2009年07月12日

0886日 東京アートダイバー

青山ブックセンター本店で隔月開催される、中沢新一氏の講座。
中沢氏の話しを直接聴くのは初めてで、とても面白い話しばかりだった。
初回のゲストは建築家の伊東豊雄氏。

【特に面白かったトピックのメモ】
1)東京という街が持つ無意識
→建物が街を決めているのではなく、土地そのものの記憶が建物を選んでいる。
2)自然は「渦」の形をとる
→自然の場合は数学と違って、A⇒BであってもB⇒Aにはならない。それが量子学でいう非可換ということで、自然は一般的にB⇒A'へと螺旋状に進む形をとる。
3)アートと建築の違い
→建築には施主が必ず存在するが、アートは施主の存在から自由。
4)台中に建築中の、骨のような構造を持つオペラハウス
→石灰質の洞窟のような不思議な形の建物だった。
5)「抽象」には一段階目と二段階目がある
→抽象化の能力が、反自然の存在として誕生した現生人類の最大の特徴。ル・コルビュジエ氏の建築は二段階目に進んでいるから楽しい。
6)世の中は弁証法的に動く
→人間の世界の中の事は、世界の外の事によって決定される。

水晶堂:「アースダイバー」

http://www.aoyamabc.co.jp/20/20_200906/2009_art_diver.html

2009年06月07日

シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ

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伝説と呼ばれる舞台が久しぶりに上演されるということで、とても楽しみに赤坂ACTシアターまで観に行った。20年前の、当時の雰囲気をそのまま残して再演をしているとのことで、衣装やファッションも、かなり昔懐かしい感じだった。
舞台の空気そのものも、コントラストがとてもくっきりしていて、楽しいところはとことん楽しいし、悲しい場面はとことん悲しい。そして、その振れ幅も広く、ストレートに表現されている。

初演が本多劇場だったということもあるだろうけれど、小劇場のステージから感じるのに似た臨場感が、そのまま残っていると思った。小劇場とはまったく違うのは舞台セットで、その作り込み方が半端じゃない。特に、巨大迷路を縦横に組み換えることによって表現される異世界のような空間と、宇宙船のセットのクオリティーは素晴らしかった。
途中、ブラックライトで宇宙船内が照らされる場面があって、何で客席の自分のところにスポットが当たってるんだろうと思ったら、その時着ていた白いシャツがブラックライトで思いっきり発光してるせいだとわかって、笑った。

切なさというのは、刹那の瞬間と、長い時の流れ、という相反する要素の両方が含まれている時に強く感じる感情と思うのだけれど、このミュージカルは、それが絶妙なバランスで組み合わされた作品だと思った。
頭ではなく感覚にそのまま伝わってくる物語で、全体から大きなエネルギーを受け取ることが出来た舞台だった。

【音楽座ミュージカルホームページ】
http://www.ongakuza-musical.com/about/stage/shabon/shabon.php
東京公演 2009年6月6日(土)~14日(日)
大阪公演 2009年6月19日(金)~21日(日)
神奈川公演 2009年6月27日(土)~28日(日)

2009年04月01日

QUIDAM

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過去に観た舞台芸術の中で、シルク・ドゥ・ソレイユの「キダム」は、ダントツで最も感動したアトラクションだった。パフォーマンスの技術度の高さはもちろん、その世界観や音楽や、細部まで作りこまれた演出も含めて、これほどにどうしようもなく魅了される舞台はなかった。

日本での公演がおこなわれたのは5年前になるけれど、それ以降、日本には来ていないし、今のところ来る予定もない。シルク・ドゥ・ソレイユでは、それぞれの演目ごとにチームが組まれていて、そのチーム単位で世界中の国を巡業しているらしく、今はイギリスで上演をしている。

 
今回、ニューキャッスルの「Metro radio Arena」で観た「キダム」も、最高だった。前に観た時の感動をさらに上回って、より洗練された内容になっていた。
中でもよかったのは、最初の演目である「ジャーマンホイール」、2つ目の「ディアボロ」、最後の演目「バンキン」。
特に、中国ゴマを使ったパフォーマンスである「ディアボロ」は、鳥肌がたつほどに本当に美しい。純粋にこれを観るためだけにイギリスに来ていたとしても、まったく後悔はないだろうと思った。

おこなわれる演目と、その順番は日本での公演時と変わりなかったのだけれど、インターミッションとしておこなわれる寸劇の内容がまったく変わっていた。観客参加型のコントになっていて、その場でアドリブ的に寸劇を作り上げる構成になっている。これは、観客の温度を考えて、国ごとにやり方を変えているのかもしれない。
ニューキャッスルでは、観客のノリがとても良く、素晴らしいパフォーマンスを魅せるたびに大きな拍手と喝采と口笛が劇場内に響き渡って、それもまた楽しかった。

今回、再認識したシルク・ドゥ・ソレイユの舞台のスゴさは、そこに言葉がまったく介在しないために、万国共通で誰がみても同じように楽しむことが出来るというところだった。言葉をまったく使わずに、これほどまでに人を動かすものを作りあげるというのは素晴らしいことだと思った。

2009年01月24日

タンジブルビット

MITの石井裕教授の講演を聴く。
話し方がとてもカッコよかった。

50分という短い講演だったけれど、かなり興味深く、密度の濃い話しだった。
タンジブルビットという、「アナログの感覚」と「デジタルの情報」の融合がテーマ。

講演は、宮沢賢治の手書き原稿のスライドから始まった。
妹の死を嘆いた「永訣の朝」の肉筆原稿には、無数の走り書きや、書き直しの痕が残されていて、どこまでが本文であるかの判別も難しいぐらいだけれど、そこには文字としての情報を遥かに超えた意味が含まれている。
しかし、人々が読む、宮沢賢治の詩は、明朝体の活字にコード化して整形されて、元の原稿にあった痕跡はすっかり失われてしまっている。
情報が変換される過程で、どれほど多くの意味が滑り落ちてしまったかが、とてもよくわかる。

特に印象深かったのは、「今までに電子黒板などで『紙』に挑戦をしてきたけれど、ずっと負け続けている」という言葉だった。
4000年前に中国で生まれた紙は、今なお、そこでしか表現出来ないものがあって、たとえば、書道での墨の微妙なニュアンスを表わすのに、紙以上の媒体はまだ存在していない。
数々のユーザーインターフェースを手がけてきた、石井教授の口から出た言葉だからこそ、これはとても重みがあった。


