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歴史を紀行する(司馬遼太郎/文芸春秋)

最高に面白い本だった。
司馬遼太郎氏が、旧佐賀藩、南部藩、薩摩藩など、かつて雄藩があった土地を実際に訪れて、その土地の風土や郷土に特徴的な民俗性について思うところを語るという、素晴らしい企画。
取り上げられている土地も、高知、会津若松、滋賀、佐賀、金沢、京都、鹿児島、岡山、盛岡、三河、萩、大阪、と個性ある場所ばかりで、それぞれの街の成り立ちや個性がよくわかるというだけでも、十分に面白い。
これが書かれた1970年といえば、明治維新から100年ばかりしか経っていない頃で、今よりもずっと、幕末の影響がまだ残されていて、明治維新当時の関係者の孫、くらいの人も地方にはたくさん残っていたにちがいない。
日本史についての知識が半端なく深い著者が、しかも小説という形にしばられることなく、自由に思うままを書き綴っているので、読み物としてとても楽しく、しかも初めて知るような話しばかりで、これほど内容の充実した紀行本はめったにないだろうと思う。
【名言】
土佐人は、水をmiduという。「づ」を発音することができるのである。「づ」と「ず」を区別する。「ぢ」と「じ」を明瞭に発音わけする。新カナづかいになったときに最大の被害をうけたのは高知県の小学生たちであった。かれらにとっては「づ」と「ず」はまったく別なものであるのにそれをすべて「ず」として書かねばならなかった。(高知)(p.14)
珍奇とされた事象としてよくいわれるのは、老人になっても男女とも寺詣りをせずポリネシア人のごとく、狩猟や魚釣りという後生にもっとも障りのある殺生を老人どもが好むことであり、他国人がそれを指摘すると、「この世を楽しめばよい」と、どういう土佐の老人もいう。どういう悲惨なはなしでも、土佐人はそれを因果応報の暗い宗教的教訓に仕立てることはせず、からりとした俗謡にうたいあげて明色化してしまう。(高知)(p.26)
もし秀忠が生涯にただ一度(とおもわれる)浮気をしなかったならば会津松平家は日本史に存在しなかったであろう。その律義者の滑稽な浮気が、幕末、幕府の瓦解期にいたって徳川の親藩がことごとく薩長政権に味方したなかにあってひとり、「徳川家の名誉のために」という旗幟のもとに時勢の激流に抵抗し、流血し、絶望的な戦いをつづけ、ついに悲惨な敗北を遂げるにいたる結果を生む。秀忠は歴史的といっていい浮気をしたことになるだろう。(会津若松)(p.38)
利常と加賀藩は、幕府を安心させるために「軍備をおろそかにしている」という印象をあたえなければならなかった。このため藩をあげて謡曲をならわせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間にあたえようとした(なんと戦後の日本に似ていることであろう)。(金沢)(p.104)
今でも石川県は「真宗王国」といわれ、東本願寺の金城湯池とされているが、とにかくも江戸三百年のあいだ本願寺がその教義をもって加賀人を薫化した。本願寺の教義は本来、人間無力のおしえである。無力なればこそ絶対者である阿弥陀如来-他力本願-の本願にすがり参らせるという教えであるが、この信心を得るためには、自分の精神的体質を、絶対無力の境地にまでひきさげて(あるいはひきあげて)しまわなければならない。(金沢)(p.110)
今の京都府知事の蜷川虎三氏が昭和二十何年だったかに革新勢力の票を得て当選したとき、「京都には知事としてタブーにすべき世界が三つあります」と、半ば冗談めかしくいった。祇園と本願寺と西陣のことである。(京都)(p.129)
治乱興亡八百年を通じ、その時間、空間のなかでこれほどの隆盛さを示している家というのは、世界中をさがしても日本と英国の王家をのぞいては島津氏のほかないであろう。これは島津家がえらいのか、それともその家をこうあらしめた薩摩人がえらいのか、両者一つ機能なのか、いずれにしてもこの歴史的奇蹟をつくりあげたかれらの能力を考えるとき、これだけで薩摩人というのは日本人のなかでも傑作といえるのではあるまいか。(薩摩)(p.144)
歴史のうえをながめてみても、大坂が大阪になる以前、この土地を通過した者は幾百万をこえるだろうが、ここに地政学的価値を発見した者は数人しかいない。その数人はことごとく天才の名を負うている。(大阪)(p.239)
いまでこそ親鸞といえば日本史上の巨人だが、蓮如の少年のころはまったく埋没された名であったにすぎない。親鸞はその存生中、「親鸞ハ一人ノ弟子モモチ候ハズ」と言い、思想として教団を否定しただけでなく、その死後、その教徒は叡山から執拗な迫害をうけつづけたため京の一隅で衰微しきっており、細民を相手に親鸞念仏をとくいわば待ちの説教所のようなものにすぎなかった。つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。蓮如はその84年の生涯で6、70人の子をうませ、27人成人したといわれるほどの精力家だったが、そのなみはずれた体力で天下を布教してまわり、各国各郡各村に講を組織し、ついにはそれまでにかつてなかった民衆の全国組織を完成した。(大阪)(p.241)

