» 2009 » 9月のブログ記事

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洋画史上で、今までで一番笑った。ここまで笑わす映画はなかなかない。ジム・キャリーが相当すごい。ちょっと人生訓めいた部分もあるのだけれど、そこもほとんどギャグみたいなもので、全編まるまる面白かった。
エンドロールで出てきた、ボブスレーのように坂道を滑り降りるローラースケートスーツがかなり面白そうで、あれはちょっとやってみたい。

0965日 檀

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檀(沢木耕太郎/新潮社)

これは、とても面白い本だった。
檀一雄の妻である、檀ヨソ子の一人称の視点から語られているのだけれど、実際に本人が書いているわけではなく、ヨソ子氏への詳細なインタビューをもとに、沢木耕太郎氏が物語調にアレンジをして書き上げた形になっている。
もともと、檀一雄の代表作である「火宅の人」という小説自体が、事実と創作とを絶妙な割合で組み合わせた、何に分類するべきともつかない、ぬえ的な小説だった。
この「檀」という作品も、実際に起こった出来事をもとにして作られていながら、そこには、まったくの第三者の目から、檀という作家の家族の姿を解体して、そこに潜んでいた意味を掘り起こそうという意図が含まれている。
同じく、インタビューをもとに書き起こされたドキュメンタリーである「」を読んだ時にも感じたことだけれども、沢木耕太郎という人は、その聞き込む対象と決めた人物と、細かい部分に至るまで感覚を共有するところまでインタビューを繰り返して、その事を、自分自身の体験のように感じながら、小説を書いているのだろうと思う。
このスタイルは、ゴーストライターが著名人本人の代わりとなって自伝的小説を書いているような形とは根本的に異なっている。素材そのものの姿を伝えればいいのではなく、素材を理解して、更に本質的な部分を取り出して編集するという、高度な技術の上に成立している作品なのだと思う。熟練の匠の、見事な技を見るような思いで、この本を読んだ。


対論集 発火点(桐野夏生/文藝春秋)