■印象に残った言葉メモ
・美しいものはフラジャイルである。
・普通の絵画ではインクはインクでしかない。そのインクに情報というZ軸を持たせることで、絵の中に歴史が入り込む。
・卓球のラケットは、柔らかい木で出来ているために、使うほどに体に馴染んできて、ついには体の一部といえるまでに一体化していく。
・人間のアテンションがいかに貴重なリソースであるかということ。
・「g-speak」(映画「マイノリティ・リポート」の中に登場したような近未来インターフェース)はマッシブな情報を扱うのに適している。

2008年12月26日

ZED

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やっぱり、シルク・ドゥ・ソレイユはとんでもなくスゴい集団だと思った。ここまでエンターテイメントに徹している舞台芸術というのは、他に見たことがない。
パフォーマンス自体の技術も当然のように高いのだけれど、それに加えて、開演前から終演まで、間断なく何らかの仕掛けが回り続けて、決して飽きさせないようになっている構成そのものが芸術的な出来栄えだと思った。

5年前に観た「キダム」とはちょっと趣向が変わっていて、「キダム」はかなりオリジナルな世界観がベースになっていて、内容的にもアッと驚くような演目があったのだけれど、この「ZED」は、一般に馴染みが深いジャグリングや綱渡り、空中ブランコのような演目が中心になっていて、よりサーカスらしい作りになっていると思った。

特に好きだった演目は、組体操のように人の上に人が立ったり、人の手をトランポリンのようにして跳ねる「バンキン」と、一本のロープの上ですれ違ったりバク宙したりする「綱渡り」だった。

綱渡りのところでだけ、パフォーマーに命綱が付いていたので、何でだろうと思っていたら、観客の真上を通過する時だけは、観客に危険が及ぶ可能性があるので、ヒモを付けているようなのだった。同じ理由で、綱渡りで使うバランスを取るための棒にも、もし落ちた時にどこに飛ぶかわからないので、ヒモが付いていた。
それ以外のところでは、どんなに危険な場面でもセーフティーネットは用意されていない。サーカスだからそういうものなのだろうけれど、あの、危険と隣り合わせのパフォーマンスをリアルタイムに演じているというのは、観ている自分までがやたらと緊張する。これだけは、映画では実現出来ない、ステージのみが持つ臨場感だろうと思う。

ピエロがしゃべっている、英語でもフランス語でもない言葉は、いったい何語なんだろうと思っていたら、地球上の言語ではないのだという。クリンゴン語やゼビ語のような、完全オリジナルの言語であるらしい。
ステージ上のところどころに表れる文字も、「ZED字」とでもいうべき創作文字。一つのステージのために、ここまでゼロから世界を創り上げるというのは、途方もないこだわりだと思う。

演奏が生演奏だから出来ることなのだろうけれど、たとえ多少のミスがあってリズムがズレたとしても、最終的にぴったり動きと音楽が重なるように調整されるというのは見事だと思った。
「ZED」の曲は、パーカッションを多用した打楽器のリズムがメインで、とてもノリが良いアッパー系の曲が多い。空中ブランコでは、パフォーマーたち自身が奇声をあげてやたらテンションが高いのが笑えた。そういうところも含めて、演目が進むにつれて観客も参加しているという一体感を感じられる、素晴らしい雰囲気作りだった。

2008年10月24日

ピカソ展 魂のポートレート

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パリ国立ピカソ美術館が改装中とのことで、そこに所蔵されていた作品がまとめて来日してきている。
新国立美術館とサントリー美術館の2箇所に分かれて展示されていて、サントリー美術館のほうは、自画像を中心にした58点があった。

【ベスト5】
1位「影」(1953年)
2位「自画像」(1901年末)
3位「ドラとミノタウロス」(1936年)
4位「人物と横顔」(1928年)
5位「海辺を走る二人の女」(1922年夏)

ダントツで良かったのが、
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「影」。かなり倒錯している。

「自画像」は
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青色がものすごくキレイだった。
肌寒くなるようなシーンとした暗さ。
写真になると、この青味が全然わからなくなってしまう。

「ドラとミノタウロス」
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2008年10月07日

デイヴ・コーズ

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アリーが、とても良かったから是非行ってみてほしい、と薦めてくれたので、ブルーノートで公演中の、デイヴ・コーズのライブを聴きに行った。ものすごいエンターテイメントだった。
デイヴ・コーズのサックス演奏の自由自在さにも衝撃を受けたけれど、他のドラムやベースやパーカッションの人たちも、それぞれの奏者が、それぞれの楽器を技術的に完全にマスターした上で初めて可能になる遊びを存分に取り入れて、好き放題に遊んでいる風だった。
みんながみんな、一体になって音を楽しんでいる感じで、ものすごく楽しい。一つの楽器を極めると、ここまで自分の身体の一部のように操れるのかという感動もあったし、会場の空気を見ながら、アドリブでメンバー同士がセッションをしたり、客席に出ていったりというサービスマインドの高さにもやられた。
アメリカのバンドってすごいんだなあ!という子供みたいな驚きを感じたライブだった。

2008年09月12日

フェルメール展

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上野の東京都美術館で開催されている「フェルメール展」。
といっても、フェルメールの絵は7点のみで、副題は「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」。

好きだった絵ベスト3は、
○ヨハネス・フェルメール「リュートを調弦する女」
○ヤン・フェルコリエ「使者」
○ダニエル・フォスマール「壊れた壁のあるオランダの町の眺望」
だった。

「リュートを調弦する女」
ほぼ白黒に近いぐらい色彩がなく、陰影が目立つ絵。
カーテンの淡い影と、手前の椅子の強い影との対比がキレイなのと、壁にかかっている地図がとてもいい雰囲気を出していた。リュートを調弦している女の人は、眉がなくて、目がギョロっとしていて、幽鬼のような顔立ちをしている。

「使者」
これは、女の人が着ている、真珠色のドレスが素晴らしかった。
ドレスの襞や光沢の描き込みがハンパなく細かくて、絵自体が発光しているような明るさがある絵だった。

「壊れた壁のあるオランダの町の眺望」
レンガの壁が壊れて斜めになっていて、その線がキャンバスを横切り、レンガの向こうに青空と森が広がっているという、面白い構図の絵。
この、斜めの壁がなければ、ごく普通の絵なのだけれど、線が一本入ることで、随分と印象的な絵になっていた。

入口で配布されている「出品リスト」によると、出品される予定だった絵のうち2つが、「作品保護のため」という理由で、出品されなくなったらしい。
○ヨハネス・フェルメール「絵画芸術」
○エフベルト・ファン・デル・プール「デルフトの爆発」
の2つで、これはかなり残念だった。

