山口周さんの文章は、いつもながら論点が明快で、リズムが良く、論理的で気持ちがいい。
今回取り上げられている『クリティカル・ビジネス』というテーマも、先進的で、まだ世の中の潮流としては少し先取りをしているぐらいの内容で、ここで初めて知ることも多く、しかし今後は不可欠になってくるであろう重要なトピックだったので、この目の付け所もスゴいと思った。
深く感銘を受けた文章もたくさんあったのだけれど、抜群に良かったのは、「おわりに」で書かれていた、ヘイマエイ島の出来事を教訓として学べることについて述べた文章だった。
移住ということでいえば、僕自身も、一見すると不運な出来事によって、それまでに慣れ親しんで住んでいた場所を追われるような形で、横浜から長野へと移り住んだ経緯があった。
「人間万事塞翁が馬」のように、短期的にはマイナスの出来事を契機として、狙ったことではないにしろ長期的にはプラスの結果がもたらされるというのは、一般的にあることなのだろうと思う。
今の世の中では、環境が変化している時に、じっとその場で耐えようとするよりも、より良い場を求めてみずから変化をしたほうがはるかに大きなリターンを得られる可能性が、確率的に高い。そういう重要な示唆を与えてくれる本だった。
「おわりに」の文章の抜粋
いまからちょうど半世紀前の1973年1月23日、アイスランド沖のヴェストマン諸島に属するヘイマエイ島で突然に火山の噴火が起きました。幸いにして島の住民のほとんどは無事に救出されましたが、その後、噴火は5カ月の長きにわたって続き、島民の3分の1が家屋を失うことになります。この「3分の1」という数字がポイントです。
島民の「3分の1」が家屋を失ったということは、逆に言えば島民の「3分の2」の家屋は残った、ということです。溶岩流にのみ込まれる、あるいは火山礫や火山灰に埋もれるなどして失われた家屋を再建するには、言うまでもなく莫大な費用がかかります。不幸にも家屋を失った人々は別の住居を再建することを余儀なくされたのです。
溶岩流に家屋がのみ込まれたり、火山礫に家屋が破壊されたりするのは純粋に確率の問題です。これはつまり、この噴火によって家を失った「3分の1」の人と、家を失わずにすんだ「3分の2」の人とのあいだに何らかの能力的・資質的な違いがあったわけではなく、ただ単に「運の良し悪し」という違いしかなかった、ということです。
最終的に、家を失った人には政府から補助金が支給され、それで島の別の場所に家を建ててもいいし、どこか別の場所に移住しても良いとされました。ヘイマエイ島は長らく漁業で栄えた島です。家屋を失った島民のほとんどは先祖代々、長らく家業として漁業を営んできた家に生まれ、本人もまた漁業者として人生を送ることを当たり前の前提として噴火の直前まで生きていました。
そんな彼らが「噴火によって家を失う」という契機によって、「自分はこの先、どう生きるのか」という問いに向き合わざるを得なくなったのです。そして最終的に、噴火によって家屋を失った人の42%が、島を出て、漁業という先祖伝来の仕事を捨て、別の人生を生きることを決断しました。
さて、興味深いのはここからです。アイスランドは非常に小さな国ですが住民の統計が極めて正確に記録されており、納税その他の記録を使うことで、このときヘイマエイ島に居住していた人々が、その後、どのような人生を送ったかを精密にトレースすることができます。
このように「不幸な契機」によって家を失い、島を出ることを決断した人々の人生はその後、どうなったのか?ある研究者が疑問に思って調べたところ、これらの人々、つまり不運にも家を失って仕方なく島から出ることを決断した人々の生収入は、島に残った人々のそれを大幅に上回っていた、ということが明らかになりました。
要因の仮説は様々に立てることができます。たとえば島を出たことで大学進学の確率が上がったのではないか、あるいは漁師以上に適性のある仕事を見つけられたのではないか等々。しかし、どれもこれもすべて、噴火という「短期的には不幸な契機」によって、「この後、自分はどのようにして生きていくのか」という問いにしっかりと向き合わざるを得なくなった、という唯一の根本原因によっているのです。彼らのほとんどは、噴火によって家を失うということがなければ、島に住み続け、彼らの先祖と同じように漁師としての人生を全うして一生を終えていたでしょう。
そしてさらに、この研究が明らかにした別の興味深い点があります。それは、幸運なことに噴火によって「家を失わなかった人」の27%も、補助金をもらわずに島を出るという決断をし、そしてこの人々も、島に残った人々に比べて最終的にはより豊かな人生を送った、ということです。
この人たちがなぜ、家を失わないまま、先祖伝来の職業を捨て、島を出て新しい世界で生きるという、大きなリスクを背負う決断をしたのか、それはわかりません。おそらく本人にも答えられないでしょう。ただ、確実に言えることは、噴火というきっかけによって彼らが「この先、自分はどのようにして生きていくのか、これまでの人生を続けて、それでいいのだろうか」という問いにしっかりと向き合い、おそらくほとんどのケースは直感的に「それは違う」という判断を下した、ということです。
社会経済学者の世界ではよく知られるこのケースは、アフターコロナをどう生きていくのかを考えなければならない現在の私たちに、深い示唆を与えてくれると思います。
私たちがここ数年のあいだ直面した新型コロナウイルスによる危機は、ヘイマエイ島の噴火と同じく、短期的には不幸なインシデントでしかありません。そしてヘイマエイ島の住民と同じく、インシデントがもたらす「負のインパクト」は人によって大きな差があります。