レイトン教授と魔神の笛(特典無し)
「レイトン教授」シリーズは前3作で完結したのかと思っていたら、勘違いだったらしく、新作が出ていた。これは嬉しい勘違いだ!毎回、小栗旬や木村佳乃など豪華声優陣が起用されるのがウリのこの作品で、今作では、相武紗季が新キャラの声を担当している。
操作していて感心するのだけれど、このシリーズは、細かい部分まで動きや絵や音楽が、心地よく感じられるように配慮がされていて、ユーザービリティーという面でも、統一された世界観という面でも、とても上質な作品だと思う。ひらめきコインを見つけた時の音なんか、すごくいい。


戦争と一人の女(坂口安吾)

戦時中の話しというと、悲しい話しが多いけれど、そうではない視点の話しがあってもいいはずだとは思っていた。一つの出来事には、それを体験した人の数だけの意味があって、戦争という巨きな、揺るぎないように見える歴史的事件でさえ、その解釈や思いは個人によって様々であるはずなのだと思う。
戦争というのは、多くの人にとっては生活の保証や既得財産を失う災厄以外の何ものでもないけれど、ごく少数の人にとっては、トランプゲーム「大富豪」の「革命」のように、手持ちの手札をリセットする奇跡的な恩恵ともなり得る。この小説は、戦争の中にあって、他の人とは異なる価値観を持ちながら生活した一組の男女を描いたものだ。
この話しには、「続戦争と一人の女」という続きの物語があり、「戦争と一人の女」が、男の視点からの一人称であるのに対し、続編のほうは、まったく同じ時期を女の視点から語ったものとなっていて、さらに複眼的に一つの出来事を見ることが出来るようになっていて、それがさらに面白い。
【青空文庫】
戦争と一人の女
【名言】
夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような調和を感じていた。
私は然し、夜間爆撃の何が一番すばらしかったかと訊かれると、正直のところは、被害の大きかったのが私の気に入っていたというのが本当の気持ちなのである。照空灯の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい。カチカチ光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。花火のように空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども、私には地上の広茫たる劫火だけが全心的な満足を与えてくれるのであった。(p.281)
野村は月光の下の私の顔をいとしがって放さなかった。深いみれんが分かった。戦争という否応のない期限づきのおかげで、私達の遊びが、こんなに無邪気で、こんなにアッサリして、みれんが深くて、いとしがっていられるのだということが沁々わかるのであった。(p.293)


リアル 9巻(井上雄彦/集英社)

まだ完結していない、連載中のマンガはなるべく読まずに、完結してからまとめて読むようにしているのだけれど、「リアル」だけは、年1回という刊行ペースにもかかわらず、つい買ってしまう。
9巻は、終わり方が良かった。主人公3人の人生が、クロスしそうでいてなかなか交わらないところが、やきもきさせるのだけれど、いよいよ来るか!と思わせる展開が熱かった。
巻末には、「10巻、2010年秋発売予定」って・・毎巻のことだけど、また1年待つのかと思うと、気が遠くなる。このペースの割りに、話しの進み方はとてもゆっくりなので、一体いつ完結になるのが、全然予測がつかない。
【名言】
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西高が弱かったのは俺のせいだ。お前は1人でやろうとしてたが俺は、4人でやろうとしてた。お前以外の4人で。
ダメPGでスマンかった。俺は変わる。プロのPGになる。(p.198)


