないところと、さらに予想を大きく裏切る展開には、かなり度肝を抜かれた。それでも、その物語の成り行きと幕引きには妙に説得力があって、このモームという作家は、よくよく人生を味わい尽くした人なのだろう。
主人公の女性が、けっこうズバズバと率直にものを言うタイプで、内面の気持ちの移りかわりがとてもわかりやすい。その変化は、理屈であらわせるようなものではなく、「なんで!?」と思うような不可思議なところもあるのだけど、そのあたりが妙にリアルだなあとも思う。女ごころの、計算高い悪魔のような理知の部分と、気まぐれな天使のような感情の部分、両方のブレンドを見事に表現していると思った。
原題は「Up at the Villa」というらしく、邦訳のタイトルは全然違うのだけど、「女ごころ」というのは、とても上手くつけたタイトルだと思う。こちらの邦題のほうが、はるかに的確に内容を言い表している。
【名言】
彼女には、この話の方向がどこをめざしているかわかっていた。しかし、そのようなことにはぜんぜん感づいていないみたいに、彼女は唇に、晴れやかな、同情的な微笑を浮かべながら、彼のほうを見やった。彼女は快い興奮をおぼえてきた。(p.13)
あたしは十六の年から、みんなにきれいだ、きれいだといわれてきましたので、もうそんなことでは大して興奮などしなくなりましたわ。女がきれいだっていうのは、一種の財産みたいなもんです。それであたしだってバカじゃありませんから、その価値ぐらい知っていますわ。(p.32)
あたしがたいていの女の人よりもきれいだということ、自分で知らないとしたら、よっぽどどうかしてますわ。自分には人に与えるべきあるものが備わっていて、与えられた人にとって、それは非常に大きな意味をもつものだってこと。あたしもときたま感じたことは確かですわ。そういうと、ひどくうぬぼれているように聞こえますかしら?(p.50)
あんなに多くの欠点を持ちながら、彼に対してかくまで気安く感じられるのはなぜであろうか。メアリイはふとそう思った。それは、こちらがまったくありのままの自分でいることができたからである。彼の前では決して見せかけをする必要などなかった。(p.141)
しかし今ではもう、あなたのことを怒ってなどいませんよ。面倒な事にまきこまれたとき、ぼくを呼んで下さったのが気に入りました。(p.146)
「そうね、もしどうしてもあたしと結婚をお望みでしたら・・。でも、あたしたちのばあい、乗るかそるかの冒険ですわ」
「ねえ、メアリイさん。それでこそ人生ですよ。乗るかそるかやってみるのが」(p.149)
2008年07月14日
君主論
この本で語られている内容は、かなり現実的で冷徹だけれども、それはマキアヴェリの人柄がそうであるというわけではなく、専制政治というものの性質によるもので、君主制を成立させる方策を語るためには、そうならざるをえないところがあったのだと思う。
マキアヴェリ自身も、君主制の擁護者というわけではなく、この「君主論」の中では、君主制による理想の統治について徹底的に追求をしてみた、という思考実験的な雰囲気がある。
読んでいると、そうとう悪どいやり方を勧めているところもあるのでびっくりするけれど、君主という特殊な存在のあり方を考えれば、「温厚ではあっても領民を守る力のない君主」よりは、「残忍ではあっても強大な意思と力を持った君主」のほうが、多くの人を幸せにするのだろうと思った。
マキアヴェリの主張には迷いがなく、はっきりとした確信を持って、自分の信ずる、君主のあるべき姿を主張している。それは、群雄割拠のイタリアにあって、実際に多くの政治家の栄枯盛衰を間近に見ていたからこそ培われたノウハウなのだと思う。
当時の時代に、君主として統治をしなければいけない立場の人にとっては、この書は喉から手が出るほど欲しかった知識であったに違いない。
現代にあっても、この政治学は適用出来るかといえば、この「君主論」の主張をあてはめられるケースはほとんどないだろうと思った。非常に専制的な中小企業の社長の場合には、似た状況があるかもしれないけれど、それにしても、「君主論」をモデルにするのは時代錯誤な気がする。
政治訓の書というよりは、15世紀イタリアのダイナミックな空気がよくわかる歴史書という読み方のほうがふさわしい本と思う。
【名言】
それにつけても注意すべきは、人間は寵愛されるか、抹殺されるか、そのどちらかでなければならないということである。何故ならば、人間は些細な危害に対しては復讐するが、大きなそれに対しては復讐できないからである。それゆえ、人に危害を加える場合には、復讐を恐れなくて済むような仕方でしなければならない。(p.39)
ある領土を得る場合、占領者は行う必要のあるすべての加害行為を検討し、それを毎日繰り返す必要がないよう一気に断行すべきであること、そしてそれを繰り返さないことによって人々を安心させ、人々に恩恵を施して人心を得ることができるようにすべきであるということである。(p.86)
君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの技能としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に期待される唯一の技能であるからである。(p.121)
君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない。恐れられることと憎まれないことは、恐れられることと愛されることよりもより容易に両立しうる。このことは君主が市民や臣民の財産と彼らの婦女子に手を出さないならば、必ずや実現されるであろう。仮に誰かの血を流すことが必要な場合には、適切な正当化と明確な理由の下に行われなければならない。(p.137)
運命は変転する。人間が自らの行動様式に固執するならば運命と行動様式とが合致する場合成功し、合致しない場合失敗する。私の判断によれば慎重であるよりも果敢である方が好ましいようである。なぜならば運命は女神であり、それを支配しておこうとするならば打ちのめしたり突いたりする必要があるからである。運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである。(p.194)
2008年07月13日
星降り山荘の殺人
ミステリー物という性質上、ここで語れることはあまりない。
ミステリーが好きであれば、一度読んでみてほしいと思う。
読者には、「超越的な第三者」とでもいうべき視点から、正確で客観的な、思考のための材料が提示される。問題解決に必要な材料はすべて、物語の途中で公開されている。後は犯人を推理をするだけだ。
読むにあたっては、書評などの前情報は完全に遮断したほうがいい。
そして、読み終わった後にどう思ったか?
