» 2008 » 11月のブログ記事

ゆきが、つくばマラソンで、目標として宣言していた3時間半のタイムをクリアして、3時間28分38秒で完走した。
ホントすごい。
余裕で設定した目標じゃなく、トレーニングを地道に重ねた末に越えられるかどうかという、ギリギリの目標だ。
人に宣言した目標を達成するというのは、自分で密かに立てた目標を達成するよりも、数倍厳しいことだと思う。誰にも言ってなければ、ひっそりと諦めちゃえばそれで簡単に終われるわけだから。
しかも、ゆきの場合、完走した時にはチャリティーとして集めた基金を寄付するという条件まで自ら上乗せしている。ハンパない精神力だ。


1984年(ジョージ・オーウェル/早川書房)

おそろしいまでに、絶望的な物語だった。
超高度な管理社会というのは、多くの人が想像するところだし、現代のように個人識別が精密になっている状況ではより一層、その推測はしやすいけれど、この小説の想像力はとんでもなく細かいレベルまで、管理社会の陰鬱さを突き詰めていってしまっている。
驚くのは、この小説が出版されたのが1948年で、まだ北朝鮮という国家が姿を現していない時代だったということだった。この物語に現れる国家は、ヒトラーやスターリンが構築したスタイルよりもさらに一歩進んだ、「神話」を作るという形での独裁統治をおこなっている。
今を支配する者は過去を捏造することが出来、過去を捏造出来る力がある者は、未来を操作することが出来る。第二次世界大戦直後の段階で、よくこれほどまでに緻密な世界観を想像することが出来たものだと思う。
人々を洗脳する手法について、やたらと詳しく設定されていて、特にスゴいと思ったのは、「新語法」という言論統制と、矛盾した概念をそのまま受け入れさせる「二重思考(ダブルシンク)」という思考法、そして拷問による転向。とにかく暗い。
党が、党員に対しておこなう洗脳の部分は、「こんな状況下に監禁されたら、たしかにどんな刷り込みでもされてしまうだろう」というリアリティーがあった。
真理とは、人間の意識が作り出すものなのだということがよくわかる。
この作品が描いている本当の怖ろしさは、その結末にこそあると思う。これが映画であれば、革命軍が体制を倒してハッピーエンドになるところだけれども、この作品はそんなに単純な締めくくりは用意していない。真正の管理社会では、人々は管理されているという自覚もないままに、完全な管理下に置かれてしまうものなのだろう。そして、精密なバランスをもって統制された権力は、永久機関のようにその権力を保ち続けることが出来る。
これからの将来、この「1984年」が描くような露骨な形では、自由の統制が起こることはなさそうな感じがするけれど、もっと隠密裏な形態での「超高度管理社会」というべきものは遠からず訪れる可能性がある気がする。
【名言】
結局のところ、ただ単にある言語と正反対の意味を持つだけの言葉なんて、一体どんな存在価値があるというのかね?一つの言葉はそれ自体、正反対の意味も含んでいなくちゃならん。例えば「good」(良い)の場合を取り上げてみよう。「good」みたいな言葉があるなら、「bad」(悪い)みたいな言葉の必要がどこにあろう。「ungood」(良くない)でじゅうぶんに間に合う。(p.67)
新語法の全般的な目的は思想の範囲を縮小するためだということが分からないのかね?終局的には思想犯罪も文字通り不可能にしてしまうんだ、そうした思想を表現する言葉が存在しなくなるわけだから。必要なあらゆる概念はたった「一語」によって表現され、その意味は厳格に限定されて、その副次的な意味というのはことごとく抹消されたあげく、忘れられてしまうだろう。(p.68)
戦争の本質的な行為は必ずしも人命の破壊にあるとは限らず、寧ろ労働による生産品を破壊する点にあると言える。戦争とは民衆を余りにも安逸にさせる物質、従って結局は彼らを余りにも知的にさせる物質を木端微塵にするか、成層圏に注入するか海底に沈めてしまう一方法である。(p.249)
古い型の社会主義者は所謂「階級的特権」といったものと戦うべく訓練されて来たが、世襲制にあらずと考えていたのである。彼らは少数独裁性の継続が何も肉体的である必要がないという点を理解できなかったし、または世襲制の貴族が常に短命であり乍ら、カトリック教会のような選任制組織が時には何百年、何千年も存続したという事実を思案してもみなかった。少数独裁支配の本質は父子相続ではなく、死者が生者に課する特定の生活様式を持続させる事である。支配集団は後継者を指名できる限りに於いて支配集団である。党は血統の永続化ではなく、党自体の永続化にしか関心を抱いてはおらぬ。誰が権力を恣にしようと問題ではないのだ。階層性構造が常に同一でありさえすれば良いのである。(p.270)
とにかく、解答の一つが出たのである。どのような理由があっても、絶対に苦痛の増大を望むものではない。苦痛について望み得ることはたった一つしかない、早く止まって欲しいということだ。肉体的な苦痛ほど、およそこの世で最悪なものはない。苦痛に直面すれば、英雄も何もあったものではないと床上でもがきながら、役に立たなくなった左腕を抱え込んで、彼は繰り返しそう想うのであった。(p.311)
われわれは、君が後へ引き返しようもない点まで叩きのめしてやる。たとえ千年生きられたとしても、元の状態には戻れない程のことが君の身に起こる。君は二度と再び普通の人間らしい感情を持てなくなるだろう。君の心の中にあるものはすべて死滅してしまうだろう。君は二度と再び人を愛し、友情を温め、生きる喜びを味わうことも出来まい、笑ったり、好奇心を抱いたり、あるいは勇気を奮い起こしたり、誠実であろうとすることも出来まい、君は抜け殻になってしまうのだ。空っぽになるまで君を絞り上げてやる、それからわれわれを、その跡に充填するのだ。(p.334)

