» 2009 » 12月のブログ記事

1058日 差分

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差分(佐藤雅彦/美術出版社)

二つの絵を見た時に、そこから起こる様々な反応を楽しむというテーマの本。言葉によらずに、絵がメインの表現となっているところがいい。
大学の研究室での研究テーマが元になっているためか、かなり学術的な色合いが濃くて、そこがユニークなところでも面白いところでもある。
途中、佐藤雅彦氏と茂木健一郎氏の、「脳の働き」という観点から見た「差分の処理」についての対談も挟まれている。
1秒間で30フレームもの絵を表示するようなアニメーションとは違い、たった2枚の絵だけで表現するというのは、鑑賞する側に高度な想像力が要求される。
単なる点の集まりである星の光を見て、そこから様々な星座や物語を生み出したのと同じような、原始的なインスピレーションを呼び起こす刺激が、この本にはあった。
【名言】
結局、言語っていうのはいろんな「modality(種々の感覚)」の情報を統合するところから生まれてくるので、「にゅるーっ」ていうのはもちろん視覚でもあるし、時間感覚でもあるし、触覚でもある。そういういろんな感覚の統合過程を通して、「にゅるりん」とか、言語やオノマトペに近いような情報が脳の中に表現されているわけで。いったん言語にしてしまえば伸縮自在といいますか、それこそ刹那から永遠まで言語で表せる。そういう意味で、言語っていうのはトップダウンの最たるものなんです。(茂木健一郎)(p.150)
「差分」というものを突き詰めてみようと思ったきっかけの一つは、それが本来人間にとって必要で、もともと備わっている機能ではないかと考えたからなんです。たとえば、原始社会では暗闇で動物がざわっと動いた気配、そのちょっとした日常の差を感じられるかどうかが、そのまま生死にかかわったわけで、そういう機能があったとしたら、それを現代に呼び起こすことができないかと思ったんです。(佐藤雅彦)(p.152)

1057日 VERNACULAR

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VERNACULAR(石川直樹/赤々舎)

ヴァナキュラー建築、というのは、その土地固有の風土に合わせた形で作られた家のことであるらしい。一般的な「家」という概念を大きく越えて、まず自然環境ありきで、その前提を元にした建築ばかりなので、ユニークなものが多くて面白い。
掲載されている場所は、ベナンの水上都市ガンビエ、ペルーのチチカカ湖、沖縄の波照間島、カナダのハイダグワイなど。
ページ数は600ページ近くあって、だいぶ分厚いのだけれど、同じような写真がたくさん重複して載っているので、それを除くと、あまり写真の数は多くない。
フランス南部ドルドーニュ地方の、岩棚をそのまま利用してその隙間の空間を利用して作った家は特に面白かった。あと、良かったのは、岐阜県の白川郷。

1056日 狭き門

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狭き門(ジッド/新潮社)

「狭き門」というのは、「困難で、しかし正しい道」というような意味なのだろう。余程の意思の力がなければ、自然と易きに流れていくことになり、狭い門をくぐるようなことは無いわけだから、これは、随分と険しく過酷な道だ。
それにしても、アリサの思考はあまりにも禁欲的すぎて、「何もそこまで思い詰めて考えなくても・・」と思ってしまう。しかも、自分一人が信仰に殉じるのであればまだしも、それと道づれにするようにして、もう一人の男の人生までもめちゃくちゃに振り回しているような印象だった。
アリサの考え方にも、結局それに自分を合わせていってしまうジェロームの考え方にも、ほとんど共感が出来ないというのは、宗教的なバックグラウンドの違いによる部分が大きいような気がする。その意味では、自分自身の信仰の種類と深さを測る、踏み絵のような役目を持った小説なのかもしれない。
【名言】
「ぼくがこれからどんなものになろうとしても、それはみんなアリサのためなんだ」
「だってジェローム、わたしだってあなたから離れるかもしれないじゃないの」
わたしの言葉には、わたしの心そのものが込められていた。
「ぼくは、ぼくはどうしたって離れない」
彼女は、軽く肩をすくめてみせた。
「あなたはひとり歩きできるほど強くはないの?神さまを得ようと思ったら、誰でもひとりでなくてはいけないのよ」
「だって、ぼくにみちを教えてくれるのは君なんだ」
「なぜあなたはイエスさまのほかに案内者が必要なの?・・わたしたちがおたがいにいちばん近くにいるときは、それはおたがいがすっかり自分自身を忘れてしまって、ただ神さまにお祈りをしているときだけだとは思わない?」(p.33)
そうだ、彼女の言ったことは正しかった!自分はもう<影>だけしか愛していなかったのだ。わたしのかつて愛していたアリサ、そしてなお愛しつづけていたアリサは、もういなくなってしまったのだ。そうだ、二人はすっかり年をとってしまったのだ。(p.167)
もうその時はすぎてしまいましたの。恋をすることによって、二人が恋そのものよりもっとすぐれたものをながめることができるようになった日から、そうした<時>はわたしたちから離れていってしまいましたの。あなたのおかげでわたしの夢は高められ、人の世の満足などは、むしろそれをそこねかねないもののように思われだしてきましたの。(p.176)
主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまのほうへ近づいていくことができますように。人生の路にそって、ちょうど二人の巡礼のように、一人はおりおり他の一人に向かって、<くたびれたら、わたしにおもたれになってね>と言えば、他の一人は<君がそばにいるという実感があれば、それでぼくには十分なのだ>と答えながら。ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです--二人ならんでは通れないほど狭いのです。(p.197)

