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2008年09月30日

生物から見た世界

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生物から見た世界(ユクスキュル/岩波書店)

これは、相当に面白い本だった。
コウモリやイルカは、超音波のソナーによって、人間には感知出来ない形で、周りの状況を三次元的に把握する。これは、人間にわからない感覚を、他の動物が感知出来る場合だけれど、その逆に、人間に感知出来るほとんどのものを、まったく感知出来ない生物もたくさん存在する。
だから、生物によって、その生物から見た世界というのはまったく姿が異なるもので、その生物固有の世界のことを、この本では「環世界」と呼んでいる。この、「環世界」の違いの激しさは、かなり衝撃的だ。

中でも、ダニの環世界の解説は、特に面白かった。
ダニには目がないので、表皮に分布する「光覚」を使って、木の枝の上に移動する。その後、哺乳類の皮膚腺から漂う酪酸の匂いを感知した時には身を投げる。温度感覚で、なにか温かいものの上に落ちたら、獲物の皮膚組織のに頭から食い込んで、血を吸う。獲物の上に落ちることに失敗した場合は、もう一度、木の枝の上に登ってやり直す。
ダニが持っている機能というのは、これですべてだ。要するに、血を吸って、産卵して死ぬ、ということを遂行するために必要十分な機能以外は一切持ち合わせていない。

この、ダニのような、わずかな感覚器しかない生物から世界を見たら、どれだけ少ない刺激の中で生きているんだろうと思うけれど、刺激の種類が少ないということは、より確実に、必要な信号をキャッチ出来るということだ。
ダニにとっては、視覚や聴覚などは必要ないというだけでなく、あると、それがかえってジャマになってしまうものなのだ。
おそらく、人間も、イルカのような生物からしたら、極度に視覚に依存した不便な生物に思えるだろうし、生物全体の視点からしたら、人間というのはまったく窮屈な環世界の中で生きているのだろう。

ダニが、枝の上でじっと獲物を待っていても、その真下を獲物が通りかかる確率はかなり低いのではないかと思うのだけれど、なんと、ダニはまったく栄養を取らずに17年間じっとしていることが出来るのだという。
生物によって違うのは、空間的な感覚だけでなく、時間的な感覚も、かなり異なるということだ。人間は、1秒間に17回という単位で、受け取った信号を処理するけれど、カタツムリは、1秒間に3回しか処理出来ない。だから、カタツムリ自身からしたら、自分自身がノロいという感じはまったくしないだろう。

他にも、ミミズやモグラやヤドカリなど、色々な生物の環世界を取り上げて解説がされているのだけれど、そのどれもが、独特な感覚と特殊技能を持っていて面白い。
同じ地球上に棲んでいても、生物の種が違うということは、もはやまったく別の次元に棲んでいるということに等しい。とにかく、世界観が一変してしまうような、大きな衝撃を与えてくれた本だった。

【名言】
あらゆる生物は機械にすぎないという確信を固守しようとする人は、いつの日か生物の環世界(Umwelt)を見てみたいという希望は捨ててほしい。(p.5)

動物主体は最も単純なものも最も複雑なものもすべて、それぞれの環世界に同じように完全にはめこまれている。単純な動物には単純な環世界が、複雑な動物にはそれに見合った豊かな構造の環世界が対応しているのである。(p.20)

ダニを取り囲む豊かな世界は崩れ去り、重要なものとしてはわずか三つの知覚標識と三つの作用標識からなる貧弱な姿に、つまりダニの環世界に変わる。だが環世界の貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。(p.22)

ある動物が実行できる行為が多いほど、その動物は環世界で多数の対象物を識別することができるといってよいだろう。実行できる行為が少なく作用像も少なければ、その環世界は少ない対象物からなる。このためその環世界はたしかに貧しいものではあるが、それだけ確実なものになっている。なぜなら、ものが少ないほうが、たくさんある場合より勝手がわかりやすいからである。(p.94)

人々が「良い環境」というとき、それはじつは「良い環世界」のことを意味している。環世界である以上、それは主体なしには存在しえない。それがいかなる主体にとっての環世界なのか、それがつねに問題なのである。(p.165)

2008年09月29日

宅配はネコである

クロネコヤマトの広告。
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オモロい。

2008年09月28日

Harry Potter and the Chamber of Secrets

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Harry Potter and the Chamber of Secrets(J.K.Rowling/Bloomsbury)

ハリー・ポッターシリーズの2巻目。1巻と比べると、舞台設定や世界観の前置きが必要ない分、最初からスムーズに物語が進んで、内容はかなり濃くなっている。
今回の話は、1作目よりも更にミステリー的な雰囲気が濃くなっていて、ファンタジー小説というよりはミステリー小説に近い。ダークな感じだったけれど、その分、とても先の展開が気になる構成になっていて、謎解きの内容も良かった。

ハリー・ポッターシリーズは、全体の構想を細かく作り上げてから書き始めていると聞いたけれど、たしかに、「あの伏線はここで活きてくるのか」と感心するような点がいくつもある。
1作目では、ほんのちょっとしか触れられなかった、「ハグリッドが学校を追放された理由」や「ロンの家」が、後になって物語の主題と密接に関わってくるようになるところは、かなり面白い。
それと同じように、2作目の今作では名前しか出ていない「アズカバン」の牢獄が3作目で重要になってくる、という風につながりがあるので、すべてを読み終わった後にもう一度見返すと、色々な発見があるに違いないと思う。


【名言】
'Not the greatest sorcerer in the world,' said Harry, breathing fast. 'Sorry to disappoint you, and all that, but the greatest wizard in the world is Albus Dumbledore. Everyone says so. Even when you were strong, you didn't dare try and take over at Hogwarts.'(p.232)

'Exactly,' said Dubmledore, beaming once more. 'Which makes you very different from Tom Riddle. It is our choices, Harry, that show what we truly are, far more than our abilities.'(p.245)

2008年09月27日

パコと魔法の絵本

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かなりオリジナルなテイストの映画だった。
最初から最後まで、ハイテンションのままノンストップで走り抜けるようなスピード感がある。それに加えて、画面の隅々までを埋め尽くすようなゴチャゴチャ感が作り出す「濃さ」が好きかどうかで、この映画の好き嫌いは分かれるだろうと思う。
自分の好みとしては、あまり物がなくてスッキリとした、「かもめ食堂」のような空間のほうが好きなので、その点の趣味はあまり合わなかった。

メインテーマの、感動ストーリーの部分は、子役であるアヤカ・ウイルソンのあどけなさにだいぶ頼っている気はするけれど、かなりストレートな正統派だった。
映画の中に登場する、部屋の装飾や小道具などは、かなり細かいところまでこだわりがあって、その凝りようとサービス精神は相当にスゴいと思う。この世界観の創造は、中島監督以外、他の誰にも真似出来ないだろう。

■パコと魔法の絵本
公式サイト→http://www.paco-magic.com/

2008年09月26日

間庭さん

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森村ゆきに紹介されて、ウルトラマラソンのランナーである、間庭さんに会った。
ウルトラマラソンというのは、フルマラソン(42.195km)以上の距離を走るマラソンのことらしく、彼女は、ギリシアのスパルタで開催される「スパルタスロン」という大会に、今月の26日・27日に参加する。その距離、なんと246km。
しかも、ギリシアは、昼と夜との温度差が40度以上もあり、山あり坂ありで高低差も激しい。フルマラソンを走るというだけでも、自分からしたらかなりのハードさと思うけれど、そこを遥かに超えて、慣れない土地を246kmをぶっ通しで走るというのは、気が遠くなるほどのチャレンジだ。

彼女は、このとんでもなく過酷なマラソンレースに参加すると同時に、チャリティー活動もおこなっている。応援してくれるサポーターを募って募金を集めて、もし自分が完走したら、そのお金は、カンボジアの子供を支援する基金に提供されるのだという。
間庭さんは、見た感じは穏やかで、とてもウルトラマラソンを走るようなランナーには見えない。しかし、地道にトレーニングを重ねて、日々の走り込みを続けて、今回の大舞台に挑む。無事、完走出来ますように。

2008年09月25日

おくりびと

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素晴らしい映画だった。
遺体を清めて棺に納める、納棺師という職業をテーマにした物語。
なんといっても、主演の本木雅弘が良かった。チェロ奏者である主人公の小林大悟は、楽団の仕事を失って、地元の山形に戻って納棺師になる。
納棺師の所作というのは、茶道や華道のような厳粛さがあって、とても芸術的なものなのだと思った。チェロ奏者と納棺師というのは、遠く離れたものであるように見えて、精神的な部分では深いつながりがあるものなのだと思う。その精神性を体現する人物として、本木雅弘はぴったりハマっていた。
会社の社長役の山崎努も、とにかく渋くてカッコよかった。

