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2008年08月31日
人工消雨と集中豪雨
最近やたらと多い、突然のスコールのような集中豪雨は、今まで経験したことがないぐらいの頻度だ。
なんだかちょっと、常軌を超えた多さの気がする。
北京オリンピックの時、会場で雨が降らないよう、ロケット弾でヨウ化銀のような化学物質を散布して、会場以外のところで雨を散らせていたという。
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開会式の時に発射した人工消雨弾は1104発!なんか、そうとう無茶しているような・・。そのしわ寄せがきているんじゃないだろうか。
2008年08月30日
とろけるブリオッシュ
横浜ベイクォーターの中にある、「Victoire」で、回数限定・個数限定で「とろけるブリオッシュ」が販売されているのだけれど、あっという間に売り切れる。
土日は長蛇の列が出来ていて、なかなか買えなさそうなので、平日に行ってきた。
本当に、まさにとろける感じのパンだ。
バターの風味がかなり濃厚に出ていて、ふんわりしていてシンプルで、「これぞパン!」という食感だった。「ハイジ」に出てきた白パンを食べたらきっとこんなだろう、と想像していた味に近い。ジャムも何もつけないのが一番旨い。
ただ、このパンは、焼きたての時じゃないと真価が発揮されないと思うので、お持ち帰り用に買っていくべきではない。買ったその場で、冷めないうちにすぐ、1秒でも惜しんで食べるべきパンと思う。
【とろけるブリオッシュ販売時間】
1日5~6回販売されて、個数は各回で45個ずつ。
11:30 13:30 15:30 17:30 19:30 20:30
(最終回は土日祝のみ)
■Victoire(ヴィクトワール)横浜ベイクォーター
住所:横浜市神奈川区金港町1番地10 横浜ベイクォーター3F
TEL:045-450-6787
営業時間:11:00~23:00
定休日:なし
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2008年08月29日
スピードメーター
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フォルクスワーゲンを運転させてもらった時、スピードメーターを見たら「260km」まで目盛りがついていた。
日本では、メーターの半分以上の部分が使われずにまるっきりムダになってしまっているという滑稽さ。
でも、「本当はここまでスピードが出るんだぜ(出さないけど)」という、能ある鷹的な美学も感じる。
時速100km以上で走れる場所がないんだから、260kmまで出ても意味ないじゃないか、とも思ったけれど、それはやっぱり、意味はあると思い直した。
潜在能力として、150km/hしか出ない車と、260km/hまで出る車では、同じ100km/hで走っている時の快適さが違うのだろう。
そういえば昔は、車の速度が100km/hを超えたらキンコンと警告音が鳴っていたけれど、あれは、いつの間に無くなったんだろう。
シートベルト着用義務や、携帯電話での通話禁止など、どんどん厳しくなる方向に規制が進む中で、緩和されたものというのも珍しい。
2008年08月28日
ファウスト
この本は、かなり読むのがキツかった。文章の意味がわからなすぎる。
内容と直接関係がない修飾が多いのは、詩としての韻や美しさを考慮して作られたものであるからと思うのだけれど、ドイツ語の原文ではなく、日本語に訳した文章で読んでいるからか、その良さがどうにも理解出来ない。
わからないのは文章だけでなく、ストーリーそのものも支離滅裂すぎて、何がどうなっているのやらよくわからない。時代も舞台も突然変って、何の前ぶれもなく現れたと思った登場人物が、次の瞬間にはもう死んでたり、性格が途中で変わったりで、もう頭がついていかない。
この「ファウスト」は、ゲーテが、自分の知識を総動員して、あらゆるものを詰め込んで作ったのだろうと思う。ある意味、かなりマニアックな作品だ。この、ごった煮のカオスは、教養の宝庫とも言えるだろうけれど、それをきちんと理解するには、ヨーロッパの古典や神話やキリスト教文化について、相当な素養が要求されると思った。
細かい内容そのものは意味不明だとしても、根本のテーマである、「どういう人生が一番幸せなのか」ということや、「神と悪魔によって選ばれた人間」ということにフォーカスしている点は、とても面白かった。ファウストとグレートヘンとの出会いのあたりも、ドラマチックでいい。もっとわかりやすく書いてくれれば良かったのに、という一言に尽きる。
この作品は、ゲーテが24歳で書き始めて、82歳で書き終えたのだという。その直後の、83歳でゲーテは亡くなった。
そのためか、終わり方もかなり唐突だ。マンガの連載だって、数年続けば、最初の頃とはテイストが変わってくるのだから、50年以上も続いた作品なら、途中で整合性がなくなってくるのもムリはないだろう。
「このままだと、自分はもうじき死んでしまうから、とにかく終わらせてしまえ」という感じで、強引に幕引きをしてしまったのだろう。
何故にこんなに突然終了?という、まるで「スラムダンク」のような後味を残した作品だった。
【名言】
よろしい、ではお前にまかせておこう。
あれの魂をそのいのちの本源からひきはなし、
もしお前につかまるものなら、
あれを誘惑してお前の道へ連れこむがよい。
そしてお前がやがてこう白状せねばならなくなったら恥じ入るがよい、
善い人間は、よしんば暗い衝動に動かされても、
正しい道を忘れてはいないものだと。(主)(第一部 p.28)
おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、
それが互に離れたがっている。
一方のやつは逞しい愛欲に燃え、
絡みつく官能をもって現世に執着する。
他のものは無理にも塵の世を離れて、
崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。(ファウスト)(第一部 p.79)
私は常に否定するところの霊なんです。
それも当然のことです。なぜといって、一切の生じ来るものは、
滅びるだけの値打のものなんです。
それくらいならいっそ生じてこない方がよいわけです。
そこであなた方が罪だとか破壊だとか、
要するに悪と呼んでおられるものは、
すべて私の本来の領分なんです。(メフィストーフェレス)(第一部 p.92)
そのことなら君に全権を認めよう、
私は軽はずみな冒険をやったわけではない。
停滞したら最後、私は奴隷の身だ、
君の奴隷か誰のかは、問うところではない。(ファウスト)(第一部 p.115)
博学な道学先生、
私を法や掟で縛ることはご免こうむりたい。
このさい君にはっきりいっておくがね、
もしあの可愛らしい若い娘が、
今夜私の腕に休むようにならなかったら、
もう夜中には君とおさらばだよ。(ファウスト)(第一部 p.183)
以前、よその娘が間違いをしでかしたときには、
どうしてああも勇敢にこきおろせたのだろう。
ほかの人の罪を責めるのには、
いくら言ってもいい足りない気持ちだったのだ。
人のしたことが黒いと見えると、一そう黒く塗ったんだわ。
そして自分は高みの見物で、偉そうな顔をしてたんだわ。
ところが今は自分がその罪にさらされている。
けれども--こうなるまでの道筋は、
まあ、なんてよかったろう、なんて嬉しかったろう。(グレートヘン)(第一部 p.255)
私ら庭作りの娘たちも、
見た目は可愛く雅やかです。
それは女の天性が、
たいへん芸術に近いからです。(庭作りの女たち)(第ニ部 p.37)
変り者め、大威張でやってゆくがいい。
だがどんな愚かな、或は利口なことを考えようと、
およそ先人のすでに考えたことならぬはないと、
気がついたら奴もさぞ悔しいだろうて。(メフィストーフェレス)(第ニ部 p.149)
ふと思いついたんですが、今は丁度、
古典的ワルプルギスの祭の夜にあたります。
今なしうることで一番いいのは、
この人を性にあった所へ連れてゆくことです。(ホムンクルス)
そんな祭のことは聞いたことがないなあ。(メフィストーフェレス)
それはあなたの耳になどはいるはずがありませんよ。
あなたのご存じなのは浪漫的な幽霊ばかりです。
でも本当の幽霊はやはり古典的でなくちゃなりません。(ホムンクルス)(第ニ部 p.159)
・・女の美しさなんかつまらんものだよ。
えてして凝固した形骸に堕しやすい。
わしが美としてみとめるのはただ、
心嬉しく生を楽しむところに生ずる姿ばかりだ。
美は、それ自身だけで満足しがちなものだが、
愛嬌があってこそ初めて抗いがたい魅力が生じる。
丁度わしが乗せてやった時のヘーレナのようにね。(ヒーロン)(第ニ部 p.189)
それは君、文献学者が、
君をも、自分をも、だましているんだよ。
神話のなかの女というのは特別なものだ。
あれは詩人が勝手に描いて見せるんで、
いつ大人になったとか、年寄になったということはなく、