をディスカッションしてみたくなる作品。
2008年07月12日
偽晶堂があらわれた
偽晶堂なるサイトが出現していた。
サイトのレイアウトからカラーリング、カテゴリリストの細部に至るまで、忠実に再現しようとしている、緻密な作りこみように爆笑した。
水晶堂へのオマージュとして作ってくれたとのことで、これはかなり嬉しい。
サイト作成にあたっては、北方水滸伝バリのリメイクを志向したのだという。ネタ元を継承しながら、どこの部分で独自性を出すか、じっくりと考えたらしい。
「プロフィール」部分は、こだわりが特に顕著にあらわれていて、この水晶堂のものよりよほど細かい。いや、というかまあ、ここまで個性が立ってるともはや別物というか・・スピンアウト物?
2008年07月11日
スピード・レーサー
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これはとんでもない映像革命だと思った。
カーレースのシーンは、美しすぎて、ため息が出た。
観客で埋め尽くされたレーススタジアムの映像、背景のネオンサイン、コースの綺羅びやかさなど、どれをとっても最高で、感動ものだった。「F-ZERO」を思いっきりゴージャスにリアルにしたような世界観。
紙芝居的な画面切替や、ド派手でポップなアニメーション効果など、やりたい放題に遊びまくっている感じがする。日常生活からいきなりレースシーンに突入するような、型破りなテンポの良さも、とても好みだ。
映画のエンドロールというのはたいてい素っ気ないのだけど、この作品は最後の最後まで手を抜いていない。頭から尻尾の先まで、センスのかたまりのような作品だと思う。
ただ、ストーリーやキャラクターの基本的なテイストが、わかりやすいアメリカンコミックのノリで、そこだけが、どうもチープな感じがあって、馴染まなかった。
作り手側も、敢えてそれを前面に出してきている感じがあるので、確信犯的にやっていることなのだろうけれど、これはとても好みが分かれるところだと思う。
この際、ストーリー部分はおもいっきりカットして、レースのエンターテイメントにのみ徹した作品にしても良かったのではないかと思った。
やっていることはマイナー路線なのに、映像クオリティーは一級品、というそのギャップがたまらなくいい。センスあるオトナが、存分に楽しみながら映画を作ったらこうなった、という作品だ。よくぞ、こんな豪気な遊びをしてくれたと思う。
■スピード・レーサー公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/mach5/
2008年7月5日(土)より全国で上映中
2008年07月10日
FREEDOM
月の裏側にある都市「EDEN」の物語で、日清カップヌードルのCMで流れていたアニメーションを作品化したもの。CMではごく一部しか映されなかったので、さっぱりわからなかった世界観の全貌が、DVD版で明かされる、という構成になっている。
時間的に限られた中に押し込んでいる感じなので、ストーリーは相当おざなりなのだけれど、映像がスゴいのと、バイクのメカがカッコいい。
特に、各巻のオープニングとエンディングの映像は、最高にセンスがいいので、この部分だけでも観る価値は充分にあると思う。
独特の、なめらかなようなギクシャクしたような動きは、最初違和感があるけれど、慣れるとクセになる気持ちよさがある。
全6巻+特別編1巻で、計7巻。1巻につき35分しかないので、あっという間に終ってしまい、TSUTAYAで借りるとなんだか割高感があるのだけれど、まあ、全部セットで映画一本分くらいの値段と考えれば、そんなものかと思う。
■FREEDOMオープニング映像
YouTubeの映像でおおよその雰囲気はわかるけれども、かなり粗く、その真価がさっぱり伝わらないので、やはりDVDで観るのがおススメ。オープニングは、本当にスゴい。
2008年07月09日
からだにおいしい野菜の便利帳
本当に物事を識っているというのは、自分の身の回りにあるものや、普段食べているものが、どういうものなのかということをよく理解しているということなのだと思う。
だから、野菜や果物の美味しい食べ方を知っている人のことは、すごく尊敬してしまう。たとえば、ナスは焼いておくと冷凍保存がきく、とか、桃をどうむけば一番実が多く食べられるか、とか、そういう知識は、会社や学校では役に立たなくても、実生活においてはとても重要なことだ。
この本は、そういう智恵の宝庫のような本で、日本で食べられているあらゆる野菜や果物についての詳しい解説が集められている。レイアウトが、雑誌的で読みやすい。写真も多く載っていて、美しくて、これを読んで初めて元の形を知った野菜も多かった。
各野菜を材料にしたレシピが載っていたりするので、辞書引き的な使い方をすることを前提に作られているのだけれど、普通に、読み物として順番に読んでも面白い。
【この本を読んで勉強になったこと】
・ナスは焼いて皮をむいてラップに包み冷凍すると、1ヶ月保存できる。
・とうもろこしは水からゆで、沸騰してから3分で火を止め、ザルに取り、あとは余熱で仕上げる。
・オクラはハイビスカスに似た花をつける。野菜の花の中では群を抜いて美しい。
・春の七草のひとつ「すずしろ」は、大根の昔の呼び名。