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始めました。
前2作よりも、さらに面白そうな予感。
ひらめきコインを発見した時の音がたまらない。
すべての漢字にふりがなが振られてたり、
隠された謎の近くをタッチすると音がしたり、
微妙に改良が加えられていた。
■過去の水晶堂
レイトン教授と不思議な町
レイトン教授と悪魔の箱

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最近、近所のTSUTAYAでもいくつかBlu-Rayディスクのタイトルがレンタルされるようになったので、試しに借りて、プレステ3で観てみる。
映しているテレビが大したテレビではないため、あまり映像や音のクオリティーは違いがわからないのだけれど、1.5倍速で再生した時に、ノイズや画像のチラつきがまったくないのは素晴らしい。
スゴいと思ったのは、収録されている音声と字幕の対応言語の多さだった。
「ハリーポッター 炎のゴブレット」の場合、一枚のディスクの中に
英語、中国語、デンマーク語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、日本語、韓国語、ポルトガル語、スペイン語、スウェーデン語、ノルウェー語、フィンランド語、オランダ語
の字幕が入っている。
フィンランド語のようなマイナーな言語は、日本で勉強するには教材の少なさがネックになるけれど、こういう多言語対応のタイトルが増えれば、かなり強力な語学学習のツールになる気がする。


存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ/集英社)