「絵画芸術」は、フェルメールの絵の中で一番好きなものだったので、ぜひとも見てみたかった。「デルフトの爆発」は、小さな見本が壁に掛けてあったのだけれど、それを見た感じでは、とても良さそうな絵だった。

■フェルメール展
http://www.tbs.co.jp/vermeer/jpn/index-j.html
会期:2008年8月2日(土)~12月14日(日)
月曜休室(月曜が祝日の場合は開室し、翌日休室)
午前9時~午後5時/金曜日は午後8時まで(入室は閉室の30分前まで)

2008年09月09日

歌舞伎「源平布引滝」

歌舞伎というものを初めて観た。
こんなにも面白いものだとは思わなかった。

やっていた演目は、
『源平布引滝』の中の「義賢最期」「竹生島遊覧」「実盛物語」と、『枕獅子』で、
『源平布引滝』は市川海老蔵が主役をつとめていた。

驚いたのは、スタントのような派手なアクションが盛り込まれていることだった。薄く立てた2枚のフスマの上に、フスマを横に置き、その上に海老蔵が立った後、そのままフスマが水平に倒れる、という大技は、かなり度肝をぬかれた。
木曽義賢の最期のシーンでも、海老蔵は、仁王立ちのまま、階段の上に前のめりに倒れる。「仏倒れ」という技(?)らしい。プロレス技とちがって、自分自身がダメージをくらう。「こんな危ないことを毎日やっていて、よく怪我しないな!」と思う。
長唄の中にあった、三味線のソロプレイのド派手な演奏にも驚いたし、歌舞伎は、自分が想像していたよりも、ずっとアクロバティックなものだった。

濃紺と金、とか、薄緑とピンク、とか普段見ないような色の組み合わせの衣装が、華やかで素晴らしい。役者たちの声も動きも、とてもキレイでカッコよく、洗練されていて良い。この夢のような空間の中には、宝塚と同じような、ファンタジックな活気がある。

そして、歌舞伎というものは、半分は知識で観るものなのだと思った。
今回、イヤホンガイドで解説を聞きながら観たのだけれど、この解説がなかったら、さっぱりわからないシーンだらけだったので、面白さは1割ぐらいになっていただろうと思う。
部屋の中に行灯が運ばれたら「夜になった」ことを示している、というように、細かい動きの中にも実は意味があるということも、それを知らないとわからない。
これは、深く知れば知るほどに、面白さが増していく芸能なのだと思った。

新秋九月大歌舞伎
平成20年9月1日(月)~25日(木)
場所:新橋演舞場

2008年06月16日

冒険王・横尾忠則

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かなり、素晴らしかった。
横尾忠則という人を今まで知らなかったのだけど、ほぼ日刊イトイ新聞に連載された、横尾さんへのインタビューを読んで、超笑って、ものすごく興味を持って、行きたくなった。
http://www.1101.com/boukenooooo/

世田谷美術館での展示は6月15日が最終日で、それにあわせて、午前中に横尾さんと糸井さんの対談があり、それが、最高に素晴らしかった。
糸井さんの聞き方も、どうしてこんなに上手に言葉を使えるんだろうというぐらいに最高だったし、それに対する横尾さんの答え方も独特の味があって、こんなにも笑える対談は初めてだった。この内容がコンテンツとして残らないのは、非常にもったいない。
こういうイベントを最終日にやるということが変わっていると思うのだけれど、イトイ新聞への連載がおこなわれた中で、急遽決まったのだという。

対談の中で言っていたことで面白かったのは、
横尾さんは絵の「コンセプト」ということについてよく聞かれるのだけれども、そんなものは無いのだという。コンセプトという概念自体が、近代に出来たもので、たとえば縄文時代で物を作る時には、コンセプトとかいう以前に、まず「技術」がどうかというところが問題になるし、そこしか問題にならない。
これはとても納得がいく話しで、コンセプトなんてものがたとえあったとしても、それが具体的に形にならなくては何の意味もなく、やっぱり行き着くところは技術なのだろうと思う。


実際に展覧会の絵を見て、本当に驚いた。
今まで「好き」だと思っていた絵が遠く霞んでしまうくらい、強烈な魅力を持った絵ばかりだった。

「なんだ、これは!」の連続で、一つの絵の中に数えきれないぐらいの仕掛けが埋め込まれている。絵の上に写真のコラージュを散りばめたり、絵と同じ対象物を立体模型で造ってみたり、一つの絵の中に複数の画法を共存させていたり。
ここまで自由な発想で絵を描けるというのは、一体どういう感性をしているんだろう。
横尾さんは、子供が魅力的に思うような、不思議なものや未知のものへの純粋な好奇心と遊び心を持ったままに、高度な表現力を身につけた人なのだと思う。

好きな絵がありすぎて、とても挙げ切れないのだけれど、
特に好きだったのは、
「薔薇の蕾と薔薇の関係」
→複数の絵が、目に見えないマトリックス上でつぎはぎされた、幾何学的な図。
「夢日記」
→10cm四方くらいの小さいキャンバスに、夢の中で見た風景が描かれている。全部で24点ある連作。どれも色使いが青みがかっていて幻想的。
「20年目のピカソ」
→上下が逆さまになった絵の端から、ピカソのタッチを模写して描かれたピカソが絵を眺めている。
「赤い風景を描くミッキー」
→全面赤で統一された色調の絵を描いているミッキーを後ろから描いた絵。
「金の湯」
→赤色と金色の温泉に、幽霊のように輪郭がぼやけた人たちが浸かっている。
「タカラヅカを観た夜に見た夢」
→宝塚の雰囲気をそのままに、Y字路を舞台として踊っている図。
「Are You Ready for flying?」
→鉄腕アトムが横切る図の隣りに、鳥や飛行機などの写真がたくさん貼り付けられている。
「ナポレオン、シャンバラ越え之図」
→馬に乗ったナポレオンが、峠の途中にいる桃太郎と、その先にある電飾付きの城を目指している絵。

東京での展示会は終わってしまったけれど、同じ展示が、兵庫で6月27日から8月24日まで開催されるという。
イトイ新聞に連載されたレポートでも、その楽しさは充分に感じられると思う。
http://www.1101.com/boukenooooo/

2008年06月02日

コンフィダント・絆

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19世紀末、パリのアトリエに集まる、4人の画家の交流を描いた作品。別の角度から観れば、3人の天才と1人の凡才の心理戦を描いた作品とも言える。