街場の現代思想(内田樹/文藝春秋)

とても面白かった。身の回りの人や読者からの質問に対して答える、という形式をとっている章がメインになっていて、そのいずれの回答も、おためごかしのありきたりな内容ではなく、必ずユニークな視点を加えながら、説得力もものすごくあるという、マジックを観ているような回答ばかりだった。
設問の内容も、「結婚はするべきですか」「転職するか、会社に残るか迷っています」など、とても普遍的なお題が多いのだけれども、それにもかかわらず、今までに聞いたこともないような新しい提案が出されているというのがすごいところだ。
この本の中では、とても一般的な設問が題材として多く取り上げられているけれど、この著者のユニークな論法からは、どんな質問が来たとしても、それに対応して絶妙な回答を編み出すに違いないと思わせる、とても柔軟なインテリジェンスを感じる。
よくある疑問に対して、よくある回答を示して終わらせるのではなく、世に出ている議論を止揚させて、一段高い見地から、的を射た言葉でスッとまとめてしまう。こういうことが出来るというのは、ものすごくクールな知性だと思う。
【名言】
彼女たちに欠けているのは「知識」ではない(それはたっぷりとある)。欠けているのは、「自分の持っている知識」は、「どのような知識であり、どのような知識でないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば、「自分の知識についての知識」なのである。(p.13)
「文化資本」が作る境界線と、「年収」が作る境界線とでは、「壁」の高さも厚さも桁が違う。年収は本人の努力でいくらでも変わりうるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、20歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難だからである。(p.17)
フランスは「階級」社会ではないが、「階層」社会である。そして、階層と階層の間には乗り越えることのできない「壁」がある。その「壁」は社会的地位や資産や権力や情報や学歴など、多様な要素によって構成されているが、ある階層に属する人間と別の階層に属する人間を決定的に隔てているのは「文化資本」の格差である。(p.21)
ランティエたちこそヨーロッパにおける近代文化の創造者であり、批判者であり、享受者だったのである。
それも当然である。
新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。
「ねえ、来週から北極に犬橇で出かけるんだけど、隊員が一人足りないんだ」
「あ、オレいく」
というようなことがすらっと言える人間はなかなかいない。
ブルジョワジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあっている暇はない。
結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである。(p.64)
あまり言う人がいないから言っておくが、「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。(p.74)
「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」、権力を持つもの(その極端な例が神鬼や皇帝だ)と関係しないではすまされない局面で、「身体をよじって」、相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。(p.83)
「早期定年退職で割り増し退職金をもらって今すぐ辞めるのと、定年まで賃金五割カットとどっちがいい?」というような問いを突きつけられて困るというのは、「決断」でもなんでもない。それは「ではいよいよ死刑執行の時間となった。さて、君はワニに食べられて死ぬのと、アナコンダに呑まれて死ぬのと、どちらがよろしいかな。you have the choice」と宣告されているようなものであって、そんなものを私どもは「決断」とか「選択肢」とかいうふうには呼ばないのである。
知的努力というものは、ワニとアナコンダのどっちがいいかというような不毛な選択において適切な決断を下すためにではなく、「そのような選択にいかにすれば直面しないですむか」に向けて集中されなければならない。右すればワニ、左すればアナコンダというような分岐点にまでずるずる引っぱられてゆく人間というのは、それ以前における重要な決断において繰り返し間違いを犯しており、その清算を迫られている、というだけのことである。(p.118)
結婚を「快楽」の多寡で考えれば間違いなく「損」である。それは認めよう。しかし、結婚を「得か損か」のタームで考えるということは、「快楽」の貨幣でしかものごとの軽重がはかれなくなっている「近代の病弊」なのだということには、そろそろ気がついてもよいと私は思う。人間を真に「人間的」なものたらしめているのは快楽ではない。「受難」である。(p.153)
あなたが「結婚してみて、ダメだったら離婚して、もう一度やり直せばいい」という前提で結婚に立ち向かう場合と、「一度結婚した以上、この人と添い遂げるほかない」という不退転の決意をもって結婚に臨む場合とでは、日々の生活における配偶者に対するあなたの言動には間違いなく有意な差が出る。手元に「リセットボタン」を握りしめて結婚生活をしている人間は、まさに「リセット可能」であるがゆえに、その可能性を試してみたいという無意識の欲望を自制することができない。それはその人が特別に自制心に欠けているとか、愛情に乏しいとかいうことではない。ボタンがあれば押したくなり、ドアノブがあれば回したくなる。人間というのはそういうものなのである。(p.168)
私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」はいわば「私という物語」の読者である。読者が本を読むように、私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。(p.235)
私が若い方々に勧奨することは、とりあえず一つだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死にざまを示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場での人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力だけなのである。(p.243)