タイトルが示しているとおり、この作品の中では、「軽さ」と「重さ」が、あらゆる事象を対比する基準として、頻繁に繰り返し現れる。
人は、自分の身に起こる大きな事件や、重くて深刻な事態には、真正面から対峙することで、案外と耐えられてしまうものなのかもしれない。
それよりも、人生において本当に耐え難いものは、重要と思えるほどのことが何も起こらず、自分の存在について大した意味を認められないという軽さを感じた時なのだ、ということが、この小説の基本テーマなのだと思った。
この物語には、数人の登場人物があらわれる。そのそれぞれに、個性や、出会いのドラマや、その後のいざこざはあるけれども、ここで描かれていることは、とても普遍的な葛藤なのだと思う。
「プラハの春」前後のチェコが舞台の中心になっているために、人々の生活の上にのしかかる、その政治的な影響は免れないけれど、それでもやはり、そこで人と人との間におこる出来事は、大まかにくくってしまえば、いつの時代のどの場所でも起こるようなものばかりだ。
物語は、いきなり冒頭から、ニーチェの永劫回帰の話しで始まる。その後、それぞれの登場人物の行動を俯瞰しながら、それぞれの人生観の違いを見比べて、そこに時々作者自身の解説まで入るという、やや人生論的な内容になっている。
この小説がややこしいのは、物語を見る視点が様々な人物の間を行ったりきたりしている上に、時系列もごちゃごちゃになっているからだ。この構成にどれだけの深い計算があるのかは理解出来なかったのだけれど、一回読んだだけでは、とても全体像を把握出来ないと思った。
章立てが変わっていて、全7部のうち、第1部と5部のタイトルがどちらも「軽さと重さ」、第2部と4部のタイトルが「心と身体」になっている。何故、重複して同じタイトルがついているのか謎だけど、面白い構成だ。
不思議だったのは、トマーシュとテレザの最期の直前の時期について、どこにも記述が見当たらないことだった。作者は意図的にその時期の描写を避けたのだろうけれど、なんだかそのことが、しっくりこない感じを残した。
【名言】
テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?(p.13)
テレザはある日呼びもしないのに彼のところへ来た。ある日同じやり方で去っていった。一つの重いトランクをさげてきた。そして一つの重いトランクと共に去った。(p.41)
今、テレザがトマーシュのことを愛して、友人のZのことを愛していないのは単なる偶然であることに気がついた。トマーシュと実現された愛の他に、可能性としては、他の男性との数限りない愛が存在しているのである。
誰もがわれわれの人生の愛は重さを感じさせない何か軽いものでありうるとは考えていない。われわれは愛とはそうでなければならないもの、それなしではわれわれの人生が最早われわれの人生ではないと思っている。(p.48)
トマーシュは彼女のためにチェコにもどってきた。運命的ともいえる決断は、もし七年前に彼の部長が神経痛にならなかったら、まるで存在していなかったかのような偶然的な恋に依拠していた。そしてその絶対的な偶然を具現した問題の女が今彼の横に寝ていて、深い眠りの中で息をしているのである。(p.49)
彼女のまわりに輪になって九人の求婚者がひざまずいたときには、自分の裸を絶対に見せないようにした。それは恥ずかしさの程度で彼女の身体がもっている価値の程度を示したがっていたかのようであった。今や彼女は羞恥心を失っただけでなく、徹底的に恥ずかしさと関係を断つことによって、人生に華々しい一線を引き、自分が過大評価した若さとか美しさというものが実際には何の価値もないと叫びたがっているようであった。(p.61)
サビナはいった。「で、なぜときにはその力を私にふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。
サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(p.143)
人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、負けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。(p.156)
サビナの絵はよく売れ、アメリカが気に入った。しかし、ただ表面的にのみ。その表面の下にあるのは、見知らぬ世界であった。その下にはおじいさんも、おじさんも眠っていなかった。棺に入れられ、アメリカの土の中に降ろされるのは恐かった。
そこである日遺言状を書き、彼女の死体は埋葬され、その灰は撒布されることと定めた。テレザとトマーシュは重さの印の下で死んだ。彼女は軽さの印の下で死にたいのである。彼女は空気より軽くなる。これはパルメニデースによれば、否定的なものから肯定的なものへの変化である。(p.344)
われわれは忘れ去られる前に、俗悪なもの(キッチュ)へと変えられる。俗悪なもの(キッチュ)は存在と忘却の間の乗換駅なのである。(p.350)
テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ。(p.394)

栗の中の栗

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神戸屋キッチンのマロンパイ。
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栗好きにはたまらないですよ。
なんか、紋章みたいでいい。


世に棲む日日 4巻(司馬遼太郎/文芸春秋)