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駅から5分 3巻(くらもちふさこ/集英社)

すごく面白い。
推理小説のような本で、「さっきの伏線がここで活きてくるのか!」という仕掛けがたくさんあるものは読んでいてワクワクするけれど、この「駅から5分」は、それと似た驚きに満ちている。
一人称の視点からの語りを一次方程式の物語だとすると、この本は、とても多くの人物からの思考という変数が絡み合った多次元方程式の様相を見せていて、そういう、人の繋がりの不思議さを感じさせてくれる、見事な構成だと思う。
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登場人物が増えてさらに複雑さを増した、巻末の人物相関図がスゴいことになってきた。月刊誌に連載しているからなのか、刊行ペースが遅くて、この3巻は一年以上ぶりに出た新刊。どこまでこの、花染町という町を舞台にしたミクロコスモスが広がっていくのか、先がとても楽しみだ。
駅から5分(1~2巻)

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自動販売機で、地域限定物というレベルを越えて、駅ナカ限定物という絞り方がすごい。
これは、つい、試しに買いたくなってしまう。


絶望に効くクスリ 15巻(山田玲司/小学館)

「絶望に効く薬」も、「ヤングサンデー」の休刊という事態のあおりを受けて、連載が終わってしまった。どれだけ連載が続いても、一向に絵が上手くなるということがなかったけれど、この画はもはや独特の味になっていて、むしろこのままでいてほしいという感じがする。
裏表紙の折り返しのところに、著者の写真がついていて、これまで写真を見たことはなかったので、こういう顔だったのか!と結構驚いた。
特に良かったのは、雨宮処凛、森達也、元ちとせ、堀井雄二、との回。
相手によっては、かなり表面的な感じの話しに終わってしまう対談もあって、回によって密度にムラはあるのだけれど、それとは逆にピタッと会話がハマっているような対談もあって、そういう内容の時にはとても面白かった。
【名言】

自分で撮ってみると・・カメラでズームをすることが、すでに主観なんですよ。撮る部分があれば、同時に、撮らない部分が生まれるわけですから。
撮るものを選んでいるっていうことは、映像ってのは主観なんだって・・客観のかけらもないじゃん・・って思って・・。(森達也)
不登校の人に会った時、言ったんですけどね・・せっかく引きこもったんなら、もう少し引きこもり続けなさいよ・・って。本人はびっくりしてましたけどね・・治るんなら治るし、治んないならそのままでいいんです。(ひろさちや)
右翼団体に入った途端に、全部アメリカと戦後民主主義のせいにできたんで、腕切るのも治ったんです!右翼療法です。(雨宮処凛)
結局、自分以外の死は・・三人称の死なんです・・(加藤大基)

1052日 豊栄神社

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石見銀山の近くにひっそりとあった、荒れ果てた神社。
その昔この地方を治めていた毛利元就に縁のある社なのだという。
 
打ち毀された門扉をくぐると、非常に長い時を過ごしたであろう燈篭や狛犬が境内のあちこちに置き去りになっていて、なんともいえず鄙びた感じがある。
 
銀山の周辺には小さな町が出来ていて、その中には寺や神社もいくつかあるのだけれど、この場所は圧倒的に雰囲気が良かった。
場所:島根県大田市大森町
交通:大田市駅からバスで30分ほど


表現力のレッスン(鴻上尚史/講談社)