・かぶは、葉をつけたままにしておくと、水分がどんどん奪われるので、買ったらすぐに切り分ける。
・「スナックエンドウ」だと思っていたものは、実は「スナップエンドウ」だった。
・じゃがいもを保存する時は、りんごと一緒に新聞紙でくるむと、りんごが出すエチレンの作用で、芽の生長が抑えられ、保存可能な期間が延びる。
・ごぼうは日本以外では食べている国はほとんどない。
・チコリーは、仏語読みでアンディーブというので、エンダイブと混同されることがあるが、別物。
・ぶどうはつるに近い肩の部分のほうが甘味が強いので、下部から食べる。
・すだちは生産量の98%が徳島産で、かぼすは生産量の9割以上が大分産。
2008年07月08日
文体練習
これは、ものすごく面白い本だった。ある一つの、何の変哲もない文章を、99通りの文体で表現するという、バカバカしいことに大真面目に取り込んだ作品。
単に文体を変えただけのものもあれば、物語の話者を変えたもの(話者が「帽子」になることもある)、演劇風にしてしまったもの、数学的に記述したもの、など実に様々な実験をおこなっている。
一つの出来事を表現するのに、こんなにも多様な方法があるという自由さに、まず感動させられる。そして、同じ出来事の表現でも、視点や手法が違えばまったく異なる印象を読者に与えるのだということにも、驚かされた。
単純な一つのメモを素材としてすら、ここまで豊富なバリエーションが生み出せるのだから、世の中の出来事の記述ということでいえば、それこそ、言葉には無限の可能性があるのだということを教えてくれた作品だった。
原文で読むことが出来れば、さらにずっと面白いに違いないのだけれど、原書で内容を理解出来ないのが残念だ。それでも、これだけ原文に忠実になるように工夫を凝らして日本語に意訳した、翻訳者の人はすごいと思う。
装丁にも凝っている分、値段が高いのが難点で、文庫化されて廉価版が出てさえいれば、たくさんの人におススメをしたいと思う本。
【特に好きだった文体】
5・遡行
11・以下の単語を順に用いて文章を作れ
12・ためらい
14・主観的な立場から
15・別の主観性
19・アニミズム
43・尋問
44・コメディー
52・偏った見方
59・電報
64・集合論
74・品詞ごとに分類せよ
80・さかさま
【名言】
いったいそれがどこだったのか、よく覚えていないのですが・・教会だったか、ごみ箱だったか、納骨場だったか?ええと、多分、バスの中だったような?そこに何かがあって・・ええと、でも、何があったのでしょう?卵?絨毯?大根?それとも、骸骨?そう、たくさんの骸骨です。ただ・・骨のまわりには肉もあって、生きていたような・・多分そうだったんじゃないかと思います。つまり、バスの中にいる人々。そのなかに一人(それとも二人?)、何やら目立つ乗客がいて、でも、なぜ目立っていたのやら・・誇大妄想?脂肪太り?憂鬱症?そうですねえ・・もう少し正確に言えば・・何かこう、若さ、しかも、ひょろ長い・・長かったのは何だったかと言うと・・鼻?顎?親指?いや、首です。(12・ためらい)(p.14)
その男は相乗り乗客に「ぐい押しわざ突きしないで欲しい」と言ったあと、あわて飛んで席取り走った。あとときの別所で、わたしはその小癪者が知らず人といっしょに、サン=ラザっているのを見た。(17・合成語)(p.20)
いかれぽんちの集合をZとし、ZとC'の共通部分を考えれば、その元はただひとつであり、{z}という形であらわされる。このzの足のうえに、y(zとは異なるC'の任意の元)の足を全射することにより、元zが発したことばの集合Mを導くことができる。(64・集合論)(p.89)
2008年07月07日
The Locked Room

The Locked Room(Paul Auster/Faber and Faber)
かなり面白かった。
とにかくストーリーが魅力的で、途中、まったく飽きさせない。
小説の醍醐味を凝縮したような物語だと思う。
この本は、劇中劇のような構造をとっている部分があり、著者は、「本を書いている人について書く」ということを意図的におこなっている。
物語の中では、「本を書く」ということが自分自身のアイデンティティーを発見することにつながっていて、そして、物語中でおこなわれるその行為は同時に、著者であるポール・オースターが自分自身を定義する作業でもあるのだと思う。
主人公は、幼なじみの友人であるファンショーを捜索する過程で、ファンショーが書き残した小説を自分の中に取り込み、それを自分の手で再構築して、自分自身がファンショーと同化することで、その行き先をつきとめようと考える。
それは、ウィルスから精製した血清を自らに注射することでウィルスへの免疫をつけて対抗しようとするような行為で、その分量を間違えれば、血清はそのまま劇薬へと変わってしまう。一歩誤れば、自分は完全に、他者に取り込まれてしまうのだ。
「The Locked Room」というのは、自分が想像する、ファンショーが身を隠している部屋のことであるけれども、それは同時に、「自分の頭蓋骨の中」のことでもあるのだと、主人公は作中で語っている。これは、ものすごく的確な比喩だと思う。
自分が思っていることというのは、本当に自分が思ったことではないのかもしれない。もしかしたら、自分の中に棲まう他者が思っていることを、自分自身の思考と錯覚しているのかもしれない。