日本という国は、人が亡くなった後の遺体を、単なる物(object)である以上の、何か特殊な存在として扱う感覚が強い国だと思う。だから、遺体を扱う仕事というのは、神聖であると同時に、普通の仕事とは違う種類のものとして考えられることもある。
先入観によって、納棺師という職業を軽蔑する人たちも、身近な人間の死によって、実際にその仕事を目の前に見せられることで、考え方が変わってゆく。
ちょっと、この映画での、納棺師という職業に対する反応は過敏すぎる気がして、そこには違和感があったけれど、それでも、自分の身内が就く仕事として受け容れられにくいということは実際あるだろうと思う。

昔ながらの自然と街並みが残る、山形を舞台にしているという点もいいし、作品中で流れる音楽もいい。この映画の良さは、ストーリーそのものの良さというよりも、役者と舞台と音楽とが、この作品のテーマにピッタリと合ったことで生まれた、奇跡的な調和の結果なのだと思う。

この映画は、上演30分前に映画館に行ったら、既に満席の状態だった。
「モントリオール世界映画祭」で賞を受賞したことで、知名度が上がったためと思う。非常に地味なテーマの物語なので、この受賞がなかったら、あまり知られることもなく、ひっそりと上映されて消えていったかもしれないし、自分もこの映画の存在を知らずに終わったかもしれない。この作品に出会えて良かった。

■おくりびと
公式サイト→http://www.okuribito.jp/

2008年09月24日

善の研究

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善の研究<全注釈>(西田幾多郎/講談社)

言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。
同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えているだけのようなことが多くて、あまり参考にならなかったのだけれど、各章の終わりにある、その章のまとめには、要点が簡潔に書き加えられていて、原文だけを読むよりはわかりやすかった。

この本は、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の全四編から成っていて、主題は、第三編の「善」にある。一番読みやすいのも、この第三編であるので、ここだけを読んでも充分に要点は含まれていると思う。
この部分と比べると、第一編、第二編は、扱っている内容が極めて抽象的な概念であることもあって、かなり難しい。書かれた順番として、第一編は、第三編よりも後に書かれたということなので、より、話しの骨格を明確にするために、補助的に追加したものなのだろう。

この本の話しの進め方は、非常に緻密で、一段一段と論理を着実に積み重ねながら、話しを展開している。だから、途中でわからなくなると、自動的に、その後の話しにもついていけなくなるので、特に初めの部分は重要だ。
その、一番最初に出てくるのが「純粋経験」という概念で、その概念を起点として、この著書のすべての話しへとつながっている。しかし、一番難しかったのもこの始め部分だったので、ここがよくわからないために止めてしまうぐらいであれば、最初に、第三編の「善」から読んでしまったほうがいいと思う。

読んでいて思うのは、論理展開の厳密さで、その中に少しの不純物も混じらせまいとする、異様なまでの注意深さだ。
デカルトが「我思うゆえに我あり」というところを出発点として、それ以外の一切を排除したのと同じように、「最初にあるのは純粋経験だけである」ということだけを認めて、そこから、余計な偏見やノイズを丁寧に取り除きながら、思考を前に進めていく。
だから、あきれるほど遠まわしな言い回しが多いし、なんでわざわざ簡単なことをそこまでまわりくどく言うのかと思う部分もあるけれど、この進め方でのみ、誤りの入り込む余地のない、純粋な世界観を組み上げることが出来るのだろうと思う。

第三編の中にある、「意思の自由」というものはあるかどうか、という話しは特に面白かった。「善」というものが成立するかどうかは、意思に自由があるかどうかに大きくかかっているところがあり、この本では、特にその部分について詳しく検証がおこなわれている。
「善とは、宇宙の根源的統一力と合致した、個人性を実現するような行為」という結論については、納得がいく内容ではあったけれども、あまり斬新さや、新しい気づきは得られなかった。この本は、主張している内容そのものよりも、「道徳」や「善」といった抽象的なものを考える時の思考の進め方という点で、学ぶところが多い本だった。


【名言】
思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではなく、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、さらに適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。(p.61)

我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機がすなわち我である。(p.95)

世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。(p.125)

もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するのをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。(p.146)

意思の発展完成はただちに自己の発展感性となるので、善とは自己の発展感性であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(p.328)

西田にとって善とは人格の発現にあるが、その場合人格とは宇宙の根源的統一力と合致するとともに、それが各人において各様の個性をもって現れたものであった。(p.345)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月23日

香港

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香港というのは、奇妙に魅力的な場所だ。
東京の市街地を見慣れていると、ニューヨークや上海のような都会の景色には、もはやあまり驚きがない。多少のセンスの違いはあるけれど、単純化すれば同じ方向性の枠組みの中で作られた街という感じがする。
香港の中でも、表向きの顔ともいえるセントラル(中環)のような香港島の都心部は、マンハッタンと似たような雰囲気で、まったく面白味がないけれど、九龍半島の路地裏は、まったく別次元のロジックによって出来上がっている空間なのだと思う。

建築物が、まずスゴい。住居の密集の過剰さといい、やたらと細長く縦に伸びたバランスの悪さといい、複雑に入り組んだ構造といい、普通に考えたら大丈夫か?と思うような建物によって取り囲まれている。
以前、市街地の中に啓徳空港があった頃、信じられないほどビルの間近をかすめながら飛んでいく飛行機を見た時には、その非現実的な光景にものすごい衝撃を受けた。小さな土地の中に、とんでもないぐらいムリヤリにたくさんの物を押し込んでいる街だと思った。

この混沌さにもかかわらず、たまらない魅力を感じるのは何故なんだろうと思うけれど、日常とはかけ離れた、思ってもみなかった領域に引っ張り込まれるワクワク感が、そこらじゅうに転がっているからなのだろう。
表通りから一本外れた路地裏や、雑居ビルの中に一歩踏み込んだだけで、まったく予想もつかない展開が待っている。街中、いたるところが魔窟だ。この、無秩序が支配する香港の面白さと比べたら、見物料を払って入場するような、整備された観光地に、いったい何の面白さがあるだろうかと思ってしまう。

2008年09月22日

中国の麻雀牌

マカオの大会で、初めて中国式の麻雀牌を使った。
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中国式の麻雀セットは、牌がやたらとでかい。今回使われていた「天下無敵(INVINCIBLE)」という牌には、国際対応しているのか、牌の右上に「1~9」の数字や、「W(WEST)」「B(BLANK)」などの英字が入っている。

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六筒の向きが逆なのが不思議だけれど、本当はこの向きが正しいのかも知れない。
他には、「白」にも「□」の絵柄が入っているのが、日本の牌とは違うところ。

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大会で使用した卓は、自動卓ではない普通のテーブルなので、手積みで積む。
決勝戦のテーブルのみは自動卓になっていて、見た目はかなり立派なのだけれど、動作不良を起こしやすいらしく、長い時間をかけて整備が繰り返されていた。

みんな好んで手に持って使っていたのが、平らな細長い棒。
牌の位置を整えるのにも使うし、牌の大きさがでかいということがあって、あがった時に牌をまとめて倒すような時に使うらしい。
慣れるとこの道具なしでは落ち着かなくなると聞いたけれど、たしかに、手に馴染んでくると、これで牌を揃えるのが楽しくなってくる。

2008年09月21日

世界麻雀大会マカオ編

先日、中国式ルールの世界麻雀大会に参加して、これは日本予選で敗退した。
この大会にはもう一つ、日本式ルール(いわゆるリーチ麻雀)の部門もあって、そちらの部門の日本予選で優勝したので、マカオで開催される決勝大会への参加費免除での出場権をもらって、マカオまで行ってきた。

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開催会場はWynnホテル。マカオのカジノ市場が自由化されて世界に開放された後に、アメリカ資本で建てられたドでかいホテルで、そこのホールを貸し切って開催された。
会場の中には、ベレー帽をかぶったガードマンが至るところに配置されて警備をしていて、随分と厳重でものものしい雰囲気に包まれている。

