
恵比寿のLIQUIDROOMで開催された、「LOVE PSYCHEDELICO」のライブに行った。
こんな素晴らしい時間を、一生にいったい何度味わえるのだろうと思うぐらいの、最高の演奏だった。
LOVE PSYCHEDELICOの本領は、やはりライブハウスでのライブにこそあるのだと思った。東京ドームや、横浜アリーナのようなだだっぴろい空間ではなく、ステージのすぐ目の前まで観客が埋め尽くされるライブハウス。その場所こそが一番しっくりくる場所で、そのことを彼ら自身が熟知しているから、今なお、ライブハウスでの演奏も続けているのだと思う。
ボーカルのKUMIを見ていると、音楽そのものが憑依しているとしか思えない絶妙のタイミングで、これしかない、という動きをみせる。音楽も、歌声も、発音も、音色も、どの一部分を取り出しても「LOVE PSYCEHDELICO」のものだとわかるような、強烈な印象を与える。
BEATLESと尾崎豊は、リアルタイムでライブを観ることは叶わなかったけれど、LOVE PSYCHEDELICOのステージを目の前で体感することが出来たことは、この時代に生きた幸運だったと思う。
» 2009 » 4月のブログ記事



Op.ローズダスト 上中下巻(福井晴敏/文藝春秋)
このスケールと臨場感はものすごい。
臨海副都心を舞台にしたテロや、核爆弾に匹敵する威力を持った秘密兵器、北朝鮮やアメリカとの複雑にもつれあった国際政治、など、かなり壮大な設定になっている。
これだけ広範な分野にわたる物語を、並みの小説家が書いたら、ただのチャチな空想話しで終わってしまうんだろうけれど、福井晴敏氏が書くと、圧倒的な現実味をもって、実際にありそうな話しとして伝わってくる。
この小説では、戦後の日本がたどってきた思想的な道筋と、現在の政治・軍事的ポジション、これから日本がとるべき将来像、などについて、一般論を交えながら、筆者の意見が登場人物の口を借りて表現されている。
この点だけでも、日本という国が21世紀に入った現在においてどういう状態にあるのかということがよくわかり、とてもタメになる本だった。
設定や描写の細かさは、村上龍氏の「半島を出よ」と似たところがあるけれど、こちらの作品のほうがより、思いっきりエンターテイメント寄りに振り切れている感じがする。
ずばぬけて身体能力の高い工作員や、熱血の中年男など、キャラクター設定や展開において、筆者の旧作の「亡国のイージス」や「終戦のローレライ」とかなりかぶるところがあって、そういうところは「なんか見た覚えのあるパターン」な感じは否めないのだけれど、舞台が現代であるために、一層身近な出来事として読むことが出来るという良さは加わっている。
展開のドラマチックさやスケールの大きさは、ハリウッドの超大作アクションに匹敵する内容なのだけれど、これは、映画化するとかえって小説よりも魅力が落ちてしまうかもしれない。大作映画に匹敵するぐらいのエンターテイメントを、文章一本で作り上げてしまう、この著者の表現力は本当に素晴らしいと思う。
【名言】
消耗だけを強いられた以前の仕事ではあったが、ひとつ重要な教訓を学ぶことはできた。それは、この世界に通用するルールはただひとつ、ルールなど存在しないのだということだ。社会が道義的であったためしはなく、国際政治のルールは力を持つ者の手で節操なく書き換えられる。辻褄の合わないことが当たり前の世界で平衡感覚を保つには、自分の規定したルールに従って行動するよりない。(上巻p.23)
目付きのみならず、骨格まで変わったのではないかと思わせる変装ぶりは、何度見ても瞠目に値する。変装術の極意は外見の変化ではなく、その役になりきる心境の変化、つまり自己暗示能力に尽きると訓練で習ったことがある。一功に言わせれば、だからこれは技術ではなく、コツさえつかめば誰にでもできるはずだとのことだが、それこそ天才の言い分だろう。天才は、えてして己の才能には無自覚なものだ。(上巻p.380)