多くの問いかけを与えながらも、最後にはきっちりとしたまとまりをみせて後味もいいという、見事な小説だった。
【名言】
I had begun with great hopes, thinking that I would become a novelist, thinking that I would eventually be able to write something that would touch people and make a difference in their lives. But time went on, and little be little I realized that this was not going to happen. I did not have such a book inside me, and at a certain point I told myself to give up my dreams.(p.209)
Stories happen only to those who are able to tell them, someone once said. In the same way, perhaps, experiences present themselves only to those who are able to have them.(p.222)
I was no more than an invisible instrument. Something had happened, and short of denying it, short of pretending I had not opened the suitcases, it would go on happening, knocking down whatever was in front of it, moving with a momentum of its own.(p.225)
Once I opened the suitcases, I would become Fanshawe's spokesman - and I would to on speaking for him, whether I liked it or not. Both possibilities frightened me. To issue a death sentence was bad enough, but working for a dead man hardly seemed better.(p.224)
In some sense, this is where the story should end, The young genius is dead, but his work will live on, his name well be remembered for years to come. His childhood friend has rescued the beautiful young widow, and the two of them will live happily ever after. That would seem to wrap it up, with nothing left but a final curtain call. But it turns out that this is only the beginning. What I have written so far is no more than a prelude, a quick synopsis of everything that comes before the story I have to tell.(p.237)
I let my mind drift without purpose, hoping to persuade myself that idleness was proof of gathering, strength, a sign that something was about to happen.(p.246)
I don't mean to harp on any of this. But the circumstances under which lives shift course are so various that it would seem impossible to say anything about a man until he is dead.(p.255)
"Were you surprised?"
"That's not quite the word I would use."
"What, then?"
"I don't know. Angry, I think. Upset."
"I don't understand."
"I was angry because the book was garbage."
"Writers never know how to judge their work."