日本式ルール部門は、ほぼ日本のスタンダードルールに近いけれど、いくつか違うのは、
・親の連荘がない
・ノーテン罰府がない
・流局時のリーチ棒は次局に持ち越されず没収となる
という点だった。
小さな違いではあるけれど、これだけでも結構、戦略は変わってくる。
第1ラウンドから最終ラウンドまで、東風戦が16回。途中、集計や食事が途中で入るので、朝から始まって夜遅くまで続く。今回は残念ながら入賞出来なかった。

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会場には、中国、香港、マカオ、シンガポール、アメリカなど様々な出身の人がいたけれど、やはりダントツで多いのは中華系の人たちだった。
そこにいる参加者の素性はよくわからないけれど、5000米ドルの参加費を払って来ている人たちなのだと思うと、ちょっと謎めいている。
こうして、お互いの言葉もよくわからない同士、一つの卓を囲んで、束の間の時間を共に過ごし、共に戦うというのは、面白い体験だった。

2008年09月20日

Zaozan

JALの飛行機で移動中、座席の前のディスプレイで、現在位置が表示されるようになっていた。
地図の中に、日本の主要都市の地名が表示されていて、「Tokyo」「Sapporo」「Osaka」「Saga」「Kagoshima」はわかるとして、「Zaozan」というのがどこのことだかわからなかった。

プログラムのバグか何かで中国の地名が日本の中に表示されているのかと思ったけれど、表示が英語から日本語に切り替わった時、「蔵王山」のことなのだとわかった。
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そのあたりの位置を示すのだったら、「仙台」とかもっとメジャーな地名があるだろうに、何故わざわざ「蔵王山」を選んでいるのか、よくわからない。

2008年09月19日

シッダールタ

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シッダールタ(ヘッセ/新潮社)

「シッダールタ」というのは、仏陀のことだと思っていたから、作品中で、主人公のシッダールタが仏陀に会うシーンがあった時に、一体どういうことか?と混乱した。
ややこしいけれど、シッダールタは、仏陀(ゴーダマ・シッダールタ)とは別の人物であるらしい。その、シッダールタが悟りに至るまでの修行を道のりを描いた物語。

内容的には、かなり仏教的思想に満ちていて、これを、ドイツ人のヘッセが書いたというのは、かなり驚きだ。しかしなんとなく、どこかやはり、たとえばこれを日本人が書いた場合とはかなり雰囲気が違っている感じがある。シッダールタという人について、より人間らしく、神聖化せずに描いているという印象だった。
仏陀に会っても、その教えに帰依しなかったり、結構意外な動きに出るし、普通に考えてダメダメなところも多々ある。途中、いい服を着るために商売人のもとで働き出して、ビジネスや賭博の方面でも才覚をあらわす、という、ギャグのようなところもあり、これはかなり衝撃的だった。

ゴーヴィンダという、幼なじみの友人との関わりが、物語の中で重要な位置づけを占めるというところは、「車輪の下」や「デミアン」に似た友情テイストが入っているし、悟りに至るプロセスや、悟りを得た内容についても、仏陀のものとは異なり、ヘッセの哲学がそこに入り込んで、独自にカスタマイズされた思想といえる。
しかし、最終的に時間という感覚がなくなってしまうというところや、石や木などすべてを愛する、というところなど、かなりスゴいところまで行ってしまっているし、東洋的な考え方がとても色濃く表われていると思う。
仏教小説という感じなのかと思っていたら、どちらかというと、山あり谷あり挫折ありの青春小説のような雰囲気で、想像していたのとはちょっと違う本だった。


【名言】
ぼくが今日まで沙門のもとで学んだことなんか、ゴーヴィンダよ、もっと早くもっと簡単に学べただろう。売女街の居酒屋でも、荷馬車の御者やばくち打ちのあいだでも学ぶことができただろう。
冥想とは何か。肉体からの離脱とは何か。断食とは何か。呼吸の停止とは何か。それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない。そんな逃避や、しばしの麻酔なら、牛追いにだって宿屋で数杯の酒か、発酵したヤシの乳液を飲むとき、見いだすのだ。それで牛追いは自分を忘れ、生活の苦痛を忘れ、しばしの麻酔を見いだす。彼は、数杯の酒で寝入り、シッダールタやゴーヴィンダが長い修行のうちに肉体から脱出して、無我の中にとどまるときに見いだすものを見いだすのだ。そうなんだよ、ゴーヴィンダよ。(p.22)

「おん身は賢い、沙門よ」と世尊は言った。「おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きい賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。(p.42)

周囲の世界が彼から溶け去り、彼ひとり空の星のように孤立したこの瞬間、冷たく気落ちしたこの瞬間から、シッダールタは浮かびあがった。前より以上に自我となり、堅く凝りかたまった。(p.48)

このバラモンはほんとの商人ではない。商人になることはないだろう。彼の心は商売に熱心になることはない。しかし彼は、成功がおのずから訪れてくるような人間の秘密を持っている。それが生まれつきの良い星であるにせよ、魔力であるにせよ、彼が沙門たちのもとで学んだ何かであるにせよ。(p.73)

これが今は彼を見捨ててしまった。三つのどれもが、断食することも、待つことも、考えることも、もはや、彼のものではなかった。最もあさましいことのために、最もはかないことのために、官能の喜びのために、安逸の生活のために、富のために、あの三つを放棄してしまったのだった!実際、彼は奇妙な経路をたどってきた。今、彼はほんとに小児人になってしまった、と思われた。(p.101)

自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。このうえ自分の道はどこへ自分を連れて行くことかしら?この道はたわけている。らせん形を描いている。輪を描いているのかもしれない。好きなように進むがよい。自分はその道を行こう。(p.103)

みずからこの生活を生き、みずからを生活で汚し、みずから罪を背負いこみ、みずからにがい汁を飲み、みずから自分の道を見いだすことに対し、いかなる父が、いかなる師が彼を守りえたろうか。この道がだれかに免除される、とおん身は信じるか。おん身がむすこを愛するからといって、子どものために悩みと苦痛と失望を免除してやりたいと願うからといって、そうしてやれると思うか。たとえおん身が十度彼のために死んだとしても、それで彼の運命のいちばん小さい部分でさえ、取り除いてやることはできないだろう。(p.128)

さぐり求めると、その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。(p.146)

物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。(p.154)

時間が存在するかどうかを知らず、この観察が続いたのが一秒であったか、百年であったか知らず、シッダールタなるもの、ゴータマなるものが存在するのかどうか、我となんじが存在するのかどうかも知らず。(p.158)

2008年09月18日

不良のタオ

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不良のタオ(安部英樹/講談社)

タオ(道教)をテーマにした本なのだけれど、著者が台湾で師と出会い、タオの道に入るまでの、来歴がかなり面白い。高校生の時に群馬県の総番になり、学校を退学になった後、ヤクザや右翼活動にたずさわり、台湾の裏社会に根を張ったのだという。
著者は、タオの道とはもっとも離れた世界で生きていたような人であるのだけれど、親鸞の悪人正機説と同じ理屈で、そういう人であったからこそ、タオの本質を最も理解しやすかったのだろうという気もする。

もともと根性があるというだけでなく、カイロやアメリカに留学して語学を勉強して、現地で生活が出来ているのだから、とにかく努力家の人なのだと思う。台湾であらゆる占術を学んだり、「孫子」や心理学を独学で勉強したという、有能な人でもあると思うのだけれど、「頭がいいということは最悪なことだ」と、この本に出てくる卓師父に一蹴されてしまう。
タオというのは、不思議な世界だ。あらゆることを、今の世の中の常識とは逆の観点から見ている。「強くなるのではなく、弱くなれ」「受け身になれ」「役に立つ人間になるな」「学問をするな」と教える。
卓師父は、毎晩浴びるほどブランデーを飲み、一番強いタバコを日に何箱も吸う。宗教家というイメージとはだいぶ異なるけれども、それでも、台湾政府の高官や軍の最高指導者など、多くの人が毎日、この師に会うために山奥の山荘に訪れてくる。
そこで語られる、世間の日常と隔絶したタオの教えは、理屈を通りこして魅力的だ。独特な来歴と個性を持った、この著者にしか書けない、とても面白い本だと思った。


【名言】
俺がこの瀕死の状態に追い込まれた最大の原因は、なんといっても学問をしたことに尽きるだろう。学問をしてよけいな知識をもったことによって、俺はいつしか自然なタオから逸脱し、道なき広野をさ迷った挙句、もう、にっちもさっちもいかない精神の土壇場まで踏み込んでしまい、そこで瀕死の状態で呻いていたのだ。(p.61)