桐野夏生氏と、12人の人々との対論集。
桐野氏の小説は、驚くような着眼点から書かれていることが多くて、それがいったいどのような思想から生まれているのかということに興味があったのだけれど、それが作者自身の言葉によって語られている、とても価値のある対論ばかりだった。
扉ページには、その対論が、どの作品の発表に近い時期におこなわれたものであるかが説明されていて、作品と関連させて、桐野氏の語ったことの示すところを考えるという読み方も出来る。
特に、やはり、同じ女流作家同士の対話というのは、小説の作り方について話しが及ぶことが多くて、皆川博子氏、林真理子氏、小池真理子氏、柳美里氏、坂東眞砂子氏、との対論は格別に面白かった。
【名言】
桐野:「丘の上の宴会」を読んだときに、これは「悪意小説」というジャンルだと思ったんですよ。
皆川(博子):あ、なるほど。そういうジャンルがあるといいわね(笑)。
桐野:悪意によって、心の中で人を殺している小説。なんて面白いのだろうと思いました。
皆川:二十年以上前に「オール読物」で書いた短編です。私の初期のものは、特に悪意に満ちているかもしれませんね。善意のかけらもない。
桐野:悪意は、文字でしか表せない、言葉でしか表現できない感情です。映画でも難しいですね。映像ですと、殺意は見えても、悪意はなかなか見えない。(p.32)
桐野:雅子は、かなり小説的な人物ですから。
皆川:でも、小説の場合は、小説的な人物だから面白いと思う。そこいらにいるような人をそのまま書いて、それだけの厚みしかなかったら、つまらない。小説的に書くことで、その厚みの下の何かが見えてくるんじゃないかしら。
桐野:私、最近、雅子みたいなカッコいい小説的な人物をやめて、非常に卑小で小説的なリアリティを持たない人物をたくさん出して、量の増大で質を還るようなことができないかと思っているんです。うまくできるかどうか分からないですけど。(p.41)
桐野:皆川さんは、書き出すまでに、時間がかかるほうですか。
皆川:冒頭のシーンが決まらないと駄目ですね。
桐野:私も一行目が決まらないと、書けないんです。
皆川:絵から入る方ですか、それとも言葉から?私は情景が一つ浮かんでそこから書き出すとスッと続けられます。
桐野:私は、感情ですね。感情は、人間の一つの理屈ですから。どんな感情を書くかによって、情景もシチュエーションも決まる。(p.46)
林(真理子):自分のことをたらたら書くことって、そんなにイヤじゃないんです。最初、「ルンルンを買っておうちに帰ろう」で出たとき、「よくこんなことまで」と言われたけれど、いや、ここまでやんなきゃ世の中に出られないだろうなと思ったところもありますね。
桐野:やっぱり思っていらっしゃったんですね。分かります。私、この世界に入って、ものを書くというのは恥をかくことだと思ったんですね。(p.58)
斎藤(環):ひと頃、トラウマものがずいぶん流行りましたけど、桐野さんは一度もそっちの方向に行かない。それは本能的にというか、勘でそっちはやばいと思ったんですか。
桐野:はい。私自身、取り返しのつかない昔のことで悩むということがあまりないし、もしかしてこれはトラウマなのかなと思うこともない。経験がないから書かないのではなく、小説としても面白くないと思うからです。何でも安易にトラウマにすると、自己正当化のように感じられます。最初から因果を決めてしまう自己完結のドラマというのは、それ以上話しが拡がらないからつまらないんです。(p.71)
柳(美里):桐野さんはエッセイ集『白蛇異端審問』のなかで、実人生には「偶然」が満ち満ちていて、その積み重ねで人は生きている。なのに、虚構である小説において「偶然」を排除するのはおかしい。だから、私は「偶然」をうまく納得してもらうために企みを巡らすのだ。そのひとつに、三人称多視点がある。複数の登場人物の小さな必然を組み合わせて、大きな偶然を逆に作るのである、と書いていらっしゃいましたね。
桐野:はい。私にとって現実というものはいつも整合性がなくて、でも整合性がない代わりに偶然もたくさんあって、本当の姿というものははっきりわからないし、虚構性が強いと思っているんです。だから小説を書くときには、むしろ私の考える「現実」というものを、小説の中で再生しようと思っています。(p.118)
柳:「言葉そのものも信頼していない」という桐野さんのスタンスは非常に面白いですね。
桐野:あまり信頼していないですね。だって人によって言葉は違うじゃないですか。あと最近思うのは、よく現実が小説を乗り越えたって言うでしょう、そんなの当たり前で、昔からそうなんですよね。たまたま私たちが悲惨な現実を知らなかっただけで、もう昔からとっくに、小説よりもひどい現実はたくさんあるわけじゃないですか。また、言葉で表せないものはないって言われるけどそれは傲慢だとも思うんです。結局、私たちの言葉も教育等で得た経緯からして、コストのかかった特権階級のものなんですよね。だからアフリカやインドといったところの、ものすごく貧しい地域の言葉にもならない苦しみというものは小説家は書けない、という思いが私の最近の結論なんです。(p.124)

以前に、「ヨーロッパミステリーツアー」というのを見つけて、これはスゴい!と思ったことがあったけれど、
さっきH.I.S.のページを見たら、「どこへ行くかはお楽しみ!海外ミステリーツアー ビーチ4日間」というプランがリリースされていた。今回は、さらに輪をかけてスゴい。
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どこの地域に行くのかすら不明で、ただ「行き先はビーチ」という情報のみ。
出発日が9/28~9/30の期間なのに、募集期間が9/25~9/29という直前さも、どういうことなのか、よくわからない。
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画像からも、イメージがまったく伝わってこない。
でも、19,800円で海外ビーチなら、このドキドキ感もふくめて、とてもお得な気がする。

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これは、かなり渋い。
すっかり老け込んで、完全な老域に入ったクリント・イーストウッドだけれども、この役を演じることが出来るのは、彼以外にはあり得ず、すばらしくいい仕事をしていると思った。
タイトルになっている「グラン・トリノ」というのは、1972年のクラシックカーのことで、これが、古き良きアメリカを体現する、象徴的なアイテムになっている。
同じく、骨太なアメリカンスピリットとでも言うべきものをキャラクターとして示しているのが、主人公のウォルトで、しかし、その精神がそのまま通用するのは昔の時代の話しで、現代においては完全に時代遅れの頑固オヤジになってしまっている。
この映画は、多くのメッセージを含んでいたと思うのだけれど、今の、アメリカが生まれ変わろうとしている時代に、こういう作品が出てくるというのはとても意味深長だと思う。
昔の、元気があった時代の強引なやり方を通そうとしても、周りはまったくついてこない。異なる価値観を持った人々との関わりの中で、その孤独を、どのように昇華していくべきなのか、ということを、クリント・イーストウッドが身をもって示しているのがこの作品なのだろうと思う。
DVDには、インタビューの特典映像がついているのだけれど、ひたすらアメリカのビンテージカーのことばかりをスタッフが語っているというのがスゴい。映画の中に登場したキャストも、悪役まで含めて、完全に素になって嬉々として車のことを熱く語っているのが笑えた。