"No, the book was garbage, believe me. Everything I did was garbage."(p.308)
2008年07月06日
attic room
渋谷には、何度も来たいと思うぐらい気に入った店はあまりないのだけれど、ここは素晴らしくいい店だった。
センター街から、東急ハンズに行く途中にあるビルの4Fにあるこの「Attic Room」は、その名の通り、屋根裏部屋のような隠れ家的趣があって、とても雰囲気がいい。斜めに下がった天井を上手く活かしてソファや小物が置かれていて、空間の作り方がとにかくカッコいい。
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入口がわかりにくく、若干あやしげな雑居ビルの中にあって、しかも階段を登らないとたどり着かないので、店の存在を知らないととても立ち寄ろうとは思わないかもしれない。
びっくりしたのが、エレベーターホールだった場所を改装して作ったという、2畳ほどの広さしかない和室だった。この、茶道の神髄を極めたような、余計なムダを削ぎ落としたスペースは、かなり面白い。
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エレベーターがあったはずのところなので、場所的には完全に店本体と切り離されていて、本宅から離れた東屋にいるような感じになる。落ち着いてゆっくりと話しをしたいような時にはこれ以上に理想的な空間はない。
カフェっぽい店なのに、食事もかなり美味しかった。
平日から、夜はかなり混んでいるようなので、確実に入りたい場合は予約が必要と思う。
■attic room(アティックルーム)
住所:渋谷区宇田川町31-1 大和ビル4F
TEL:03-5489-5228
営業時間:12:00~24:00、月曜17:00~24:00
センター街奥の交番を右に進み、東急ハンズの一本手前の小道を左に入ったところ。

2008年07月05日
中国行きのスロウ・ボート
村上春樹氏の、初めての短編集。
収録されているのは、『中国行きのスロウ・ボート』『貧乏な叔母さんの話』『ニューヨーク炭鉱の悲劇』『カンガルー通信』『午後の最後の芝生』『土の中の彼女の小さな犬』『シドニーのグリーン・ストリート』の7作。
シンプルで、そっけない表紙なのだけれど、この表紙はとても好きだ。
ダントツで良いと思ったのは、『午後の最後の芝生』という作品だった。
この話しはすごい。ただ、仕事で芝生を刈りに行った一日を淡々と描いて、別れた彼女についての追憶が時々混ざるというだけなのだけれど、たったこれだけの出来事を描写した物語であるのに、実に様々なことを考えさせる要素が詰まっていた。
夏の暑い日の芝生の情景や匂いや熱気と、その後に家の中に入った後のひんやりした感じが、その場で体験したかのような現実味を帯びて伝わってくる。どうしてこんなフレーズが考えつくのだろうと思うぐらい、ぴったりとはまる言い回しが多い。40ページにも満たないくらいの短編だけれど、ものすごく密度の濃い作品だと思った。
【名言】
いいとも、僕は君たちの指をしゃぶろう。そしてそのあとで、雨ざらしの枕木みたいにぐっすりと眠ろう。(「貧乏な叔母さんの話」)(p.88)
詩人は21で死ぬし、革命家とロックンローラーは24で死ぬ。それさえ過ぎちまえば、当分はなんとかうまくやっていけるだろう、というのが我々の大方の予想だった。(「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)(p.98)
それ以来、僕は一度も芝生を刈っていない。いつか芝生のついた家に住むようになったら、僕はまた芝生を刈るようになるだろう。でもそれはもっと、ずっと先のことだという気がする。その時になっても、僕はすごくきちんと芝生を刈るに違いない。(「午後の最後の芝生」)(p.187)
「私はなんていうか・・対象として面白いのかしら?」
僕は背筋をのばして、ため息をついた。「そうですね、あらゆる人間は等しく面白いんです。これが原則です。でも原則だけではうまく説明のつかない部分がある。それはまた同時に自分の中のうまく説明のつかない部分でもあるんです」僕はそれにつづく適当なことばを捜してみたが結局みつからなかった。(「土の中の彼女の小さな犬」)(p.216)
2008年07月04日
天才がどんどん生まれてくる組織
この本は、白戸三平の「サスケ」に出てくる猿飛佐助とは何者か?という問いからスタートする。猿飛というのは、個人につけられた固有名詞ではなく、「猿飛佐助」として必要な技を修得した人々につけられた名称だった。
誰か一人の突出した能力に依存せずに、複数の人間がお互いを補い合い、常に一定の能力がある存在が欠けないような仕組みを持った組織は非常に強い。本著は、「天才とは何か?」という点にフォーカスしたのではなく、「天才が生まれる組織とは何か?」ということに注目をしている。
突出した才能というのは、同じ場所や、同じ時期に集中することが多い。