人間は原理原則だけを知っていればよく、そこから派生するモノに心を奪われると、やがて道に迷ってしまう。なぜならば、それらは留まることなく変化し続ける万華鏡のようなモノだからだ。こんなモノといつまでも付き合っていたら、やがて俺のように道に迷って必ず死地に追い込まれることは必定だ。(p.67)

心がここにあれば、家のなかにいても天下の情勢はわかるものだ。
心がここにあれば、窓の陰にいても、世の中の動きがわかるものだ。
だから、心が家を離れると、遠くにいくほどにわからなくなる。
だからタオと一体な人は、行かなくても知っているし、
また見ようとしなくても、明らかに見えるし、
何もしなくても、物ごとが自然と成功するのだ。(p.127)

人は、孤立や孤独や不幸を毛嫌いするが、タオを学ぶ者は、決してこれを毛嫌いなどはしないぞ。
なぜなら、物ごとというものは、ある時は増して、ある時は減って、また増して、また減るようなもので、いわば、どっちつかずなものだからだ。(p.195)

2008年09月17日

智慧の実を食べよう 学問は驚きだ

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智慧の実を食べよう 学問は驚きだ(糸井重里/ぴあ)

それぞれ独自の研究を進めている、4人の学者をセレクトしておこなわれた講座の講演録。一般向けにおこなわれた講演をそのまま収録しているので、専門書を読むよりもはるかにわかりやすい言葉で説明されている。
この本に収録されているのは、岩井克人氏、松井孝典氏、山岸俊男氏、川勝平太氏の講演。
タイトルからして、もっと理解不能でエキセントリックな内容を想像していたので、それと比べると、かなり普通に、親しみやすく、タメになると思うような話しばかりだった。

講演の話しというのは、本に書かれた内容よりも、その人の人柄がよく伝わってきて面白い。特に、岩井克人さんの講演録は、とても臨場感があって、経済学を勉強する過程での回り道や困惑など、プライベートな考え方の部分までもが明らかになっていて、余計にその、言っている内容の背景が理解しやすかった。
巻末におまけとして収録されている、色々な人の一言を集めた「50の言葉」というのも、イトイ新聞ぽい内容で、さりげなく、いい付録だと思う。


【名言】
学問をやっている人って、自分さえもその結果に驚くような結論に、ときには、たどりついちゃうじゃないですか。アルキメデスが風呂から飛び出したエピソードも、あれは、何より、自分が驚いたんですよね。(糸井重里)(p.17)

簡単に言うと、近代以前の社会とは、「ヒトとモノとが厳密には区別されていないため、時にはヒトがモノとして扱われているという集団」なんです。(岩井克人)(p.39)

ケインズ自身が作り上げた「一般理論」は、内容的に経済学にものすごいインパクトを与えた。しかし、そのインパクトをさらに強めた要素があるんです。ケインズには、「ケインズになる前」というものがあるのです。これは、すごく重要でした。このケインズになる前のケインズは、伝統的な経済学で最も有名な実力者だった。伝統的な経済学のチャンピオンだった人が、その経済学を批判してしまったので、ものすごいインパクトになったんです。最初から異端でいると、なかなかメインストリームにはならない。(岩井克人)(p.121)

たとえば、生物圏が生まれた結果として、大気圏あるいは海の中に酸素がたまったわけです。これを今風の環境問題の議論のように言えば、「酸素という汚染物質が大気海にたまって、それ以前の嫌気性の生物、すなわち酸素の存在下では生きられないような生物が、生物圏の片隅に追いやられた」というようなことになります。(松井孝典)(p.148)

おそらく「研究のおもしろさ」というのは、大きく分けて、二つあると思います。一つ目は「ゲームを解くおもしろさ」です。わたしがアメリカにいるときには、特にこちらをやっておりました。「現在、みんなが解きたがっている問題があって、そいつを一番最初にきれいに解くというおもしろさ」です。ただし、それにハマると、もっとおもしろいおもしろさがあるというのがわからなくなるんですよ。それがもう一つのおもしろさの「問題を作るおもしろさ」です。(山岸俊男)(p.178)

日本は地名でもって時代区分している国です。地名で時代区分している国がほかにあるでしょうか。お帰りになって、世界史年表をちょっと見てください。そうすると、首都機能を移転して国はたくさんありますけれども、首都機能のおかれた地名で時代区分してはいません。(川勝平太)(p.267)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月16日

東大入試 至高の国語「第二問」

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東大入試 至高の国語「第二問」(竹内康浩/朝日新聞出版)

あらゆる入試の中でも、東大の現代文の試験というのは、独特な問題が多いのだという。特に「第二問」は、文章を読んだ上で感想や考えを200字以内でまとめるという簡潔な形式ながら、良問ぞろいと言われている。
この本では、過去の様々な「第二問」が取り上げられていて、それを見ると確かに、短いながらも本質的な問いかけをもっている文章ばかりが、見事に揃っていると思う。

この、名作というべき数々の過去問題をまとめて見れるという点で、この本はとても素晴らしいのだけれど、それぞれの問題についての著者の解説は、あまりしっくりこなかった。
ただ、この「第二問」は実に幅広い解釈が可能な問題ばかりで、数学や世界史のように答えが決まっている科目と比べれば、人によってその見方はかなり違うので、解説をしようとすること自体がそもそも難しいのだろう。

特に面白いと思った問題は、
「寅さん」の映画中のセリフ3つから一つを選んで感想を書かせる1992年と、
死を覚悟した国木田独歩が友人に宛てた手紙に対して返信をさせる1982年の問題だった。


【名言】
次のア・イ・ウは、同じ主人公が登場するシリーズものの映画のセリフである。ア・イ・ウのいずれかを選び、それを手掛かりとして、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ。

ア「インテリというのは自分で考えすぎますからね、そのうち俺は何を考えていただろうって、分かんなくなってくるんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャにこみ入っているわけなんですよね、ええ、その点私なんか線が一本だけですから、まァ、いってみりゃ空っポといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、なぐってみましょうか」
イ「寅さん、人はなぜ死ぬのでしょうねえ」
「人間?そうねえ、まァ、なんて言うかな、結局あれじゃないですかね、人間が、いつまでも生きていると、陸の上がね、人間ばかりになっちゃう−−うじゃうじゃ、うじゃうじゃメンセキが決まっているから、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらマンジュウしているうちに、足の置く場がなくなっちゃって、隅っこに居るやつが、アアなんて海の中へ、パチャンと落っこって、アップ、アップして『助けてくれ!助けてくれ!』なんてね、死んじゃう。そういうことになってるんじゃないですか、昔から。そういうことは深く考えないほうがいいですよ」
ウ「梅の花が咲いております。どこからともなく聞こえてくる谷川のせせらぎの音も、何か春近きを思わせる今日この頃でございます。旅から旅へのしがない渡世の私共が、粋がってオーバーも着ずに歩いておりますが、本当のところ、あの春を待ちわびて鳴く小鳥のように、暖かい陽ざしのさす季節に、恋い焦がれているのでございます」(p.31)

2008年09月15日

君を幸せにする会社

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君を幸せにする会社(天野敦之/日本実業出版社)

これまでに主流だった経営論、ビジネス論の多くは、戦略として、いかに他の人や、他の会社との差を拡大するか、という点に主眼をおいていたと思う。
事業のユニークネスは何なのか?コアコンピタンスは何なのか?それによって、どのような競争優位を確保するべきなのか?
それは、非常に理にかなった方法ではあるけれど、それによって生み出されることがある悲劇について、この本は書いている。
「差」を作り出すのではなく、「和」を作り出す経営に切り替えた場合、会社というのはどうなるかということを、物語仕立てで表現している本だ。難しい言葉は一切出てこず、かなり読みやすい。組織運営の一つのモデルケースとして、とても参考になる物語だった。

【名言】
他者と競ったり比較したりすることから自由になれば、すべてに感謝の心をもって幸せに生きることができる。
ずっと競争社会にいたクマ太郎にとって、競争しないという考え方には、身体が拒絶反応を示してしまうのだ。
がんばってMBAを取得したのも、人生の成功者になりたかったからだ。お金持ちになって、豪邸に住んで、みんなからちやほやされたい。そんな夢を描いていたクマ太郎にとって、競争しないことは逃げることと同じじゃないかと本能的に感じてしまうのだ。(p.158)