鴻上尚史氏が、演劇のワークショップや、大学の講義で実際におこなった、「表現力のレッスン」のやり方を解説した本。
いずれも、知識的な内容ではなく、実際に自分自身の身体を使って、他の人とのコミュニケーションをおこなうようなレッスンばかりで、「これは、やったことがないけれど、やったら面白そう」と思う内容ばかりだった。
レッスンでやること自体も、色々な気づきがありそうなものばかりなのだけれど、それぞれのレッスンが何故必要なのか、とか、表現力とどういう関係があるのか、ということを解説している著者の説明が、ものすごく面白い。
特に、これはいいと思ったレッスンは下記の4つ。
・倒れかけレッスン(p.11)
→Aが後ろに倒れて、それをBが受け止めるというレッスン
・目隠し体レッスン(p.30)
→Aが作ったポーズを、Bが目を閉じて触って確かめ、同じポーズを真似するレッスン
・ムチャクチャ語レッスン(p.87)
→設定を一つ想像して、ムチャクチャな言葉で会話をするレッスン
・目隠しウォークレッスン(p.96)
→Aが目隠しをして歩いて、Bがそれを見守るレッスン
【名言】
「倒れかけレッスン」は、とりあえず、相手に自分の体を任せるという決断と勇気が必要です。それが、「信頼のエチュード」と呼ばれたりする理由です。
人間を信用しない、なんでも自分でやろうとする、傷つけられないように警戒する、人間に深入りしない、ということが染みついている人には、三人前後・横パターンは、本当に難しいと思います。
ですが、できないことで、自分や相手を責めないように。
「表現力」のためのレッスンは、道徳のレッスンでもなければ、人生の修行のためのレッスンでもありません。
それは、「表現」を楽しむためのレッスンです。できなければできないでかまいません。今できない自分を楽しんでください。(p.25)
僕が大学生の時、電車に乗っていると、隣に立っていた中年のカップルが会話を始めました。
まず、女性が、「ねえ、私のこと、愛してる?」と聞きました。
中年の男性は、
「愛してるよ」
と答えた後、
「いや、『愛してる』なんていう固っ苦しい表現じゃないな。『好きだ』。これだな。・・いや、違うな。なんか薄いよな。『惚れてる』。・・そうなんだけど、なんだか時代劇みたいだな。『抱きたい』。もちろんそうなんだけど『一緒にいたい』。うん、でもそれだけじゃないし、『抱きしめたい』。うん、近いな、でもちょっと違うし・・」
と、言葉を探し始めました。
僕は、その発言を聞きながら、感動していました。彼がどんな言葉にたどり着くのか、興味津々でしたが、二人は次の駅で降りてしまいました。
人は恋をすると、「表現」と「感情」に対して厳しく、敏感になります(この場合の「表現」は「言葉」ということです)。
つまり、「言葉」と「感情」の距離に初めて気付くのです。「言葉」が「感情」をそのまま表現したものではないと分かるのです。(p.49)
この本は道徳の本ではないので、「レッテルを張るのをやめましょう」とは言いません。ただ、「レッテルを張るともったいない」と言います。表現力を使いたい相手に、レッテルを張ってしまうと力を充分に発揮できなくなるのです。(p.150)


お茶にごす。(全11巻)(西森博之/小学館)

最初はノリがよくわからず、なかなか慣れなかったけど、登場人物のキャラクターが固定してきたころから、かなり面白くなってきた。茶道部員のキャラが一人一人、きっちり個性が出てるのがいい。
この作者のギャグは、感覚が独特で、そうとう意表を突いたところに潜ませてる感じなので、そこに波長が合ってくるとツボにハマるのがところどころ出てくる。寺の肝試しの回あたりは、かなり笑った。
言葉とかじゃなく、何もセリフのないコマで伝わってくるというような、文学的な空気がただようマンガだと思った。唐突な感じで最終回になってしまったのが残念なところ。
【名言】
とにかく部長のいない茶道部なんて、
コーヒーの入ってないコーヒーみたいなもんですよ。(5巻p.121)
喜怒哀楽のどこが優しいトコなんですか!?
俺は「怒」だと思うんスケド。(7巻p.152)
「俺、茶色いダルマしか作った事ない」
「後から外側だけキレイな雪をつければいいんですよ」
「じゃ、白に見えるケド、ソイツは実は腹黒ダルマなんですね。」(11巻p.46)


夏に見た衝撃のマジックアワーの虹に次ぐ、とても美しかった夕暮れ。空には月齢3日の、正真正銘の三日月。
 
「逢魔が時」とも、「トワイライトゾーン」とも言われるだけあって、この時間帯はやっぱり特別な雰囲気がある。普段見慣れた景色であっても、どこかしら現実感がなくなって、書き割りに描かれた風景のような感じがしてくる。
一体あと何度、こういう、時間が経つのを忘れるような景色を見ることが出来るんだろうかと考える。

水晶堂について