貧乏はお金持ち(橘玲/講談社)

最高に面白かった。
タイトルからして、安易なノウハウ本か、ありがちな自己啓発本かと思いきや、まったく違った。そういう、薄っぺらい内容ではなく、とことんまで実践的でロジカルな、中身の濃い本だった。
この本を読むと、税制に詳しく通じているということが、いかに有利に働くかということがよくわかるし、日本の会社法と税法がどれだけ未整備なものであるかということが、これ以上ないぐらいによく理解できる。
表紙には、副題として小さい字で「Poor on Paper, Rich in the Bank」と書いてある。この副題は、この「貧乏はお金持ち」という本が語っている本質を見事に言い表していて、「自発的に見かけ上の収入を減らす」ことの重要さが中心テーマになっている。
会社員の場合にはすべてが会社任せになってしまう納税を、「マイクロ法人」という小さな会社を設立して、間に立てることで、財務会計と税務会計とのギャップをみずから調整して、最適化することが出来るようになる。
それは、一般的に「節税」という言葉で語られていることであるけれども、その根本的な仕組みについて、この本ほどわかりやすく、実際的な内容で説明している本は見たことがない。
文章そのものがシンプルで面白くて、途中、アメリカと日本の経済で、ここ数年の間に起こった出来事についての解説などがぽつぽつと入るのだけれど、そういう話しが、最高に楽しい。金融のプロの人からしてみたら当たり前の内容ばかりなのかも知れないけれど、それを、感動するほどの文章力で、金融の専門家でなくてもわかるぐらいに丁寧に説明してくれる、とても素晴らしい本だと思った。
【名言】
サラリーマンは、すべてのリスクを会社という一点に集中させている。それに対してフリーエージェントは、収入源を複数にしてリスクを分散している。どちらが有利かはケース・バイ・ケースだが、不確実性の時代には分散型の収益モデルのほうが耐性は高そうだ。(p.18)
誰もが知っていることだが、高校中退で三十歳まで正規の仕事をしたことがなければ、まともな会社はどこも相手にしない。それを、「職業訓練を受ければ君だって正社員になれる」と諭すのは、偽善というよりもほとんど詐欺である。彼らの問題は人的資本がマイナスになっていることで、学歴や職歴の欠落を初歩的な職業訓練で挽回することはできない。
人的資本とは、労働市場で客観的に評価される「稼ぐちから」のことだ。理屈のうえではこれは人格(アイデンティティ)とは別のものだが、人的資本を否定される(面接で落とされたり仕事をクビになったりする)と、おうおうにして自分自身をまるごと否定されたように感じる。こうして生きる気力を失い、社会復帰はますます困難になる。
ところが不思議なことに、取引相手が法人になると個々の人的資本は問題にされなくなる。社員やアルバイトを採用するときは履歴書(人的資本の評価表)の提出が必須だが、会社と新規の取引をはじめる際に社長や社員の学歴を問いただすことはない。
あなたの会社に10年間海外を放浪していた若者が職を求めてやってきたとすると、その印象はきわめてネガティブなものにちがいない。だが若者が会社社長の名刺を出し、「海外生活を体験したあと日本に戻って事業を興した」と言ったとしたらどうだろう。「いまどきの若者にしては気骨がある」と、むしろポジティブに受け取るかもしれない。これは明らかに錯覚なのだが、同じ経歴でも法人を介在させることで第一印象を大きく変えることができる。(p.89)
所得税と法人税の税率が大きく異なるため、所得の受け取り方次第で有利になったり不利になったりする。とりわけマイクロ法人では、自分(法人)が自分(取締役)に報酬を支払うのだから、税コストを最適化するための所得分配がきわめて容易だ。(p.175)
制度上、日本には二種類の年金制度と健康保険制度があり、一方は他方より有利である。こうした矛盾が生じたのは政府の失敗であり、国民に公的保険制度への加入義務が課せられているとしても、あえて不利なほうを選ぶ理由はない。これを不公平というのなら、サラリーマンも保険制度を自由に選択できるようにするべきだ。(p.180)