そんなとき、心地いいそよ風が吹いた。
夕日がますます紅くなり、辺りは幻想的な雰囲気になった。
「すばらしいな・・」
クマ太郎は深い幸福感を味わっていた。
その瞬間、クマ太郎は重大なことに気づいた。
「こんなに深い幸福感を味わうのに、今お金が必要だったろうか?いや、一円もかかっていない。本当に幸福を味わうのに、お金は必要ではないんじゃないか」(p.160)

2008年09月14日

幾松

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旧長州藩屋敷の場所にある料理旅館。桂小五郎(木戸孝允)と、その妻、幾松の逸話がいくつも残る場所で、店に入ると、最初にその解説をひととおりしてくれる。
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新撰組などが入り込んで来た時のための、隠し扉や落とし岩などの仕掛けがあったり、桂小五郎直筆の掛け軸など、貴重な品物が数々展示されていて、面白いものがたくさんあった。喫煙室や、池の上にかけられた廊下など、どこを見ても造りが凝っていて良い。

川床という、鴨川沿いにしつらえられた縁台の上で食事が出来て、そこの景色が抜群にいい。このあたりには高い建物もネオンもなく、ただ鴨川の流れと、その向こうに大文字山が見えるだけの、とても静かな場所だ。築200年の造りをそのままに残した、趣のある、いかにも京都らしい風情の店だった。

■幾松
京都府京都市中京区木屋町御池上ル上樵木町497番
075-231-1234
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十五夜の時期なので、お供えが置いてあった。

2008年09月13日

ウルトラヘブン

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ウルトラヘヴン (1) (ビームコミックス)
ウルトラヘブン(小池桂一/エンターブレイン)

世の中にはとんでもない天才がいるものだと思った。
この本が描いているのは、薬事法改正でドラッグの規制が緩和されて、ドラッグが煙草のような嗜好品として日常的に扱われる世界。客の好みに合わせてドラッグのカクテルを作って出すポンプバーがあったり、衛生局の査察官による取り締まりがあったり、そういう近未来描写がまず、すごい想像力だ。

なによりも、ドラッグでトリップした時の表現がものすごい。時間の動きがコマ送りみたいになったり、自分の手が壁にくっついて細胞分裂をしていったり、遠くの物と近くの物の位置が逆転したり。これだけは、とても文章による表現では到底追いつけない。読んでいて怖ろしくなるほどの、とんでもないリアリティーだった。

ドラッグの作用というのは、端的にいえば、脳内の体内時計をズラすものであるらしい。パソコンでいえばCPUのクロックのようなもので、人間はそれに従って脳が情報処理をしているから、秩序と意味を持って現実を把握出来る。その時計の周期がズレると、時間も空間も無秩序に自分の感覚の中に流れ込んでくることになる。
しかし、考えてみれば、時間と空間というものを秩序立てて理解出来るということのほうが特別なことで、世の中のありのままの姿というのは、この作品に表れているような混沌状態にあるのではないかと思った。
擬似的にせよ、その混沌を、あたかも秩序があるかのように構築する「脳」というのは人間の理解を遠く超えたブラックボックスとしか言いようがない。

世の中には、その時々に応じて、その時代の人間が共通に持つコモンセンスがある。人類は、地動説や進化論を知る前と後とでは、世界観がまったく違う。そして、センセーショナルな発見をトリガーにして世界観が変わるのと歩調をあわせて、人の意識も進化してきたのだろうと思う。
この作品は、人間が持つべき常識を、数十年は先取りしているんではないだろうか。これほどの衝撃を受けた作品は、久しぶりだった。


【名言】
・・遠い遠いさいはての地から、ばからしくもなつかしい古巣へ帰りついたような・・そんな印象だけが残ったな・・この地の果て、人がたどりつける最も遠い・・(1巻 p.84)

薬事法改正以来、この国じゃ誰もが気軽に気分を変えられるようになった。安堵、緊張感、ノスタルジー・・あらゆる精神状態がポンプ一発で手に入る。まやかしだよ、何もかも・・脳内物質のバランスをほんの束の間いじるだけ。結局は何も変わらない・・(1巻 p.107)

量子論的に言うならば、脳における情報処理は量子における波動関数の崩壊であるということです。では、実際に波を形づくるのは何か?波の動きは何によって条件づけられるのかというと、それは海全体のうねりなんです。つまり、ひとつの波は海全体の運動状態を表現している・・ひとつの素粒子は全宇宙の情報を表現しているとも言えます。(2巻 p.48)

脳の自動的な情報処理がストップしたの。生まれたての赤ん坊と同じ。
たいていの人に赤ん坊の頃の記憶がないのは、記憶は情報が処理されて初めて成り立つものだから。いまあたしたちがいるのは、それ以前の、量子的ゆらぎの世界。エネルギーの海・・。(2巻 p.106)

2008年09月12日

フェルメール展

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上野の東京都美術館で開催されている「フェルメール展」。
といっても、フェルメールの絵は7点のみで、副題は「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」。

好きだった絵ベスト3は、
○ヨハネス・フェルメール「リュートを調弦する女」
○ヤン・フェルコリエ「使者」
○ダニエル・フォスマール「壊れた壁のあるオランダの町の眺望」
だった。

「リュートを調弦する女」
ほぼ白黒に近いぐらい色彩がなく、陰影が目立つ絵。
カーテンの淡い影と、手前の椅子の強い影との対比がキレイなのと、壁にかかっている地図がとてもいい雰囲気を出していた。リュートを調弦している女の人は、眉がなくて、目がギョロっとしていて、幽鬼のような顔立ちをしている。

「使者」
これは、女の人が着ている、真珠色のドレスが素晴らしかった。
ドレスの襞や光沢の描き込みがハンパなく細かくて、絵自体が発光しているような明るさがある絵だった。

「壊れた壁のあるオランダの町の眺望」
レンガの壁が壊れて斜めになっていて、その線がキャンバスを横切り、レンガの向こうに青空と森が広がっているという、面白い構図の絵。
この、斜めの壁がなければ、ごく普通の絵なのだけれど、線が一本入ることで、随分と印象的な絵になっていた。

入口で配布されている「出品リスト」によると、出品される予定だった絵のうち2つが、「作品保護のため」という理由で、出品されなくなったらしい。
○ヨハネス・フェルメール「絵画芸術」
○エフベルト・ファン・デル・プール「デルフトの爆発」
の2つで、これはかなり残念だった。

「絵画芸術」は、フェルメールの絵の中で一番好きなものだったので、ぜひとも見てみたかった。「デルフトの爆発」は、小さな見本が壁に掛けてあったのだけれど、それを見た感じでは、とても良さそうな絵だった。

■フェルメール展
http://www.tbs.co.jp/vermeer/jpn/index-j.html
会期:2008年8月2日(土)~12月14日(日)
月曜休室(月曜が祝日の場合は開室し、翌日休室)
午前9時~午後5時/金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)

2008年09月11日

フェルメール全点踏破の旅

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フェルメール全点踏破の旅(朽木ゆり子/集英社)

フェルメールの絵は、世界中でわずか三十数点しか現存していない。
この、寡作さゆえに成立した、「フェルメールの絵を全点見てまわる」ことをテーマにした旅の記録。年代順にフェルメールの絵を解説するのではなく、フェルメールが展示されている国ごとに分けて、その所蔵美術館や、絵の来歴を踏まえて解説しているというのは、とても面白い。この旅行記を参考に、実際に全点踏破の旅に出かける人もいることだろうと思う。

この本のいいところは、フェルメールの全作品が掲載されているので、安価ながら、画集としての見方も出来るということだ。小さくて軽い割りに、印刷の質は悪くなく、色もキレイだし、絵の細かい部分までよくわかる。
画集といえば、重くて高くて印刷が粗かったりするものも多いなか、このコストパフォーマンスの高さは、かなりの価値があると思う。

この本で見た中で、特に好きだと思った絵は、「絵画芸術」「デルフト眺望」の2点だった。
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【名言】
フェルメールの絵の大部分は宗教画ではない。この事実は私にとって、またおそらく大部分の日本人にとって、フェルメールの絵を近づきやすいものにしている大きな要因だろう。手紙を読んだり、人と話したりという、室内での日常的な風景を描いた彼の絵の世界は、私たちが現在暮らしている世界とあまり離れていないように感じられ、親近感と同時に時間的なギャップを超えた普遍的な美を感じ取ることができる。(p.14)