無邪気でわがままで子供のようなゴッホ、嫉妬深くて素直に気持ちを表現出来ないスーラ、荒っぽいけれども面倒見のいいゴーギャン、常識的で気さくな人柄のシュフネッケル。4人の性格はそれぞれ個性的で、その点においては優劣はないけれども、しかし天賦の才という点では、残酷なことに明白な差があった。

4人の芸術家は、友人であると同時にライバルでもある。
いずれの画家も、今の段階では世の中において何も認められておらず、無名の存在であるという点では変わりはない。それゆえに、表面上は友情が保たれてはいるけれども、お互いの画家としての実力を推し量りながら共に絵を描く4人の心中には、画家として一足先に有名になりたいという微妙な競争心が常に渦巻いている。
そこに一人の女性モデルが入ってきたことによって、ついにその均衡は崩れてしまう。

モーツァルトと対比させて、天才になれなかったサリエリの嘆きを表現した「アマデウス」も素晴らしかったけれど、この「コンフィダント」では、実在した4人の画家を組み合わせることによって、より奥行きをもたせて凡人の苦悩を描き出した。女性モデルという、画家からは一歩引いた客観的な視点を語り部として物語が語られるという点もいい。本当に見事な脚本だった。

このDVDの映像は、PARCO劇場で観客を一切入れずに撮影したらしい。その理由は、カメラの位置を自由に動かして撮影をして、映像的に臨場感を出したかったためらしく、その効果は抜群で、素晴らしい映像だった。固定カメラから映して撮った映像は決して生の舞台を超えることは出来ないけれど、このDVDは舞台でもない映画でもない、独特な表現を実現している。


【名言】
「一生のうち結局、1枚しか絵は売れなかったの。10万フランには程遠かったけどね。彼の名前が世間に知られるようになったのは、あの人が死んで10年以上たってからだった。」

「いずれにせよ、われわれは罪深い人間だということだ。
罪深きは芸術家だね。」

「でも皮肉なもんだなあ。
ここには、モデルと3人の画家。オレはいない。」

■コンフィダント・絆
http://www.parco-play.com/web/play/les/
キャスト:中井貴一、寺脇康文、相島一之、堀内敬子、生瀬勝久
作・演出:三谷幸喜

2008年06月01日

モディリアーニ展

モディリアーニの絵には、一目で彼の絵とわかる、独特の特徴がある。
瞳のない目、長く伸びた首、やや傾いた顔、粘土細工のように丸みを帯びたフォルム。
特に、目を描かないというのはかなりのインパクトがある。

本宮ひろ志氏は、どれだけ連載の数が増えて、アシスタントの人に代わりに描いてもらう部分が増えたとしても、目だけは必ず自分自身で描くという。それだけ、目というのは絵において重要な部分で、その描き方一つで大きく印象が変わってくるものなのだと思う。
その「目」を描くことを放棄するというのだから、かなり思い切った手法をとったものだ。しかし、結果的にはそれこそが、モディリアーニをその他すべての画家から独立した存在として成立させる契機になったのだと思う。

目を描かずに対象を表現しようとすれば、どうしても、対象を全体として捉えて、その特徴を描き出すことになる。だからこそ、表面にあらわれるものよりも、より、実際の本質に近い部分によって表現することになるはずだ。目というのは、あまりにその存在を主張しすぎるので、それが、絵全体で表現をするための邪魔にもなってしまうのだと思う。

サッカーで手が自由に使えたら、ゴールはきめることはずっと簡単に出来るけれども、それではゲームとしての面白さがほとんど失われてしまうから「手を使わないことにする」というルールを課す、ようなものかもしれない。

この展覧会で一番好きだった絵は、「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エピュテルヌ」という絵だった。
モディリアーニは、アフリカの原始美術や彫刻に影響を受けたらしいのだけれど、この絵は、そういうエネルギッシュなものとは遠く離れた印象があって、仏や観音の慈悲を思わせる。
modi.jpgmiroku.jpg
弥勒菩薩像にとてもよく似ていると思った。

■モディリアーニ展
http://modi2008.jp/html/
2008年6月9日(月)まで国立新美術館にて開催中

2008年05月18日

マトリョーシカ

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今までに観た舞台で最も衝撃的だった作品。
1999年にPARCO劇場でこの舞台を観た時、そのあまりの完成度の高さに言葉が出なかった。
モーツァルトの音楽は、曲全体のバランスがあまりにも完璧であるゆえに、人間が作ったものとは思えないと言われることがあるけれども、同じ種類のスゴさを、この脚本からは感じる。

「劇中劇」というのは、演劇ではよくある手法だけれども、この「マトリョーシカ」はそれをさらに進めて、演劇とは一体何なのか?ということを、これ以上ないくらいに突き詰めた作品だと思う。
ステージがあるということが演劇の必要条件というわけではなく、緞帳が開いてから閉まるまでが上演の時間であるという決まりもない。その空間に「演じる人」と「観客」さえ揃っていれば、それがいつ、どこであっても演劇というのは現出する。

この脚本を活かして、映画やテレビドラマ化することが出来るだろうか?と考えると、やはりおそらく、舞台ほどの内容には到底及ばないだろうと思う。舞台でしか出来ない仕掛けを、惜しげもなくすべて出しきっていて、演劇向けに極限まで最適化された作品だからだ。

登場するキャストはたったの3人。全員、とても上手いのだけれど、特に、松本幸四郎の上手さは芸術的だと思う。自然で、存在感があって、彼にしか出せない軽妙で洒脱な雰囲気がある。そこから生まれるユーモアは、他の誰にも真似出来るものではないだろう。

この作品は、いくつもの仕掛けが何重にも組み合わされていて、ミステリーのような色合いも濃い。タイトルになっている「マトリョーシカ」というのは、ロシアの入れ子人形のことで、まさにこの作品には、そういう、マクロコスモスとミクロコスモスが組み合わさったような美しさがある。
演劇を知り尽くした三谷幸喜さんの真骨頂ともいうべき作品だと思う。

■『マトリョーシカ』
作・演出:三谷幸喜
キャスト:松本幸四郎、市川染五郎、松本紀保
上演:1999年4月~5月

2008年02月24日

星の王子さま

「星の王子さま」を原作にしたミュージカル、「リトルプリンス」を観た。
一昨年の11月に上演された時も、相当なクオリティーの高さと思ったけれど、今回はキャストが一新されて、より一層、素晴らしい出来になっていた。