いつ見ても涎のでそうな姿をしていて、
幼い時に誘拐されたり、年とってから口説かれたり。
要するに、詩人は歳月に縛られないのだ。(ヒーロン)(第ニ部 p.191)
彼奴らには勝手に歌わせて、自慢をさせておけ。
天日の聖なるいのちの光にくらべれば、
命のない造り物などは冗談にすぎない。
奴らはあきもせずに鎔かしたり造ったりしている。
そして銅なんかに鋳ると、
それでひとかどのもののように思いこむ。
あの高慢な連中が、結局なんだというのだ。(フロートイス)(第ニ部 p.248)
たいへんな誤りだ。命令する位置のものは、
命令することに至福を感じなければならぬ。
その人の胸は高遠な志で溢れているが、
その志ざすところは、誰も知ることを許されない。(ファウスト)(第ニ部 p.374)
自由な海は、精神をも自由にする、
海では思慮分別なんか意味ないよ。
なんでも手早く掴めばいいのだ、
さかなも掴まえりゃ、船も掴まえる。
力があれば権利もあるんだ。
何を掴むかが問題で、どうして取るかは問題でない。
おれが船乗りの素人ならいざ知らず、
戦争と貿易と海賊とは
三位一体で分けられないんだ。(メフィストーフェレス)(第ニ部 p.436)
おれはひたすら世の中を駆けぬけてきた。
あらゆる歓楽を髪の毛つかんで引捉えた。
心に満たないものは突っ放し、
つかまえ損ねたものは打ち捨てた。
いつも何かを熱望してはそれをやり遂げ、
またも望みをかけ、そういうふうに元気いっぱい、
生涯をやりとおした。はじめは威勢よく、
いまは賢明に慎重にやっている。
地上のことはもう知りぬいた。
天上へ昇る見込などありはしない。(ファウスト)(第ニ部 p.453)
知恵の最後の結論はこういうことになる、
自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、
これを享受するに価する人間といえるのだ、と。
おれもそのような群集をながめ、
自由な土地に自由な民と共に住みたい。
そうなったら、瞬間に向ってこう呼びかけてもよかろう、
留まれ、お前はいかにも美しいと。
この世におけるおれの生涯の痕跡は、
幾千代を経ても滅びはすまい。
このような高い幸福を予感しながら、
おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。(ファウスト)(第ニ部 p.462)
過ぎ去った、とは馬鹿な言葉だ。
そうして過ぎ去ったのだ。
過ぎ去るのと、きれいに無いのとは、全く同じことだ。
永遠の創造とは、一体なんの意味だ。
創造したものを、無に突き落とすなんて。
過ぎ去った、ということに、なんの意味があろう。
それなら初めから無かったのと同じではないか。
それなのに、何かあるかのようにぐるぐる回っている。
おれはむしろ永遠の虚無のほうが好きだな。(メフィストーフェレス)(第ニ部 p.464)
2008年08月27日
非属の才能
マンガ家の山田玲司氏が書く、「みんなと同じじゃなくても、いいじゃないか」というテーマの本。
山田玲司氏のマンガは、あまり絵は上手くないし、話しも割りとベタなことが多い。でも、確かに、自分の頭で考えて、自分の意思で描いているという感覚が伝わってくる。
彼のマンガは、思想がメインで、そこに絵が付いたような作品で、だから、ストーリーや文章自体が面白く、そして、マンガの巻末に書かれたあと書きの文章は、マンガそのものよりも面白いことが多い。
この本も、語られていることはベタなことなのだけれど、とても共感出来る話しばかりだ。確実に、今悩んでいる子供たちの何割かを救い得る内容だと思う。
【名言】
教室という閉じた世界に一日中、何年もの間いなければならない子供たちは、その異常な空間にいかに存在すべきかという「ポジショニング」が最重要課題になってしまっている。(p.22)
村上春樹氏は夜明けに執筆するらしい。まだ暗いうちにコーヒーとサンドイッチなどの食事をすませ、ゆっくりと明るくなっていく時間帯に彼は物語世界のなかを旋回しているというわけだ。そして、昼には仕事を終え、スポーツをしたりジャズを楽しんだりするという。僕は、彼のライフスタイルに非属の才能を感じずにいられない。(p.94)
本当にテレビとネットとケータイなしで、消費社会から距離を置いて引きこもることができれば、かなりの希望があるだろう。そうやって、嫌でも自分と向き合わざるを得ない状況を作れば、いずれ、俗世で感じていた違和感の正体や「自分のすべきこと」が少しずつ見えてくる。(p.192)
2008年08月26日
インサイド・マン
50人の人質をとって籠城する銀行強盗の話し。この作品は、「何のために」「どうやって」銀行強盗を実行しているのかがポイントになっていて、ちょっとサスペンスの風味が入っている。銀行強盗と渡り合う刑事や交渉人のほうも、いずれも腕利きで、その駆け引きが面白い。
デンゼル・ワシントン、クライブ・オーウェン、ジョディ・フォスターの3人とも、持ち味がうまく出ていて、その点も良かった。
とにかくスゴいのは、銀行強盗犯の頭の良さと、計画の用意周到さだ。
この映画のプロットは、細かいところまで本当によく出来ている。さりげない一言や、犯人の小さな動きに実は大きな意味があったことに、2回目を見て初めて「なるほど!」と気づいたところがたくさんあった。銀行強盗を題材にした映画は数あれど、その中でもとりわけ、犯人がカッコいい作品だ。
「インサイド・マン」というのは、「銀行の中に立てこもっている」人のことを言っているのかと思っていたけれど、観終わった後に、この言葉にはもっと多くの意味が含まれていることに気づいた。このタイトルは、本当によく考えられている。
2008年08月25日
自然のデザイン
たーたんが、家の近所で拾ったという、「泰山木(たいさんぼく)」という木の芽を見せてくれた。
最初見た時は、人工の模型かと思ったので、自然のものと知った時はびっくりした。
先の部分の絨毯のような素材感も見事だし、真ん中の軸のような部分は、ゴルフクラブのグリップのような微妙な凹凸がついていて、洗練された工業製品が醸し出すような高級感がある。
いったい、どういうデザイナーがこんな造形を創りだしたんだろうと思う。
2008年08月24日
ダメな議論
国民的常識とされていることも含めて、メディアで報道されている情報には、論理的に正しくない「ダメ」な議論がたくさん紛れているので、情報を鵜呑みにしないようにしましょう、という本。
その主張はとても納得がいくし、参考になる部分もあるのだけれど、あまり新しい気づきを与えてくれる内容ではなかった。
著者は、ダメな議論を判定する基準として、下の5つを挙げている。
1)定義の誤解・失敗はないか。
2)無内容又は反証不可能な言説ではないか。
3)難解な理論の不安定な結論となっていないか。
4)単純なデータ観察で否定されないか。
5)比喩と例え話に支えられた主張ではないか。
が、この基準自体が、意味がよくわからない。ダメな文の例がいくつも出されているのだけれど、その「どこがダメなのか」という説明が、イマイチ納得できないこともあった。
そもそも、「ダメ」と判定する基準が厳しいので、このチェックでいくと、雑誌や新聞に載るような短い記事などはほとんど「ダメ」と判断されてしまうような気がする。どういう文であれば「ダメではない」のかという説明も欲しかった。
良かった点は、著者の専門が経済学ということがあり、経済的なトピックでよく見かけられる、「日本の財政破綻」のような意見を取り上げて、そのどこに誤りがあるのかということを説明しているところだ。
政治や経済の話しは、つい、新聞の記事をそのまま信用してしまうけれど、そういう中に、どのようにしてウソが紛れ込んでいるかということと、何故そういうウソを受け入れてしまうのかについての解説は、とても面白かった。
【名言】
経済・社会・政治に関する言説は、自分に無関係ではないけれども、それらに関する知識がないと生活できなくなるというほどのものではありません。したがって、正しい理解をしたほうが得ではあるけれども、さまざまな言説が正しいか否かをしっかりと理解することで得られる利益や、誤り・無用・有害な解釈や提言を受け入れることによる不利益に比べ、その正否を精査するための「費用」の方が高くつくケースが多いのです。(p.15)
定義が明確でない日常用語をキーワードにした論説では、アンケート調査の結果がしばしば援用されます。しかし、アンケート調査は多くの問題を抱えています。最大の問題は、ほとんどのアンケート調査では「本当のことを答えるインセンティブ」が保証されていないことにあります。(p.124)
2008年08月23日
素朴な疑問(エアコン編)
エアコンをリモコンで操作する時、赤外線で送信されている信号には、どこまでの情報が含まれているのか?
たとえば24度→26度に変える時には、「温度を上げる」ボタンを2回押す。
この時に、最初の1回は正しく赤外線が届かなかったけれど、2回目はちゃんと反応したとする。
その時、エアコンは、ちゃんと26度になっているのか?
それとも、25度の状態なのか?