学芸員のヒルタイさんはこんなふうにいう。
「こうやって見てくると、フェルメールは他の17世紀の画家と共通点もあるけれど、やはり別格だと思うのですね。彼は絵の構成もうまいし、技法もずば抜けているといわれますが、技法ということならヘーラルト・ダウなどもすばらしいと思うのです。そして、テル・ボルフもハーブリエル・メッツーも物語を描かせたら非常にうまい。しかしフェルメールにはそれとはまったく異質の側面があるのです。あえて言葉にするなら、それはある種のスピリチュアリティのようなもの、とでもいえるでしょうか」(p.146)

不思議なのは、最盛期には非常にシンプルで寓意に頼らない絵を描いていた(と少なくとも私には思える)フェルメールが、なぜこのようなあれやこれや意味を解釈させるような絵を描くようになったのか、ということだ。(p.172)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月10日

禅と日本文化

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禅と日本文化(鈴木大拙/岩波書店)

この本はスゴい。禅そのものについて語るのではなく、「武士」「茶道」「俳句」など、日本固有の文化を切り口として、それぞれと禅の関係を語ることによって、禅というものを浮かび上がらせるという、斬新な手法だ。

年を重ねるほどに思うことだけれど、日本が長い年月をかけて熟成してきた文化というのは、本当に素晴らしいものだと思う。どの時代にも、どの文化にも、その背景には必ず、仏教と禅の影響があったということは、言われてみれば当然のことなのだけれど、新しい気づきだった。
現代においてもやはり、禅や仏教の影響というのは、日常生活の中に根強く入り込んでいる気がする。俳句というもの一つとっても、この本を読むと、これは確かに西洋的な分析思考で評論出来るようなものではなく、日本人が培ってきた精神の結晶なのだと思った。
出版されたのは戦前のことなので、現代の日本人読者とは価値観的に相容れないところが多いと思うけれど、自分にとっては、共感するところが非常に多い、相性がいい本だった。著者の意見は、かなり独断的なもの言いが強くて、当時で考えれば危険思想の部類だったかもしれない。

この本は、たとえば漢文や禅の公案を引用するような場合も、それぞれについて懇切丁寧に説明をしているというわけではなく、その内容については読者は既に知っているものとして、いきなり本題に入るような説明の仕方をする。
それでいて、どれも非常に本質的な話しばかりなので、ページ数はそれほど多くないにもかかわらず、内容的にはかなり濃い本だ。どの章も面白く、余計な部分がない。何度も繰り返し読み込む価値が充分にある本だと思う。


【名言】
近代西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学体系のたてかたも求めない。神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少なくともわれわれのうちのある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。(p.15)

禅匠たちが、いやしくも、芸術に対して感受性をもつ以上は、その鍛錬によってえた根本的の直観は彼らの芸術的の本能を動かすにきまっている。直感は明らかに芸術感情と密接に関連しているからそれによって禅匠たちは美を創造する、すなわち醜や不完全なものを通して完全感を表現する。禅匠のなかには立派な哲学者にはなれなくても、すぐれた芸術家となれる者がしばしばある。(p.24)

和尚は、あらゆる禅匠と同じく、かかる僧に対しては言語的説明の無益なるを知った。言葉の上の詮議は一つの複雑から他の複雑に入って、終わるところを知らぬからである。(p.29)

正宗は人を斬るということに関心を持たなかった。それは切る道具以上のものだった。しかし村正は切るということ以外にでられなかった。(p.66)

朱子は孔子の例にならい、自ら司馬光の大著を簡約して一部の中国史を編纂した。この書において、彼は「名分」という礼節の大原則を宣言し、それをもってあらゆる時代に通ずる政策の指導原理となすべきものと考えた。宇宙は天地の諸法則によって支配され、人事もまたそうである。これらの諸法則はわれわれのすべてに本来自らそなわるところのものを遵守することを要求する。人は「名」を有し、社会において一定の地位を占めるがゆえに、ある「分」を果たすべきである。(p.115)

禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直感的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。(p.121)

日本は近来好戦国として知られてきたが、全然誤りである。自己の性格について持つ意識は、自分たちは、全体としては、穏和な性質の国民だということである。その考えるのも道理である、日本全島をとりまく自然科学的雰囲気は気候上の水蒸気の存在にもとづく。山嶽・村落・森林などは水蒸気につつまれて柔らかな外貌を呈する。花は概して色がけばけばしくなく、やや和らぎを帯びてたおやかである。そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。このような環境に育てあげられた感じやすい心は、誤りなくそこから多くのものを吸収するが、それが心の和となる。(p.126)

仏教がどれほど日本人の歴史と生活のなかに入りこんでいるかを知ろうと思うなら、その最上の方法として、あらゆる寺院とそこに蔵せられている宝物のいっさいが破壊されたと想像することだ。そういう場合、いくら自然の風景と親切に富んだ人民に恵まれても、日本はいかにも荒涼たるところという感じがするであろう。(p.150)

人が「狂気」になったとき、偉大な事が成就されるとしばしば言われる・・という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞賛に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径をはずそうという衝動もない。(p.160)

俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。まずこういうことを知らねばならぬ。これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。(p.169)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月09日

歌舞伎「源平布引滝」

歌舞伎というものを初めて観た。
こんなにも面白いものだとは思わなかった。

やっていた演目は、
『源平布引滝』の中の「義賢最期」「竹生島遊覧」「実盛物語」と、『枕獅子』で、
『源平布引滝』は市川海老蔵が主役をつとめていた。

驚いたのは、スタントのような派手なアクションが盛り込まれていることだった。薄く立てた2枚のフスマの上に、フスマを横に置き、その上に海老蔵が立った後、そのままフスマが水平に倒れる、という大技は、かなり度肝をぬかれた。
木曽義賢の最期のシーンでも、海老蔵は、仁王立ちのまま、階段の上に前のめりに倒れる。「仏倒れ」という技(?)らしい。プロレス技とちがって、自分自身がダメージをくらう。「こんな危ないことを毎日やっていて、よく怪我しないな!」と思う。
長唄の中にあった、三味線のソロプレイのド派手な演奏にも驚いたし、歌舞伎は、自分が想像していたよりも、ずっとアクロバティックなものだった。

濃紺と金、とか、薄緑とピンク、とか普段見ないような色の組み合わせの衣装が、華やかで素晴らしい。役者たちの声も動きも、とてもキレイでカッコよく、洗練されていて良い。この夢のような空間の中には、宝塚と同じような、ファンタジックな活気がある。

そして、歌舞伎というものは、半分は知識で観るものなのだと思った。
今回、イヤホンガイドで解説を聞きながら観たのだけれど、この解説がなかったら、さっぱりわからないシーンだらけだったので、面白さは1割ぐらいになっていただろうと思う。
部屋の中に行灯が運ばれたら「夜になった」ことを示している、というように、細かい動きの中にも実は意味があるということも、それを知らないとわからない。
これは、深く知れば知るほどに、面白さが増していく芸能なのだと思った。

新秋九月大歌舞伎
平成20年9月1日(月)~25日(木)
場所:新橋演舞場

2008年09月08日

Harry Potter and the Philosopher's Stone

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Harry Potter and the Philosopher's Stone(J.K. Rowling/Bloomsbury Pub Ltd)

登場人物のキャラクターが単純な人ばかりで、ものすごくわかりやすい。いくらなんでも、そこまでわかりやすい悪役や、ドジなヤツはいないだろう、と思うけれど、このぐらいシンプルだからこそ、物語の面白さがストレートに伝わってくるんだろうという気がする。
話しの展開も、そんなに上手い具合に物事が進んでしまうのか、とびっくりするぐらい直球なのだけれど、それが結構、読んでいて気持ちいい。子供の頃にマンガを読んでいた時も、確かにこういう楽しさを感じていたんだと思う。

魔法の学校の描写がとても詳しくて、そこでの生活の雰囲気が、細かいところまでよく伝わってくる。この、別世界に自分が入り込んでいるような感覚になれるのは、ファンタジーとしてとても良く出来ているということなのだと思う。
「Platform Nine and three-quarters(9と4分の3番線ホーム)」とか、「Bertie Bott's Every-Flavour Beans(あらゆる種類の味がするお菓子)」とか、そういうネーミングのセンスはかなり好きだ。舞台がロンドンというのも、作品の空気にぴったりと合っていて、いい。

「指環物語」のような正統派ファンタジーと比べると、だいぶ現実世界に近いし、壮大さという点では劣るところもあるけれど、その分、親しみやすく、多くの人が楽しめる物語だと思う。


