» 2008 » 9月のブログ記事


生物から見た世界(ユクスキュル/岩波書店)

これは、相当に面白い本だった。
コウモリやイルカは、超音波のソナーによって、人間には感知出来ない形で、周りの状況を三次元的に把握する。これは、人間にわからない感覚を、他の動物が感知出来る場合だけれど、その逆に、人間に感知出来るほとんどのものを、まったく感知出来ない生物もたくさん存在する。
だから、生物によって、その生物から見た世界というのはまったく姿が異なるもので、その生物固有の世界のことを、この本では「環世界」と呼んでいる。この、「環世界」の違いの激しさは、かなり衝撃的だ。
中でも、ダニの環世界の解説は、特に面白かった。
ダニには目がないので、表皮に分布する「光覚」を使って、木の枝の上に移動する。その後、哺乳類の皮膚腺から漂う酪酸の匂いを感知した時には身を投げる。温度感覚で、なにか温かいものの上に落ちたら、獲物の皮膚組織のに頭から食い込んで、血を吸う。獲物の上に落ちることに失敗した場合は、もう一度、木の枝の上に登ってやり直す。
ダニが持っている機能というのは、これですべてだ。要するに、血を吸って、産卵して死ぬ、ということを遂行するために必要十分な機能以外は一切持ち合わせていない。
この、ダニのような、わずかな感覚器しかない生物から世界を見たら、どれだけ少ない刺激の中で生きているんだろうと思うけれど、刺激の種類が少ないということは、より確実に、必要な信号をキャッチ出来るということだ。
ダニにとっては、視覚や聴覚などは必要ないというだけでなく、あると、それがかえってジャマになってしまうものなのだ。
おそらく、人間も、イルカのような生物からしたら、極度に視覚に依存した不便な生物に思えるだろうし、生物全体の視点からしたら、人間というのはまったく窮屈な環世界の中で生きているのだろう。
ダニが、枝の上でじっと獲物を待っていても、その真下を獲物が通りかかる確率はかなり低いのではないかと思うのだけれど、なんと、ダニはまったく栄養を取らずに17年間じっとしていることが出来るのだという。
生物によって違うのは、空間的な感覚だけでなく、時間的な感覚も、かなり異なるということだ。人間は、1秒間に17回という単位で、受け取った信号を処理するけれど、カタツムリは、1秒間に3回しか処理出来ない。だから、カタツムリ自身からしたら、自分自身がノロいという感じはまったくしないだろう。
他にも、ミミズやモグラやヤドカリなど、色々な生物の環世界を取り上げて解説がされているのだけれど、そのどれもが、独特な感覚と特殊技能を持っていて面白い。
同じ地球上に棲んでいても、生物の種が違うということは、もはやまったく別の次元に棲んでいるということに等しい。とにかく、世界観が一変してしまうような、大きな衝撃を与えてくれた本だった。
【名言】
あらゆる生物は機械にすぎないという確信を固守しようとする人は、いつの日か生物の環世界(Umwelt)を見てみたいという希望は捨ててほしい。(p.5)
動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている。単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである。(p.20)
ダニを取り囲む豊かな世界は崩れ去り、重要なものとしてはわずか三つの知覚標識と三つの作用標識からなる貧弱な姿に、つまりダニの環世界に変わる。だが環世界の貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。(p.22)
ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別することができるといってよいだろう。実行できる行為が少なく作用像も少なければ、その環世界は少ない対象物からなる。このためその環世界はたしかに貧しいものではあるが、それだけ確実なものになっている。なぜなら、ものが少ないほうが、たくさんある場合より勝手がわかりやすいからである。(p.94)
人々が「良い環境」というとき、それはじつは「良い環世界」のことを意味している。環世界である以上、それは主体なしには存在しえない。それがいかなる主体にとっての環世界なのか、それがつねに問題なのである。(p.165)

クロネコヤマトの広告。
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オモロい。


Harry Potter and the Chamber of Secrets(J.K.Rowling/Bloomsbury)