もし、リモコンから送信されている信号が「温度を1度上げる」という情報しか含まなかった場合、2回のうち1回しか信号を受信しなかったら、エアコンは25度の状態になるはずだ。
でも、このやり方で情報を送っていると、赤外線を受信するのに失敗する度に、リモコンに表示されている内容と、実際のエアコンの状態が、どんどんかけ離れていってしまう。
次の仮定として、赤外線の中には、「温度を26度にする」という情報が含まれているとする。
この場合は、何回失敗しても、最後に正しく信号を送信出来れば、リモコンの表示と、エアコンの設定温度は一致することになる。
しかし、リモコンで可能な操作は、温度の変更だけではなく、風量や、タイマーの変更など、たくさんある。
これらの変更をすべて、信号の受信に失敗した後にリトライした時でも、正しくエアコンがリモコンの状態を知ることが出来るようにするには、かなりの情報量を一度に送る必要があるはずだ。
どうなっているんだろう。
エアコン本体に、携帯のサブディスプレイのような簡単な液晶をつけて、現在の状態を表示するようにしてくれれば便利なのに、と思う。
2008年08月22日
プリズンホテル
浅田次郎氏の小説は、作品によっては「ここで泣かせよう」という意図がミエミエすぎることがあって、それでちょっと醒めてしまうことがあるのだけれど、この「プリズンホテル」はそういう感じはなく、とてもストレートに響いてくる話しだった。
活字だけでここまで笑わせて、感動させる小説というのも珍しい。
夏秋冬春の4部作になっていて、各巻ごとに、季節感を出しつつ、それぞれきちんと独立した一つの物語として完結しており、この構成は見事だと思う。
かなり個性的なキャラクターばかり登場して、途中かなりドタバタなことになるのだけれど、その個性同士の組み合わせの妙によって、思いもしない化学変化が起こるというところは、人の出会いと縁の不思議さを感じさせて、しみじみとする。
その中でもとりわけ変わっているのが、物語の中心的な位置づけの小説作家で、かなり倒錯して性格破綻している。主人公としては、かなり異色なキャラクターだと思うのだけれど、この人についてだけは、4巻を通じて一つの大きな物語になっているので、長い目で見守る必要がある。とにかく極端なキャラなだけに、長い物語の末には思い入れも深くなり、感慨もひとしおだ。ここまで濃い素材の登場人物ばかりを集めて、最後にはキレイにまとめてしまうというのはスゴい。
【名言】
「そうですかねえ、私らずっと、仕事の終わった順に休む、ってえ方法でやってきてますから」
「ということは、仕事の終わらん者はああしていつまでも起きていなきゃならんことになるな」
「へい、その通りで。なんたって極道は自己管理が大切ですから。てめえの道はてめえで切り拓くことだって、カーネギーも言っておりやす。おしきせの決まりの中で休んだり働いたりしてゼニを貰うんじゃ、ロクな人間になりやせん」(1巻p.167)
ぼくの髪の毛を掴んで引きずり上げると、仲オジは雷鳴のような声でこう言った
「なにをグダグダ言ってやがる。毎日これだけ修行をしたから、今のおめえがあるんじゃねえか。親の言いつけにまちがいはねえんだ!」(1巻p.297)
いいや、おめえは人を幸せにする。わからねえのか?あたりめえのホテルマンのできることは、せいぜい一泊二日の幸せだ。だが、花沢。おめえは人の一生を幸せにする。(2巻p.244)
人生劇場って、よく言ったものよねえ。長い人生、振り返ってみりゃ役者が揃う見せ場っての、たしかにあるもの。あの晩がそうだった。あの場面を境にして、あたしの人生のシナリオは変わった。(2巻p.269)
興奮もさめやらぬ人々がロビーに群れ集っている。ただひとり打ちひしがれているのは、おそらくぼくだけだろう。すっかり氷の溶けた水割りをなめながら、ぼくは枯葉のしんしんと舞い落ちる夜の窓を、見るでもなく見つめていた。たとえ何百枚の原稿を積み重ねても、ぼくの小説が人を感動させることはない。しかし真野みすずはわずか数分の歌で、すべての人々を泣かせてしまった。そして歌をつないだ柏木ナナまでもが。(2巻p.375)
金ならある。いくらだってある。いや、そんなものしか俺は持ってないんだ。いいか、おまえは天才だ。才能は汚しちゃいけないんだ。いいな、ミカ、がんばれ。才能に涙はいらない。おまえの汗で磨くんだぞ。(2巻p.424)
もう子供を産める齢ではないと悟ったときの、広野に佇むような淋しさは、誰にもわかるまい。口にこそ出しては言わないが人の命を救ったときの歓喜が、その身も凍えるような淋しさと釣り合うものだとは、マリアはいまだに、どうしても思うことができなかった。たしかに自分は、死すべき人の命を幾千も救った。だが、自分の支払った代償はあまりに大きすぎる、と思う。(3巻p.51)
猿も象もライオンも、ぼくの贈り物には何の興味も示さなかったのだから、花の正体はきっと美しいものでも何でもなく、人間が勝手に、花は美しいものと規定しているのだと考えた。やがて、美という概念そのものが幻想であると考えるようになった。
だからぼくはいつも、美しいものに対して人間として感動しているわけではない。そうすることが商売だから、モーツァルトを聴いて感動したふりをしたり、美術品にうけ売りのウンチクをたれたり、人前でわざとらしく花や月を愛でたりするのだ。
そんなぼくにとって、清子はまったく説明に窮する代物だ。百人の人間が観察して、百人とも口を揃えて美しいと言うに決まっているこの女は、いったい何なのだ。(3巻p.140)
自然はかくもゆるぎないものであるのに、そしてぼく自身も、神の造り給うたその天然の一部であるのに、どうしてぼくだけが水面に浮かぶうたかたのように、正体もなく揺れ続けているのだろう。(3巻p.213)
ぼくの秒読みにせかされて、清子の唇はタラコのようになった。
それでも美しい。こいつは神様がこの世に造り出した、傑作中の傑作だ。泣いても笑っても、寝ても覚めても、立っても座っても、こいつはどこからどう見たって美しい。
秒読みの声は途中で挫けた。ぼくはいったいどうしたら、清子をぼくのものにすることができるのだろう。いったいどうやったらぼくの心の中にしっかりと抱き止めることができるのだろう。
愛の言葉をぼくは知らない。そんなものは誰も教えてはくれなかった。(3巻p.284)
身を慄わせて慟哭しながら、ぼくは考えた。ぼくが失ったもの、それは何だろう。人間として能うかぎりの栄光と、奇跡の再生のかわりにぼくが失ったものは、いったい何なのだろう。(4巻p.378)
2008年08月21日
変身
ある朝、気づいたら「虫」になっていた、というのは、なんだか江戸川乱歩の怪奇小説のような始まりかただ。
しかし、この作品はエンターテイメントではないから、なにか奇妙だ。エンターテイメントとして読んでみると、「いったい、何が言いたいんだこれは?」という謎だけが残って終わってしまう。
なぜカフカは、グレゴールを、毒虫にする必要があったのか?