理想主義に拠って立つ申告納税制度を前提にすれば、合理的な納税者は次のように行動するだろう。
1)説明できない(アカウンタブルでない)ことはしない。
2)説明できる(アカウンタブルな)ものはすべて経費として損金計上する。
3)そのうえで、税務調査で否認されたものだけを訂正する。(p.210)
原則として、法人には三年に一回程度の調査を行うことになっており、赤字法人への調査も定期的に行われているとされている。ところで、もしも仮にマイクロ法人フクダに税務調査が入ったとしたら、それはマスオさんにとって、無料で税の専門家に帳簿の付け方や正しい申告方法を教えてもらえるまたとない機会になるだろう。だがこれは、税務調査官にとってはなんの意味もないボランティアだから、どれほど心待ちにしていても、こういうおいしい話しはめったに実現しない。(p.225)
厳密にいうとリスクと不確実性は別のもので、金融市場を考えるうえでのこ区別はとても重要だ。数学的には、リスクとは確率的に把握可能なばらつきのことで、統計的に最大値と最小値を管理できる。それに対して不確実性は、統計(標準偏差)によっても予測することのできないばらつきで、突然、とんでもない値がでてきたりする。
金融市場が管理できるリスク世界なのか、管理不能の不確実な世界なのかは長い議論があったが、2008年秋の世界金融危機において、統計的にはありえない出来事が毎日のように起きたことから「不確実説」が有力になった。(p.241)
MSCB(下方転換価額修正条項付き転換社債)は欧米の株式市場ではありえない資金調達方法で、もし実行すれば確実に株主代表訴訟の対象になる(世界金融危機でも、MSCBで資金調達した欧米の金融機関はなかった)。ところが日本市場ではそれが当たり前のように行われ、金融庁や証券取引所も黙認している。(p.249)
LBO(レバレッジドバイアウト)において、買収先を担保とした融資にはきわめて高いリスクプレミアムが上乗せされている。これはハイイールド債(ジャンク債)そのものだから、ミルケンのみがその圧倒的な営業力で自分の顧客にこの債券を売り込むことができた。ジャンク債の帝王は80年代のM&Aブームで強大な影響力を持つようになり、触れるものすべてを黄金に変えるミダス王のように天文学的な富を生み出した。(p.256)
年利5パーセントで100円を定期預金すれば、一年後の価格(将来価値)は105円になる(100円×1.05)。このことを逆にいうと、一年後に105円になる定期預金の価格(現在価格)は、(金利5パーセントするならば)100円だ(105円÷1.05)。現在の100円と将来の105円が同じなのは、「未来よりもいまが大事」だからである。
これは当たり前のようだが、金融を理解するうえでもっとも重要な公理だ。現金はいつでも好きなときに買物や食事に使えるが、定期預金は一定期間待たなくては自由にならない。貸し手の立場からすれば、利子とは価値の高い「現在」を価値の低い「将来」と交換することの代償なのだ。(p.267)
ここで、マイクロ法人を含む家計の資金繰りを管理し、倒産や自己破産という最悪の事態を避けるためのポイントをまとめておこう。
1)買掛金を多く、売掛金を少なくする(現金で受け取り、つけで支払う)
2)固定資産よりも流動資産を保有する
3)資金調達する際には、低利の資金を余裕をもって借りておく。(p.273)
ほとんどのひとは、不要な借金をすることを不合理だと思っている。真面目な人ほど借金を悪と考える。必要に迫られて融資を申し込むならともかく、意味もないお金を借りるなんて言語道断、というわけだ。個人の主義主張や人生哲学に意義を差し挟むつもりはないが、しかしこの考え方には重大な事実誤認がある。たしかにほとんどのひとは、必要に迫られて借金をする。だがそのときには、高利貸しを除いて誰もお金を貸してはくれないのだ。(p.280)
テレビや新聞は「グローバル資本主義」を高みから批判するひとたちで溢れている。製品やスローライフをしたり顔で説くひともいる。だが彼らは、いちばん大切なことを教えてはくれない。リスクを取る以上、徹底してリアルでなければ夢を実現することなどできはしないのだ。(p.307)