「星の王子さま」の物語の中にある、たくさんの名場面の中で、とりわけ好きなのは、王子とキツネとの交流のシーンだ。初めはまったくの他人同士で、何の関わりもなかった二人が、徐々に距離を縮めていって、お互いがお互いを唯一無二の存在として認めるようになる。
この舞台では、そのシーンが特に良く出来ている。だんだんとお互いの存在が近くなって、息が合ってきて、動きや感情までもがシンクロしていく感じ。この空気は、舞台以外では伝わらない感覚だと思う。

「星の王子さま」の原作は、意外に淡々としていて、そっけない。わくわくしたり、楽しんで読むような種類の物語ではなく、サンテグジュペリのほのぼのした挿絵にひかれて読むと、予想していた感じと違った、ということになる。
この、ミュージカルの舞台では、原作のメッセージはそのまま残しつつ、エンターテイメントの要素がかなり豊富に加えられているので、小説よりもはるかに面白く、印象に深く残る形になっている。

東京公演は2月24日(日)で終わってしまうので、それ以降の公演は、全国公演になる。(東京近郊では、5月31日(土)と6月1日(日)に相模大野での公演あり)
もし、自宅の近くで公演があるようだったら、ぜひ一生に一度は、この作品を観てみてほしいと思う。

「リトルプリンス」作品紹介ページ

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もう一つ、特に好きなシーンを、小説の中から。
星の王子さま
星の王子さま(サンテグジュペリ/池澤夏樹訳/集英社)

王子さまはもういちど庭園のバラを見に行った。
「きみたちはぼくのバラとはぜんぜん似てないよ。きみたちはまだ何でもない」と王子さまは言った。
「誰もきみたちを飼い慣らしていないし、きみたちだって誰も飼い慣らしていないからね。きみたちは以前のキツネに似ている。前は10万匹のキツネたちのどれとも違わないただのキツネだった。でもぼくたちは友だちになったし、今では彼は世界でただ1匹のキツネだ」
バラたちはみな当惑していた。
「きみたちはきれいさ。でも空っぽだよ」と彼は続けた。「誰もきみたちのためには死ねない。もちろん、通りすがちの人はぼくのあのバラを見て、きみたちと同じだと考えるだろう。でも、あれはきみたちをぜんぶ合わせたよりもっと大事だ。なぜって、ぼくが水をやったのは他ならぬあの花だから。ぼくがガラスの鉢をかぶせてやったのはあの花だから。ついたてを立ててやったのはあの花だから。毛虫を退治してやったのはあの花だから。愚痴を言ったり、自慢したり、黙っちゃったりするのを聞いてやったのは、あの花だから。なぜって、あれがぼくの花だから。」(p.102)

2008年02月15日

ルーブル美術館展

東京都美術館で開催中の「ルーブル美術館展」には、フランス宮廷の中で実際に使われていたインテリアや小物が数多く展示されている。

装飾的に作られた実用品というのは、実際にそれを使うというところに目的があるので、見栄えの他に機能的な美しさがある。作り手にとっても、いかに見た目を良くしつつ、使い勝手も良くするかということを考えるのは楽しい作業だったに違いない。
とにかく、ムダなまでに豪華な物ばかりが勢ぞろいしていて、そのスケールに圧倒される。
実用品とはいえ、たとえば「ボンボン(お菓子)入れ」を一つとっても、そこには気が遠くなるほど膨大な手間がかかっていて、この壮大なムダがどれだけ出来るかということが余裕の証しだったのだろうと思う。

特に良かったのは、中国の磁器や、日本の陶器に、金細工をほどこした壷。東洋と西洋が見事に合わさって、その両方の特徴が活かされている、不思議な壷だった。
louvre3.jpg louvre2.jpg
それと、嗅ぎ煙草入れ。小型のオルゴールぐらいの大きさの箱に、絵を描いたり、宝石をちりばめたり、箱によってまったく違う、個性的な装飾がほどこされている。おそらく、こういう特注の「自分用嗅ぎ煙草入れ」を持つことがステータスになっていて、今でいうと、携帯電話にキラキラしたシールを貼ったりしてオリジナルの携帯にするような感覚なのかもしれない。

展示品中、最も好きだったのは、マリー・アントワネットが使っていた、携帯用旅行カバンだった。
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マリー・アントワネットという人は、絵よりもインテリアや装飾に興味があった人のようで、身の回りの物にはすべてイニシャルの「M・A」の文字を入れて特注するぐらい、こだわりのある人だったらしい。
その彼女が旅行に出かける時に必要な道具一式をそろえたカバンなので、これはスゴい。すべて、どこに何を入れる、という定位置がカバンの中で決まっていて、当然、全アイテムに「M・A」の文字が刻印されている。歴史上の数々の王妃の中で、マリー・アントワネットが人々の記憶に強く残っているのは、悲劇的な最期のほかにも、こういう、優雅なセンスをもった人という印象があったからだろうと思う。

■ルーブル美術館展
http://www.tobikan.jp/museum/louvre.html
場所:東京都美術館(上野公園内)
期間:2008年4月6日(日)まで
休室日:毎週月曜日
開室時間:午前9時から午後5時まで(入場は午後4時30分まで)

2008年01月05日

火宅か修羅か

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青年団の公演を観てきた。
青年団の舞台は、学生時代から、繰り返し観るたびに必ず新しい衝撃を感じる。
前衛的な部分はまったくない。
あまりにも自然で、それが演劇である感じがほとんどしないということ自体が前衛的と言えるのかもしれないけれども、派手な個性は何一つない。

青年団の舞台では、同時に複数の場所で会話が進行することが頻繁に起こる。
人間の脳には「カクテルパーティー効果」という仕組みがあり、自分から離れた場所の会話であっても、そこに集中をすればその部分の会話だけが聞こえるようになる。それと逆に、集中している会話以外の会話は、まったく意味を把握出来なくなる。
そういうわけで、観ている人が舞台のどのポイントに集中するかによって、舞台の内容自体が、人によってまったく異なってくる。
それは、日常生活ではよくあることではあるけれども、小説や映画の場合、視点をどこかに定めなくてはいけないし、同時にいくつもの会話が並行して進むということはあり得ないので、どこに意識を集中させるか、という観客の自由度は極めて制限されていることになる。