ハリー・ポッターシリーズの2巻目。1巻と比べると、舞台設定や世界観の前置きが必要ない分、最初からスムーズに物語が進んで、内容はかなり濃くなっている。
今回の話は、1作目よりも更にミステリー的な雰囲気が濃くなっていて、ファンタジー小説というよりはミステリー小説に近い。ダークな感じだったけれど、その分、とても先の展開が気になる構成になっていて、謎解きの内容も良かった。
ハリー・ポッターシリーズは、全体の構想を細かく作り上げてから書き始めていると聞いたけれど、たしかに、「あの伏線はここで活きてくるのか」と感心するような点がいくつもある。
1作目では、ほんのちょっとしか触れられなかった、「ハグリッドが学校を追放された理由」や「ロンの家」が、後になって物語の主題と密接に関わってくるようになるところは、かなり面白い。
それと同じように、2作目の今作では名前しか出ていない「アズカバン」の牢獄が3作目で重要になってくる、という風につながりがあるので、すべてを読み終わった後にもう一度見返すと、色々な発見があるに違いないと思う。
【名言】
‘Not the greatest sorcerer in the world,’ said Harry, breathing fast. ‘Sorry to disappoint you, and all that, but the greatest wizard in the world is Albus Dumbledore. Everyone says so. Even when you were strong, you didn’t dare try and take over at Hogwarts.’(p.232)
‘Exactly,’ said Dubmledore, beaming once more. ‘Which makes you very different from Tom Riddle. It is our choices, Harry, that show what we truly are, far more than our abilities.’(p.245)

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かなりオリジナルなテイストの映画だった。
最初から最後まで、ハイテンションのままノンストップで走り抜けるようなスピード感がある。それに加えて、画面の隅々までを埋め尽くすようなゴチャゴチャ感が作り出す「濃さ」が好きかどうかで、この映画の好き嫌いは分かれるだろうと思う。
自分の好みとしては、あまり物がなくてスッキリとした、「かもめ食堂」のような空間のほうが好きなので、その点の趣味はあまり合わなかった。
メインテーマの、感動ストーリーの部分は、子役であるアヤカ・ウイルソンのあどけなさにだいぶ頼っている気はするけれど、かなりストレートな正統派だった。
映画の中に登場する、部屋の装飾や小道具などは、かなり細かいところまでこだわりがあって、その凝りようとサービス精神は相当にスゴいと思う。この世界観の創造は、中島監督以外、他の誰にも真似出来ないだろう。
■パコと魔法の絵本
公式サイト→http://www.paco-magic.com/

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森村ゆきに紹介されて、ウルトラマラソンのランナーである、間庭さんに会った。
ウルトラマラソンというのは、フルマラソン(42.195km)以上の距離を走るマラソンのことらしく、彼女は、ギリシアのスパルタで開催される「スパルタスロン」という大会に、今月の26日・27日に参加する。その距離、なんと246km。
しかも、ギリシアは、昼と夜との温度差が40度以上もあり、山あり坂ありで高低差も激しい。フルマラソンを走るというだけでも、自分からしたらかなりのハードさと思うけれど、そこを遥かに超えて、慣れない土地を246kmをぶっ通しで走るというのは、気が遠くなるほどのチャレンジだ。
彼女は、このとんでもなく過酷なマラソンレースに参加すると同時に、チャリティー活動もおこなっている。応援してくれるサポーターを募って募金を集めて、もし自分が完走したら、そのお金は、カンボジアの子供を支援する基金に提供されるのだという。
間庭さんは、見た感じは穏やかで、とてもウルトラマラソンを走るようなランナーには見えない。しかし、地道にトレーニングを重ねて、日々の走り込みを続けて、今回の大舞台に挑む。無事、完走出来ますように。

