プルーストとイカ


プルーストとイカ(メアリアン・ウルフ/インターシフト)

タイトルだけ見ても、何のことやらさっぱりわからないのだけれど、副題の「読書は脳をどのように変えるのか?」という部分で、かろうじてテーマが分かるようになっている。
いちおう、この「プルースト」も「イカ」も、「読書と脳」というテーマに関連したキーワードなのだけれど、そんなことを、タイトルを見ただけで連想する人はまずいないだろう。
この本を読むと、文字や読書というものが人間にもたらす変化がよくわかる。普段、あまり意識したことはなかったのだけれど、「字を読む」という行為は人間の脳構造を激変させるほどの、かなり特殊なことであるらしい。
そういわれてみれば、「声を聞いて、話す」という行為については、生まれつきの基本ソフトとして、人間にインストールされているけれど、「字を読んで、書く」という行為は、それとは大きくレイヤーが変わって、後天的に習得をしなければいけない性質のものだ。脳はそもそも、文字を読む用途向きには設計されていないということでもある。だから、「聞く」ことと「読む」ことはまったく違う。
文字というもの、特にアルファベットが発明されてから、人間の生活は大きく変化した。それはもう、脳そのものの構造が変わるくらいなのだから、これまで人類が経験した変化の中でも最大級のものなのは間違いない。
それが果たして、いいことばかりであるのかどうか、ということをこの本は探求している。
ソクラテスは、書き言葉を一切否定して、話し言葉のみを用いるべきだという主張を2000年以上も前におこなっている。
文字の使用というのは、人間の潜在能力を衰えさせるものだという主張で、これはたしかに、そういう部分もあるのだろうと思う。脳の役割を、文字の使用が可能なようにシフトした分、退化した機能もあるに違いない。
「イーリアス」の全文を暗唱するような詩人や、古代の日本に存在した神話を諳んじる語り部は、現代では失われた才能であることを考えれば、記憶という作業を文字に頼ったために、音による記憶の割合が減っていることは間違いなさそうだ。
【名言】
読むという行為は自然なことではない。多くの人々、それも特に子どもたちの場合は、奇跡にもつながれば、悲劇にもつながることがある。(p.11)
本書では、読字のまったく異なる二つの側面を説明するため、メタファーとしては有名なフランスの作家マルセル・プルーストを、また、研究例としては非常に過小評価されているイカを取り上げてみる。プルーストは読書を、人間が本来ならば遭遇することも理解することもなく終わってしまう幾千もの現実に触れることのできる、一種の知的「聖域」と考えていた。(p.20)
ソクラテスが伝説の対話法を駆使してギリシャ・アルファベットと識字能力の習得に異を唱えた理由は、読字の歴史における重大な秘話のひとつだ。ソクラテスは、現代を寸分の狂いもなく予見した言葉で、口承文化から文字文化へと移行するなかで人類が失ってしまうだろうものについて語ったのだ。ソクラテスの主張、そして、涸れのすべての言葉を書き残したプラトンの無言の反抗は、現代にそのままあてはまる。(p.38)
ソクラテスは、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって一枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実態であると考えた。それに反して、書き留められた言葉は反論を許さない。書かれた文章の柔軟性に欠ける沈黙は、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスを死すべき運命へと追いやったのである。(p.114)
数十年来の研究により、子どもが親や好きな人の朗読を聞いて過ごした時間の長さは、数年後の読字レベルを予測するよい判断材料になると確認されている。(p.125)
ハーバード大学の教育学者キャサリン・スノーとその研究グループは、リテラシーのスキルの初期の発達に関する大規模な研究を行って、リテラシーの教材と並んで後の読字に大きく寄与するもののひとつは、ほかでもない、「夕食時の団らん」に費やす時間の長さであると確認している。初期の言語の発達については、ただ話しかけること、読み聞かせること、子どもの言葉に耳を傾けることが大切と言えば、言い尽くしたも同じだ。しかし、多くの家庭においては、子どもが5歳になるまでに、この三つの基本的な要素にさえ十分な時間をかけられないというのが現実なのである。(p.157)
すべての人間が生まれた時から知っているオラリティ(声の文化)と、生まれたときから知っている者は誰もいない書く技術との相互作用は、心の深みにまで達する。口から発せられる言語によって最初に意識に光を当てるのも、主語と述語をまず分割した後、改めて相互に関連づけるのも、また、社会に生きる人間同士を結びつけるのも、話し言葉である。書くことは分裂と疎外をもたらすが、それと同時に個を高めることでもある。自意識を強め、人間間のより意識的な相互作用を促す。書くことは意識を育むのである。(p.321)
【謝辞】
この本は、弊社の9周年のお祝いに尚志から贈っていただきました。
オレが前に、彼の持ち物からこの本を手にとって、読みたそうにしていたのを覚えていてくれたものと思われます。