それは、日本の戦国時代や明治維新の時に、雲のように人材が湧き出たことを見てもそういう感じがするし、藤子不二雄や石森章太郎などの発祥であるトキワ荘のような場所があったことを考えれば、確かに、そこには才能の発露を誘発する要素があるのだろうと思う。そのメカニズムについて、徹底的に考察を進めているのが、この本だ。
藩校、宝塚音楽学校、清水FC、週刊少年ジャンプ、など、実際に数々の優れた才能を輩出した組織について、それぞれのやり方を詳しく説明しているところが、とても面白い。
この本を読んだからといって、では自分が「天才が生まれる組織」が作れるようになるかというと、そういう感じは全然しなかったのだけれど、確かに、才能が育ちやすい場というのは存在するし、「開花した意識」というものが連鎖しやすいものなのだということは、とてもよく理解が出来た。
【名言】
私は体育こそ、書くことの意味が明確になる教科だと考えている。暗黙知や経験知が大きなパーセンテージを占める領域でこそ、書くという行為が効果を発揮する。なんとなくやっていることをしっかりと言語化して捉えなおすという意識の働きこそが、天才の武器である。天才は、意識が混濁しているどころか、実に鮮明である。自分の課題がクリアに見えていて、その課題を拡大して反復練習をする。(p.104)
2008年07月03日
アレクサンドロス
安彦良和の絵には、他のどの画家にもない気品がある。安彦良和は、ジャンヌ・ダルクやネロをテーマにした作品も描いているけれど、この画風が、特に古代や中世の歴史物語の世界観にとてもよく馴染んでいて、歴史物のマンガを描くのに、これ以上にふさわしい人はいないんじゃないかと思う。
アレクサンドロスの幼なじみの一人である、リュシマコスを語り手として、その回想録のような形で物語を進めることで、アレクサンドロスが達成した偉業を描くだけでなく、ごく近い場所にいた側近の視点から、その強さも弱さも描いている。
それによって、アレクサンドロスの、勇敢で、疑り深く、わがままで、好奇心に満ちたキャラクターをここまで表現しているというのは、見事な構成だと思う。
アレクサンドロスの全生涯にわたる物語ともなれば、冗長な作りだと少なくとも数冊組の作品になるようなところが、一冊の中に上手くまとまっている。
アレクサンドロスは、豊穣なヨーロッパ大陸をまるっきり無視して、エジプトを攻略した後、ひたすら東へと遠征した。それは何でだったのかと不思議に思っていたけれど、アレクサンドロスにとっては、異文化や未知なる世界こそが憧れの対象だったのだということが、この本からよく伝わってきた。
人名も地名も聞きなれないものばかりで、とにかくややこしいので、これをもし小説で読んだら、かなり意味がわかりにくかっただろうし、きっと途中で飽きてしまっただろう。
インド遠征のシーンで、アレクサンドロスと釈迦が出会っていたらどうなっていたか、という問答があるのだけれど、それは面白い場面だった。生まれた時代は100年ほどズレているので、直接出会う機会はなかったにしても、もしインドの統治が実現していれば、その思想に触れる機会はあったかもしれない。
安彦良和が、もっと多くの歴史マンガを描いてくれれば、きっと、それをきっかけに歴史に興味を持つ子供が増えるに違いないと思う。
【名言】
アレクサンドロスの雄弁は見事だった。それはしばしば大きな困難をのりこえ、障害をとり除いた。この時もそうだった。
だがそれは、詩人や政治家の雄弁ではない。共に行動する者の、率先する者の、そうする者にしかない力強い雄弁だ。戦場でアレクサンドロスはいつも先頭に立って戦い、しばしば自らも傷ついた。だからこそ、兵達はあの人の語るのを聞き、あの人の後についていった。(p.161)
「あの人」は遠い所を見ていたのだ。来し方を、ではなく、未来を。未だ見ぬ世界を・・。だが、我々はそうではなかった。我々はやはりギリシャ人であり、帰る所を持ったマケドニア人だった。(p.207)
アレクサンドロス・・思っていたよりも不可解な男だったが、所詮人間だ。あれも、いずれ死ぬ。だが、歴史をつくった。それは、間違いない。(p.213)
以前、東の国に、釈迦というバラモンの導師がいた。釈迦は、苦も楽も共に空しくする修行を己に課していた。ボロを身にまとい岩の穴に住んだ。その元の身分は一国の王子だったのだが、釈迦は全てを捨て去られた・・。
マガダ国の王も隣国コーサラの王も、臣下の礼をとって釈迦の教えを聞いた。それが、インドの習いだ・・。会わせてみたかった。お前達の王、あのアレクサンドロスという男を、一度、釈迦に。(p.232)
あの人が残した広大な王国はバラバラになった。こんなざまをあの人が見たら何と言うだろう。悲しむか、怒りに狂って我々を刺し殺すか、いずれでも仕方あるまい。我々はあの人とは違う。あのとてつもない人、マケドニア人でもギリシア人でもない、東方も西方もない巨きな夢に身を委ねて生き切った人、そんな人の偉業を、いったい誰が受け継げるというのか。(p.261)
2008年07月02日
ロストハウス
短編集で、収められているのは、「青い 固い 渋い」「8月に生まれる子供」「ロスト ハウス」「クレイジー ガーデン」の4編。いずれも不思議なマンガだ。
日常生活を描いているのだけれど、どの作品の主人公も微妙に周りとズレている。しかし、独特の世界を持っていて、芯があって、傷つきやすく、とても強くて脆い。