完結編の巻。
この「世に棲む日日」では、吉田松陰も高杉晋作も、坂本竜馬とは会っていないことになっている。小山ゆうの「お~い竜馬」の中では、二人とも坂本竜馬に会っていたから、交流があったものと思っていたけれど、おそらく、そっちのほうが物語をドラマチックにするための創作で、実際には会ったことはなかったのだろう。
この、藩を越えて志士同士が交流をおこなっていて、それが醍醐味でもあった時代において、晋作という人は奇妙なぐらいに、他藩の人間との関わりをしていない。とことんまで長州という藩のことを考えて、長州のために生きようとしたところは、他の志士と大きく価値観が違うところで、面白い。
この巻で、晋作以外に興味深かったのは、のちの陸軍大将になる山県狂介の若い頃の、奇兵隊の中でのエピソードだ。非常に用心深くて慎重に行動をするこの人物も、その人生の中で何回かは意を決して、死を覚悟の上で無謀な行動に飛び込む必要があった。そういう人々の中で、維新後に政府の大臣になるかどうかの分かれ目は、資質ではなく、単純に維新の後まで生き残ったかどうかにのみかかっている。そう考えれば、歴史に名が残るかどうかというのは、紙一重の運によって決まるものだという気がする。
高杉晋作の人生は短い。たった27歳8ヶ月の若さで死んでいる。
しかし、高杉晋作という人ほど、太く短く燃え尽きる生き様が似合う人間は他にいないだろうと思う。この物語を読むとわかるのだけれど、短い人生の中で、高杉晋作は確かに自分の役目を完遂した上でこの世を去っている。これ以上生き長らえたとしても、それはそれで本人にとって不本意な余生ということになったかもしれない。
それは、29歳で世を去った吉田松陰という人についても同様で、この二人を主人公にすえて動乱の真っ只中を描いたこの小説は、これ以上ありえないくらいにドラマチックで、何回読んでも心を揺さぶる場面が数え切れないほどあらわれる、名作中の名作だと思う。
【名言】
伊藤は、馬で夜道を奔った。伊藤はたてがみにしがみついた。馬にくらいつきながら、馬関での大仕事をおもった。伊藤は、
(おれはもう死んでいるのだ。死霊が駆けているのだ)
そう思え、と自分に言いきかせた。政敵の赤根武人は伊藤を「才子」とあざけったが、たしかにこの若者は多少の軽薄さをもった才子であった。かれがもし、この時期、長府・下関のあいだを死霊になった気で奔ったという意外な一面がなかったならば、かれは生涯単に才子として終わったかもしれない。(p.21)
「攘夷はどうなります」
伊藤は、かさねていった。すでにひそかに開明論者になっている伊藤にとって、攘夷同志とのつきあいが頭痛のたねであった。うかうかすると、伊藤は自分の同志から殺されるかもしれない。
「伊藤よ」
「はい」
と、伊藤はかたずをのむ思いで、晋作の解決法をきこうとした。
「宇宙は止まってはいない。そのうち一回転するよ」
と、事もなげに言い放った。宇宙とはこの時代の流行語で、晋作のここでいう意味は、時勢というほどの意味である。(p.143)
「坂本に会いますか」
と、伊藤がいったことがある。晋作は、一笑に付した。
「会う必要はあるまい」
と、にべもなくいった。晋作ほど、他藩の連中に会いたがらない男もめずらしかった。幕末の奔走家の最大の快事のひとつは、他藩の士と交際し、友を得ることであった。元来、三百年の閉鎖社会は二重に閉ざされていて、日本も鎖国なら諸藩も他の藩に対して鎖国であった。それが崩れ、奔走家たちが諸藩の士と交わったとき、世界が大きくひろがったのだが、晋作は固陋なほどに長州至上主義であり、
「他藩の連中につき合ってなにになるか」
と、たかだかと高言していた。(p.153)
「おうの、浮世の値段はいくらだと思う」
「・・五両ぐらいかしら」
晋作は、そういうおうのが気に入っていた。おうのの、真綿の入ったような手の甲をほたほたと叩きながら、目をつぶっている。
詩をつくろうとしている。
「なんぼどす?」
おうのが、心配になってきたらしい。
晋作は、その手の甲を、また叩いた。晋作のいう浮世の値段というのは、おうのが受けとった意味とちがっている。美人であれ、不美人であれ、英雄であれ凡骨であれ、ひとしなみに人生とはいったいどれほどの値段かということであった。生きていることの楽しみはたしかに多い。しかしその裏側の苦しみもそれとほぼ同量多いであろう。その楽と苦を差引き勘定すればいくら残るか、というのが、晋作のいう浮世の値段なのである。
(まあ、三銭か)
と、晋作はおもった。それ以上ではあるまいと、この若者は思うのである。かれは歴史のはじまりは神武帝だとおもっている。それ以来二千年、何億の人間がこの世に出てきたが、それらはことごとく死に、何億の煙を作って消え、愚者も英雄もともに白骨になった。まったくのところ、浮世の値段はせいぜい三銭か。(p.191)
「道後の湯へ参られたことがございますか」
と、晋作は肥大漢にきいた。肥大漢は、はい、二度ござりまする、と答えた。
「あの湯に、神代、少彦名神が病まれ、湯につかって心気一変、よくなられたというが、ごぞんじか」
と、晋作は、とりとめもない話題をもちだして、相手の反応を知ろうとした。肥大漢は、道後の湯の縁起について明るいらしく、しかも晋作が質問をかさねてゆくうちに、晋作が予期しなかったことに、この肥大漢には国学の素養があるらしいことだった。晋作は、少彦名神が病苦が去って全快したときに叫んだという古代日本語がひどく哲学的な感じで好もしくおもっていたが、かんじんのその言葉をわすれてしまった。それをこの博徒に質問すると、かれは、
「マシバシ イネツル カモ」
と、教えてくれたのである。マシバシとはしばらくという意味。イネツルは寝つるであり、「しばらく寝ていたようだなあ」というただそれだけの意味だが、晋作にはなにやらそれが人の世を象徴しているようにも思える。(p.201)
「二十一回猛士」
と、松陰がみずから称したということを燕石がきいたとき、燕石は驚嘆し、感動した。松陰はその生涯で二十一回の猛を発しようとみずから誓い、結局、三回発したのみで、幕府に殺されざるをえなかった。松陰は死にのぞみ、永訣書を書き、「自分の墓碑名は、松陰二十一回猛士とのみ記してもらいたい」と遺言したが、要するに十八回の猛を仕残して松陰は死んだ。その十八回の猛を、門人たる晋作たちがひきついで発すべきであったし、げんに久坂玄瑞ら多くの同門の士が十人のうち八、九人までが猛を発し、非業にたおれ、先師のあとを追った。それを思い、自分が碌々として生を偸んでいることを思うと多少のはずかしさがある、と晋作は語ったのである。(p.217)
晋作の生涯は二十八年でおわる。師の松陰のそれよりも一年みじかい。
が、晋作は松陰の死後、八年ながく生きた。この八年の差が、二人の歴史の中における役割をべつべつなものにした。(p.280)
かれはそのみじかい生涯において自分の活動期が終了したことを知っており、残された晩年の日々を、かれの表現でいえば「閑かに臥し、ひとり惟惟」として、詩文を楽しみつつすごそうとしていた。
「どの人間の生にも春夏秋冬はある」
と、かれの師の松陰がいったことがある。幼少で死ぬ者もそれなりに春夏秋冬があり、長寿をえて死ぬ者も同様であり、春夏秋冬があることは人生の長短とかかわりがない。ゆえに自分が短命におわることにすこしの悔いもない、とは松陰がみずからに言いきかせた言葉だが、晋作の人生の晩秋はみじかかった。しかしいかにみじかくとも、晩秋らしい晩秋を、晋作はごく自然に送っている。(p.286)
■過去のエントリー
世に棲む日日1巻
世に棲む日日2巻
世に棲む日日3巻

