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今回の満月もまた、キレイに映えていた。
今月は、満月が二回出る珍しい月で、1回目の満月を「ファーストムーン」、2回目の満月を「ブルームーン」と言って、「ブルームーン」を見ると幸せになるという言い伝えがあるらしい。
そして来月は、満月が一度も出ないということで、これはかなり珍しい月だと思う。
そんな月があることは、いったい何年に一度なんだろう。
2010年1月の満月(@横浜)
2009年12月の満月(@自由が丘)
2009年7月の満月(@自由が丘)
2008年11月の満月(@金沢文庫)
2008年6月の満月(@由比ガ浜)
(追記)満月がない月があるのは、今世紀は2010年、2018年、2037年、2075年、2094年の5回だけ でした。


闇金ウシジマくん 17巻(真鍋昌平/小学館)

外国人が「東京」という街の景色として想像するのは、東京タワーや、雷門や、六本木ヒルズみたいなものかもしれないけれど、それらはよそ行きの顔で、東京のほんの表面的な部分を表しているに過ぎない。
現代の東京の風景を、一番リアルに表現している作品は、この「ウシジマくん」だと思う。話しのところどころに挟まれる街の姿は、路地裏や、街の外れの、人の気配が消えた景色が多い。それは寒々しいまでに空虚で、余計な装飾がまったくないからこそ、美しく思える。
「楽園くん」シリーズは、この巻で完結。
もはや、ストーリーよりも、独特の空気感を楽しみに読んでいる作品になっている。現実味は薄いんだけれど、とてもスタイリッシュだ。
【名言】
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「今の中田怖い顔してる」
「かもな。他人の未来を金に換えて不幸にしてるし」
「無理するな。お前はやさしいよ。」


タイタンの妖女(カート・ヴォネガット・ジュニア/早川書房)

この小説は、一人の人間を無作為に選んで、神の視点からその生涯というものを追い続けた物語なのだと思った。
「タイタンの妖女」というタイトルの意味はよくわからなかったのだけれど、ギリシャ神話的なスケールと荒唐無稽さがあるので、そういう繋がりかもしれない。
主人公のマラカイ・コンスタントは、これといって大きな特徴のない、平均的な一人の人間だ。それが、全知全能的な存在の気まぐれによって、理不尽な目に遭ったり、まったく横暴としかいえないほどの弄ばれかたをする。
そして舞台は、地球→火星→水星→タイタン、と移ってゆき、だんだんと、この男が背負わされている宿命と役割がはっきりとしてくる。
今西錦司氏の進化論によれば、人間というものを眺めた時、一人一人の間には、個性といえるほどの違いは存在しないのだという。多少の個体差はあるにしろ、少し高い空の上から見てみれば、まったく区別がつかないレベルのギャップでしかない。
神から見れば、どの人間を相手にしようが大した差はなく、天災は単なる天災であって、そこには理由も目的もない、人は、あらゆる現象に意味を求めたがるけれど、実際には、ただの偶然や気まぐれという以上の意味はないのかもしれない。
このマラカイ・コンスタントは、誰でもない匿名のNobodyであって、つまり読者自身の姿でもある。彼を、人類の代表として見立てて、運命(神の戯れ)に対してどう立ち向かっていくべきかということを、見届ける物語なのだ。読んでいる最中は、その試練は随分とひどいものだと思ったけれど、それだけに、旅路の末に訪れる最後の結末は、とても感動的だった。
【名言】
まるでだれかかなにかが死人どうぜんみたいなこのわしに地球をひとりじめさせたがっとるみたいだった。これがどういうわけかを教えてくれるような信号がいまにあるだろうとわしはいつも目を光らしとったがそんな信号はなにもない。ただどんどんどんどん金持ちになっていくだけだ。
そのあとでおまえの母さんがあの浜辺でとったおまえの写真を送ってくれた。わしは写真の中からおまえがわしを見る目つきを見てひょっとしたらこれだけの金の山はこの子のために積まれたものかもしれんぞと思った。わしはなんのことかさっぱりわけがわからんで死んでいくがこの子はいつかとつぜんにそのわけをはっきりさとる人間になるかもしれんぞと思った。(p.128)
アンク、このおつむのイカれたばかやろう、おれはおまえが大好きだ。おまえはほんとにたいしたやつさ。もし、おまえの小さな家族といっしょになれたら、宇宙船を一隻かっぱらって、どこか平和で美しい土地へ飛んでいくんだぜ。生きていくためにヒョウロク玉を飲まなくてもすむようなところへな。ストーニイもいっしょに連れていけ。そしてむこうで落ち着いたら、だれがどういうわけですべての物事を動かしているのか、すべてを作ったのかを、おまえたちみんなでたっぷりとひまを使って考えるんだ。(p.186)
乗務員が手をくだせる制御装置は、船室の中央シャフトにある二つの押しボタンだけだった。その一つには『オン』、もう一つには『オフ』と記されていた。『オン』のボタンは、火星からの飛行を開始するだけのものである。『オフ』のボタンは、どこにもつながっていない。それは火星の精神衛生の専門家たちの要請によってつけ加えられたもので、この専門家たちの意見によると、人間は自分が停められると思っている機械のほうを、つねに好むものなのである。(p.239)
彼ら(ハーモニウム)は二つのメッセージしか持っていない。最初のメッセージは第二のそれに大対する自動的応答で、第二のそれは最初のそれに対する自動的応答である。
最初のそれは、「ボクハココニイル、ココニイル、ココニイル」
第二のそれは、「キミガソコニイテヨカッタ、ヨカッタ、ヨカッタ」(p.265)
「わたしは死にかけてはいない」とラムファードはいった。「ただ、この太陽系から去っていこうとしているだけだ。いや、それすらもしていない。壮大な、時間を超越した、時間等曲率漏斗ふうの見かたからすれば、わたしはつねにここにいることになる。わたしは、これまで存在したあらゆる場所に、これからも存在しつづけるだろう。(p.419)
「だれにとってもいちばん不幸なことがあるとしたら」と彼女はいった。「それはだれにもなにごとにも利用されないことである」
この考えが彼女の緊張をほぐした。彼女はラムファードの古ぼけた曲面椅子に横たわり、背すじの寒くなるほど美しい土星の環、ラムファードの虹、を見上げた。
「わたしを利用してくれてありがとう」と彼女はコンスタントにいった。「たとえ、わたしが利用されたがらなかったにしても」(p.441)
「きょう、連れ合いが亡くなったんだ」とコンスタント。
「気の毒に」とサロ。「『なにかわたしにできることは?』と聞くべきところだろうね。しかし、むかしスキップが教えてくれたのによると、それは英語の中でいちばん厭ったらしい、愚劣な表現だそうだ」
コンスタントは両手を揉み合わせた。彼がタイタンで失ったただひとりの伴侶は、彼の左手にとっての右手のような伴侶だったのだ。「淋しいよ」と彼はいった。
「きみたちはとうとう愛しあうことができたんだね」とサロ。
「たった一地球年前のことだった」とコンスタント。「おれたちはそれだけ長いあいだかかってやっと気づいたんだよ。人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と」(p.445)

