意識と本質

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意識と本質(井筒俊彦/岩波書店)

非常に難解。訳文じゃなく、日本人が書いた日本語だというのに、ここまで意味がわからないかというぐらい、難しい。
インド・中国起源の東洋哲学と、イスラム哲学についてかなり細かく解説がされている。イスラム哲学の考え方についてはほとんど初めて知ったので、イスラムでもここまで深く本質論について考察がされてきたということには驚いた。
もう一つ、かなり面白かったのは、カバラや密教の中心教義になっている「言葉」による世界解読のロジックが詳細に説明されていたことだ。その話しはやたらと込み入っているのだけれど、まだまだこの本に書かれていることはその入口に過ぎないのだろう。
この本で繰り返し説明されているのは、禅宗の考え方の話しで、禅は考案を通して「言葉」による対話を試みてきた。その中でも最も基本的な考え方では、「山は山である」というところからいったん「山は山ではない」という意識に変容して、その後また「山は山である」というところに戻るのだという。そして、最初と最後の「山は山である」が意味するものは、同じではない。
どの時代のどの地域の考え方でも、必ず出てくるのは「言葉」というものが持つ性質の難しさという問題だ。何かを説明するには「言葉」によって説明をせねばならず、しかし「言葉」を用いた時点で既に、説明しようとするものとは異なってしまうという矛盾。
しかしまた、「言葉」は力でもあり、言葉が持つ力によってこの世界は創造されたとする考え方は、あらゆる哲学において非常に根深い。
この「言葉が持つ力」については、ちょうど今興味を持っていたテーマとぴたりと重なったので、その点、この本ほど詳しく説明されている本は他にはなく、とても参考になった。
【名言】
リルケにとって、ものをその普遍的「本質」、すなわちマーヒーヤをとおして見ること、つまりコトバの普通の意味文節の網目をとおして「本質」定立的に認知することは、ただちにそのものの本源的個体性を最大公約数的平均価値のなかに解消してしまうことを意味した。我々がXを「花」と認めるとき、Xはその一回限りの独自性を奪われて、公共化され、画一化される。Xが花であるという形で意識されるとき、XはもはやXという個物ではなくて、どこにでもある無数の花の一つになってしまう。人間の日常的存在世界とは、マーヒーヤの生み出すそのような平均価値の巨大な体系機構にほかならない。(p.51)
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個別実在性として直観すべきことを彼は説いた。(中略)この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。(p.57)
程伊川が曰く、「今日は一物の理を窮め、明日はまた別の一物の理を窮めるというふうに、段々に積習していくべきであって、こうして窮め終った理が多く積もると、突然、自らにして貫通体験がおこるのだ」と。つまり、あらゆる事物のあらゆる「理」を窮めなくとも、習熟の度が或るところまで来ると、突然、次元転換が起こる、というのである。(p.95)
中国と日本を通じて、傑出した禅師たちの現在に伝わるおびただしい言葉の中で、「文節(I)→無文節(II)」の全体構造を的確かつ明快に提示したものといえば、青原惟信の「見山(水)是山(水)」→「見山(水)不是山(水)」→「見山(水)祇是山(水)」にまさるものを私は知らない。(p.145)
コトバの自己顕現の過程において、「深秘の意味」が言語アラヤ識に直結する最初の一点、コトバの起動の一点、を真言密教は「ア」音として捉える。いわゆる阿字真言、「阿字本不生」である。(p.232)
実範の『阿字義』に、「阿字は、すなわち是れ、本不生不可得空なり。この畢竟不可得空は衆徳を具足して、普く一切諸仏の法を摂す」と言われている。すなわち、いやしくも意識が意識として起動し、存在が存在として現れようとする時、「無」から「有」へのこの微妙な転換点に、必ずコトバが「ア」音の形で発現し、絶対無文節者の自己文節はそのまま進んで一切万有まで展開していく、というのだ。(p.234)
日本とでも「コト」は言であり事であるなどとよくいわれるが、ヘブライ語のdavarという語は明確にこの両義をもつ。つまり言葉と事物とを同一視するのだ。言い換えると、ヘブライ語を母国語とする人々の深層意識では、言葉とものとはもともと一つなのである。言葉とものとの、この深層意識における同一性の覚知を基礎として、その上にカバリストは彼ら独特の言語哲学を構想する。(p.235)
禅を無彩色文化とすれば、密教は彩色文化だ、と言った人がある。たしかに、密教的世界は極彩色の世界だ。禅は、「無」の境位における存在リアリティーの無色性を強調し、経験界、現象界についても、その「無」的性格を重視する。経験界の雑多で華麗な色彩の只中にすら、そこに顕現する「無」の無色性を、禅は見る。(p.254)
永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって粉乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論と正名論は一である。(p.298)
よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳したとたんに形象が違ってしまう。日本語で「パン」と訳せばますますです。はじめから食物の文節、つまり区分けの仕方が違っている。つまりずれがあるからです。それに第一、日本人の「パン」とフランス人のpainでは、それを取り巻く生活環境が違います。フランス人の生活の匂いの染み込んだpainを、今では日本的生活の一部になりきってしまった「パン」で置き換えても、意味内容は正確には伝達されない。(p.385)
単純率直に申しますと、形而上的深みを欠いた水平的言語コミュニケーションは、禅に言わせれば実存的意味のないあだ事であります。他人を理解しなければならないとか、他人に自分を理解させなければならない、などと申しますが、もし当の私が自分自らを理解しないでおいてそんなことをして一体何になるでしょう。それがまさに禅の問題とするところなのであります。(p.408)


【書評による対話】
藤沢烈BLOG
(彼のコメント)
ため息がでた。衝撃的な一冊だった。井筒さんのような方が、日本人におられた事が誇りになるし、ご存命中にお目にかかりたかった。
東洋哲学を、本質の見方に従って縦横無尽に区分・展開したのが本著だ。カバーする領域は、禅、朱子学、国学、イスラム、インド哲学からキリスト神秘主義にも至る。私が理解できたのは1割にも満たぬ。自分の思想の広がりを確認するために、死ぬまでに節目節目に読み返す一冊になるだろう。これが840円なのは奇跡、としか言いようがない。
今回は出現する未来、の関連から朱子学の箇所を引用した。
出現する未来では「思考を止める」と表現される部分を、朱子学では『静坐』と呼ぶ。その後『格物窮理』と呼ばれる意識によって、深層意識の奥底を体験することになる。これが宇宙につながる、とのことであろう(言うまでもなく、宇宙とは地球の外という意味ではなく、森羅万象をさす)。
引用した程伊川(北宋時代の儒学者。朱子学源流の一人)の言葉から、今の私の読書や行動がつながる。
読書とは、物をとらえ、理をきわめる一作業。表面的な知識ではなく、その裏側の本質を見極めていくこと。しかも、日々一つ一つ実践することにより、突如深層意識とつながり、次元がひらかれるという。
読者や行動により、断続的に自分の次元をあげていく。その先に、自分の役割が見えていくはずだ。
(水晶堂送辞)
烈が「理解できたのは1割にも満たぬ」と書いているのを読んで、ホッとしました。オレも9割以上、何言ってるんだかわからなかった。
上記で引用されている朱子学のくだりも面白かったけれど、オレが興味をひかれたのは、木戸さんが教えてくれた、「あ」から始まる、言語による世界体系が非常に詳しく説明されていたことでした。
まだまだ自分が知らない知識の中に面白い世界が広がっていることを感じさせてくれる、非常に密度が濃い本だった。