「アメリカは、もちろん打って出るさ。テロリストの組み立てた論理なんぞ、おかまいなしに。そうするしかないんだ、連中は。ここで弱腰を見せたら、これから寄ってたかって袋叩きにされるってことは目に見えてる。これまでみたいに、見えないところで首謀者の寝首をかくってだけじゃ示しがつかない。全面戦争覚悟で突っ走ってみせるのが、唯一のアメリカン・ウェイってやつだ。」(中巻p.97)
「わかってないな。それがこっち側の理屈だって言うんだ。いまの世界に居場所のある人間。不満はあっても、とりあえずここで生きていきましょうって思える人間たちの側だ。おれやおまえ、ここにいる全員みたいにな。疎外されて、痛めつけられて、いまの世界には生きる価値もないって思ってる連中・・。この世界に居場所のない連中は、どんなバカなことだってやるさ。そうすることで自分の魂が救えるなら」(中巻p.98)
「アメリカにとって、日本は百以上ある国のひとつに過ぎない。でも日本にとっては・・」
「そう。そこに読み違いの原因がある。移民の国アメリカは、異なる者をすり合わせてひとつの国家にするために、あらゆるものを単純化、共通分母化してこなければならなかった。そのわかりやすさがグローバル・スタンダードになり得たわけだけど、一方で他の国にもそれを押しつけて、相手の身になって考える回路を捨ててきた節がある。言い換えれば、相手が誰であれ、自分と同じ程度には世故に長けていて、保身の術もあると期待している。つまり、大人として認めているってことでもあるのだけど。日本人の目からは、それが冷たすぎる父親の姿に映ってしまう」(中巻p.248)
「過酷な自然環境を征服するところから始まり、長い戦乱によって鍛えられてきた西洋文明は、究極的にはスタンドアローンの文明だ。異文化を珍重はしても、協調して発展することはできない。すべての並列化、多様化を認めた欧州連合の無力に収斂するか、9・11以後のアメリカが体現する征服主義に陥るかのどちらかだ」(中巻p.299)
前後の事情なんてどうでもいい、次になにをするか予測させない、無限の変化と可能性を秘めた生身の顔。それが目の前にある。(中巻p.395)
人類史に未曾有の歴史を刻んだ「平和国家」の住人たちが、国や民族、宗教といった言葉で括られる論理レベルを超え、新しい言葉を生み出す可能性。撃たれるまで撃てない無策を嘆くより、撃たれるまで撃たないと自らを規定し、反対ではなく、抑止という観点から戦争と対峙できる可能性。(下巻p.112)
「全体の利益」を見失った国家の不実が変わることはなく、一億分の一に細分化された混乱が受容されていゆくのかもしれなかったが、その瞬間、日本中の時間が止まり、すべての人がちょっとだけ心を震わせた、それだけは、間違いのない事実だった。そのささやかな共振が「全体」の感情を育み、次の瞬間を生み出すのだろうことも。(下巻p.434)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記
誰だったか、年上なのに「コンちゃん」とは呼びにくいから「コンさんちゃん」て呼んでるって話しには笑った。
でも、「コンちゃんさん」だと、「コン・チャン」ていう人だと勘違いされる。
「さんコンちゃん」という順にしてみても、「サン(聖)・コンちゃん」ていう敬称になるかもしれない。「サン・マルコ」みたいな感じで。コンちゃん、新丸子に住んでるし。

五重塔(幸田露伴/岩波書店)
言葉と音がとても美しく、音読をするのにふさわしい物語だと思う。
紙芝居を聞かせてもらっているような、先が気になるような展開になっていて、シンプルで流れるようなリズムの良さがある。
この小説は、個人という枠を超えて、人はどこまで芸術に殉じることが出来るのだろうかということを問いかけている話しなのだと思った。
十兵衛の、立派な五重塔を自分の手で建てたいという思いの強さは、職人的でもあるけれど、それ以上に、この孤高さはやはり芸術家の精神なのだろうと思う。
芸術家の魂を持つものの常として、中途半端な処世とは相容れることがない。逆にいえば、現実的な処世を考えることがないからこそ、一念を貫いて、余人には真似の出来ない作品を創りだすことが出来るのだという気がする。