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http://screenshots.jp/

ホームページのURLを入力すると、それぞれのOSやブラウザからどう見れるか、というのを、まとめて一発で確かめられるサイト。
IE5とかMacとか、全部の環境を自分で揃えようとしたら大変なことになるけれど、それを一瞬でチェック出来てしまうというのは便利だ。
全機能を利用するには有料版への登録が必要で、無料版だと、その機能の一部だけしか体験出来ないところが残念。

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大いなる遺産 上下巻(ディケンズ/新潮社)

もはや古典に属する小説なので、あまり派手な内容は期待していなかったのだけれど、予想に反して、ものすごくドラマチックな物語だった。
主人公が、とても気まぐれで、調子に乗りやすく、小悪党的な弱さがあるというところがまた意外で、斬新だ。他の登場人物も、かなりクセのあるキャラが多くて、しかも、割合としてはイヤなやつのほうが多い。
この小説の魅力は、人の考え方や性格が、環境によって影響を受けて変わっていくという、その移ろいやすさと不思議さにあるのだろうと思う。逆境を経験して、飛躍的に成長することもあれば、その逆に、大きく堕落することもある。そして、失ってはじめて学ぶことが出来ることも、多くある。
主人公は、特に周りに流されやすい性格をしていて、ものすごく小さなことで一喜一憂する、とてもわかりやすい人物なので、その点、感情移入しやすいというのも、話しに入りやすいところだと思う。
物語は、2箇所で大きな展開を迎えることになる。
一つは、貧しい少年ピップが「大いなる遺産」を受け取ることになる時、もう一つは、その「大いなる遺産」が誰から与えられたものであるかが判明する時で、このダイナミックな転換が、この小説の一番の見どころだと思う。
それまでの伏線や、下ごしらえの部分が長いので、前半はちょっと平坦なのだけれど、後半は一気に面白くなってくる。
終わり方が、とにかく良かった。ハッピーエンドやバッドエンドというような、単純に割り切れるような幕切れではなく、それぞれが、それぞれの落ち着くべき場所にたどり着いたというような感じのまとまり方で、そして、それからもそれぞれの物語は続いていくという余韻が残る、見事な締めくくりだった。
【名言】
四マイルある道をわが鍛冶場にむかって出かけた。そして、道々、きょう見たいろんなことを考え、自分はつまらない労働者の子供だということ、自分の手がざらざらしていること、自分の靴が厚いどた靴だということ、自分は兵隊をジャックだなんていういやしい癖がついているということ、自分はゆうべ考えたよりはるかに無知だということ、そして、つまり自分は、下等な、いやらしい生活をしているのだということを、つくづく考えた。(上巻p.107)
わたしが逃げ出して、兵隊か水兵にならなかったのは、わたしが誠実だったためではなくて、ジョーが誠実だったためである。わたしが気にそまぬながらも、かなり熱心に仕事をやったのも、わたしに強烈に勤勉の美徳がそなわっていたからではなく、ジョーに強烈な勤勉の美徳がそなわっていたためである。やさしくて正直な心をもつ、義務に忠実な人間の感化というものが、世のなかにどのくらいひろがってゆくものか、それを知ることはできない。だが、通りすがりにその力が自分の魂にふれたことを知ることは、大いに可能である。もしもわたしの年季奉公のうちに、なにかの美点がまじりこんでいたとすれば、それはすべてぼくとつな、満足しきったジョーから生まれたものであって、落着きもなく、野心に燃えて、不満ばかりいだいていたわたしから生まれたものではなかった、ということを、わたしはよく知っている。(上巻p.175)
ジョーは、まるで女のようにやさしく片手をわたしの肩にかけた。その後わたしは彼のことを、力とやさしさをかねそなえていて、男ひとりをたたきつぶすこともできれば、卵の殻をそっとさすることもできる、蒸気槌のようだと、なんども思った。「ピップが勤めから解かれて、名誉と幸運をえるために出かけることは、とても口にはいわれんほど、心底から嬉しいことです。ですが、この可愛い子を、わたしの鍛冶場へきてくれた、わたしのいちばんの親友をなくするわたしの気持ちを、お金で償うことができるなどと、もしあんたがお考えになるんなら」
おお、なつかしい、なつかしいジョー、ぼくはあんたをこんなにも平気で捨てさろうとしているのに!こんなにも恩知らずになろうとしているのに!(上巻p.232)