暗転や舞台装置の転換がまったくないことも、特徴の一つだ。
1時間半の公演では、きっちり、舞台の上でも1時間半の時間が経過する。
ある一つのパブリックスペース(今回の「火宅か修羅か」では旅館のロビー)の、特定の時間を切り出して、その場面を観客は透明人間として眺めているような構図になっている。
透明人間、というよりも、その場所に太古の昔から棲みついた精霊としての視点から物語を眺めている、と言ったほうが正確かもしれない。
人は、それぞれ自分の視点からしか人生を見ることが出来ないけれど、同じ場所に腰をすえて、そこで時間の経過と共に起こる出来事を眺めると、まったく違った景色が見えてくる。
例えば自分自身の性格というものは、常に主観的な視点から自分の人生を観じている自分自身からは一貫性があるように見えたとしても、実際には、シチュエーションや、周りにいる人との関係によって常に移り変わる。その、「シチュエーションや関係性によって移り変わる自分」というものを知るには、自分から完全に独立した客観的な観察者が必要だ。

そういう、人外の視点から、人の移ろいゆく様をありのままに見せることによって、本質をあぶりだすというのが、青年団の演出家である平田オリザさんの方法論なんだろうと思う。
この「火宅か修羅か」という話しは、ロールプレイングゲームのように作り手の意図した一本道をなぞっていく作品とはまったく対照的に、観た人と同じ数だけ、別々の物語が生まれる作品だ。

■「火宅か修羅か」
日程:2007年12月21日~2008年1月14日
場所:こまばアゴラ劇場(京王井の頭線「駒場東大前」駅徒歩3分)
http://www.seinendan.org/

2007年12月29日

メトロに乗って

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「メトロに乗って」のミュージカルを観た。

舞台の中で一番シビれたのは、物語の非常に重要なキーとなる、アムールという人物が登場するシーンだった。
階段の上にアムールが登場した瞬間、舞台の空気や色あいや音楽が変わって、世界が一瞬にして変わったのだということがわかる。
ある人物が自分の人生の中に登場したことによって、明らかに自分の中の何かが変容したのだ。

たとえば三国志や水滸伝のような小説で、一番面白くてワクワクするのは、時代の英雄と英雄とが出会った瞬間だ。
その人物との出会いによって、いったい何が起こるのかはその時点ではお互いにわからない。ただ、その出会いの瞬間の前と後では、はっきりと世界の色が変わる。
人生というのは、そういう、後から振り返れば運命としか呼べないような出会いによって彩られているのだろうと思う。

■音楽座ミュージカル「メトロに乗って」
http://www.ongakuza-musical.com/sakuhin/metro_archive.php

2007年12月17日

ムンク展

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上野の西洋美術館で、2008年1月6日まで「ムンク展」が開催されている。
ムンクは、一作一作の絵を個別に描くよりも、一つのテーマにそって、壁自体をも利用した連作の形でよく作品を作っていて、この展覧会では、その複数の作品がまとまった形での展示にこだわりを出していた。
絵というのは、時間が経つほどに、どうしてもバラバラになって散逸してしまう運命にあるけれど、ミュージシャンが、時には個々の楽曲以上に「アルバム」というまとまりを重要視するように、画家の中にも、複数の絵による世界観を大事に持っている場合は多くあるだろうと思う。

複数の絵を組み合わせた表現というのは、その組み合わせの自由さによって、単体の絵よりもはるかに多くの情報を入れ込むことが出来る。
「叫び」はなかったものの、それとよく似た構図とモチーフを持った、「不安」と「絶望」が展示されていた。これも、この3枚の絵をまとめて見比べることによって、それぞれの絵だけでは気づかなかったものが見えてくる組み合わせだ。

一番気に入った絵は「死臭」という絵だった。(まったく有名な作品ではないので、ネットで画像検索してもさっぱりヒットしなかった。)
空っぽのベッドのあるがらんとした部屋に、何人かの人が詰め掛けて、みんなが鼻をおさえて「ん?何か変なにおいがするな?」という顔をしている。
ただ一人、その人々の真ん中に立っている青白い顔をした老婆だけが、何もせずにじっとうつむいている。つまりこの人は、既に死んでいるのだ。
絵の右半分には人々が集まっているのに、左半分には何もないからっぽの空間が、バランス悪くがらんと広がっている。同じ絵の中なのに、此方と彼方ではとてつもない距離があるように感じられる。ものすごい絵だと思った。


「ムンク展」
http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/munch/
開催会場:国立西洋美術館(上野公園内)
開催期間:~2008年1月6日(日)
開館時間:9時30分~17時30分(毎週金曜日は20時まで)
休館日:月曜休館(ただし12月24日は開館)、12/28(金)~1/1(火)

2007年12月05日

中原中也展

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鎌倉の由比ガ浜にある鎌倉文学館で、中原中也の生誕100周年にちなんで開催中の特別展。
詩編そのものの紹介よりも、鎌倉にも縁のあった中原中也の生き様にフォーカスをした展示になっている。

圧倒されたのは、その境涯の凄まじさだ。
恋人は自分の親友(小林秀雄)のもとへと去り、一人目の子についで二人目の子も死に、貧乏と不遇の中、自身も体を病んで30歳の若さで死んでいる。
ほとんどの詩は、同人誌や自費出版でかろうじて発表出来たもので、生きているうちには世間的な評価を受けることはほとんどなかった。

ただ、そういう彼が不幸だったかといえば、それはわからない。
人生のほとんどを詩作に没頭して過ごし、少ないながらも、小林秀雄のような、自分の作品の真価を心から評価してくれる知己もいた。
今なお、中原中也の存在が人の記憶に残っているのは、その様がいかにも詩人としてまっとうされた生涯だったからではないかという気がする。

■企画展 中原中也 詩に生きて
http://www.kamakurabungaku.com/exhibition/
【開催期間】2007年12月16日(日)まで
【開館時間】9:00~16:30(入館は30分前まで)
【休館日】月曜日

2007年11月15日

傷は浅いぞ

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「柿喰う客」という劇団の、「傷は浅いぞ」という公演を観てきた。
かなり、衝撃的だった。
セットが一つもないミニマムな舞台装置も、先の読めないストーリーの意外性も、テレビでは放映出来ないアウトローなセンスもスゴかったのだけれど、何よりも、息もつかせぬテンポの良さに圧倒された。

たとえば75分間という長さの芝居を観るにあたって、テンポが悪いというのは何にも増して致命的な欠点だと思う。どれだけ筋書きが良くとも、流れが良くないために集中が切れたり、退屈してしまっては、台無しだ。逆に、多少のアラは、テンポが良ければ、それほど気にならなくなってしまう。