たとえば、グレゴールは突然病気になって動けなくなってしまいました、という場合でもやはり家族一同で困惑するには違いないだろうけれど、それと、「毒虫になる」場合では何が違うのだろうか。
家族にとっての違いは、世間体、ということなのだろうと思う。
病気や事故で身動きが出来なくなりました、ということであれば世間に対して説明をすることが出来るけれど、汚い毒虫になってしまっては、自分達の体面も悪いし、同情を受けることもない。
誰からも疎んじられる毒虫が家に居るということは、ザムザ一家にとっては、何よりも忌まわしい出来事なのだろう。
それにしても、家族の、グレゴールに対する冷たい仕打ちは、かなりひどい。
それまでグレゴールが一人で働いて家計を支えてきたというのに、彼が姿を変えた途端に、一室に閉じ込めて出られないようにして、食べ残しだけを与えて気にすることがない。
現代でも、引きこもりの子供がいることが知られると世間体が悪いからという理由で、家に閉じ込めたままにしたり、監禁をして食べ物だけを与えているというニュースを聞くことがあるけれど、その状況は、この「変身」によく似ている。
不思議なのは、物語の終わりで、グレゴールの悲惨な最期とは対照的に、グレゴール以外の家族は以前よりも幸福そうな姿になっていることだ。意味不明な毒虫がいなくなったという安堵感もあるだろうけれど、それ以上に、グレゴールに頼りきりだった収入がなくなったことによって、結果的には、家族全員がそれぞれ自立をすることになったからなのだろう。
この本は、読み終わった後に、烈と恭ちゃんとで、お互いの感想を話し合った。
その中でなるほど、と思った意見は、これは「精神至上的な考え方へのアンチテーゼ」の作品なのだという解釈だった。
グレゴールの精神は変身前と後でまったく変わらない状態であるにもかかわらず、肉体の変化のみによって、周りの反応は大きく変わる。グレゴールは、自分が虫になってもなお、普通通りに仕事に出かけようとするのだけれど、いかに自分の精神が望んだとしても、身体がそれをジャマをする。
精神以前に身体というものがあり、自分の活動というのは結局、自分の意思ではどうにもならないものによって制限されてしまう、という解釈は、とても納得がいった。
【名言】
この引越を妨げているのは、ただ彼を慮ってばかりのことではなかった。この一家に転居を思いとどまらせていたのは、有り体に言えば、どうしようもない絶望感からであり、親戚や知人たちの誰にも見られぬ不幸に自分たちがとりつかれてしまっている、という想いからにほかならなかった。(p.78)
夜も昼も、グレゴールはほとんど一睡もせずにすごした。ときどき彼は、今度ドアが開いたら、昔と同じように、家族の問題や用事をまたみんな一手にひきうけてやろう、と考えた。(p.79)
グレゴールはさらに少し前に這いでて、できることなら妹と視線を合わせたいものと、床すれすれまで頭を低く下げた。こんなにも音楽に感動させられているからには、ぼくは獣なのだろうか。(p.89)
2008年08月20日
今日の青山ブックセンター
月曜日から、自由が丘の青山ブックセンターが、シャッターが降ろされて閉まっている。先月末に、運営元の洋販ブックサービスが民事再生法の申請をしたのと関係がありそうだ。
店の前の看板には「臨時休業」と書いてあったのだけれど、再開されるのか心配だ。
自由が丘は、以前から、青山ブックセンターがつぶれたと思ったらブックファーストが入り、芳林堂書店がつぶれたと思ったら青山ブックセンターが入り、栄枯盛衰が激しい。
青山ブックセンターは、一番利用頻度が高い本屋なだけに、今後の成り行きが気になる。
【関連リンク】
→青山ブックセンター(水晶堂)
→自由が丘の本屋事情(水晶堂)
2008年08月19日
さくらサーバで動的URLを静的URLに変換
さくらのレンタルサーバには、mod_rewriteがインストールされているので、共用サーバでありながら、URLの変換を指定することが出来る。
mod_rewriteを利用すれば、たとえば
http://www.libru.jp/detail.php?b=3651
というような、引数付きの動的URLを
http://www.libru.jp/detail3651.htm
という、HTMLの静的URLの形で表現することが出来るようになる。
mod_rewriteの指定方法には、
1)httpd.confに設定する
2).htaccessに設定する
の2通りがあるけれども、共用サーバではhttpd.confは変更出来ないので、変換をかけたいURLのディレクトリ上に、「.htaccess」ファイルを置くことで対応をする。
例のように、
http://www.libru.jp/detail.php?b=3651
というURLに
http://www.libru.jp/detail3651.htm
の形式でアクセスできるようにするには、
RewriteEngine on
RewriteRule ^/detail(.*).htm$ /detail.php?b=$1
という指定を「.htaccess」内に記述すればOK。
2008年08月18日
嘔吐
基本的には退屈で、どうということもない話しだ。大きな出来事や事件が起こるわけでもない。
でもこれは、起承転結のある物語を語っている小説ではなくて、「実存」というものが何なのかを説明するために、ありきたりの日常を淡々と取り出したテキストブックだから、しかたないことなのだろうと思う。
「吐き気」ということについての描写を読んで、それと同じような体験を小さい頃にしたことがあったのを思い出した。
「自分はまさに今、ここにいる。そう考えているいる自分自身も、ここにいる。そう考えている自分も・・」ということを何十回も繰り返すと、そのうちに、自分自身がいったい何者なのか、周りと自分との境界がわからなくなった。
あの感覚のことを、この作品の中では「吐き気」と呼んでいるのだと思った。
実存主義的な物の考え方を見ていると、「そりゃ、そんな風に突き詰めて考えたら、なんだって意味わかんなくなってくるよ」という感じがして、これはヒマを持て余して、考える時間をたっぷり持った人が行き着く袋小路なのではないかと思った。
この思考を、日常のあらゆる事柄に適用していくと、すべてが無意味に思えて、空しく感じられるのだろうという気がする。すべての人生は、演じられている人生なのだという気がしてきてしまう。これは、現実を抽象的なものに変換していく作業で、毒にもなれば薬にもなる、取り扱いが危険な思考パターンなのだと思った。
【名言】
あの青年たちには驚くほかはない。彼らはコーヒーを飲みながら、明快な、ほんとうらしい話しをしている。彼らは昨日したことをたずねられても、狼狽なんかすることなく簡単に知らせてくれるだろう。私だったら支離滅裂なことを言ってしまうだろう。ずいぶん前から、私が一日中なにをしているかを、もうだれも気にかけないというのはほんとうだ。人間がひとりで暮らしていると、語るとはどういうことであるかさえ、もうわからなくなる。(p.15)
自己反省には完璧な日。人類の上に太陽が投げかける、情け容赦もない裁きに似た冷たい光。それは眼から私の内部に入ってくる。私は内側から、人の気持ちを萎えさせる光によって照らされている。私は確信する。十五分もあれば、自分が最高の自己嫌悪に陥るのに充分だろう、と。(p.26)
たえず別のカードがおち、手が行ったりきたりする。なんという奇妙な仕事だ。それは遊戯でも、儀式でも、日常の習慣らしくもない。ただ単に時間を埋めるためにだけ、それをしているのだと思う。しかし時間はあまりにも広漠としているので満たされはしない。時間の中に埋もれるものは、すべて柔らかになり、伸びてしまう。(p.36)
私は冒険を経験しなかった。揉めごと、さまざまな事件、いざこざなど、なんだって経験したが冒険を経験したのではなかった。これは言葉の問題ではない。私は、いまようやくわかりかけてきた。(p.62)
人が生活しているときにはなにごとも起こりはしない。舞台装置が変わり、人びとが入ってきたり、出て行ったりする。ただそれだけのことだ。決して発端などありえない。日が日に、わけもわからずにつけ加わって行く。それは果てしのない単調な加え算だ。(p.66)
人の群が疎らになり、海の喘ぎが明瞭に聞こえる。防波堤の手すりに両手で凭れかかっていた若い女が、口紅が黒い線を引いたように見えるその蒼い顔を空にむけた。人間を愛さないでいられるだろうか、と私は一瞬の間自問した。しかし結局、今日は彼らの日曜日で、私の日曜日ではないのだ。(p.89)
たとえば、苦痛を伴う塾考である<私は実存している>というやつを維持しているのはこの私である。私。肉体、それはいったんはじまればひとりでに生きて行く。しかし思考は、この<私>が続け、展開しているのだ。私は実存する。私は自分が実存すると考える。ああ、長き蛇のごとき実存するというこの感情よ。しかも、私はこの感情を非常にゆっくり展開している・・。もしも私に思考するのをやめることができたならば。私は試す。それに成功する。自分の頭が煙で満たされたように思われる・・ところでまたあれがはじまる。「煙・・考えないこと・・。私は考えたくない・・。私は、考えたくないと考えている。私は、考えたくないと考えてはならない。なぜならそれもひとつの考えだからだ。」これでは、いつまでも続くのではなかろうか。(p.162)
記すことなし。実存した。(p.168)