1022日 芋虫

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芋虫(江戸川乱歩/角川書店)
とんでもない小説だった。
一人の人間が、ここまでの極限状態を描き得るということに、畏敬の念を感じる。江戸川乱歩という人は、まぎれもなく、リミッターを取り去った想像力と、果てのない妄想を曝け出す覚悟を持った、正真正銘の小説家だったのだと思う。
もし、小学生の頃に、「怪人二十面相」ではなく、こういう強すぎる毒のほうを喰らっていたとしたら、どういうことになってしまうんだろう。というかそもそも、こんな衝撃的な作品は、今や、どこを探しても見つからないんじゃないだろうか。
【名言】
彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの生きたしかばねにしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化してしまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の飽くなき残虐性を、真底から満足させたかったのではないか。不具者の全身のうちで、目だけがわずかに人間のおもかげをとどめていた。それが残っていては、なにかしら完全ではないような気がしたのだ。ほんとうの彼女の肉ゴマではないような気がしたのだ。

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ここではないどこかへ(鴻上尚史/角川書店)

一冊の中に、書き下ろしのエッセイがあったり、芝居の台本があったり、著者の知人からの寄稿があったりと、色々な内容がごた混ぜになっているのだけれど、特に面白かったのは、鴻上氏本人が書いたエッセイと、巻末に掲載されている、過去に公演した舞台のパンフレット向けに書かれた「挨拶文」だった。
鴻上氏の文章からは、自分自身、学生時代にどれほど影響を受けて、どれだけ多くのことを学ばせてもらったかしれない。本の中に、「一瞬で役者の短所と長所がわかるのが特技」と書いてあったけれど、この人の観察眼には、たしかに、人間の心理の奥底までを照らすような鋭さがあるし、その文章には、コピーライターのように、ほんの数行の言葉なのにいつまでも心に残るようなインパクトがある。
この本の中でも、そういう、印象に残る言葉はあちこちに見つかるし、それらの原点となっているような体験や出来事について語られていることが多く、良い言葉がたくさんあった。
【名言】
僕が二十歳の頃、初老のある人が僕にこんなことを言いました。
「年を重ねていくと、何が自分の本当の財産なのかわかるんだよ。それは、お金でも名誉でもなく、ただ、記憶なんだ。ある人を心底愛したという記憶、素敵な場所に行ったという記憶、素晴らしい体験をしたという記憶、それだけなんだ。」
僕は、二十歳で、その言葉の本当の意味を理解はできませんでした。ただ、年をとるということはそういうことなんだろうと、未来の出来事を傍観するような気持ちでいました。
僕には、振り返る記憶などなく、ただ、これから始まる空白しかないんだと、勝手に決めていたからでもあります。
今、少しはわかる気がします。
それはたぶん、記憶だけが、自分で価値を決められるものだからだろうということです。(p.8)
どんなに急いでいても、母親は、再会のたびに、僕をぎゅっと抱き締めてくれました。これは、自分で言うのも変ですが、とても大切なことなのです。不在の時間が長くても、この「ぎゅっ」があれば、なんとかなるものです。このおかげで、僕は、壊れなくてすんだのです。(p.14)
質問19.どんなことで人を好きになったり、嫌いになったりしますか。
鴻上:生きている以上、みんなそれぞれにヘビーなことを抱えていて、ヘビーなことを語らなきゃいけないわけだけど、その語り口ですごく好きになったり嫌いになったりしますね。自分の感情を客観的に見られたり、自分の感情とうまくつき合おうと思ってヘビーなことをしゃべっている人には、わりとすぐに惚れちゃいます。とにかく吐き出すだけだったり、自分の感情に振り回されていたりするような人を見ると、嫌いになりますね。(p.34)