ヒートテック

| 小物 |

ユニクロのヒートテックというシャツ、たしかに、着心地がいい。
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「体から蒸発する水分を吸収して熱エネルギーに変換する発熱機能」って、
汗が蒸発したら気化熱で冷えそうなのに、逆に発熱してしまうってのは、マンガ的荒唐無稽なスゴさを感じる。どうなってるんだ一体。
好きなのは、商品ブランドロゴに書かれた
「JAPAN TECHNOLOGY」という文句。
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単純に、なんだか嬉しい。


グランド・フィナーレ(阿部和重/講談社)

いったい何なんだろう、この作品は。
何かある、何かある、という期待は、読みながらどんどん高まっていった。
その意味で、先へ先へと引っ張る力はものすごくある作品だと思う。
けれど、読み終わってみると、この肩すかしをくらったような突然の幕切れは何なんだ?という感じだった。
書き出したいと思う名言は、この本の中には見つからなかった。ハラハラするようなエンターテイメント性も感じなければ、圧倒的な読後感というようなカタルシスも感じない。
まったく何もひっかかる所がないっていうのは変だろう、と思って内容を振り返って考えてみたけれど、やっぱり意味がわからなかった。また、時が経った時に読み返してみたら、一回目には気づかなかったことに気づくこともあるんだろうか。


21世紀の歴史(ジャック・アタリ/作品社)