私は<吐き気>を理解し、それに精通したのだ。じつを言えば、私は自分の発見したものを、言葉に直したのではなかった。しかしいまとなっては、言葉にすることは容易だろうと思う。肝要なこと、それは偶然性である。定義を下せば、実存とは必然ではないという意味でもある。実存するとは、ただ単に<そこに在る>ということである。実存するものは出現し、偶然の<出会>に任せるが、実存するものを<演繹する>ことは絶対にできない。これを理解した人はいると思う。ただ彼らは、必然的にして自己原因なる存在物を考えだし、この偶然性を乗り越えようと試みた。ところで、いかなる必然的存在も実存を説明することはできない。偶然性とは消去し得る見せかけや仮象ではない。それは絶対的なものであり、それ故に完全な無償なのである。すべてが無償である、この公園も、この町も、そして私自身も。(p.215)
しかしまだなにひとつ過ぎ去ってはいなかった。なぜならアニーはまだそこにいた。そして彼女に再会することも、彼女を説き伏せ、永遠に私の同伴者にすることもまだ可能だったから、私はまだ孤独を感じてはいなかった。(p.254)
女は愉しんでいる。女にとっては私など、一遍も会ったことがない男と同じ程度の存在にすぎない。一瞬のうちに私は女の裡から消えた。そして世の中のあらゆる意識からもまた、私はいなくなった。私は妙な具合である。けれども私は、自分が実存すること、<私>がここにいることを知っている。(p.277)
2008年08月17日
ロ・スパツィオ
カプチーノがものすごく美味しい、ということと、駅から近いという便利のよさで、待ち合わせにも最適だし、一人で本を読むにも絶好のカフェ。
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カプチーノは、美味しいだけではなく、ひとつひとつウサギやクマのかわいい絵が描いてあって、そのこだわりが素晴らしい。深夜まで営業しているという点もステキだ。
■ロ・スパツィオ(Lo SPAZIO)
電話番号:03-5722-6799
住所:東京都目黒区鷹番3-3-5
行きかた:学芸大学前駅の改札を出て右に進み、3本目の角(りそな銀行の角)を右に曲がると、右側にある。
営業時間:11:00~翌2:00
2008年08月16日
「超一流」の構想術
アイデア発想法の本は、「いかにヒラメキを生み出すか」ということに注目をして書かれていることが多い。自分も、アイデアというのはヒラメキの部分、つまり0から1の部分が重要で、かつ、難しいのだと思っていた。
しかし、この「構想力」が言っていることはまったく逆だった。0から1よりも、1から2のほうが難しい、のだという。
言われてみればそのとおりで、ヒラメキというのは特別な訓練をしなくても、あるときふと浮かぶことがある。そこまでは、日常に起こりえるが、それに頼っていては、常に作品を生み出す継続力は生まれない。
重要なことは、生まれた貴重なヒラメキの火を絶やさずに、大事に育てていくことのほうなのだ。ヒラメキは偶然や勘に頼る部分が多いけれど、それを大きくつなげていく構想力というのは、論理的に組み立てられる部分が大きく、それだけに、再利用もしやすいし、経験をノウハウとして蓄積していくことが出来る。
この本は、この先ずっと役立ちそうな、とても大きな気づきを与えてくれた。
【名言】
大切なのは、ヒラメキではなく、構想する力です。
構想力は、ヒラメキを連発できるということです。
プロは、連続してひらめくために、ヒラメキを一度論理的に落とします。
そうしないと、いつヒラメキが出るかわからない不安定な状態になるのです。(p.26)
発想は、目的に向かって下から上に考えていきます。
構想は逆です。
目的から下がって考えるのです。
つまり、逆算です。
これはきわめて簡単です。
あみだくじを逆にたどるということです。
発想型のやり方は、あみだくじを「ここをやったら、はずれ。次もはずれ。またその次は・・」と順番にやっていきます。
構想型のやり方は、当たりから上がっていきます。
だから、はずれようがありません。
これが構想と発想の違いなのです。(p.40)
少人数でやることほど非効率なことはありません。
でも、最初から超満員で始めると、絶対に方向が見えなくなります。
構想のやり方は、「小さく産んで、大きく育てる」です。
最初から超満員の想定のやり方は、長続きしないのです。
私は1時半始まりのセミナーでは、それより前に始めます。
それより前に来ている人がいるからです。
通常のセミナーでは、1時半始まりでも1時半からは始まりません。
5分押し、10分押しです。
「遅れていらっしゃる方がいるので」「今日は雨で時間がかかっているみたいで」という形で、遅れている人を基準にします。
これが広くとろうとする考え方です。
でも、私は、そんな中で早く来ている人はそれだけ一生懸命なのだから、その人にまずこたえなければと思います。(p.72)
構想力は、シリーズ化しなければなりません。
単発の「点」で終わらせないで、必ず線→面→立体につなげていきます。
1回1回苦労していてはいけないのです。(p.78)
出てきたアイデアをいつまでも自分の中に抱えていてはいけません。
アイデアは、一人歩きさせるのです。
アイデアは、必ず思ったとおりにはいかないで、乱反射します。
イメージとしては、ビリヤードです。(p.81)
「○○銀行の警備が甘い」という情報が入った時に、銀行強盗をしようとする人は、そこを狙います。
でも、構想力のある人は、「みんなも同じことを考えている」と考えます。
アイデアの落とし穴は、自分だけが思いついたと思い込むことです。
構想力のある人は、銀行強盗の逃げるルートを考えて、銀行強盗を襲撃します。(p.137)
同時に起こるテロは、印象が強烈です。
単発でポン、ポン、ポンと起こっても、何のインパクトもありません。
テロは相手をパニックに陥れるのが目的です。
単発で終わっては、インパクトがないのです。
テロは、必ず同時多発を狙います。
小さい爆発でも、同時期に起こると、何かすごいことが起こっているんじゃないかと思います。
その延長線上をみんなが勝手に想像して、相手が導くほうへ巻き込まれるのです。(p.178)
2008年08月15日
人は何を遺せるのか
人が死んだ後にはいったい何を遺すことが出来るのか?ということをテーマに、中野孝次氏が考察した本。表紙の絵がいい。
「勲章」「金」「家」など、一般的なものについての言及から始まって、「手紙」「臓器」「コレクション」へと話しは進み、更に、「芸と技」「梅干し」など、有形無形の様々なものを遺した生き方について、それぞれ評価をおこなっている。
途中からは、一般的な話題から離れて、筆者個人に特に関わりのあった方が遺したものや、特定の偉人の遺したものについて取り上げられていて、それがとても興味深い。
賢人が書き記した、死生観についてのメモや書物を引用しつつ話しを進めているので、そこから、気に留まった人について、より深く知っていくための入口として読むのが一番面白いと思う。
主張としては、内村鑑三著の「後世への最大遺物」と似たものになっていて、人が遺せる最も大きな遺物は、金や名誉ではなく、人間性や生き様である、という結論にまとまっている。
しかし、その結論に至るまでの話しが、より、実際の生活に近いたとえが多く、現代的でもあるので、自分自身が考える時の参考になる話題は多かった。
【名言】
以上、人が死後遺せそうなものについてあれこれ検討してみたが、結局最もたしかに後世に遺せるものは人間性である、ということが判明した。それ以外のものは、伝えても空しいか、早晩失われるか、いずれは消滅する。ただ一つ、これだけは後世に伝える価値のあるのは、人間の生涯そのものであった。(p.205)
2008年08月14日
情報力
北朝鮮という国について解説をした本、というよりも、北朝鮮のような「謎のベールに包まれた」というイメージがある国について、どのように情報を収集して、自分なりに分析をするか、という方法論についての、佐藤優氏と鈴木琢磨氏の対談。
まず、北朝鮮という国が、想像していたよりもずっとまともなシステムを持っていて、それぞれの行動には、意外ときちんとした意図がある、ということを理解出来たことが大きかった。
鈴木氏は、北朝鮮についての情報のほとんどは、新聞や機関紙など、一般の人でも比較的簡単に入手出来るソースを元に分析しているのだという。
データソースをいくら数多く集めても、正しく活用出来なければ意味がない。それを有用な情報にするには情報力(インテリジェンス)が必要になる。そのために、最も重要なことは、文化的背景まで含めて原文を正確に理解する語学力、特に「読む力」なのだということがよくわかった。
第四章は、佐藤氏と鈴木氏の、一般的な情報整理のやり方についてお互いに公開をしている。手書きのメモや、現物の資料の保存を重要視して、インターネット上の情報を軽視しているところは、あまり同意出来なかったのだけれど、三章までの、北朝鮮に関する二人の対談は、鈴木氏の豊富な経験からの、独特な見解がたくさん引き出されていて、読んでいてかなり面白く、タメになる内容だった。
【名言】
「金正日がバカな国民をコントロールしている」「国家ぐるみで洗脳がおこなわれている」と言う人がいます。しかし、実際はそれほど単純ではない。私たちとあまり変わらない判断力を持った人間もいる中で、金正日がつくったシステムがうまく回っている。基本的には、徹底した監視と暴力装置が働いているのは間違いありませんが、それだけではない。北朝鮮が怖ろしく多様なシステムを持っていることを理解すべきです。(鈴木)(p.60)
いまの北朝鮮をめぐるあらゆる動きは、2010年の「先軍五十年」へ向けて流れているように見えます。「先軍四十五年」は、彼らにとってとても大きな節目です。ましてや五十年という節目はとてつもなく大きな意味を持つ。金正日時代の総決算ですよ。そういった彼らの時間のモノサシを、私たちはもっと鋭く見きわめるべきです。(鈴木)(p.71)