おくりびと

| 映画 |

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素晴らしい映画だった。
遺体を清めて棺に納める、納棺師という職業をテーマにした物語。
なんといっても、主演の本木雅弘が良かった。チェロ奏者である主人公の小林大悟は、楽団の仕事を失って、地元の山形に戻って納棺師になる。
納棺師の所作というのは、茶道や華道のような厳粛さがあって、とても芸術的なものなのだと思った。チェロ奏者と納棺師というのは、遠く離れたものであるように見えて、精神的な部分では深いつながりがあるものなのだと思う。その精神性を体現する人物として、本木雅弘はぴったりハマっていた。
会社の社長役の山崎努も、とにかく渋くてカッコよかった。
日本という国は、人が亡くなった後の遺体を、単なる物(object)である以上の、何か特殊な存在として扱う感覚が強い国だと思う。だから、遺体を扱う仕事というのは、神聖であると同時に、普通の仕事とは違う種類のものとして考えられることもある。
先入観によって、納棺師という職業を軽蔑する人たちも、身近な人間の死によって、実際にその仕事を目の前に見せられることで、考え方が変わってゆく。
ちょっと、この映画での、納棺師という職業に対する反応は過敏すぎる気がして、そこには違和感があったけれど、それでも、自分の身内が就く仕事として受け容れられにくいということは実際あるだろうと思う。
昔ながらの自然と街並みが残る、山形を舞台にしているという点もいいし、作品中で流れる音楽もいい。この映画の良さは、ストーリーそのものの良さというよりも、役者と舞台と音楽とが、この作品のテーマにピッタリと合ったことで生まれた、奇跡的な調和の結果なのだと思う。
この映画は、上演30分前に映画館に行ったら、既に満席の状態だった。
「モントリオール世界映画祭」で賞を受賞したことで、知名度が上がったためと思う。非常に地味なテーマの物語なので、この受賞がなかったら、あまり知られることもなく、ひっそりと上映されて消えていったかもしれないし、自分もこの映画の存在を知らずに終わったかもしれない。この作品に出会えて良かった。
■おくりびと
公式サイト→http://www.okuribito.jp/

善の研究

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善の研究<全注釈>(西田幾多郎/講談社)

言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。
同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えているだけのようなことが多くて、あまり参考にならなかったのだけれど、各章の終わりにある、その章のまとめには、要点が簡潔に書き加えられていて、原文だけを読むよりはわかりやすかった。
この本は、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の全四編から成っていて、主題は、第三編の「善」にある。一番読みやすいのも、この第三編であるので、ここだけを読んでも充分に要点は含まれていると思う。
この部分と比べると、第一編、第二編は、扱っている内容が極めて抽象的な概念であることもあって、かなり難しい。書かれた順番として、第一編は、第三編よりも後に書かれたということなので、より、話しの骨格を明確にするために、補助的に追加したものなのだろう。
この本の話しの進め方は、非常に緻密で、一段一段と論理を着実に積み重ねながら、話しを展開している。だから、途中でわからなくなると、自動的に、その後の話しにもついていけなくなるので、特に初めの部分は重要だ。
その、一番最初に出てくるのが「純粋経験」という概念で、その概念を起点として、この著書のすべての話しへとつながっている。しかし、一番難しかったのもこの始め部分だったので、ここがよくわからないために止めてしまうぐらいであれば、最初に、第三編の「善」から読んでしまったほうがいいと思う。
読んでいて思うのは、論理展開の厳密さで、その中に少しの不純物も混じらせまいとする、異様なまでの注意深さだ。
デカルトが「我思うゆえに我あり」というところを出発点として、それ以外の一切を排除したのと同じように、「最初にあるのは純粋経験だけである」ということだけを認めて、そこから、余計な偏見やノイズを丁寧に取り除きながら、思考を前に進めていく。
だから、あきれるほど遠まわしな言い回しが多いし、なんでわざわざ簡単なことをそこまでまわりくどく言うのかと思う部分もあるけれど、この進め方でのみ、誤りの入り込む余地のない、純粋な世界観を組み上げることが出来るのだろうと思う。
第三編の中にある、「意思の自由」というものはあるかどうか、という話しは特に面白かった。「善」というものが成立するかどうかは、意思に自由があるかどうかに大きくかかっているところがあり、この本では、特にその部分について詳しく検証がおこなわれている。
「善とは、宇宙の根源的統一力と合致した、個人性を実現するような行為」という結論については、納得がいく内容ではあったけれども、あまり斬新さや、新しい気づきは得られなかった。この本は、主張している内容そのものよりも、「道徳」や「善」といった抽象的なものを考える時の思考の進め方という点で、学ぶところが多い本だった。
【名言】
思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではなく、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、さらに適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。(p.61)
我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機がすなわち我である。(p.95)
世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。(p.125)
もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するのをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。(p.146)
意思の発展完成はただちに自己の発展感性となるので、善とは自己の発展感性であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(p.328)
西田にとって善とは人格の発現にあるが、その場合人格とは宇宙の根源的統一力と合致するとともに、それが各人において各様の個性をもって現れたものであった。(p.345)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