この作品から教えてもらったのは、人それぞれに許されている生き方というのはとてつもなく自由だということと、たとえどれほど逸脱をしたとしても、それが落ち着く先の場所は必ずある、ということだった。
現実世界の生きにくさがひしひしと伝わってくるような話しばかりなのだけれど、最後には、その閉塞から救い出されるような解放感がある。こういう、大島弓子のセンスは天才的だと思う。
【名言】
わたしはこの世にたったひとつ好きなものがある。
他人の散らかった部屋である。(p.100)
わたしはなんの趣味も特技も人生の目的もない。
ただ、小さな解放区さえあれば、あとはロボットみたいに生きていけると思っていた。(p.126)
「ああ、彼はついに全世界を部屋にして、そしてそのドアを開け放ったのだ」(p.137)
僕はほんとは、あんたがホントの大学だったと言いたかった。(p.218)
2008年07月01日
水滸伝(その1)
全19巻あって、まだ先が長いことと、それぞれの巻の中に名言がかなり多いので、1~6巻までで、いったんまとめることにした。
北方水滸伝は、吉川英治版の水滸伝とはかなり異なるところが多かった。
魯智深などは、吉川版では大酒飲みで破天荒な、かなりむちゃくちゃなヤツだったけれども、北方版では「バガボンド」の沢庵和尚のような落ち着いた人格者になってしまって、そういう違いに結構驚く。
他のキャラクターも、新解釈として、かなり独自の味付けがされているけれど、しかしそれでも、これは水滸伝だ、という感じがものすごくする。
「水滸伝」という物語の底流に流れる思想を、北方謙三が完全に理解して自分のものにしているから、どのようなアレンジを加えても、それは水滸伝の原型をそこなうことなく、違和感がまったくない形で新たな物語として、読者はそれを受け入れることが出来るのだと思う。
水滸伝の面白さは、組織論としての面白さだ。
登場人物それぞれに個性があり、その資質にあった役割がある。無敵の強さを誇る者、人の説得に長けた者、そこにいるだけで周りが安心する者、大軍の統率力がある者、教育に向いている者、兵糧や塩の管理能力に優れた者。
その他にも、数え切れないほどの職能を持った人間が集まっていて、しかも、その一つ一つを細かく描写しているので、組織というものがどのようにして成り立つのかということがよくわかるし、自分と似た境遇のキャラクターが必ずいて、感情移入もしやすい。
ケンカの腕におぼえのある人間だけが集まればいいという、烏合の衆としての野盗の集まりではなく、特殊な能力を持つものが寄り集まって、一つの巨大な力を持つ組織になるというプロセスは、かなりワクワクする。
これは完全に、現代でいえば、新興のベンチャー企業がどのようにして組織を大きくしていって、既存の大企業に立ち向かっていくか、という構図と重なって、そういうところも、面白さの大きな要素なのだと思う。
【名言】
宋江:「ひとりでなにができる、と嗤うだろう。しかし、なんであろうと最初はひとりなのだ。俺は、そう思う。愚直と言われれば、そうだろう。しかし俺は、これと思った人間には必ず自分の言葉で語るようにしている。」(1巻 p.126)
(史進:)体力の限界を超えた。ここから死まで。それがほんとうの体力だと、王進に教えられたことがある。鍛錬により、それはかなり長くなる。息も落ち着いた。心気も澄んでいる。ここから死までは、そういう状態が続く。楊志も同じだろう。(2巻 p.117)
宋江は、あまり複雑なことは考えないようにしていた。志を見据え、見失わないようにする。自分のなすべきことは、多分それだろう。複雑なことは、呉用のように頭のいい人間が考えればいいのだ。(2巻 p.198)
李俊:「自由に生きたいのですよ、俺は。役人などに阿ったり、指図をされたりもしたくなかった」
宋江:「そしていま、自由なのか?」
李俊が、言葉を詰まらせた。
宋江:「小さな自由のために、おまえは大きな自由を捨てた。ゆえに、私はおまえがやっていることを、一切認めぬ。おまえが駄目なところを、もっと言ってやろうか、李俊」
李俊:「いや、いい。俺は、自分が駄目だと思ったことはない」
宋江:「そこからして、われらとは相容れることがないのだ。自分は駄目だというところから、われらは、いや少なくとも私は、出発している。自分が駄目だと思っていない人間とは、ほんとうは話し合える余地はなにもない」(4巻 p.224)
(李俊:)これが、ほんとうにやりたいことだった。いままで、いろいろなことをやってきたが、こんなふうに身体がふるえたのは、はじめてのことだ。役人の裏を掻いて塩の密売に成功した時も、昔は思ってもいなかった大きな屋敷を建てた時も、終るとなんとなく違うと思ったものだった。(4巻 p.238)
楊志:「志とは、なんなのだろう、林沖。私も、官軍にいた時、志のようなものを持っていなかったわけではない。それと梁山泊の志と、どちらが正しいかと問われれば、いま自分が属している方の志だ、としか答えられないような気もするのだ」
林沖:「志は、志なりにみんな正しい。俺はそう思う。そして、志が志のままであれば、なんの意味もない」
林沖のもの言いは、冷ややかだったが、間違いではない、と楊志は思った。