38歳にしてミッテラン大統領の特別補佐官を務めたジャック・アタリが、これからの世界の未来を予測するという、もうそれだけでかなり熱い本。
将来についての予測を述べる前に、まず、これまでの資本主義の歴史の中で人類がたどってきた道のりを、概観としてまとめているところも面白い。
未来予測は、もちろん正確におこなうことは不可能ではあるけれど、この本の予測の方法は、アシモフの「ファウンデーション」の中でハリ・セルダンがおこなっていたように、人類が今後歩むであろう「大まかな」方向性について予言をしていて、それは、多少の変数の変動があっても高い可能性で発生するだろうと思えることばかりだ。
この本が面白いのは、それぞれの時代に出現した「中心都市」という視点から歴史を俯瞰していることだ。その時々の市場状況や、産業の発達状態や、偶然的な要素によって、中心都市は常に移り変わっている。
これまでの人類の歴史に登場した「中心都市」は、ブルージュ、アントワープ、ヴェネチア、ジェノヴァ、アムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、ロスアンゼルス、の9つ。
その、中心都市の遷り変わりをまとめて見てみると、確かに歴史の中には一定の法則が潜んでいるように思える。それをそのまま未来に適用して、これからの動向を推測しているので、著者の意見にはものすごく説得力がある。
中心都市は段々と東から西へと移動していて、大西洋を越えてヨーロッパからアメリカに渡り、順当に行けば、さらに太平洋を越えて東京へと中心都市が移行するという可能性もかなりの割合であった。
しかし、日本はそのチャンスを一度は逃した。それはとても残念なことではあるけれど、今後アジアのどこかの都市が中心都市となることは間違いなさそうで、その時にはまだ東京にも復活の可能性はあるかもしれない。
この本が、現在の中心都市が存在するアメリカから出版されたのではなく、フランスから出版されたというのは、とても面白いことだ。かつて歴史的に中心都市を持ったことがない、フランスという国からの分析であることで、この本の記述は、アメリカが持つ今後の影響力を過大評価も過小評価もせず、とても客観的におこなわれていると思う。
生まれた時から、アメリカという国の大きな影響下で育ってきた自分にとっては、アメリカが世界の中心の座を明け渡すという図を想像することは、なかなか難しいことだったけれど、この本を読むと、歴史の必然性として、中心都市の栄枯盛衰は不可避の出来事なのであるということがよくわかる。
この筆者の歴史認識は、とてもフラットで偏りがなく、膨大なデータに基づいた的確なものだと思った。「歴史から学ぶ」ということの重要性をこれほどまでに痛感させてくれる本は、他にはなかった。読み物としてだけでもかなり面白いし、現代の地球の状況についてとてもよく理解出来る本だった。
【名言】
日本には20世紀後半に世界の中心勢力となるチャンスがあった。また日本は、本書に登場する世界市場においてさえ、「中心都市」となるチャンスさえあったのだ。しかしながら、日本はいまだに「中心都市」とはなりえていない。(p.1)
長期的な観点から歴史を眺めると、歴史とは、唯一の、頑固できわめて特殊な方向に向って展開してきたことがわかる。たとえ急激なブレがある程度の期間続いたとしても、現在まで持続的にこの流れが捻じ曲げられてきたことはない。その方向性とは、いかなる時代であろうとも、人類は他のすべての価値観を差し置いて、個人の自由に最大限の価値を見出してきた、ということである。(p.19)
ヴェネチアは、ブルージュやその後の「中心都市」と同様に、技術革新の中心地ではなかった。すなわち、「中心都市」は発明の現場となるのではなく、発明されたものを見つけ出し、これをコピーして他のアイデアに応用する場所なのである。(p.71)
多くの人々は、限られた時間のなかで、すべての書物に目を通し、すべての精通し、すべてをこの目で確かめ、すべての土地に足を運び、すべてを学ぶことは無理であることを悟る。ところで、必要な知識は、すでに7年ごとに倍増しているが、2030年には72日ごとに倍増する。知識を得て学び、就労可能な状態であり続けるために必要な時間も同様に増加する。ところが、健康に気を使ったり、身体を鍛えたりするために必要な時間や、睡眠時間や愛し合うために必要な時間も相変わらず必要である。(p.176)
市場の形式は、これまで9回にわたって変化してきたが、同時代の人々は、「中心都市」の栄枯盛衰を目の当たりにしても、「中心都市」が消え去るとは考えず、また「中心都市」は永遠に世界の首都である続けるだろうと確信してきた。
また、しばしば同様に、昔から権力に関しても、衰退していく「中心都市」の周辺の者たちが気づかないうちに、所有者が移り変わってきた。過去の支配者たちは、実際、彼らは不可逆的な衰退期に突入し、すでに他者により彼らの地位は奪われたのにもかかわらず、自分たちの製品・文化・外交・軍事が、まだ世界を制覇していると信じこんでいた。当時のブルージュ、ヴェネチア、ロンドン、ボストン、ニューヨークの場合がそうであったように、明日はカリフォルニアの番である。(p.183)
世界の危険に対して用心深い北欧諸国は、自由に敵対する者たちを刺激しようとは思わないことから、秘密の外交の場合はのぞいて、他の役割にかかわろうとはしないであろう。よって、北欧諸国は「中心都市」としての役割を担うことを拒否する。というのは、「中心都市」は決して中立な立場でいられないからである。(p.189)
唯一解消できない希少性とは時間であることから、「蓄積された時間」の市場価値は下がり、「生きた時間」の市場価値は高まる。よって、蓄積された時間である映画・音楽ファイル・本などは無料になる一方で、演劇、ライブ・コンサート、講演会は有料になる。クローン技術をもちいて時間を超越しようとする者も現れる。(p.337)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

水晶堂について