青少年のための江口寿史入門(江口寿史/角川書店)

この本は、過去に発表された短編の中でも良いものを集めた、作者自身の自選によるベスト本という位置づけになっている。どれも、天才的なセンスを感じさせる作品ばかりで、かなり面白い。
江口寿史氏のマンガは、連載ものの場合、回が進むにつれてだんだん粗くなって、内容が薄くなってくることが多いので、面白さの本領が本当に発揮されるのは、短編という形式なのだろうと思う。
特に、「岡本綾」という短編は、この本が初出の作品で、最高に良かった。
老人から始まって、時間とともにだんだんと若返っていくという設定は、映画「ベンジャミン・バトン」と同じだけれど、数ページの話しでありながらも、こちらのほうが深い余韻を残した。
タイトルの通り、江口寿史氏の作品をまだ読んだことがないという場合、この短編集から読み始めるのが、一番入りやすいのではないかと思う
【名言】
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「ホラ匂うだろ金木犀」
「あ、このニオイ?キンモクセイ・・」
「死んでいくのに心残りはもうないけど、この匂いがかげなくなるのは・・名残惜しいねえ・・」
「・・なに年寄りみたいなコト言ってんだよ・・(あ・・年寄りなのか)」
(p.40)


(高田崇史/講談社)

衝撃的な本だった。
授業で習った内容が鎌倉時代の表の歴史だとすれば、ここで語られているのは、公には明かされることのなかった裏の歴史。今までに聞いたことがない、驚くべき解説ばかりが、たて続けに登場する。
もともと、鎌倉という場所は今よりももっと海岸線が陸地の側に迫っていて、湿地帯のようなじめじめとした土地だったのだという。三方を山に囲まれて、守りやすいという理由で、この場所に幕府が開かれたというのが通説だけれど、そういう理由で作られた都は、この鎌倉以外には無い。
交通も不便で、日当たりも悪く湿気も多いこの場所には、無数の処刑場や墓場や、河原者が集まる、あまり都向きのところではなかったようだ。そこに鎌倉という都が出来上がるに至った、歴史がこの本では語られている。
一応、鎌倉で起こった事件と絡めてミステリー小説仕立てにはなっているのだけれど、それは本編とはほとんど関係なくて、無視してもいい程度の内容になっている。
鶴岡八幡宮や、銭洗弁天、長谷寺、佐助稲荷、江ノ島など、主要な場所はもちろん、それ以外の細かな寺まであちこち解説がされているので、概略については網羅されたガイドブックのような感じがある。鎌倉に行く前に、普通の旅行ガイドとあわせて読んでおくと、鎌倉を二倍楽しむことが出来るようになると思う。

ブログにまとめて写真をアップロードするような時、写真のサイズを一括で縮小したい、という場面がよくある。そういう時は、Picasaで複数ファイルのサイズ変更をするようにしている。
1)縮小したい写真を選択する。(Ctrlキーを押しながらクリックしていくと複数選択出来る)
2)[ファイル]→[フォルダに画像をエクスポート]メニューを選択。
3)エクスポート先のフォルダの名前、画像サイズ、画質、を選択して実行。
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何十枚でも、一瞬で同じサイズに揃えて縮小してくれる。ずっと以前にPhotoShopで一枚ずつ手作業でサイズ変更してた時と比べると、とんでもなく楽だ。
2)の代わりに、Picasaの画面下部にある「エクスポート」ボタンを押してもOK。
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罪と音楽(小室哲哉/幻冬舎)