教会を通りすぎたとき、わたしは一生のあいだ、くる日曜日もくる日曜日もここへきて、ついには名もなく低い緑の塚の下によこたわらねばならぬ運命をもった、哀れなひとびとにたいし、崇高な惻隠の情を感じた。わたしは、近いうちに彼らのためになにかしてやろうと、心のうちで誓った。そして、村人たちに、ロースト・ビーフと、プラム・プディングと、強ビール三合と、それから謙譲の美徳一ガロンを、ひとりのこらずふるまってやろうという、計画の荒筋を立ててみた。(上巻p.241)
「おまえとわしは、ロンドンでいっしょになるべきもんじゃないんだ。ロンドンばかりじゃない。うちうちで、よくわかりあって、友だち同士理解できるところのほかは、どこだっていけないんだ。わしはなにもいばってるわけじゃない。ただ正しくなりたいと思ってるだけだ。そして、わしはこんな服を来て二度とおまえにお目にかかりはしないだろう。わしが、こんな服を着るのはまちがっている。わしが鍛冶場から離れたり、台所から離れたり、いや、沼地から離れるのは、まちがっている。もしわしが仕事着を来て、槌を、いやパイプでもいい、手にもっていたら、おまえはわしにこの半分も落ち度を見つけはしないだろう。」(上巻p.363)
おお、きてくれたりなどしなかったら、よかったのに!わたしをあの鍛冶場にそっとしておいてくれたら、よかったのに。たとえ満足はしなかったとしても、これにくらべたら幸福だったのに!(下巻p.142)
「一週間もすれば、わたしのことなんか、あなたの心から忘れてしまいますよ」
「ぼくの心から!あんたはぼくの存在の一部分になっているのだ。ぼく自身の一部分になっているのだ。粗野な、下等な少年だったぼくが、はじめてここへやってきたとき以来、あんたはぼくが読むものの、一行一行のなかにいたのだ。あんたは、あれ以来ぼくが見た、あらゆる風景のうちに、川の上にも、船の帆の上にも、沼地にも、雲のなかにも、明るいところにも、暗闇のなかにも、風のなかにも、林にも、海にも、街路にも、いたるところにいたのだ。あんたは、ぼくの心がかつて知りえたありとあらゆる優雅な幻の権化だったのだ。エステラ、ぼくの生涯の最後の一刻にいたるまで、あんたは依然としてぼくの人格の一部であり、ぼくのもっているささやかな善の一部であり、悪の一部であるだろう。だが、いまこうしてお別れするにあたって、ぼくはあんたをただその善とだけむすびつけ、またいつも忠実にあんたをそれとむすびつけているだろう。なぜなら、いまぼくがどんなに血を吐くような悲痛な思いがしようとも、あんたはやはりぼくを傷つけるよりも、はるかに多くの善をぼくにあたえてくれたにちがいないんだから。」(下巻p.219)
マグウィッチとならんで腰をおろしたとき、わたしはこここそ、彼が生きているかぎり、今後わたしが占める場所なのだと感じた。
というのは、彼にたいする嫌悪の情は、いまはあとかたもなく消え去ってしまっていたからであり、そしてわたしは、いまわたしの手を握っている、この狩りたてられ、傷つけられ、枷まではめられた男のうちに、ただただ、わたしの恩恵者となろうと考えてくれた人間、何年ものあいだ、わたしにたいしてすこしもかわらぬ愛情と感謝と寛容をいだいていてくれた人間だけを見たからである。わたしは彼のうちに、わたしがジョーにたいするよりもはるかに善良な人間を、ただそれだけを、見たのだった。(下巻p.366)
「じゃ、それでよし」と、ジョーはまるでわたしが返事をしたかのようにいった。「それでけっこうだ。そうきまったんだ。とすれば、なんだってまたわしたちみたいな親友の間に、永久に必要でもない話なんかはじめようとするんだい、ピップ?わしたちのような親友のあいだにゃ、必要もないことを話さなくたって、話すことはいくらでもあるんだ。」(下巻p.406)
「二階へあがって、ぼくの昔の小さな部屋を見ながら、ちょっとの間ひとりでいさせてくれ。それから、ぼくがあんたたちといっしょに食事をいただいたら、さようならをいうまえに、なつかしいジョーとビディ、どうかあの道標のあるところまでいっしょに見おくっておくれ!」(下巻p.428)
わたしはエステラの手をとった。そして、いっしょに廃墟の屋敷跡をでた。ずっと昔、わたしがはじめて鍛冶場をあとにしたとき、朝霧がはれかけていたように、いまは夕霧がはれかけていた。そして、はれわたる夕霧とともに、ひろびろと果てしなくひろがる静かな月明かりのうちには、彼女との二度の別離の陰影はすこしも見えなかった。(下巻p.436)