時代は違えど、ここで語られている芸術への情熱というのは、現代でもあてはまる普遍的なテーマなのだと思った。
【名言】
上人これを熟視たまふに、初重より五重までの配合、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、樽木の割賦、九輪請花露盤宝珠の体裁まで何処に可厭なるところもなく、水際立つたる細工ぶり、これがあの不器用らしき男の手にて出来たるものかと疑はるるほど巧緻なれば、独り私に嘆じたまひて、かほどの技量を有ちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもある事か、傍眼にさへも気の毒なるを当人の身となりては如何に口惜しきことならむ。(p.28)
下げたる頭を徐に上げ円の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になつても副になつても、厭なりやどうしても出来ませぬ、親方一人で御建てなされ、私は馬鹿で終わりまする、と皆までいはせず源太は怒つて、これほど事を分けていふ我の親切を無にしてもか。(p.54)
十兵衛不興気の眼でぢつと見ながら、ああ構ふてくれずともよい、出ては行かぬは、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするやうな脆いものではござりませねば、十兵衛が出掛けてまゐるにも及びませぬ。(p.109)
キダとタカシが遊びに来て、「Wii Fit」をやった。
「Wii Fit」には、隠しモードのようなものがあって、それを選ぶと、通常モードを遥かに超えた「異常に難しいバランスゲーム」が出来る。
この難易度がハンパじゃなく、左右のバランスがぴったり均等に50.0%:50.0%になった状態を、制限時間内に3秒間キープしないといけない。
聞くだけだと簡単に思えるかも知れないけれど、ほんのわずかな偏りも検知するので、正確に釣り合いがとれた姿勢を保つというのは、神業に近い。
これが、面白いことに、自分の精神状態が如実にあらわれるようになっていて、
笑ったりしたらもちろんダメだし、雑念を一切取り払わないと、左右のバランスが統一した状態を保つことが出来ない。
気持ちをひたすら無心にする必要があり、これはもう、禅をやっているのに近い。
キダとタカシの似顔絵。
かなりイイ線いってる。

千年の愉楽(中上健次/河出書房新社)
独自の、確固とした世界観を持った、圧倒的な物語だった。
倫理も法も縁のないような埒外の世界には、人ならぬ者が決めたような、自然のままに出来上がる秩序のようなものがある。
その路地で子供が産まれる都度、産婆として一人一人をとり上げてきたオリュウノオバからは、何世代もの時の移り変わりによって自ずと形成される、「血」としか言い様がない宿業のようなものが見えるのだろうと思う。
その、逃れようのない連続した生命の流れを俯瞰しているような視点は、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に似たものを感じた。しかし、片方はこの業を「孤独」ととらえて、もう片方は「愉楽」と名づけている。
古代ギリシャの神々や、日本古来の神々が、倫理を超えてただ在るがままに在ったように、この物語の中の人々というのは、人間というよりももっと原始的な存在に近い。この、あまりにも混沌とした猥雑さと生命力を悦びと考えるのは、とても日本的なおおらかさである気がする。
この、ある面では放恣に過ぎる俗世事を神話のように昇華させているのは、やはり語り部としてのオリュウノオバの存在が大きい。銀河鉄道に乗るメーテルのように、時を超越して全体を見渡す視点があってこそ、若さも愚かさも美しいと思える。
文章は、なんだか込み入っていて、主述の関係もよくわからないし、読みにくくはあるのだけれど、それが気にならないぐらい、語られる内容そのものに力がある。素晴らしい小説だと思う。