ミスター・ドーナツとダンキン・ドーナツのドーナツ戦争の中、負けている方が、何故うちは負けているんだろうと、人口の流れ、立地条件、店内の設備などを研究していた時のことです。ある人はポツンと「それはやっぱりあっちの方がおいしいからよ」と言いました。それでも議論は続けられたのです。原因は、人口の流れか、立地条件か、いや住民の質か・・と。
考えてみればあたりまえの話です。
「おいしさ」などという、意味が明確でないくせに、必ず「存在」するものには一つの不安があります。それに自分をかけるのは、かなりの勇気がいるのです。
フランス思想輸入業者は、「意味まみれの人間」などと、口をすっぱくして言いますが、それは、制度的にそう言うことが要求されているからです。
60年代末期のアメリカ中流社会が、カーやクーラーやステレオをそろえ終わった時、次に何をしたかと言うと、子供をたくさんつくりはじめた。つまり、自分で自分に負担をかけた、人生の目的をつくりはじめたというのです。
進歩が実は合理化に過ぎなかったように、経済さえも、この「意味まみれの人間」にあやつられているに過ぎないのに。意味を求めてさまよい、自分を縛ってくれるものを求めてまたさまよう。多くの女性にとってそれは男で、多くの男にとってそれは会社。(p.186)
僕はずっとドアのそばに立って、ホームのザラザラしたコンクリートを見つめていました。僕にとって人生の転機は、いつも驚くほど単純でバカバカしいほど簡単なものでした。今もまた、たって一歩足をだせば、それですむのです。じっとりとした長い時間が過ぎて、ドアが閉まった時、僕をおそった感情は、安堵でも安心でもなく、「据え膳食わぬは男のロマン」という有名な言葉でもなく、たっだホームに降りてしまったもう一人の僕がたどる、もう一つの人生へのいとしさでした。(p.189)
22歳で演出家なんぞになったから、夢を見ながら、夢に裏切られない道を、本気で捜そうと思っただけです。その意味で、僕は、人間に一番、影響を与えるのは、性格でも親の教育でもなくて、ただ、立場だと思っています。(p.256)

1020日 イキガミ

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イキガミ(2009年11月現在7巻まで刊行中)(間瀬元朗/小学館)

残された人生の時間がほんのわずかな時間だとわかった時、人はどう行動するのかというのは、黒澤明監督の「生きる」や、「木更津キャッツアイ」「僕の生きる道」「終末のフール」など、色々な作品でたびたび登場するテーマだ。
「死」というものをテーマにすると、一見深そうな感じになるのだけれど、それだけに安易にテーマにされやすいということもあって、内容は作品によって玉石混交で、時にはまったく中身が感じられないものもある。
この「イキガミ」の世界観のベースになっている「国家繁栄維持法」という設定はとてもいいのだけれど、自分の命があと24時間とわかった時の人間の行動には、あまり現実味が感じられない。
「いくらなんでも、そんなヤケを起こすか?」とか思うところが多々あって、結末についての共感度は低いのだけれど、「自分が同じ立場になった時にどう行動するか」ということを考えさせられる話しが多くて、その点、かなり優れた作品だと思う。
【名言】
誰だって、好き好んで穴に落ちてるわけじゃないのに、なぜか世間は、そこから這い上がろうとしている人間にチャンスを与えてくれない。
だから俺は、イキガミが届いた自分と、ブログでつながっていたあなたとが、こうして出会えた偶然こそが、あなたに与えられた、チャンスだと思いたいんです。(6巻p.92)

1019日 YASHA

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YASHA(全12巻)(吉田秋生/小学館)