ごはんにしよう。―映画「南極料理人」のレシピ(飯島奈美/文化出版局)

「南極料理人」の中には、随分たくさんの料理が出てきて、そのどれもが、ものすごく美味そうだった。この本には、50品目のレシピが出ているから、ほんのちょっとでも映画の中に登場したものはもちろん、まかないレシピ的なものもすべて網羅されているのだと思う。
この映画のフードコーディネーターをしているのは、「かもめ食堂」と同じ、飯島奈美さん。おにぎりや、ブリの照り焼きや、ラーメンなど、わりとありふれたメニューばかりなのだけれど、それだけに、味が想像しやすくて、雰囲気がよく伝わってくる。
この映画の中では、堺雅人氏が料理を作っている過程の映像が多くて、どちらかというと、出来上がった料理よりも、その、作っている時の様子のほうがずっと美味しそうに見えた。

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ビーフカレー辛口・大盛り
この店のカレーは本当に辛くて、
一口目から、いきなり涙が出るぐらいに辛い。
カレーは欧風が好きだけれど、カレーはやはり辛いに限る。
この両方を同時に満たしているというのは素晴らしい。
平日のランチタイムしか営業していないという制限がなかなか厳しいけれど、昼間に御成門の近くを通ることがあれば、とてもオススメ。
東京都港区新橋5-31-7 中村ビル 1F
定休日土曜・日曜・祝日
営業時間11:30~14:30