【名言】
オリュウノオバは人の家に上がり込み物を盗る事はさして難しい事でもないがそれをする必要もないからやらないのだと三好に言ってやりたい気がしてむずむずし、どうせこの世がうたかたの夢で自分ひとりどこまでも自由だと思っても御釈迦様の手のひらに乗っているものなら何をやって暮らしてもよいと言いたかった。(p.62)
赤ん坊は決して虫と同じものではないが、生命は水たまりにわいてくるボウフラのようになんの大仰な手続きもなく甘い香りを放つ白い夏芙蓉の一夜の夢のような路地の中に次々とわき出し、その度にこれが食うこともかなわぬ親たちによって昔の事ならつかの間の明りを見ただけで闇にもどされたのだと思い、何よりも手足を振って泣く赤ん坊そのものが貴い小さい仏の化身のような気がし、虫のようにわく生命そのものが有難いものだとオリュウノオバは手を合わせたかった。(p.62)
オリエントの康はまた空想癖が出たようにここは蓮池の上に出来た土地で、どこかで眠る人間の一瞬の夢のようなところだと花恵に向かって言って、痛みが体中をしびれさせているのに花恵を胸に抱きよせ、花の蜜のように血が包帯から滲み出していると驚き、外から肥った姉の声がし女らが声を殺してわらうのを聴き、犬らの群が路地の辻を駆けめぐる音がする。(p.174)

ヤング島耕作 主任編 3巻(弘兼憲史/講談社)
「社長島耕作」より、「ヤング島耕作」のほうが好きだ。
こっちのほうが、読んでいて共感するところが多いし、活気があって楽しい。
「課長島耕作」の時も、最初の頃は結構失敗ばかりだったり、抜けてるところが多くて、そこが面白かったのだけれど、だんだんスーパーマンみたいになってくるにつれて、現実味がなくなってきてしまった気がする。

多読術(松岡正剛/筑摩書房)
ここで語られている「多読」のやり方というのは、いわゆる速読とはまったく違う。
速読というのは、読書の本質からしてみたら何の意味もない行為であると言っていて、この点、著者の意見にはとても共感する。
この本で説明しているのは、読書を通じて、いかに自分自身の中に知のネットワークを構築していくかという技法で、その一手段としての「多読」であり、さらに言えば、その目的のためには多読でも少読でも、精読でも粗読でもいっこうに構わないという。
だから、この本のタイトルはあまり正確ではなく、要旨としては、本の読み方などは人それぞれであるから、気分に合わせて洋服を変えるように「自由に味わえ」ということになる。
この本で語られていることは、著者のライフスタイルに合わせてかなり独自にカスタマイズされたもので、そのまま真似するわけにはいかないことばかりけれども、松岡正剛という人がいかにして本からの情報を取り込んで、整理しているのかということをうかがい知るには、充分すぎる材料を提供してくれている。
ところどころで出てくる、「キーブック」と呼ばれる、そこから色々な本につながっていくような重要なタイトルの解説は、特に参考になった。
【名言】
「粗読」と「精読」を比較して、いつも精読のほうが読書力が深まっているともかぎりません。それとは逆にひょこひょこと読む「狭読」が底辺を広げて読む「広読」を妨げているということもなく、読書っていろいろな方法によって成立しうるんですね。(p.7)
本の中に入らなかったものって、ほとんどないんじゃないでしょうか。しかも本は知識や主題ばかりでできているわけじゃない。たとえば「しまった」とか「ふわっとしたこと」とか「無常感」とか「もったいなさ」とか「ちょっとおかしい」も本になっているし、「くすくす笑い」も「失望感」も、「研究の苦難」も「人々の絶叫」も、「近所の風景」も「古代の廃墟」も、みんな、みんな本の中に入ります。こんなメディア・パッケージはほかにない。ウェブなどまだまだ勝負になりません。(p.10)