香港

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香港というのは、奇妙に魅力的な場所だ。
東京の市街地を見慣れていると、ニューヨークや上海のような都会の景色には、もはやあまり驚きがない。多少のセンスの違いはあるけれど、単純化すれば同じ方向性の枠組みの中で作られた街という感じがする。
香港の中でも、表向きの顔ともいえるセントラル(中環)のような香港島の都心部は、マンハッタンと似たような雰囲気で、まったく面白味がないけれど、九龍半島の路地裏は、まったく別次元のロジックによって出来上がっている空間なのだと思う。
建築物が、まずスゴい。住居の密集の過剰さといい、やたらと細長く縦に伸びたバランスの悪さといい、複雑に入り組んだ構造といい、普通に考えたら大丈夫か?と思うような建物によって取り囲まれている。
以前、市街地の中に啓徳空港があった頃、信じられないほどビルの間近をかすめながら飛んでいく飛行機を見た時には、その非現実的な光景にものすごい衝撃を受けた。小さな土地の中に、とんでもないぐらいムリヤリにたくさんの物を押し込んでいる街だと思った。
この混沌さにもかかわらず、たまらない魅力を感じるのは何故なんだろうと思うけれど、日常とはかけ離れた、思ってもみなかった領域に引っ張り込まれるワクワク感が、そこらじゅうに転がっているからなのだろう。
表通りから一本外れた路地裏や、雑居ビルの中に一歩踏み込んだだけで、まったく予想もつかない展開が待っている。街中、いたるところが魔窟だ。この、無秩序が支配する香港の面白さと比べたら、見物料を払って入場するような、整備された観光地に、いったい何の面白さがあるだろうかと思ってしまう。

マカオの大会で、初めて中国式の麻雀牌を使った。
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中国式の麻雀セットは、牌がやたらとでかい。今回使われていた「天下無敵(INVINCIBLE)」という牌には、国際対応しているのか、牌の右上に「1~9」の数字や、「W(WEST)」「B(BLANK)」などの英字が入っている。
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六筒の向きが逆なのが不思議だけれど、本当はこの向きが正しいのかも知れない。
他には、「白」にも「□」の絵柄が入っているのが、日本の牌とは違うところ。
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大会で使用した卓は、自動卓ではない普通のテーブルなので、手積みで積む。
決勝戦のテーブルのみは自動卓になっていて、見た目はかなり立派なのだけれど、動作不良を起こしやすいらしく、長い時間をかけて整備が繰り返されていた。
みんな好んで手に持って使っていたのが、平らな細長い棒。
牌の位置を整えるのにも使うし、牌の大きさがでかいということがあって、あがった時に牌をまとめて倒すような時に使うらしい。
慣れるとこの道具なしでは落ち着かなくなると聞いたけれど、たしかに、手に馴染んでくると、これで牌を揃えるのが楽しくなってくる。

先日、中国式ルールの世界麻雀大会に参加して、これは日本予選で敗退した。
この大会にはもう一つ、日本式ルール(いわゆるリーチ麻雀)の部門もあって、そちらの部門の日本予選で優勝したので、マカオで開催される決勝大会への参加費免除での出場権をもらって、マカオまで行ってきた。
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開催会場はWynnホテル。マカオのカジノ市場が自由化されて世界に開放された後に、アメリカ資本で建てられたドでかいホテルで、そこのホールを貸し切って開催された。
会場の中には、ベレー帽をかぶったガードマンが至るところに配置されて警備をしていて、随分と厳重でものものしい雰囲気に包まれている。
日本式ルール部門は、ほぼ日本のスタンダードルールに近いけれど、いくつか違うのは、
・親の連荘がない
・ノーテン罰府がない
・流局時のリーチ棒は次局に持ち越されず没収となる
という点だった。
小さな違いではあるけれど、これだけでも結構、戦略は変わってくる。
第1ラウンドから最終ラウンドまで、東風戦が16回。途中、集計や食事が途中で入るので、朝から始まって夜遅くまで続く。今回は残念ながら入賞出来なかった。
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会場には、中国、香港、マカオ、シンガポール、アメリカなど様々な出身の人がいたけれど、やはりダントツで多いのは中華系の人たちだった。
そこにいる参加者の素性はよくわからないけれど、5000米ドルの参加費を払って来ている人たちなのだと思うと、ちょっと謎めいている。
こうして、お互いの言葉もよくわからない同士、一つの卓を囲んで、束の間の時間を共に過ごし、共に戦うというのは、面白い体験だった。

水晶堂について