隣同士の家の片方が火山礫によって粉々に砕かれた一方で、もう片方は傷ひとつない、といったことが起きたのと同じように、コロナによってある企業は破綻に追い込まれたー方で、ある企業は逆に売上や利益が改善するということが世界中で起きています。
急速に進行する予測不可能なパニックによる影響ですから、両者を分かつのは経管力でも現場力でもない、つまるところ「運」としか言いようがないものでしょう。そして、それぞれの内部にいる人々は、いままさに「運が悪かった」あるいは「運が良かった」と一喜一憂し、そして一刻も早く、ふたたび穏やかな「日常」が回復することを望んでいます。
しかし、私たちは本当に「かつての日常の完全な回復」などを望んでいるのでしょうか。
私たちの社会、あるいは私たち一人一人の人生に、何の問題もないと自を持って答えられる人はこの世界に一人もいないでしょう。であれば私たちは、まさにヘイマエイ島から出るという決断を下した人々が、噴火後に「自分はこれからどう生きていくのだろうか」と考えたのと同じように、「これからどのような社会を築いていくのか、これからどのようにして生きていくのか」という問いに向き合わなければならないのではないでしょうか。
このカオスに怖気付いてひたすらに「日常性の回復」を求めるか、このカオスに乗じて人生の再設計を図るかは最終的に皆さん次第です。ただし、ここで「リスクの持つ別の側面」にも触れておきたいと思います。
世界的なベストセラーとなった『ブラック・スワン』の著者でリスク研究者でもあるナシーム・ニコラス・タレブは、外乱やストレスによってパフォーマンスがむしろ上昇する性質のことを「反脆弱性」と名づけ、遺伝子や生態系など、極めて長い期間にわたって持続するシステムが「反脆弱」なのに対して、あれほど巨大な存在感を放ちながら呆気なく消滅してしまったリーマン・ブラザーズやエンロンのような巨大企業を「一見頑丈に見える脆弱なシステム」と指摘しています。
この「頑丈」と「反脆弱」という対比の構造は、現在の社会・組織・人を深く把握する洞察を与えてくれると思います。言うまでもなく、ヘイマエイ島で起きたことは「反施弱」な現象の典型です。何といっても、火山の噴火による家屋の破壊という、人命の損失を除けばこれ以上の不幸はない、というほどのカオスに襲われた人々のパフォーマンスが長期的に大幅に上昇しているのです。後から振り返れば、新型コロナによるパンデミックもまた「反脆弱なシステム」と「頑丈に見えたが実は脆弱だったシステム」とを振り分ける契機になったと思うことになるでしょう。
私たちの多くは「これまでの人生が、これからの人生を決める」と考えてしまいがちです。それは「過去は変えられない、変えられるのは未来だけだ」という先入観に基づいているわけですが、しかし、本当にそうでしょうか。
ヘイマエイ島の人々にとって「火山の噴火」というのは「変えられない過去」です。しかし、その意味合いは、噴火後も島に残った人と、噴火後に島を出た人とで、大きく変わっています。噴火後も島に残った人にとって、噴火は単に忌まわしい出来事でしかないでしょう。しかし、噴火後に島を出た人にとって、噴火は、自分の人生が持っている豊かな可能性に気づかせてくれたきっかけという意味も持っているでしょう。
彼らが抱く「噴火の意味」の違いは、「噴火前の人生」によってではなく「噴火後の人生」の生き方によって生まれています。つまり「未来によって過去が変わった」ということです。「過去」は「これからをどのように生きるか」次第でいくらでも変えられる、ということです。
漁師になるという将来以外について考えたこともなかったヘイマエイ島の人々にとって「島を出る」という決断はとても大きなものだったはずです。何といっても、彼らの多くにはこれといった将来の目論見も頼れる就職先もなかったのですから。しかし、そのような彼らが結果的に島に残留することを選んだ人たちよりも豊かな人生を歩んだという事実は、私たちに「未知に身を投げ出していくこと」「より開かれた機会に自分を投げ出していくこと」の大事さを示しているように思います。
(p.262)
名言
過去の歴史において、のちの世界に大きな影響を与えた社会運動のアクティヴィストを挙げてください、とワークショップでお願いすると、いつも次のような人物たちの名前が並びます。
ソクラテス
イエス・キリスト
ジャン=ポール・マラー
吉田松陰
坂本龍馬
ローザ・ルクセンブルク
マーチン・ルーサー・キング・ジュニア
モハンダース・ガンジー
エルネスト・チェ・ゲバラ
ジョン・レノン
これらのリストを眺めてみて、ある共通項に気づいた人もいるでしょう。そうです、ほとんどの人が暗殺、ないしそれに準じた非業の死を遂げている、ということです。過去の社会運動において、高い水準でリーダーシップを発揮し、社会の変革に貢献した人物の多くが、暗殺によってその生命を絶たれているという事実は、私たちに「リーダーシップというのは、崇敬とか愛着とか共感といったポジティブな感情を生成するだけではなく、必然的に軽蔑とか嫌悪とか拒否といったネガティブな感情もまた同時に生成してしまう」ということを教えてくれます。
何か極端なものがあるときは、その背後には往々にして逆側に極端なものが存在しているものですが、これはリーダーシップについても同様にいえることなのかもしれません。
リーダーシップを高い水準で発揮すればするほど、同時にまた軽蔑や拒否や嫌悪といったネガティブな感情とも向き合わざるを得ない、ということなのでしょう。
つまり「嫌われること」を恐れていたらリーダーには絶対になれない、ということです。
ましてや、クリティカル・ビジネスは、原理的に何らかの対象に対する批判を含んでいますから、ネガティブな感情が向けられることを避けることはできないと言っていいでしょう。
(p.202)