なんだかアイデア豊富な劇団で、公演日ごとに様々なイベントが企画されていたり、マスコットキャラクターが月や公演単位で様変わりしたりと、細かい部分の遊び心があちこちに見えて、そのノリがステージにも反映されていた。

「テレビでは放映出来ない」というのは最高の褒め言葉だと思っている。テレビでは表現出来ないことを表現可能という点で、演劇は大きなアドバンテージを持っていると思うからだ。

この感想を読んで興味を惹かれた部分があれば、ぜひ一度、観てみてほしいと思う。

柿喰う客「傷は浅いぞ」
2007年11月14日(水)~26日(月)@王子小劇場

2007年11月03日

TM NETWORK REMASTER

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パシフィコ横浜でおこなわれている「楽器フェア」と共同で開催された、TM NETWORKのコンサートに行ってきた。
単独のコンサートではなく、扱いとしては「楽器フェア」の中の特別イベントみたいな感じになっていたけれど、そんなことは関係なく、ただ、TM NETWORKの3人が再び集まっている光景を見れたということが、とにかく嬉しかった。

TM NETWORKの活動当時、中学生の自分にとって、それは常に、圧倒的なまでに時代の最先端を先取りしていた音楽だった。アルバムをリリースするごとに新しいコンセプトと世界観を創り出す小室哲哉という人は、尽きることのない才能の泉を持つ、天性の職人のようなミュージシャンに思えた。

コンサートでの小室さんは、ほとんど言葉を発することなく、ひたすら裏方としてシンセサイザーの調整を続けていた。ただ一箇所だけ、数分間のオリジナルソロがあったのだけれど、そこでのピアノの演奏技術は圧巻で、今なお、演奏者として一流の腕を保ち続けているというのは、本当にスゴいことだと思った。
TM NETWORKの活動休止以降は、職人的なイメージから一転して、プロデューサーとしての派手なイメージばかりが目立った小室さんだけれど、本質的にはやはり、骨の髄まで職人肌の人なのだ。

今回演奏された曲目は、シングルリリースされたタイトルが中心の、オーソドックスな選曲だった。どれも、オリジナルの演奏にとても忠実で、懐かしさを呼び覚ますもので、それがまた良かった。

【演奏曲目】
1.Still Love Her
2.Here,There & Everywhere
3.We Love The Earth
4.Human System
5.N43(新曲)
6.Telephone Line
7.Beyond The Time
8.ピアノソロ
9.Be Together
10.Self Control
11.Time To Count Down
12.Welcome Back 2(新曲)
13.Get Wild(アンコール)

2007年10月06日

オセロー

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蜷川幸雄シェイクスピア・シリーズ」という連作のうち、この「オセロー」はその18作目になるらしい。
セットや衣装が、中世ヴェネチアの雰囲気をとても上手く表現していて、空間の臨場感は抜群だった。客席からキャストが登場するシーンが何度かあり、それを最初に見た時には、ちょっと変わった演出を加えた作品なのかと思ったけれど、全体的には極めてまっとうで、奇をてらうような演出はほとんどなかった。

「オセロー」というのは、悲劇の構造を極端にシンプルにして、その純粋なエッセンスを取り出したような物語だと思う。
坂口安吾は、「日本文化史観」の中で、「今日の日本人は、あらゆる国民の中で、最も憎悪心が少ない国民の一つだ」と言っていたけれど、確かに、オセローやイアーゴーのような強い感情の発露というのは、激しすぎて、なかなか共感しにくい気がする。
オセローを演じた吉田鋼太郎は、表情や話し方がコミカルな印象で、笑いを誘うようなところがあり、ちょっと違和感があったのだけれど、そういうキャラクターのほうが、観客にとっては感情移入しやすいのかも知れない。
デズデモーナ役の蒼井優は、よく通るいい声をしていて、舞台の上でもとても映える女優だと思った。ダントツで存在感があり、ハマり役だと思ったのは、イアーゴー役の高橋洋という人。

上演時間は全部で3時間50分で、随分と長い。独自のシーンを追加することもカットすることもなく、少しの意訳もすることさえなく、原作そのままの脚本で、その意味ではとてもストイックな作品だった。

会場:彩の国さいたま芸術劇場大ホール
公演期間:2007/10/4(木)~10/21(日)※10/9,15休演

2006年11月15日

リトルプリンス

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サン=テグジュペリの「星の王子様」を原作にしたミュージカル。
とにかく、その舞台のクオリティーの高さに圧倒された。

ステージには、驚くような仕掛けがいくつも重ねられている。
無数の星を表現すること一つとっても、暗幕に光点を投射するような単純なものではなく、一つ一つ独立した電気が空中に設置されていて、それが前後左右に何重にも広がり、客席から見るとものすごい奥行きが感じられるようになっている。
ステージ上の舞台装置が、様々な星の様子を写し出すディスプレイになったり、時には丘になり、時には砂嵐になりと、形を動かしながら次々と役割を変えていく。
青色を基調にした、海の底にいるような照明と、オーケストラピットで間近に演奏される幻想的な音楽。映画やテレビでは、どんなに大画面であっても表現することが出来ない、舞台ならではの臨場感だと思う。

ストーリーは、基本的に原作に忠実で、各キャラクターの特徴がよりはっきりと表現されている。もともと解釈が難しい小説ではあるけれど、この舞台は、原作よりもずっと主題が明確になっている。きっと、観客が子供であれば、よりストレートにそのメッセージを受け取れるのではないかと思う。

ミュージカルというと、セリフが音楽にのせて話されるので、自然な会話とは違った感じになることが多いけれど、この「リトルプリンス」では、そういう違和感を感じるような部分はほとんどなかった。
歌はもっぱら、キャラクターの感情を表すために使われていて、そのことで普通の演劇よりもずっと内容が伝わりやすくなっている。

そして、ダンスの美しさと、テンポの良さも半端ではない。王子の朗らかさや、バオバブの木の怖さ、飛行士の寂しさ、ヘビの不気味さなどなどが、体の動き一つで実に巧みに表現されている。このすごさは、とても言葉では語り尽くせないので、公演を開催しているうちにどうか実際に舞台を観てほしいと思う。

※東京公演・神奈川公演は、チケットがすべて売り切れてしまっているので、後は、平日(11月15日~17日)に若干数用意される当日券が狙い目です。

音楽座ミュージカル「リトルプリンス」ホームページ

2006年11月14日

大エルミタージュ美術館展

自分が絵を見る時には、大きく3つの要素に分けて見ている。
画力と、題材(モチーフ)と、表現方法。

何を題材にして、どのようにそれを表現するか、というのはその画家の考え方と感性がダイレクトに現われる部分なので、面白い。
「こんなものを題材にしてしまうのか!」とか、「こういう表現があるのか!」という驚きを与えてくれる絵はとても好きだ。