作家に小説を書かせるシステムは、旧ソ連とよく似ていますね。モスクワの郊外にペレデルキノという村があって、そこに作家の別荘が集まっています。その村には作家以外の人は入れません。村には特別なレストランがあり、安く食事ができたりもする。スターリンの時代には彼を称える作品がそこで書かれていました。(佐藤)(p.111)
主体元号と大正元号が同じだということは、奇妙な偶然です。「北朝鮮では大正時代がずっと続いている」と考えてみると、北朝鮮への視点がガラッと変わります。(佐藤)(p.170)
東京の神田神保町は世界最大の古書店街です。神保町を歩いてみる。すると、自分の目に飛び込んでくる本があります。その本は、自分そのものだと言ってもいい。それが情報です。そのトレーニングを積み重ねなければ、膨大な情報に埋もれてしまいます。(鈴木)(p.216)
語学教育で一番重要なのは、「読む」ことです。緊急の必要に迫られない限り、会話を学ぶ必要はありません。(佐藤)(p.245)
2008年08月13日
コミック 文体練習
レーモン・クノーの「文体練習」にインスパイアされて作られた、コミック版。テンプレートとなっている「基本の物語」を99通りの方法で表現している。
テンプレートの物語は、原著とはまったく別の物語で、そこに加えられたアレンジも独特なものが多く、内容的には原著と別物であると言っていい。
面白いのは、絵を用いたコミックならではのアレンジが多いところで、その意味では「文体」練習という枠を超えて、もっとずっと幅広い内容になっている。「この手できたか!」と感心してしまう、驚きのアイデアも多かった。
アメリカンコミックをネタとして使ったアレンジもいくつかあるので、アメリカ人じゃないとよくわからないパロディもあるけれど、ほとんどは、世界共通で通用する内容だと思う。
この作品は、着想が命ということがあり、功績の半分は、元ネタの作者であるレーモン・クノーに帰するけれど、それでも、敢えてコミックで挑戦をしたところは称賛に値する。
【特に面白かった文体】
・冷蔵庫の視点(p24)
・覗くひと(p.26)
・さかのぼる(p.38)
・プラス・ワン(p.78)
・コマの外を描いてみる(p.86)
・時間を固定(p.200)
・マットがいない(p.212)
2008年08月12日
ホーキング 虚時間の宇宙
ホーキングの業績のうち、特に「特異点」と「事象の地平線」のテーマについて深く掘り下げて解説をした本。
発刊は2005年なので、今となっては若干、情報が古くなってしまっている箇所もいくらかあるし、この人の解説自体が、何を言っているのかわかりにくい、という部分もあるけれど、専門書にくらべればかなり易しく書かれているのだと思う。
特に面白いと思ったたとえ話しが2つあった。
1)南極点にたとえた、虚時間での特異点の説明
特異点があるかどうか、という問題は、宇宙にはじまりがあったかどうか、という問いと同じであるのだけれど、ホーキングは、その特異点がない宇宙モデルというものを考えた。
虚時間での特異点は、時間と空間と区別が出来ないために、球面上に張りついている。それは、地球の南極点というものに似ている。
地球のどこからから、南極点に向かってあるいていくと、ある時、いつの間にか「緯度・経度がない」ところを通過することになる。しかし、南極点そのものは、そこに深い穴が開いているなどの特徴はないので、他の点と区別がつかない。
2)チェスにたとえた、素粒子の挙動の説明
チェスのビショップという駒は、斜めにしか動けない。だから、白いマスにいるビショップは、常に白いマスにいることになる。しかし、まれに、黒いマスにいるビショップを見かけることがある。それは、敵陣で成り上がったポーンがビショップになった場合だ。
素粒子も、基本的には、ビショップが同じ色のマスの中しか動けないのと同じように、規則的な枠内での動きを見せる。しかし、時として、突然種類が変化したり、ワープして違う色のマスに素粒子が移動することがある。
コラムとして、ホーキングその人の人柄や生い立ちについても書かれていて、これがとても良かった。彼は、難病を抱えた、車椅子の科学者というだけではなく、2度の結婚をしていて、波乱に満ちている。
ホーキングの自著では当然書かれていないことばかりで、このホーキングという人がこんなにも栄光と挫折の多い人生をおくっていた科学者だったというのは、まったく知らないことだった。
【名言】
現代物理学の大きな懸案は、アインシュタインの重力理論と量子力学を統一して「量子重力理論」を構築することである。その際、2つの戦略が考えられる。
戦略1、アインシュタインの重力理論から出発して、それを量子化する。
戦略2、量子力学から出発して、それに重力を組み入れる。
つまり、物理学者は、宇宙を記述する基本的な考え方として、相対論をとるか量子論をとるか、という決断を迫られるのである。(p.59)
物理学の方程式の多くは時間を逆さにしてもなりたつ。それを時間反転という。「時間の矢」というものがあって、少なくとも日常生活においては、時間は逆さにならないように思われるが、それでも物理学の基礎理論では時間反転がなりたつことが多い。(p.93)
ブラックホールが蒸発するとき、それは、自らの内部に貯め込んでおいた情報もろとも雲散霧消するのであろうか?それとも、ブラックホール内に落ち込んだ物体がもっていた情報は、なんらかの形で宇宙空間へ戻されるのであろうか?(p.143)
できごとに実数の時間のラベルが貼られるような現実の時空では、時間と空間を区別するのはやさしい。(p.179)
はたして、宇宙にとっていちばん自然なのは、実時間なのか、それとも虚時間なのか?個人的には、宇宙の初期においては、本当に時間は虚時間であり、宇宙が「トンネル」として実在してからは実時間になった、と考えたいが、相対性理論の精神からいえば、観測者によってちがった見方ができる、という可能性もあるだろう。(p.190)
2008年08月11日
世界麻雀大会日本予選
休日の朝、アメリカ人雀士G氏からの電話で起こされる。
G氏は、日本プロ麻雀連盟所属で、麻雀で生計を立てている、れっきとしたプロ雀士だ。
『すごいことになってるよ!
あと1時間後に、世界麻雀大会の日本予選が神楽坂で始まるんだけど、
今まだ、11人しかエントリーしてないんだよ。』
1位になれば、来月マカオで開催される決勝大会に参加することが出来るのだと言う。参加者が12人だけなら、1位になる確率は12分の1だ。
なんだかよくわからなかったけれど、すぐに神楽坂まで出かけて、ギリギリ、エントリー締切に間に合った。
G氏は既にシード選手として、決勝への参加が決まっている。
この、「世界麻雀大会」のルールは、中国式と日本式の中間のようなちょっと変わったルールで、最初にその説明があった。
・リーチがない、ドラ牌がない、場風牌がない、フリテンがない。
・役ごとに決められた点数を加算してアガリ点が決まる。
・平和、一盃口など、すべての役が、鳴いても成立する。
・直接振り込んでいない人も、アガッた人に支払う(上限点数あり)
・二暗刻、一色三同順、などオリジナルの役がある。
他にも色々と微妙な違いがあるのだけれど、要するにどう変わるかというと、
「基本的には、攻め気でいったほうがいい」ということになる。
フリテンがないから、現物牌でも安全とは限らないし、誰かがアガれば自分が放銃しなくても点を取られるので、「守り」という行為にあまり意味がない。
あと、面前で手作りをするメリットがほとんどないので、鳴いたほうがいい。
この感覚に慣れるまでが大変だけれど、やってみたら、テンポも速いし、これはこれで面白いルールと思った。
残念ながら優勝は出来なかったけれど、日本予選の優勝者は、5000ドルの参加費が免除されて決勝大会にエントリー出来る上に、往復の航空券や、大会期間中の宿泊まで無料で手配される。
決勝の優勝賞金は50万ドル。マカオで開催されるだけあって、なんだかゴージャスだ。いったいどんな大会なのか、気になる・・。
日本ではまだ知名度が高くない大会なので、たしかに、今回の日本予選はかなりの穴場だった。
5000ドルの参加費を払えば、誰でも決勝大会に参加出来るらしいので、興味と資本があるという方はぜひ、行ってみてほしいです。
→世界麻雀大会ホームページ
2008年08月10日
スカイ・クロラ
最高に素晴らしい作品だった。
ドンピシャで、自分のツボにハマった。
原作の空気がかなり好みだったので、映画化された時に、いったいその何パーセントぐらい再現出来ているのだろうか、という気持ちで観に行った。たいがいの場合、原作の良さは影も形もない、もはや別物の作品になっていてがっかりするのが常だ。
しかし、とんでもなかった。映画のほうが、原作をはるかに上回っているという逆転現象が起こっていた。原作の空気感を、確実に280パーセントぐらい再現している。原作がコーヒー牛乳だとしたら、この映画版は、エスプレッソのような、作品のエッセンスを純粋に抽出した仕上がりになっている。
一つの小説を2時間の映画に収めるという時には、どうしても省略する部分が必要と思うのだけれど、それが非常に的確におこなわれた結果なのだと思う。余分なエピソードはすべて削ぎ落とした上で、残った部分を先鋭化している。
ツボにハマった部分はいくつもあるのだけれど、まずなんといっても、建築物や内装の美しさだ。舞台設定としては、おそらく東欧か中欧あたりをイメージしているのだろう。その、暗くて乾いた、ややレトロな感じが、作品の雰囲気にぴったりとマッチしていた。
軍施設なのに、建物が古民家風で、陶器やオルゴールが置いてあるというミスマッチもいいし、日本語と英語が公用語になっているような、どこだかわからない微妙なパラレルワールド感もいい。たとえばタバコの赤い箱のような小物に至るまで、隅から隅まで、とにかくセンスが素晴らしかった。
それと、作品のヒロインである草薙水素の魅力と狂気。