林沖:「「おまえが官軍で抱いていた志が実現されれば、それはそれで立派なことだったろう」
楊志:「実現された志こそが尊い、と言うのだな。だから、志を実現させるために、闘わなければならないのだと」
林沖:「「俺は、そう思っている。そして、志についてつべこべ言うことが、好きではない」
楊志:「宋江殿も、そうかな」
林沖:「「いや、宋江殿こそ、志の人なのだ。そしてわれらは、その志にすべてを預けた。われらにできることは、志を実現するために闘うことだけだろう」(4巻 p.283)
武松:「宋江様は、『替天行道』の旗とともにあります。兵が死ぬように、死ぬことは許されていないのです」
宋江:「許されていない?」
武松:「はい」
武松の眼に、あるかなきかの、悲しみの光がよぎった。宋江は、黙って眼を閉じた。自分の闘いをしようと、決めたばかりだ。それは、兵として闘うことではない。(5巻 p.34)
呉用:「魯智深のように、誰にも好かれている男がいる。それだけの、苦労をしたからだ。私は、なんの苦労をした。忙しく駆け回り、頭を搾りはしたがな。嫌われるのが、私の役どころなのだと思っている」
劉唐:「俺は、嫌いじゃないぜ。それに、呉用殿は苦労している。苦労をしていないのは、晁蓋殿と宋江殿ぐらいだろう。あの二人にだけは、苦労をさせてもいかん」(5巻 p.208)
安道全:「魯智深に訊きたい。痛くなかったはずはない。それを、どうやって克服したのだ。おまえは、わずかな汗しかかいていなかった」
魯智深:「生きるも無」
安道全:「坊主のようなことを言うな」
魯智深:「俺は、坊主だ」
安道全:「耐えられるはずがないのだ、あの痛みに」
楊志:「安道全。おまえは、人がこうだと決めてかかっている。そうではない人間がいる。いや、そうではなくなることができる、というのかな。魯智深はそうだ。俺も多分、腕を切り落とすぐらいなら、耐えられる」(5巻 p.218)
石秀:「林沖は、五百の騎馬隊を指揮して、無敵だ。それは、俺も認める。しかし、五万の軍の指揮はできん。五万の軍を、一兵も無駄にすることなく生かしきれるのは、楊志殿だろう」(5巻 p.249)
(周通:)不安な顔、迷った顔。それを部下に見せてはならない。楊志に、はじめに教えられたことだ。いまは、部屋でひとりだった。いくらでも、不安な顔ができた。身体も、ふるえはじめている。ふるえるだけ、ふるえる。泣いてもいい。ただし、ひとりだけの時だ。兵舎の外では、兵たちのかけ声が聞こえる。やるべきことを与えられているというのは、実に楽なことだ。愉しいと言ってもいい。それに較べて、ひとりというのはなんと苦しいことなのか。(5巻 p.324)
花栄:「私は、あの人の苛烈な性格はよく知っている。騙されたということを、許せるかどうかだ。こわいな」
魯達:「それはおまえが、人を騙したことも、騙されたこともないからだよ、花栄。騙されて怒り狂う玉なら、大したことはない。俺の命ひとつぐらいで済むだろう」(6巻 p.44)
王進:「史進は、ここにいる間に、相手の殺気を削ぐということを覚えたのです。大した技ではありませんが、これが時には難しい。特に自分が強いという意識があれば。史進に教えることで、私はさまざまなことを学びました。強すぎるほど強い男にしてしまい、史進はその強さゆえに苦しむことになりましたが、弱さがよく理解できる男に成長しました」(6巻 p.80)
史進:「俺は、朱武殿の下で働くことになっても、なんのこだわりもない。むしろ、力が出せそうな気がするほどだ」
朱武:「選ばれる人間というのは、いるのだ、史進殿。われらは、史進殿が留守の間も、史進殿を隊長としてきた。史進殿は、これまでも、これからも、われらの隊長なのだ。それは、少華山の兵、全員の意思でもある」(6巻 p.87)
林沖:「俺との稽古は、身体にはつらかろう。しかし、心にはつらくない。なんとなく、俺にはそれがわかった。だから、容赦せずに打った」(6巻 p.109)
いつの間にか、夜明けが近くなっていた。結論は、なにも出ない。この国を変えるのに、潰した方がいいのか、改革した方がいいのか。それぞれの考え方で、どちらも正しいと言っていいのだ。話は、こういうものでいいのだ、と魯達は思った。(6巻 p.129)
(袁明:)叛乱をする側と、抑える側。これはただのめぐり合わせではないのか。絶対に正しいものなど、政事の中にあるはずはない。人は、そこまで賢くはなれない。王安石の新法に基づく国家になっていたとしても、旧法党はいて、どこかで叛乱を起こしただろう。大抵の場合、権力を否定する叛乱側の方に、大義はありそうに見えるものだ。(6巻 p.264)
秦明:「いいか、阮小五。戦で勝つと負けるのでは、大きな差がある。大きすぎる差だ。しかし大将の資質を較べれば、小さな差しかない。ほとんど紙一重と言ってよいであろう。あるいは差がなく、運のあるなしが勝敗を左右する。だから、資質で勝つ、資質で負けるということは、あまり考えない方がいい。ただ、人の力でなし得ることはあるぞ」
阮小五:「それは?」
秦明:「決断の速さだ。決めるだけなら、誰でもできるが、自分がこれと思った通りに決断して、後になっても悔いることがない、というふうになれば、相手を凌げる」(6巻 p.288)



























