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森村ゆきに紹介されて、ウルトラマラソンのランナーである、間庭さんに会った。
ウルトラマラソンというのは、フルマラソン(42.195km)以上の距離を走るマラソンのことらしく、彼女は、ギリシアのスパルタで開催される「スパルタスロン」という大会に、今月の26日・27日に参加する。その距離、なんと246km。
しかも、ギリシアは、昼と夜との温度差が40度以上もあり、山あり坂ありで高低差も激しい。フルマラソンを走るというだけでも、自分からしたらかなりのハードさと思うけれど、そこを遥かに超えて、慣れない土地を246kmをぶっ通しで走るというのは、気が遠くなるほどのチャレンジだ。
彼女は、このとんでもなく過酷なマラソンレースに参加すると同時に、チャリティー活動もおこなっている。応援してくれるサポーターを募って募金を集めて、もし自分が完走したら、そのお金は、カンボジアの子供を支援する基金に提供されるのだという。
間庭さんは、見た感じは穏やかで、とてもウルトラマラソンを走るようなランナーには見えない。しかし、地道にトレーニングを重ねて、日々の走り込みを続けて、今回の大舞台に挑む。無事、完走出来ますように。

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富士の裾野に広がる、西湖の近くの山で、ロッククライミングを経験した。行く前は、ロッククライミングがどういうものかよく知らなかったので、手軽なレジャー的スポーツかと思っていたのだけれど、実際には、想像を大きく裏切るシビアなものだった。
ロッククライミングは、命綱一本だけを腰にひっかけて、あとは自分の手足のみで岩壁を登っていく。岩を登っている時の気持ちというのは、とても心もとない。
壁面にほんの少しある、窪みやでっぱりに、手と足をかけて、必死に体を支える。そういう中で、上に登ろうと手足の位置を変えるときは、体を支える箇所がますます少なくなるわけだから、先に進もうという気持ちを奮いたたせるのが、まず難しい。
途中からは、下を見る余裕など、まったくない。命綱があるとはいえ、自分のはるか下には堅い地面があって、もし落下してしまったらと思うと、恐怖と緊張で、体がまったく動かせなくなってしまう。
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岩の途中で固まったまま、どうしていいかわからない状態が続いたけれど、それでも先に進めたのは、下にいる経験者の友達が、「行けるよ」と声をかけてくれていたからだった。その言葉を信じて、あきらめずに進むことにした。ほんのつま先だけが岩にひっかかっているだけのような状態でも、思い切って体を上に持ち上げると、思いのほか、少しずつ上に進んだ。
「もうこれ以上進めない」と思えば進めないし、「まだ進める」と思えば進める。そこに根拠はなく、ただそう信じるしかない。これは、技術的な問題ではなく、極めて精神的な問題なのだと思った。
無我夢中で上まで登り切ったのも束の間、今度は壁面を降りなければならない。両手を離して、消防隊員がビルの壁沿いに降りる時のように、綱にぶらさがって壁面を蹴りながら、体を壁と垂直に立てて、壁の上を後ろ向きに歩くような姿勢で降りる。これも、ものすごく怖い。
その瞬間は、完全に命綱のみに体を預けている状態で、万が一命綱を持っている人が手を離してしまえば、まっ逆さまに下に落ちてしまう。だから、完全に、綱を持っている人を信じるしかないのだ。信じなければ、両手を離して身をまかせることは出来ないし、そうしない限り、下に降りることは出来ない。
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ロッククライミングは、人生観を変えるぐらいに、気づきの多い体験だった。それは、生き死にが直接関わっているということと、人の応援や、助けがあってはじめて登りきることが出来たという実感があったからだと思う。
素晴らしい機会を与えてくれた岩藤、多岩、地上から声をかけてくれた幸岩、岩子、かじ岩、岩登、理岩、鑑真、真岩、豊岩、ありがとう。一人だったら、とても最後まで登ることは出来なかった。

りんどくんは、今、一緒に仕事をしているパートナーだ。
仕事の能力というのは、今、どれだけの知識とスキルがあるか、ということも大事だけれど、それよりももっと大事なのは、この先どれだけ伸びる可能性を持っているのか、ということだと思う。
そして、どれだけ伸びるかは、どれだけ素直であるかということにかかっている。
りんどくんの特筆すべき長所は、なによりも、素直なことだ。
彼からは、「それをやることに何の意味があるんですか?」というような言葉を聞いたことがない。
常に、自分がやっていることの意義を納得するまで行動を起こさないということも一つのスタンスではあると思うけれども、それは、他人が自分を納得させない限りは動かないという、傲慢な考えでもあると思う。
人の意見を素直に容れる人は、人から教わる機会も多くなるので、そこには知恵が集まる。素直であるというのは、大きな才能だ。