最初に名著といわれるものを手に入れるか、図書館で目星をつける。量子力学でいえばディラックのものか、朝永振一郎です。電磁気学ならファインマンです。相対性理論ならアインシュタインその人でしょう。けれどもこれは歯が立たない。しかし、その歯が立たないところに一度は直面しないといけない。そのうえで別の参考書や類書で補っていく。そういう読み方をしていくんですね。(p.50)
「話せる」ということと「書ける」ということは、かなり異なる能力に属しています。ですから、プラトンが対話篇で試みたのは、ソクラテスらの話言葉を書き言葉にどうしたら変えられるかということでもあったわけです。(p.87)
もっと著者と読者は向き合えるはずでしょう。なぜなら、ここが本質的なことなんですが、著者が「書く」という行為は、読者が「読む」という行為ときわめて酷似しているからです。そして、ここにこそ読書術や多読術のヒントがあるんですね。(p.92)
速読にとらわれるのがダメなんです。どんなテキストも一定の読み方で速くするというのは、読書の意義がない。それって早食い競争をするようなものですから。(p.124)
免疫学は、自己形成には一抹の「非自己」が関与することを証しています。ジェンナーの種痘はそれを応用したものですね。ちょっとだけ「非自己」を入れてみることによって、それが「自己」という免疫システムを形成する。だからときには「変な本」も読んだほうがいいわけです。(p.141)
ピンポイントに検索しているということは、いちじるしく私たちの連想力を落としていることなんだということが、気づきにくくなっている。これも問題です。連想力は創造の基本です。(p.185)

グイン・サーガの126巻が出ていた。
以前は、最新刊が出る都度、即座に買ってリアルタイムで読んでいたけれど、ここのところは、しばらく見送っている。
もう、かれこれ15巻分くらい読んでいない。
一冊ずつ、読み終わるごとに次の巻の発売まで間が空いてしまうと、前回までの話しで忘れてしまうところが出てくるし、どうしてもテンションが下がる。
早く続きが読みたくて、次の巻まで待ちきれないという気持ちもある。
こういう続きものの本は、ためて、ためて、一気に読みたい。
ヤクルトを一本ずつ飲んでたらもの足りないので、コップに集めてまとめて飲む感じで。
最近は、マンガもそういう傾向の読み方になっていて、なるべく、連載中のものよりは既に完結したものをまとめて読みたくなっている。
だから、このグイン・サーガの最新刊も買わずに見送る。
時々、本のオビのところに、物語の致命的なネタバレになる、罠のようなキャッチが書いてあったりするので、それを見ないようにあわてて目をそらして、その場を離れる。


亡国のイージス 上下巻(福井晴敏/講談社)
海上自衛隊の最新護衛艦イージスを拠点に、日本政府に対するクーデターが発生するという、「沈黙の艦隊」のような巨大スケールの物語。公安やら北朝鮮のテロ部隊やら謎の組織が色々と登場する上に、「米軍が開発した最高機密の特殊兵器」まで出てきて、ハリウッド映画的な大掛かりさなのだけれども、下地となっている設定はとても細かく綿密に練られていて、かなり話しには現実味がある。
主人公の、如月と仙石のキャラクターがとてもきわ立っていて、この二人の存在が、物語を格段に面白くしている。悪い組織を正義の味方が懲らしめる、というような単純な図式ではなく、それぞれにそれぞれの考え方と事情と立場があって、どちら側にも読者を共感させる要素を持たせているというのが素晴らしい。
話しの展開のさせ方や、盛り上げ方、収束のさせ方など、すべてにおいて上手にまとめられていて、それでいて、あっと驚くような仕掛けも随所に用意されている。ヒットする物語の創り方にある程度までのセオリーというものがあるとしたら、それを確実に実践しているのが、福井晴敏という人の小説なのだと思う。
【名言】
すべてを話した後、彼は自分は狂っているかとわたしに尋ねた。わたしはわからないと答えた。国家、主義、民族、飢餓、戦争・・・どれも理論では学んでいても、自分の身に置き換えて考えたことなどない。自衛官という、国防の前線に立つ身でありながらだ。(下巻p.371)