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これは、アーティストの孤独と苦悩について考えさせられる映画だ。
人ならぬ鬼が、人里離れた山に住んでいるというのは日本の昔話のような設定だけれど、この映画では、それが、現代の住宅地に「はさみ男」という形で現れたら一体どういうことになるかという物語になっている。
両手が鋏というのは、優れたスキルの象徴であると同時に、異形としてのハンディキャップの象徴でもある。人々がその、異邦人を好奇の目で遠巻きに眺めてから徐々に近づき、消費した後にまた距離を置く様は、古今東西、どこにでも見られる姿なのだろう。
そもそも、ペグが親切心からエドワードを街の中に連れてくるということ自体が、大きなお世話だったんではないかと思える。
DVDには特典映像として、キャストや監督へのインタビュー集が収録されているのだけれど、ティム・バートン監督がやたら若いことに驚いた。この映像のセンスはやはり、この人でなければ生み出せない、独特なものがあるのだろうと思う。

1081日 海遊館

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水族館は、季節や天候に左右されずに、いつでも楽しめるところがいい。
 
この、海遊館が斬新だったのは、上から入って、どんどん低い位置に下っていくというスタイルの動線になっているところだった。だから、同じ水槽を地上・海面直下・海底、という風に高さを変えて眺められるという楽しさがある。
一番メインの水槽である、ジンベイザメがいるところなどは、その水槽の周りを螺旋状にまわりながら下っていくので、「もうこれでジンベイザメも見納めか」と思った後、更にもう3回ぐらい出会うチャンスがあった。
 
ジンベイザメは2匹いたのだけれど、ジンベイAには小魚の群れが常にその周りを賑やかに取りまいているのに、ジンベイBには誰も寄り付かず寂しいことになっていて、理由はよくわからないのだけれど、2匹の明暗がくっきりとした対照を示していた。
 
一番良かったのは、マンタだった。
正確には、マンタの上にずっと乗っていた名も知らぬ魚。
ステルス飛行機のような不思議な形をしたマンタが、背面飛行やサマーソルトなど、どれだけアクロバティックな泳ぎをしても、ピタッとくっついたまま、決して離れない。マンタを操っている本体は、あの魚なんじゃないかという気がするぐらい、一心同体のくっつき方だった。
 
あと、イルカとクラゲ。
動いてるところをじっくりと観たことがなかったのだけれど、イルカは、スポーツカーのようにキレイな流線型でズバズバと泳ぐ姿が美しいし、
クラゲは、全体がシースルーですべてが見えているにもかかわらず、どういう構造で生きているのかまったくわからない不思議さが美しい。
魚の魅力的な見せ方が、とても上手い水族館だと思った。
大阪市営地下鉄 中央線「大阪港」駅下車徒歩5分
http://www.kaiyukan.com/


先生はえらい(内田樹/筑摩書房)

タイトルからは、どんな内容なのか想像がつかない本。
結論としてはたしかに、「先生は、その定義からしてどんな場合でも必ずえらい」というところに持っていくのだけれど、それは話題のきっかけに過ぎず、「人から学ぶ」というのはどういう現象なのか、ということについて主に語られている。
面白いと思ったのは、コミュニケーションは誤解の余地が残されているからこそ質の高いコミュニケーションになる、ということだった。これは経済活動においても、何かを教えるということとも関わっていて、一見すると効率からはかけはなれた「無駄」や「曖昧な部分」があるからこそ上手く機能することが多くある、という。
たとえば、著者が「あべこべ言葉」という用語で表現した、「適当」や「いい加減」のようにまったく真逆の二つの意味を同時に持つ単語というのは、どの言語にもあり、それはコミュニケーションに曖昧性を持たせようとする、本能的な性質であるらしい。
その、完全じゃない部分を補う想像力を人は持っていて、そこにこそ豊かさが生まれるというのは、言われてみればその通りのことだ。ちょっと変わった視点からの話しの展開ばかりなので、どんな人が読んでも、新しい気づきを与えられる本であることは間違いないと思う。
【名言】
私たちが「この先生から私はこのことを教わった」と思っていることは、実は私が「教わったと思い込んでいること」であって、先生の方にはそんなことを教える気がぜんぜんなかった、ということがあります。
というか、教育というのは本来そういうものなんです。(p.41)
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないようだけれど、はじめてかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。(p.62)
ここで、たいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。それは、人間はほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える、ということです。
コミュニケーションはその典型的な事例です。
私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。(p.72)
古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。これはもう必ずそうです。構造的にそうなんです。(p.135)
教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。(ジャック・ラカン「教える者への問い」)(p.170)
子どもは彼が生まれる以前に成立した言語に絶対的に遅れて生まれます。言い換えれば、子どもは「すでにゲームが始まっており、そのゲームの規則を知らないままに、プレイヤーとしてゲームに参加させられている」という仕方でことばに出会うわけです。(p.172)

水晶堂について