【名言】
'Hmm,' said a small voice in his ear. 'Difficult. Very difficult. Plenty of courage, I see. Not a bad mind, either. There's talent, oh my goodness, yes - and a nice thirst to prove yourself, now that's interesting... So where shall I put you?'(p.90)

In a rush of fierce joy he realised he'd found something he could do without being taught - this was easy, this was wonderful.(p.111)

But from that moment on, Hermione Granger became their friend. There are some things you can't share without ending up liking each other, and knocking out a twelve-foot mountain troll is one of them.(p.132)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月07日

濃ーいお茶

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昔は、お茶とかコーヒーの旨さがわからず、わざわざそういうものを飲んでいる人の気がしれなかった。
いつから変わったのか覚えてないのだけれど、気がつけば、毎日ほとんど、お茶かコーヒーばかり飲んでいる。

なんとなく、ペットボトルのお茶といえば伊藤園だろうと思っている。
伊藤園は、「新茶」だの「そば茶」だの「ほうじ茶」だの、色々な種類のお茶を積極的に出していて、しかも350ml、500ml、1l、2l・・とバラエティーに富んだサイズ展開をしていて、さらにホット用もきっちり用意しているという、プロ精神を感じさせる。

中でも、「おーいお茶 濃い味」はいい。
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「普通の味」と「濃い味」の、味の違いは正直よくわからないのだけれど、カテキンが多いほうがいいだろうという理由で、もう無条件に濃い味を選んでいる。

2008年09月06日

青色ダイオード

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青色発光ダイオードが実用化されて以降、街のネオンの明かりに青色が登場するようになったけれど、どうもあれがちゃんと見えない。
あの、青色の部分だけ遠近感がよくわからなくて、あんなものが車のバックライトとかに使われるようになったら、自分としては結構おそろしい。
他の人はみんな、ちゃんと見えてるんだろうか。

2008年09月05日

アメリカン・ギャングスター

アメリカン・ギャングスター

リドリー・スコットとラッセル・クロウという、「グラディエーター」と同じ組み合わせに興味を惹かれて観た。ラッセル・クロウは、ローマ時代なら良かったのだけれど、現代が舞台だと、独特の味はあっても、あまりカッコよさは感じない。
そのライバル役である、デンゼル・ワシントンの行動力と冷静な判断力は、かなりよかった。かなり非道なこともやってはいるけれど、アメリカの麻薬取締官や米軍の汚職っぷりがヒドすぎて、まだ、ギャングのほうが筋が通ったことをしていると思える。ギャングものの映画というのは、ボスがカッコいいかどうかですべてが決まる。

かなり前置きが長かったということと、二人の主人公が出会うのが、かなり最後のほうということがあって、盛り上がりのないシーンがかなり長く続くところは、ちょっとツラい。
ベトナム戦争時代のブロンクス、ブルックリン、ハーレムあたりが舞台で、その時代を再現したと思われる映像は素晴らしかった。自分が住んでいたわけでもないのに、ノスタルジーを感じる。どこまで忠実に再現されているのかわからないけれど、本当に40年前に撮ったと思うような街並みだった。

■アメリカン・ギャングスター
出演: デンゼル・ワシントン, ラッセル・クロウ
監督: リドリー・スコット
(2008年)

2008年09月04日

ホーキング、未来を語る

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ホーキング、未来を語る(スティーヴン・ホーキング/アーティストハウス)

この本は、語られている内容は難しいけれど、説明の仕方はユーモアにあふれていてわかりやすく、とても親切だった。文章だけではなく、CGによる美しい絵が多用されているという点もいい。
このCGは、あまりあっても意味がないものも多く、文章との対応もわかりづらいこともあるのだけれど、それでも、この挿絵のおかげで随分と、語られている世界観の理解はしやすかった。

テーマは一つに絞られているわけではなく、ホーキング氏が研究している最新の宇宙理論に関連した内容全般ついてで、かなり多岐にわたっている。タイムマシンの可能性についてや、ブレーン世界についての話しなど、テーマの選択自体が、とても面白いものばかりで、しかもそれが最終的に一つの流れにまとまっていくというのは、見事な構成だ。
原著は2001年に出版されたものなので、今やちょっと古くなってしまっている内容もあると思うのだけれど、最新理論の解説書として、かなり優れた内容と思う。この、キレイな挿絵を見るだけでも、充分にワクワクさせられる本だった。


【名言】
ある時空領域における量子状態についての情報は、その領域を囲む二次元境界面の上にコード化されて書かれているかもしれません。これはホログラムが、三次元の立体像を二次元平面の上に載せる方法と似ています。量子重力理論がホログラフィ原理を組み込むならば、ブラックホール内部がどうであるかを、地平面ができた後も追跡しつづけることができるのを意味します。(p.79)

いたるところに正エネルギー密度がある状況ではタイムマシンは不可能です。有限の大きさのタイムマシンを造るには、負エネルギーが必要だということを証明することができます。
古典理論ではエネルギー密度は常に正であり、そのため有限サイズのタイムマシンはこの段階で除外されます。ところが半古典理論では状況が異なります。量子論での不確定性原理によると、明らかに中に何もない空間においてさえ、場は常にゆらいでおり無限のエネルギー密度をもつことになっています。したがって、私たちが宇宙で観測する有限エネルギー密度を得るためには、無限量を差し引くことをしなければならないのです。この差し引きは少なくとも局所的にしろ、負のエネルギー密度を残すことができるでしょう。(p.165)

私たちが望む望まないにかかわらず、いずれヒトの遺伝子工学は始まるだろうと思います。人類とそのDNAは、急激に複雑さを増していくと私は考えています。それが起こりそうであると認めてから、私たちはどう扱うつもりであるかを考えるべきです。(p.187)

2008年09月03日

禅とは何か(鈴木大拙)

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禅とは何か(鈴木大拙/角川書店)

禅宗の入門的解説書なのだけれど、文章が読みにくい。意味が難解というのではなく、改行や句読点の位置が適切ではなくて、日本語の文として、かなり読みにくかった。同じ文章の繰り返しが何度も出てくるところは、さすがにちょっとひどいと思う箇所もある。
しかし、話しの内容は、もともと、一般向けに講演された内容を筆記したものであるということもあって、かなり日常に近い言葉で簡明に説明がされていると思う。講演は、昭和2~3年のものということなので、だいぶ昔の話しだけれど、普遍的なテーマばかりが語られているので、まったく古い感じはしない。

一般的な禅の教義の解説をしているのかと思いきや、著者独自の考え方がかなり色濃く出ていて、これは随分、ありきたりな解説書とはかけ離れた本なのではないかと思う。
仏教は、知と情、という二つのものから成っていると大拙氏は語っている。禅宗というものをどこまでも知的な宗教であるとしながらも、その話しの中には、「情」という側面から考えを進めている内容が多い。
「こう言う人もあると思うが、私はこう思う」と、自分自身の解釈をはっきりと述べている。著者の考えには突飛と思えるところもあったけれど、共感出来るところのほうがより多くあった。


【名言】
なんらかの条件による心の激変はすなわち宗教的意識の発芽を意味している。すべて人間は自己分裂を感じ始めたところに宗教心の芽ばえがあるのである。(p.16)

いったい禅宗はどこまでも知的な宗教であるからして、これにはいるには何にせよ幾ばくかの知識が必要である。他力本位の宗門ではこの知識ということを全然排斥するが、しかしその知識を排斥するところまではいってゆくには、かえって無非常な知識と非常な努力とを必要とするのである。知識の無用が考えられるのはただでき上がった人、回心の人々から見ての話なのである。(p.20)

われわれが人の言うことを聞いて信ずるということは、その言うことが本当であり、論理的であるということだけで、必ずしもそれを信ずるということにはならないのである。まず言うことが本当でなくてはならぬが、その外にその言っているところの者の人格が、その真実の中に加わって来ることが必要である。(p.28)

釈迦は四十九年一字不説と言うけれども、四十九年間説法せられたという点より見ると、やはり表現に言語を籍らなければならなかったことは分明である。われわれには思索が必要である。しかもただ物を考えただけでは駄目で、これを何かの形式で表現発表しなければならぬ。人間というものは、何かで自分の考えというものを伝えるものである。(p.48)

馬鹿と大天才との区分をつけようとするならば、大馬鹿にも大天才と同じ因子があるかも知れない。ただ天才はそれを表現することを知っているが、それをもたない者が大馬鹿となる。二つの岩があって一つの岩には彫刻者は美しき像を彫り出した。他の一つの岩は何にも手が着かぬゆえ依然として元の岩にすぎない。ここを考えてみると、馬鹿にはまだ自分を表現するだけの力の持ち合わせがないというだけのことである。だから表現というものをしなければならぬ。知るというだけに止めてはならぬ。(p.50)