これは怖ろしい。セリフによってではなく、一つ一つの視線やしぐさ、不自然な間、によってそれがひしひしと伝わってくる。一つだけ残念だったのは、草薙水素の声がイマイチだったことだ。ここだけは、本職の声優を起用するべきと思った。それと対照的に、土岐野役を担当した谷原章介の声は、とても良かった。
技術的には、最新の技術を使って作った絵ではないと思う。戦闘機同士の空中戦などは、かなり臨場感があって、とても美しいのだけれど、CGの使用はポイントのみに抑えて、あとは手作りで作っているような味が残っている。夜間飛行のシーンは特に最高だった。
スタッフロールが終わった後に、短いエピローグが残っているので、もう終わりだ、と思っても席を立たないよう注意。
この映画は、出来れば、小説版を読んでから観ることをおススメする。
そのほうが、ベースの世界観を理解しやすいということもあるけれども、それ以上に、原作との違いに驚かされるのだ。
「キルドレ」と呼ばれる、少年パイロットの救われなさが主題ではあるけれど、いったい「キルドレ」とは何であるのか?という説明はまったくない。それだけでなく、何ための戦争か、というところなど、基本情報についての解説はほとんどなし。だから、観る人によっては「さっぱり意味がわからない」ということになるだろう。
自分は、そういうところは全然気にならず、むしろその、想像力にゆだねる割り切り方がとても気に入ったのだけれど、この、あまりに無機質な雰囲気に違和感を感じる人も多いに違いない。
その点、非常に好みが分かれる映画だろうと思うし、人にススメる時には、かなり相手を選んでしまう作品だ。
■スカイ・クロラ公式サイト
http://sky.crawlers.jp/
2008年08月09日
文鳥・夢十夜
「文鳥」は、漱石の静かで孤独な生活が伝わってくる話しだった。
鈴木三重吉から、文鳥を飼う話しを持ちかけられても、まったく興味を持っていなかったのが、実際に飼ってみると、少しずつ愛着のようなものが生まれてくる。独り執筆する書斎に、文鳥の千代千代という鳴き声が時々聞こえてくる。文鳥を、昔知っていた女になぞらえてみたり、その姿の描写は、詩的でユーモアがある。
漱石は、生き物に積極的な愛情を持つような性質ではないけれど、関わった以上は面倒をみなくてはという義務感のようなものがある。それでも、どう接していいかわからないし、元々好きで飼ったわけでもないから、頭からすっかり文鳥のことが抜け落ちてしまうこともある。この距離感が、なんだか心地いいと思った。
終わり方はけっこうひどいのだけど、この、鳥への身勝手な関わり方と、後に残るとんでもない寂しさ、どうしようもない取り返しのつかなさこそが、この小説の味なのだと思う。
「夢十夜」は、その名の通り、夢の中の話が10編。
いずれも、夢のもつ不条理さが存分にあらわれた話しだ。ただ、その不思議な感覚を楽しむべきで、その夢にどんな意味があるのか?を分析しようとするのは不粋というものだろう。
読んだ人に、第何夜が一番好きかを聞いてみるのは、その人の嗜好がわかって面白い。自分は、ダントツで第七夜が好きだ。
【好きだった夢ベスト3】
第七夜→大きな船から逃げようとして身を投げる夢
第一夜→死んだ女の墓の前で100年待つ夢
第六夜→運慶が護国寺で仁王を刻んでいる夢
【名言】
自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙を窺って逃げる様な鳥とも見えないので、何となく気の毒になった。三重吉は悪い事を教えた。(「文鳥」)(p.14)
ある晩宴会があって遅く帰ったら、冬の月が硝子越しに差し込んで、広い縁側がほの明るく見えるなかに、鳥籠がしんとして、箱の上に乗っていた。その隅に文鳥の体が薄白く浮いたまま留まり木の上に、有るか無きかに思われた。自分は外套の羽根を返して、すぐ鳥籠を箱のなかへ入れてやった。(「文鳥」)(p.23)
そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。自分は何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出来ずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。(「夢十夜・第七夜」)(p.53)
2008年08月08日
ストリートビューを撮影するカメラ
google Mapsストリートビューのパノラマ画像はいったいどうやって作成しているのか?というのは、ストリートビューを見た誰もが感じる疑問だと思うのだけれど、
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この、ミラーボールみたいなカメラを車の上に載せて走りながら撮影しているらしい。
カメラには、レンズが全部で11個ついている。ハードウェアは判ったけれど、これで撮影した後、いったいどうやってパノラマ画像を作成しているのかという点は、依然として謎。
開発元は「Immersive Media」という会社で、この技術には、関連した特許が山ほどあるらしい。何やらスゴいテクノロジーであるようだ。
2008年08月07日
アウトサイダー
ラブクラフトの「アウトサイダー」、チェーホフの「中二階のある家」、ゴーリキーの「二十六人の男と一人の少女」、その他にオリジナル作品である「呪画」数作を収めた短編集。
「二十六人の男と一人の少女」や、ラブクラフトの世界をマンガ化したということに興味を惹かれた本で、この、セレクションのセンスは素晴らしいと思った。
絵は、上手いという部類なのではないかと思うのだけれど、学生が教科書通りにコツコツとがんばって描いたというような、面白みがない絵で、コマ割りなどもオーソドックスすぎて、そこは、読んでいて退屈だった。
最近、著名な文学作品がマンガ化されて発刊されることが多いけれど、いずれもヒドいクオリティーで、せめてもう少しキレイな絵だったら、これをきっかけに興味を持って、原作を読もうという人も増えるに違いないのに、、と思っていた。
それらの中では、この「アウトサイダー」はかなりの力作だと思う。
そういえば、文庫版「伊豆の踊子」の表紙絵を荒木飛呂彦が描いていたけれど、ああいう異色のコラボレーションはかなり熱い。
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表紙だけでなく、いっそ全編を荒木飛呂彦に描いてほしい。
【名言】
あなたと議論するつもりはありません。ただひとつ申し上げておきたいのは・・なにもせずにただぶらぶらしていても仕方ありませんのよ。貴方はなにかを成すことがお嫌いでしょうけど。(中二階のある家)(p.54)
2008年08月06日
吉本隆明の声と言葉。
吉本隆明という人には、著作もたくさんあるけれども、その他に、数多くの講演録のテープが残されているらしい。
それらの講演の中で、特に選り抜きの部分を74分ぶん抜粋して、一枚のCDに収めたのが本書。
それだけではなく、本の最初には、糸井さんと吉本さんの対談が載せられていて、CDに収められた各講演には糸井さんの解説がつけられている。
吉本さんの文章というのは、それ単体だと、難しかったり偏っていたりで、なかなか理解しづらいのだけれど、講演という形で直接その肉声を聴くと、素のキャラクターがにじみ出ていて、文字では伝わってこない部分とあわせて、よくわかる気がする。
そのことを糸井さんは知っていたから、吉本さんという人の思想を最も伝えやすい形として、この本のような形式を柔軟に選択したはずで、その点、やはり企画の天才だと思う。
まえがきで糸井さんは、「今回のこの企画は、吉本さんちの門前でうろうろしていてよかった、と思うぼくが、近くの友だちに向けて手招きしているようなものだとお考えください」と書いているが、まさに、そのような気軽さで、吉本さんの思想の中に入りこんでいける感じだ。この、編集・構成の見事さと発想は、本当に素晴らしい。
【名言】
言葉数は少なくても、みんなきっとお喋りだったんでしょうね。観念と具体がごちゃごちゃになっていたでしょうけど、文字を書く文化がない時代には特に、話していたわけです。(糸井)(p.28)
僕は実感的に、その種のことでぶちのめされたことがあります。それは、兄貴の娘なんです。子宮がんかなにかで亡くなりました。その姪っ子が僕に、「おじさん、この状態というのはどういうことなの?」って聞くんです。僕は、それに答えられないわけですよ。姪も、ある程度自分が危ないということはわかっていました。だけどこの事態というのはどういうことなの、どう考えたらいいの、と本人が聞いたんです。僕は、なにも答えられない。
僕はこれまでいろんなことを偉そうに言ってきたかもしれないけど、そこでなにも答えられないということは、要するにお前の考えはダメだということを意味すると思いました。少しでもいいから、答えがあるみたいだ、ということでもいいから、そういうことをそこで言えなければ嘘だと感じました。(吉本)(p.44)
後にさまざまな経済上の巨人がいますけれども、スミスのような意味合いで、歌を持っていないと思います。経済学が歌を歌うことができなくなってしまったという時代的な傾向もありますし、さまざまな要因はあるんですけど、とにかくスミスのように一種の豊かな優しい歌を歌いながら、経済学の概念を作り上げていくというような人は、スミス以降に求めることはできないな、と思います。(吉本)(p.62)
2008年08月05日
犬を飼う
動物マンガは数あれど、その多くは、動物の愛らしさを描いたものだと思う。しかし、この作品は、まったく違うことを教えてくれる。飼っていた動物を看取るということの哀しさ。この物語は、老犬が15歳の生涯を閉じる直前の、1年間の出来事を描いている。