先日の逮捕に関連した、拘置所での取調べや裁判の経過などが主題の本と思っていたので、そのつもりで読みはじめたのだけれど、そういう内容は全体の3割ぐらいしかなかった。
「罪と音楽」というタイトルが示すとおり、「罪」の章と「音楽」の章、両方が混在している感じで、多くの部分は、著者自身の音楽論や、最近のJ-POPについての所感が書かれていて、かなり意外だった。そのために、期待していたよりも、ずっと面白い本だった。
自分が中学生の時、小室哲哉氏の音楽だけでなく、彼が書く文章もとても好きだった。当時、本人が雑誌に連載していたエッセイをまとめた「告白は踊る」という本は特に、プライベートな感覚や考え方が日記のようにストレートに出ていて、しかも、独特なアイロニーに彩られていて、とても印象深い文章だった。
この本でも、それと似た雰囲気が流れていて、この一冊の中に、TM NETWORKでのデビュー当時から、逮捕に至るまでの間に起こった出来事について、率直な感想とともに、客観的にまとめられている。
小室哲哉氏が、21世紀以降の音楽シーンについてどういう思いを抱いていたのか、ということがよくわかる内容で、小室氏にしか書けないような、独自の理論にもとづいた専門的な話しも非常に多く出てきている。更に、これからの音楽活動への抱負や、再起に賭ける意気込みが伝わってきて、それがとても嬉しい。
こういう種類の本の場合、実際には本人が書いていないという場合も多いと思うのだけれど、この本の、幼さを感じさせるまでの純粋な熱さは、きっと本人自身が語っている言葉に違いないと思う。
【名言】
手錠をかけられたまま検察庁を出るときも、事務官の方に声をかけてもらった。
「この短時間に天国と地獄を見る小室さんみたいな人は、あまりいませんよ。ほんの短い間ですけど、地獄を見てきてください。僕らは一生天国なんてみられないけど」(p.7)
そもそも、ブレイクする、売れる、有名になる・・どの場合もアンチが急増する。これは世の常だ。だから、アンチの声に耐えられるだけの強さと、それに慣れてしまうだけの鈍感さがないと、人前に出る仕事はできない。(p.15)
一生に一度の拘置所暮らしは、たかが17日、されど17日。生涯忘れられない17日間である。一度も頭の中で音楽が鳴らなかった17日。これだけの音楽的空白は、これまでもなかったし、これから先もないだろう。(p.19)
毎日が締切だった。
その締切に間に合わせるために、僕は限界を超えてまでも猛烈な磁力を発して、高いところにある音楽をむりやり引き寄せていたのだろう。善し悪しの問題ではなく、そうするしかなかったように思う。(p.34)
90年代末になると、世間的には「小室ファミリーvsハロプロ」という捉え方もされ始めた。
小室哲哉vsつんく。
だけど、僕の中では彼をライバル視したことはない。
理由は、つんくさんは歌えるからだ。彼は素晴らしいボーカリストでもある。彼の全才能を10としたら、少なく見積もっても2から3は歌だろう。僕の場合、歌う才能は多く見積もっても0.1あるかないか。そこが全然違う。だから、対抗意識はなかった。
ライバルというより、むしろ共犯だ。
今の僕が「共犯」と言うと、微妙な空気になるので、「両輪」と言ってもいい。
僕の勝手な見解としては、僕ら2人が両輪となり、拍車をかけてしまった現象がある。Jポップの「わかりやすさの追求」だ。
21世紀に入った頃、実は僕自身も驚いていた。ここまで簡単にしなくてはいけないのか?と。(p.80)
そんなわかりやすさを求める風潮に反旗をひるがえしてくれている代表格が、Mr.Childrenではないだろうか。彼らの曲は、聴く人に考える時間を求めてくる。
彼らのような音楽は、誰にでも作れるものではない。誰がやっても成立するものでもない。シンガーとしても類まれな資質、素晴らしい声質、そして技を持っている桜井和寿くんだからできる。彼の声や歌に乗ると、考えさせられる歌詞やメロディであっても、スピード感を失わずに刺さるのだ。うらやましい。(p.83)
僕は、この四半世紀以上、常に「音楽家の小室哲哉」だった。気づけば、ただの「小室哲哉」の部分は痩せ衰えて、自力で立つこともできないほどに脆くなっていたのだ。(p.113)
僕に許された時間は、それほど多くはない。
結果は近未来だ。
1年か半年か、いわゆる「ほとぼりが冷めてから」とはいかない。
しかも、作った曲が流れ始めたら、最初の15秒くらいで、今度はリスナーの審判が下る。
逃げ出したいほど怖いが、これだけの注目と期待の中で音楽を作ることができるなんて音楽家冥利に尽きる。
一生に一度のことだ。
「この歓びを噛み締めたい」といったら不謹慎だろうか。(p.141)

水晶堂について