「BANANA FISH」にキャラクターや構成、展開はすごく良く似ているけれども、今回は人種問題や遺伝子問題をテーマにして、話しにさらに深みが増していた。話しの終わり近くになって人がどんどん死んでいって、バタバタのうちにムリヤリ収束に向かう流れもなんだかよく似ている。
「BANANA FISH」で主要人物だった「シン・スウ・リン」が物語の後半から登場して、話しに絡むようになったのは、すごく面白い。
シンが結婚した日本人女性というのは誰なのか、結局わからなかったけれども、これは、エイジの妹だったんだろうか。
【名言】
「異質なもの」に対する憎悪ってもう理屈じゃないんだよね。
経済の格差・人種・宗教・民族の違い・・・両者の溝は深く、憎悪は果てしない。(4巻p.132)
だいたい人間ほど世代交代のスムーズにいかない種もめずらしいだろうが!旧世代が新世代の資源を食いつぶして生き残ってる種なんてほかにないぜ。
役立たずの年寄りや麻薬づけのプータローなんざとっとと死んでくれってのが世の中の本音だろうが。(6巻p.18)
君もふつうじゃないよね。
おれは---そうだな・・・ふつうとかそういう問題じゃなくて
人間じゃないんだ。(7巻p.164)
おまえも非白人として生きることの理不尽さを身をもって知っているだろう。(8巻p.139)
自分の意思で死ぬことができないなら、あんたの手で殺してくれ!
そして忘れるな!おれの死体は灰になるまで焼きつくせ。決してDNAを取り出すことができないように、髪の毛一本も残すな。(10巻p.64)
君と似た奴のことを話したな。
君と奴とは1つだけ大きな違いがある。
奴は生き急ぎ、君は---死に急いでいる。(12巻p.67)


日本奥地紀行(イザベラ・バード/平凡社)

1880年当時の日本を、スコットランド人女性の著者が、東京から北海道まで旅行した時の紀行文。これは、人に読まれることを前提としているよりも、まず自分自身の日記という意味あいのほうが強いので、言葉を飾ることなく、かなり素の感想が書かれていて、それが面白い。
著者のイザベラ・バードという人は、とても客観的な人で、日本のようにまだヨーロッパにとっては珍しい異国の紀行文を書くにはぴったりの性格だったと思う。あまりに率直すぎるのと、日本に対して後進国として蔑視しているような空気がいたるところに流れているので、毒舌すぎるところもある。
しかし、その目はどこまでも公平で、日本の良いところは素直に褒めていて、たとえば花の扱いについては、英国の花束は野蛮で、それよりも日本の生け花の洗練を高く評価していたり、婦人が一人で旅行をするのにこれほど安心な国はないというようなことも言っている。
略歴を見ると、日本を訪れた前後にも、世界のあらゆる場所に出かけてその記録を出版していて、この時代にこれほど多くの国を旅行した人はきっと稀だったにちがいない。日本では、蚤や蚊や、不潔さにだいぶ悩まされたという記述がやたらとあって、たしかに、この時代、外国人が快適に旅を出来るような状態ではなかったんだろう思う。
当時の日本の雰囲気というのは、まだ江戸独特の庶民の文化が残っているのが伝わってきて、宿屋や城下町などは、かなり猥雑な賑わいがあるのがよくわかるのだけれど、そういうところはイギリスの文化とあまりに違っているために、その当惑振りが日記から感じられる。
この本が紀行文として価値があると思うのは、当時、イギリスと日本の文明の発達度を較べれば、やはり一歩も二歩もイギリスのほうが先を進んでいたところがあり、日本という国の姿を、まったく別の、一つ高い視野をもって眺めているというところだ。
これは、同時代の日本人にとっては、いくら幅広い知識があったとしても日本の客観的な姿を描くには限界があっただろうところで、その点、この著者ほどに適役で好奇心旺盛な人物が日本にいたということは、すごく幸運なことだったのだと思う。
【名言】
私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、プライバシーの欠如は恐ろしいほどで、私は、今もって、錠や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほど他人を信用することができない。隣人たちの眼は、絶えず私の部屋の側面につけてあった。(p.47)
私は奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行ができる国はないと私は信じている。(p.48)
群集は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。(p.106)

水晶堂について