動物は人間よりも寿命が短い分、その幼少期から晩年まですべての期間を共に過ごすことも多い。元気だった時を知っているだけに、晩年は一層寂しさが増す。その辛さと正面から対峙した、とても現実的な物語だ。
5作品を収めた短編集になっていて、そのうち3編「犬を飼う」「そして・・猫を飼う」「庭のながめ」は、犬と猫が主人公になっている。動物と家族との交流の機微をテーマにした話しで、いずれも、しみじみと考えさせられることが多い、素晴らしい作品だった。
最後の一編、「約束の地」はまったく趣向が変わって、エベレスト登山の話し。「神々の山嶺」の世界をダイジェストにしたような短編で、やはりこの人は、山の絵がバツグンに上手い。
【名言】
楽しいことなんか、なんにもありゃしない。あたしゃね、迷惑かけたくないんだよ・・このこだってそう思ってる。そう思ってるんだよ。
でもね、死ねないんだよ・・なかなかね・・死ねないもんだよ。(p.35)
幸福だった・・子供がいる。妻がいる。私が考えてもみなかった暖かな家庭がここにある。これが幸福というものか・・とつくづく思う。
もう私には手離すことができないだろう。この守るべき幸せな家庭が、私の中でかけがえのない生きがいとして定着しはじめていた。(p.148)
チャンゴは、わしらにとっちゃ、やっぱり山の神様でさあ。食べる物なんかないはずなのに、それでもチャンゴはあんな高い山で生きているだよ。ありゃあ・・世にも美しい生き物でさ。(p.163)
2008年08月04日
ペルセポリス
普段、アメリカやヨーロッパの文化については、映画で知ることも多いし、日本に輸入されたものも多いので馴染みが深いけれど、それ以外の地域の国については、あまりよくわからないことばかりだ。
特に、旅行先として訪れる機会も少ない中東のこととなると、それは時々テレビで報道される情報だけに限定されることになる。
この、「ペルセポリス」は、イラン人の著者がマンガの形式をとって、10歳から、イランを離れる25歳までの生活を著した自叙伝だ。ジャーナリズムや教科書的な観点からでなく、徹底的に「一人のイラン人から見た、個人的なイラン」を描いている点が素晴らしい。
絵は、白黒のコントラストが強い、版画のようなかなり独特なタッチで、その点はちょっと馴染みにくく、読むのに時間がかかった。
この本を読んで初めて知ったことはとても多いのだけれど、公の場での服装や言動の制限の厳しさは、想像をはるかに超えていた。ほとんど常に戦争があり、内乱があり、投獄の不安にさらされ、死がとても身近にある国で子供時代を過ごすという体験の過酷さが、よく伝わってくる作品だった。
ずっとイランだけで過ごしていたとしたら、こういう本を出版することもなかったに違いないのだけれど、著者は幸い、自由で進歩的な家庭に生まれ育ったので、オーストリアやフランスに一人で生活する経験を持ち、祖国を離れることで、自分自身の思いをストレートに伝えるメディアを持つことが出来た。
著者の感覚が、一般的なイラン人よりもずっと行動的で尖っているということがあり、イランの多数派の感じ方とは違うので、客観性はあまりないと思うのだけれど、新聞では決して書かれない視点からのイランの描写は、かなり新鮮だった。
【名言】
ヨーロッパ旅行を思い出すわ。イランのパスポートを出せば大歓迎だった。昔はイランも金持ちだったから・・今じゃイラン人だとわかると、隅から隅まで調べられる。まるでみんなテロリストだと言わんばかり。(2巻)
恥に面と向かうより、命を落とすほうがましだと思った。ひとかどの人間になれなかった恥ずかしさ、私のためにあれだけ犠牲を払ってくれたのに、両親が誇れるような人間ではない恥ずかしさ、くだらないニヒリストになってしまった恥ずかしさ・・。(2巻)
薬の効果が切れると、また自分の苦しみを意識した。私の不幸はこの一言に尽きる。「私は無だ」。私はイランでは西洋人であり、西洋ではイラン人だった。何のアイデンティティーもない。どうして生きているのかも、もうわからなかった。(2巻)
未来の義理の父として、君に3つの頼みがある。1つ。君も知っての通り、この国では女性側の「離婚請求権」は任意のものだ。女性がこの権利を得られるのは、結婚証明書にサインする時、夫がこの権利を認めた場合だけだ。娘にこの権利を認めてもらいたい。(2巻)
2008年08月03日
日本以外全部沈没
小松左京の「日本沈没」のパロディーとして書かれた作品で、世界中の要人が日本に集まってくる話し。昭和40年代に書かれたものなので、登場人物はすべて、その当時に活躍していた人ばかりで、2008年現在も存命中の人は数えるほどしかいない。
マンガで、コマーシャルなどの時事ネタを入れているものを見ると、「これは数年後に見た人はさっぱり意味がわからないだろう」と思うのだけれど、敢えてそういうネタだけで構成した、挑戦的な作品といえる。
外国人は、日本の限られた領土に入れてもらう立場なので、非常に肩身が狭い。
必死に日本語を覚えて順応しようとする様が、とても滑稽に描かれているけれど、これは、国際社会になんとか取り入ろうとする日本の姿を、逆の立場から風刺したものなのだろう。
アラン・ドロンが高円寺のスナックでボーイをしていたり、エリザベス・テイラーが裏通りで客引きをしていたり、本人が知ったらいったいどう思うのかと思うけれど、当時の読者は、世界のスターが庶民的な生活をする姿を見て、溜飲を下げたのかもしれない。これを読んで、団塊の世代の人々は当時を懐かしむだろうし、それより若い世代は、当時の雰囲気を知ることが出来る。
巻末には、登場人物についての解説がついていて、簡単な「昭和40年代史」の勉強にもなる。今、この作品が、あらためて現代に時間を移してリライトされるとしたら、どんな人物が登場してどんな描かれ方をするか、とても興味がある。
2008年08月02日
ソフトウェアの匠
「日経バイト」に連載されていた記事をまとめた本。
かなり専門的な記事が多いので、まったく興味をもてない分野の話しも多かったのだけれど、一番最初の、まつもとゆきひろ氏が書いた「プログラミング言語論」はかなり面白かった。Rubyの話しだけではなく、プログラミング言語全体の進化の歴史がわかりやすく説明されている。
雑誌の連載から抜き出したものなので、トピックとしてはあちこち分散してるが、羽生田栄一氏のオブジェクト指向についての解説は、かなり紙数をとって説明がされていて、入門書としてとても良い。
その他の記事は、デザイン・パターン論やBIOS開発論など、システム開発に関わる各論が並んでいるのだけれど、論文調で堅い内容が多いのと、あまりに専門的すぎるので、直接参考になるような話しはあまり見当たらなかった。
【名言】
コンピュータ好きの中には物事の裏側の仕組みに興味を持つタイプの人間が多いような気がします。子供のときに時計を分解して仕組みを確かめようとしたタイプですね。たいてい元に戻せなくなってしまうのですが。私もそうなんですが、そのようなタイプはコンピュータを使っていても、それを走らせるソフトウェアの仕組みに興味を感じて、ひいてはソフトウェアを作る側に回ることになります。
中には、それだけではあきたらず、ただソフトウェアを作るだけではなく、ソフトウェアを作るためのソフトウェアに手を染めたりと、どんどん仕組みの奥底の方に潜っていく人たちがいます。そういう人たちはどんどん潜っていって自分のバランスのちょうどいいところで留まるんですが、私の見るところ、その究極の行き先はハードウェアかOSか、プログラミング言語のいずれかのようです。(p.10)
ここ半世紀の間コンピュータの性能は飛躍的に向上しましたが、人間の脳の処理能力は少しも変化しません。生物はそんなに簡単には変化しないのです。その意味では人間の処理能力がプログラミングの限界となっているのです。構造化プログラミングもオブジェクト指向プログラミングも、コンピュータの助けを借りて人間の処理能力の限界を拡張しようという試みと言えます。(p.24)
2008年08月01日
終わりなき旅
この曲を初めて聴いたのは、まだこの曲が発売される前に、偶然、インターネット上に落ちていた音源を拾ったのがきっかけだった。
たぶん、ラジオで限定的に放送されたものを録音したものか、それか、スタジオ録音でのデモ音源が流出したものだったのかもしれない。
この時期、ミスチルは活動を休止していて、解散するのではないかと噂されていた頃で、ミスチルの新しい曲を聴くのはかなり久しぶりのことだった。
その時ネットで拾った音源はどこかにいってしまったので、もう聴くことが出来ないのだけれど、その時の曲は、のちにCDで発売されたバージョンとは微妙に違っていた。
バイオリンのソロからフェードインしてイントロが始まった後、桜井さんの歌が淡々とかぶさる。その声は、CD版のものよりも静かで、つぶやくような声で、形容しがたい迫力があった。
その歌を初めて聴いた時は、こんなにも美しい歌が存在するのか、という驚きで、全身に鳥肌がたった。
音楽を聴いて、そこまでの感動をおぼえたのは、初めてのことで、その日、何度も何度も繰り返し聴き続けた。
その時に会社を辞めることを決めて、次の日、上司に辞意を伝えた。
会社を辞めるということは、その前から考えていたことではあったので、この曲に出会ったことがすべての理由ではないけれども、最後に背中を押してくれたのは、確かにこの曲だった。
他のタイミングで聴いていたら、そこまでの感動はなかったかもしれない。このタイミングで出会わなかったら、そのまま、辞めるきっかけを失って、ずっと仕事を続けていたかもしれない。
そういう仮定に意味がないことはわかっているのだけれど、人生を変えた一曲というものがあるとしたら、自分は迷わずにこの曲を挙げるだろう。

