われわれはいろいろと重重無尽に、次から次へと無窮にわたっているところの、この網の目の関係に立っているのであるから、その関係だけがあって、それ以外には何もないと言ってもよいのである。それを一切空であると仏教は教える。(p.130)

ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

2008年09月02日

紀伊國屋書店 横浜店

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横浜そごうの7階にある、紀伊國屋書店は好きだ。
広くて品揃えがいいということもあるし、窓がちょうど、みなとみらいやベイブリッジが見渡せる位置にあるというのがいい。
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横浜のダイヤモンド地下街にある有隣堂は、広さでいえば紀伊國屋書店よりもずっと広いけれど、ジャンルごとに場所があちこちに分かれてしまっていて、まわりづらいし、会計もしにくい。

本屋は、どこで買っても値段は同じだから、なんとなく居心地がいいとか、なんとなく好きな本が見つかりやすい気がする、という雰囲気で違いが出る。
横浜の紀伊國屋書店は、ディスプレイの影響なのか、気に入った本に出会う割合が高い。

2008年09月01日

フェルマーの最終定理

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フェルマーの最終定理(サイモンシン/新潮社)

最高に面白かった。
戦争や革命のような、何かの歴史上の大事件を扱っているというわけではないというのに、これほどにワクワクする話しがあるというのはスゴいことだ。この本に登場するのはただ、完全に形而上的な概念である「数学」という静かな世界と、それに魅せられた数学者の人生しかない。しかしその、一途に数学に賭ける姿はとてもドラマチックで、素晴らしい。

フェルマーの最終定理という、シンプルにして奥が深い一つの定理が、偉大な才能を持った多くの数学者たちを惹き付けて、その人生を狂わせていく。
この定理の証明は、ピタゴラスの時代から現代までに長い時間をかけて発展してきた数学の、あらゆる理論を総動員して、ようやく到達出来る最高峰なのだ。
数学というのは、なんと美しくて、面白い学問なんだろうと思う。

この本の素晴らしいところは、難しい数式は一切抜きにして、数学について詳しくない読者であっても、充分に数学の面白さが理解出来るような構成になっていることだ。
非常に複雑な定理についても、その意味と重要性という、本質部分のみを簡潔に説明して、醍醐味を味わえるようになっている。数式による解説のほうがわかりやすい項目については、補遺として巻末に数式によってもまとめられている。

この、サイモン・シンという著者が、この本の後に出した「暗号解読」という本も、最高に良かった。数学という、一般的にはなかなか手が届かない魅力的世界について、これほど構成を見事にまとめて、わかりやすい文章を書く人は他にいないだろうと思う。

【特に面白かった2つのエピソードの引用】
1)
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このチェスボードは、対角線上の二つの隅が切り取られて62マスになっている。また、ドミノ牌が31枚あって、それぞれ2マス分の大きさをもっている。
問題は「チェスボードの62マスを、31枚のドミノ牌で覆いつくすことは出来るか?」というものだ。
この問題の解決には、「科学的アプローチ」と「数学的アプローチ」の2通りがある。
<科学的アプローチ>
科学者はこの問題を実験によって解こうとする。そして何十通りかの並べ方を試したのち、どれもうまくいかないことに気づくだろう。最終的に科学者は、このチェスボードは覆い尽くせないと主張するだけの証拠はあると考える。しかし科学者は、自分の考えが正しいと確信することはできない。というのも、まだ試していない方法でボードを覆い尽くせないとはかぎらないからだ。
<数学的アプローチ>
・チェスボードから切り取られた隅は、両方とも白である。したがってボードには32個の黒いマスと30個の白いマスがある。
・それぞれのドミノ牌は、隣り合った2個のマスを覆う。そして、隣り合う二つの正方形は必ず色が異なっている。つまり、1個の黒と1個の白である。
・それゆえ、どんな並べ方をしようとも、30枚のドミノ牌は30個の黒いマスと30個の白いマスを覆う。
・結果として、つねに1枚のドミノ牌と2個の黒いマスが残る。
・ドミノ牌はつねに隣り合った2個のマスを覆い、隣り合っているマスはつねに色が違うことを思い出そう。残された2個のマスは同じ色なのだから、1枚のドミノ牌で両方を覆うことはできない。ゆえにこのチェスボードを覆い尽くすのは不可能である。
(p.61)

2)
素数は、自然界にも姿を現す。とくに注目に値するのが「ジュウシチネンゼミ」だ。このセミは昆虫のなかで最長のライフサイクルをもっている。ライフサイクルは地中ではじまり、幼虫は辛抱強く木の根から樹液を吸い続ける。そして17年待ったのちに、莫大な数のセミの成虫が地表に現れるのである。
生物学者を悩ませた問題は、このセミのライフサイクルはなぜそれほど長いのか、ライフサイクルの年数が素数になっていることに何か意味はあるのか、ということだった。ほかにも13年ごとに大発生する「ジュウサンネンゼミ」がいることから、ライフサイクルの年数が素数であることには進化論的な利点がありそうだ。
これは、セミの寄生虫とライフサイクルをずらして、なるべく同じ時期に発生することを避けるようにしているのだという。
(p.170)


【名言】
三世紀という時間の長さは、このパズルのただならぬ重みを物語っている。どんな科学の分野であれ、これだけ端的に提示されていながら、これほど長きにわたって学問の進歩という試練に耐えうる問題を作るのは容易なことではない。(p.13)

アメリカの数学者アルフレッド・アードラーはこう述べた。「数学者の数学的寿命は短い。二十五歳、三十歳を過ぎてからの仕事が前より良くなることはめったにない。それぐらいの年齢までに大した成果を挙げられなければ、その後もまず見込みはない」(p.31)

直感に反する確率問題の一つに、誕生日が同じになる確率を問うものがある。サッカーの競技場に、選手とレフェリー合わせて23人の人間がいるとしよう。この23人のうち、だれか二人の誕生日が同じになる確率はいくらになるだろうか?人間は23人しかいないのに対して、誕生日には365通りもの選択肢があるのだから、誕生日が一致する人間などいそうには思えない。もしも意見を求められれば、ほとんどの人はせいぜい10%の確率と答えるだろう。ところが実際には、答えは50%を超えるのである。(p.89)

虚数という概念は、現実世界にはなかなか対応物を見つけることができない。17世紀ドイツの数学者ゴットフリート・ライプニッツは、そんな虚数の奇妙な性質をいとも優美に表現した。「虚数とは、神なる聖霊の頼もしき拠り所にして、存在と非存在の相半ばするものなり」(p.152)

イアン・ステュアートは「現代数学の考え方」のなかで、数学者たちの性質を伝える小話を紹介している。
天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていたときのこと、列車の窓からふと原っぱを眺めると、一頭の黒い羊が目にとまった。天文学者がこう言った。「これはおもしろい。スコットランドの羊は黒いのだ」。物理学者がこう応じた。「何を言うか、スコットランドの羊のなかには黒いものがいるということじゃないか」。数学者は天を仰ぐと、歌うようにこう言った。「スコットランドには少なくとも一つの原っぱが存在し、その原っぱには少なくとも一頭の一時が含まれ、その羊の少なくとも一方の面は黒いということさ」(p.218)

ゲーデルは、真ではあるが決して証明できない命題、いわゆる「決定不可能」な命題が存在することを示すことに成功したのだった。ゲーデルの発見は、そのころ量子物理学の分野でなされた発見と似たところがある。不完全性定理の発表よりも4年前のこと、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが不確定性原理を発見していた。(p.235)

第一次世界大戦は化学者の戦争であり、第二次世界大戦は物理学者の戦争であると言われたことがある。しかしこの数十年間に公開された情報によれば、第二次世界大戦は数学者の戦争でもあったのである。もし第三次世界大戦があるとすれば、数学者の果たす役割はさらに重要になるだろう。(p.252)

たとえ私の考えていた数学にフェルマーの最終定理を証明するほどの力はなかったとしても、何かを証明することにはなるだろうと思っていたのです。私はあやしげな裏通りに入り込んでいたわけではなく、あれは間違いなく良い数学だった。それは一貫してそうでした。フェルマーの最終定理にたどり着けない可能性はあっても、単に時間を無駄にしているという心配はありませんでした。(p.357)