尚志

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「無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら何を持っていくか」と尋ねられたら、オレは尚志を連れていくことにしようと思う。
世の中には、クイズに答えるのが得意な人がいる。
それとは対照的に、クイズの問いそのものを考えるのが得意な人がいる。
クイズに答えることは知識があれば出来るけれど、クイズを作るような、ゼロから何かを生み出す作業にはクリエイティブな資質が必要で、誰にでも出来るというわけではない。
会話においては、決して通りいっぺんの質問や一般的なテーマに満足せず、新しい視点や価値観を相手に提供する力。斎藤孝さんであれば、それを「設問力」とでも名づけるだろう。
尚志は稀有の設問力の持ち主で、話しの一歩先がどう展開するか、まったく予想がつかず、常に想像の範囲を上回る。
「ちょっと、あの車にお名前つけてあげて」
「ちょっと、己(おれ)を困らせるような褒め方をしてみてよ」
「ちょっと、自分の過去の名場面を文学的に解説してみてよ」
いったいどこからそのテーマが出てくるのかわからないけれど、こういうキレのあるパスを渡されると、頭をフル回転させて応えざるをえない。こんな状態の時は、会話そのものが最高の娯楽になる。
たとえ、地球上のどこにいたとしても、尚志がいれば、その場で思いついた考えを発表し合うことも出来るし、そこにあるものを使って遊べるゲームを考えて、決して退屈を感じることがないだろう。
無人島に置き去りにされることがある時には、欠かすことの出来ない存在だ。

人生には何が起こるかわからない。
事故に遭ったり病気になったりで、一瞬にして生活が変わってしまう可能性というのは常に潜んでいる。
そういう時のセーフティーネットとして、世の中には障害保険という制度がある。
でも、いざという時にきっと助けてくれると思う友人がいれば、それは障害保険なんかよりもずっと頼りになる存在であるとオレは思う。
自分にとってさやちゃんは、そういう信頼が出来る人だ。
さやちゃんは身なりにこだわらない人だ。
トレーナーとジャージにサンダルで、すっぴんのまま子供を抱っこして出掛ける。
「結局、大事なのは中身だなと思うから」と、さらっと言う。
言葉だけだと、外見に自信がない人の負け惜しみのように聴こえるかもしれないけれど、さやちゃんには確かに、化粧や身なりで飾らなくても自然に存在が浮かびあがるような魅力がある。
ケチであるというのとも違う。
自分が大事と思うものには惜しみなくお金を使うし、身近な人が困っているような時にはためらうことなくお金を使う人であることをオレは知っている。
さやちゃんから感じるのは、偏らないバランス感覚をしっかりと持っているという安定感であり、どんな時であっても相談にのってくれるだろうという安心感だ。
そういう、全幅の信頼をおくことが出来る人が友人でいてくれるというだけで、オレは随分と気持ちを楽にさせてもらっていると思う。

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麗奈ちゃんは、5年前からずっとオレの髪を切ってくれている人だ。最初は、自由が丘の美容院で働いていて、そこに行って切ってもらっていたのだけれど、その後独立して、自分の部屋で、親しい人たちのカットをしている。
オレは、彼女のセンスと腕には絶対の信頼をおいているので、おおまかなニュアンスだけ伝えて、後はまかせてしまう。毎回、少しずつ違った要素が入りながらも、その時に一番ふさわしい髪型にしてもらっている感じがする。
麗奈ちゃんは、特別な生活をしているわけではない。
でも、日常の些細な出来事からたくさんの気づきを拾い出して、それに大きく感動していたりする。だから、麗奈ちゃんは、いつ会って話しをしても最近あった感動した話しが出てくる。感受性が極めて豊かな人なのだ。
麗奈ちゃんは、話し始めるなりすぐに、「あっきーは、今好きな人いるの?」と、いきなり直球で入ってきたりする。といっても、芸能レポーターのようにガツガツと押し入ってくるわけではまったくなく、ごく自然に話しかけて、返ってくる応えに耳を傾けて、感じたことをそのままゆっくりと素直な言葉で伝えてくる。
オレはその対話が心地よく、色々なことを彼女の視点からはいったいどう感じられるのか、知りたくなってしまう。
麗奈ちゃんは、今まさに出産直前の時期にいる。
あと数日で母となった時から、きっと長い長い時間をかけて自分の子と向かいあっていくことになるのだろう。
これから更にたくさんの感動を経験して、さらに磨かれる彼女の感受性と対話が出来るというのは、オレの大きな楽しみの一つだ。

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