今回の「大エルミタージュ美術館展」の中では、
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ギヨーム・ヴァン・デル・ヘキトの「ケニルワース城の廃墟」という絵が一番好きだった。霧の向こうに、廃墟となった古城のシルエットが浮かびあがり、手前には湖に浮かぶボートの姿がある。とても幻想的で美しい絵。自然の不変さと、人工建築物の脆さが、一枚の中に対比して表現されている。

次に好きだったのは、ユベール・ロベールの「廃墟の中にいる洗濯女」。
使われずに廃墟となった聖堂の中で、湯を沸かして煙をあげて洗濯をしている場面を描いたもので、これは題材が素晴らしい。

その他、良かったのは
フランソワ・フラマン「18世紀の女官たちの水浴
アレッサンドロ・マニャスコ「盗賊たちの休息
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ「ティヴォリの滝」
キース・ヴァン・ドンゲン「
レオポルド・シュルヴァージュ「風景」
オスヴァルト・アヘンバッハ「ナポリ湾の夜景

今回の美術館展は、ゴーギャンやルノワール、マネ、ピカソといった画家の作品が1点ぐらいずつある他は、あまり有名どころの作品は無かったけれど、無名ではあっても、いい絵がたくさん集まっていると思った。
色々な種類の画家と作風が集まっているので、誰にもきっと、気にいる作品が見つかるだろうと思う。

【大エルミタージュ美術館展 開催概要】
開催期間:2006年10月19日(木)~12月24日(日)
開催場所:東京都美術館(上野公園内)
開室時間:午前9時-午後5時 (入室は閉室の30分前まで)
休室日:毎週月曜日
公式ホームページ

2006年06月25日

音楽座ミュージカル

「音楽座ミュージカル」という劇団の舞台を観てきました。
私がミュージカルを観るようになったのは、去年からのことです。
ミュージカルは、歌うようにセリフを話したり突然踊り出したりで、演劇や映画とは違うところがあるので、初めて観た時はかなり違和感がありましたが、その後、観劇を重ねて、自分自身がミュージカルの表現手法に慣れてきたということもあり、だんだんとその違和感を超えて、内容を純粋に理解出来るようになってきました。
ミュージカルは、言葉だけではなく、歌や踊りにも一つ一つ意味を込めるので表現にかなりの幅を持たせることが可能で、舞台全体でメッセージを発信することが出来るメディアです。

今回の作品「泣かないで」は今まで観た中で最も世界観が細部まで作り込まれた作品でした。脚本の元となっているのは、遠藤周作著の「わたしが・棄てた・女」という小説です。原作は全編が重苦しい雰囲気に包まれているのですが、音楽座ミュージカルの作品は、独自のアレンジで明るいシーンがたくさん盛り込まれているので、それと対照的に、テーマの部分がより鮮明に浮き上がるようになっています。

音楽座ミュージカルという劇団は、舞台作りと演出が素晴らしく上手い劇団です。最低限の舞台装置を使って何度も形を変えて、頻繁に緻密に場面転換を繰り返します。そのテンポの良さがあるので、単調な時間がなく、飽きることがありません。
そして、ハンパなくダンスが上手いです。舞台の前のオーケストラピットではバンドが生で演奏をしているので、壮大なフェスティバルのような迫力があり、それだけでも一見の価値はあります。

ミュージカルでは、観ていて素晴らしい!と思ったシーンでは観客は自発的に拍手をするという文化があるようで、今回の公演でも何箇所か大きな拍手が起こったシーンがあり、そこは本当に圧巻でした。
とにかく、勢いがあるので、2時間半の公演の間に舞台から受けるエネルギーの密度には、誰もが圧倒されること間違いなしだと思います。

■音楽座ミュージカル ホームページ
http://www.ongakuza-musical.com/

■内容(パンフレットより抜粋)
昭和38年に書かれた遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』。
行き場のない焦燥感を抱える大学生と、他人の感情に
すぐに同化してしまう無垢な工員との出会いとその後を、
当時不治の病だった(現在は完治が可能)ハンセン病の
病院を絡ませて描く。
人間なら誰でも感じる普遍的な感情を、淡々と、時に鋭く
浮き彫りにした同書は、いまだ若い読者に多く読み継がれ
ている。ちなみに『泣かないで』というタイトルは、
ナチスのユダヤ収容所に入れられていた少女が、ガス室に
連れて行かれる直前に、母親を勇気づけるため壁に書いた
言葉。死を前にしてなお、他人を思いやれるか。
没後10年を迎えた遠藤周作の、それは私達への問いかけでもある。

■東京公演スケジュール
2006年7月1日(土) 東京芸術劇場 中ホール 東京 18:00
2006年7月2日(日) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00
2006年7月3日(月) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月4日(火) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月5日(水) 東京芸術劇場 中ホール 東京 14:00
2006年7月6日(木) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月7日(金) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00/19:00
2006年7月8日(土) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00/18:00
2006年7月9日(日) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00
2006年7月12日(水) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月13日(木) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月14日(金) 東京芸術劇場 中ホール 東京 19:00
2006年7月15日(土) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00/18:00
2006年7月16日(日) 東京芸術劇場 中ホール 東京 13:00

■料金
S席 9,450円
A席 7,350円
B席 5,250円

■場所
東京芸術劇場(東京都豊島区西池袋1丁目8番1号)

2005年09月03日

音楽座ミュージカル

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音楽座ミュージカルの「21C:マドモアゼル モーツァルト」を観た。
ミュージカルというと、日本人にとってはまずその独特な様式の壁、そして言葉の壁に阻まれてしまい、体の中にすっと入ってくるということは稀だと思うけれども、音楽座のミュージカルはとてもわかりやすい。
話しの流れも、言葉も明瞭。そして踊りに勢いとテンポがあって、テンションがとても高いので、客席にまでそのエネルギーが伝わってくる。

映画の作品と舞台の作品の大きな違いは、観客へのメッセージの伝わり方だと思う。
舞台では、まったく同じ内容を再現することが出来ないという制約の代わりに、ステージ全体の呼吸が合った時に、大きなエネルギーを生み出すことがある。
音楽座ミュージカルの舞台には、細かい部分の作りこみの積み重ねによって出来た一体感があって、そこから観客に元気を与える力が生まれているのだと思った。