無境界(ケン・ウィルバー/平河出版社)
この本のタイトルにある「境界」という言葉は、「自分」と「自分以外」の間にある境界のことだ。その境界をどこに引くかは、それぞれの人の考え方によって、だいぶ違う。
「意識」と「無意識」に境界線を引いて、その「意識」が自分だという考え方もあるし、「思考」と「身体」に境界線を引いて、その「思考」が自分だという考え方もあるし、「自分の皮膚」を境界線として、その「内側」が自分だという考え方もある。
そして、もう一つ、そもそも境界など存在しないとするという考え方がある。ジョン・レノンが「I AM THE WALRUS」で歌った、「I am he as you are he as you are me and we are all together.」は、まさに「無境界」ということだろうと思う。
この「無境界」という概念については、言葉では絶対に表現することが出来ないという矛盾が最初からある。言葉自体が、物事の中に「境界」を引くために存在しているものだからだ。
だから、ここで説明されていることは、結局のところ、言葉の意味を読み解くというよりも、自分自身で感覚的に理解するしかない。
この本は、色々な思想の寄せ集め的なところがあり、仏教やら道教やら精神分析やら色んなところからとにかく山ほど言葉が引用されているのだけれど、それらを元に「考えるな。感じろ。」と言っているような雰囲気だ。どちらかといえば心理学書であり、セラピーの手順についての手引きにも近いところがある。
それにしても、人類がこれまで一生懸命に頑張って積み上げてきた科学という学問が、色々なものに明確な境界を引くことを主な目的としてきたことを考えれば、いったい何のために人はわざわざ技術を磨いて、バラバラに孤独になる方向に向かってしまったのだろうと、途方に暮れてしまう。
本の中で、量子論が登場した時のことについて、「そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった」という説明には笑った。量子力学によって、これまで科学が積み上げてきたものがいったん崩れてしまった今の時代というのは、新しいパラダイムが生まれる大きな節目なのかもしれないと思う。
そして、この「無境界」という概念は、東洋思想においてこそ最初の最初から常に意識され続けてきたことであり、この時代に、この日本という国に生まれた身として、今、この本に出会えて良かったと思っている。
【名言】
決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの境界線を引くことである。何かを欲するというのは、楽しいものと苦痛なものとに境界線を引き、前者を求めることである。一つの考えを主張するというのは、真実だと思える概念と真実でないと思える概念に境界線を引くという意味である。(中略)われわれの生活がさまざまな境界を設けるプロセスであることは明らかである。(p.39)
「量子革命」がなぜそれほどの激変であったかを理解するためには、二十世紀の曙までに科学の世界が1400年にわたる驚くべき成功を享受していたことを思い起こさなければならない。少なくとも、古典物理学者たちの目から見ると、宇宙は個別の物事のすばらしくはあるが不明瞭な一つの集合体であり、個々の物事はそれぞれ時間、空間の明確な境界によって、完全に隔離されていると見られていた。さらに、惑星、岩石、流星、リンゴ、人々のようなこれらの個別の実体は、正確に測定し、数量化できるものと考えられていた。そしてこのプロセスから科学的な法則や原理が生み出されてきたのである。この手法があまりにも成功したために、科学者たちは自然界全体がこれらの法則に支配されていると夢見るようになった。(中略)ところが、そうではなかった。まったくだめだったのである。そのショックは、ある日手袋を外してみると自分の手があるはずのところにエビの爪があったときの衝撃に匹敵するものであった。(p.68)
ウエイ・ウ・ウエイは次のように語っている。
何故あなたは不幸なのだろうか。あなたが考えること、あなたが行うことの99.9パーセントがあなた自身のためであるにもかかわらず、あなたなどいないからだ。(p.97)
禅師雪峰は、つぎのように語っている。「もし、永遠が何を意味するか知りたければ、それはこのいまの瞬間をおいてほかにない。この現在の瞬間にそれをつかまえられないとすれば、何百万年にわたって何度生まれ変わろうとも、それをつかまえることはできないであろう」(p.111)
もし相当強い否定的な感情-完全な怒りの爆発-が生じてきたとしても、それほど心配するにはあたらない。それがあなたの人格のおもな部分を構成しているわけではないからである。演劇で端役が初めてステージに出てくると、全体の配役のなかではまったく重要ではないとしても、観客の目はすべてその端役に注がれる。それと同じように、何らかの否定的な感情が自覚の舞台に初めて登場すると、自分の感情の全配役の一断片にすぎないとしても、一時的に目を奪われてしまうことがある。だが、舞台裏でうろついているよりは、表に出てきてもらったほうがはるかにましである。(p.199)
あらゆるおとぎ話しの冒頭の「むかし、むかし」は、実際には「時を超えれば」という意味であり、それにつづき話しでは一時的に空間と時間が停止され、遊びが至上となって何でも起こりうる。神話の言語とイメージは線形的論理と抽象的思考より真のリアリティに近い。真実の世界が無境界だからである。(p.215)
【書評による対話】
藤沢烈BLOG
(彼の書評)
1998年、私は狐の木というサロンを経営していた。関係していたメンバーは、実に様々な道を歩んでいる。どこか世の中の枠組みから外れ、自分を生きている者が多いことだけ、共通している。年末には西麻布の辰野まどかの実家に皆集い、朝まで飲みながら、一年を振り返り、来年を想う。私は来年何をするか言葉で出すことはできなかった。ただ、自分なりの生き様を歩めればと思った。
ケン・ウィルバーの『無境界』は、2007年の最後に読んだが、そして最も自分に影響を与える一冊となった。内の悩みと外の戦いの理由。悟りの理解。それは修行の先になく、いまここに在ること。自分の過去と将来を繋げる役目を、この一冊は担ってくれた。
大晦日の気分がそうさせるのかもしれない。ケン・ウィルバーを読んで、これからの自分の在り方を決めたくなった。彼が指すところの無境界。これを思想として語るのではなく、生き様として社会に現すこと。2008年に向けた、小さな決意である。
(水晶堂送辞)
烈が、「大きな影響を受けた本」として紹介してくれたのと、丁度、尚志が読み始めたところだったので、最優先で読むことにしました。
オレも、この「無境界」ということは、思想として語るのではなく、生き様として表現をする以外にないのだと思っている。
あらためて思ったことは、やはり、目的達成思考で、不足しているものを逆算するという考え方は、この「無境界」から離れるアプローチになってしまうということ。「今、ここ」にすべてが不足なく存在しているという考え方を、これからの指針にしたいと思っているよ。
多苗尚志のヘヴンズドアァァァァッッッ
(彼の書評)
なんというか、あまり新しい発見はなかった。
これまでみてきたものの確信を強めるものだという感じがした。
気になるのは、方法論や導師との出会いを勧めていること。
そんなものは存在しないのだ。
いや、すべてがありだから、これもまたアリなのだ。
だが、己は好きではない。
嗜好の選択だ。
と、ここまで書いてもう一度読み返し、↓の言葉に出会った。
『超個的自己を根源的に直感し始めた人であれば、存在するのはただ1つの自己であり、その自己が様々な形態を装っていることに気づき始める。』
これはスゴい。
そうだ。
そういうことだ。
ひとつなんだよ、元から。
だから言ってるじゃないか。さっきから。
なにを分かっていたんだよ。
ひとつなんだよ、すべて。
だから、己はあなたで、あなたは己なんだ。
我思う故に我あり
思考などに我はいない
我は既にあるのだ
原因にして結果
道にして目的地
「あ」にして「ん」
この世界がそのままで美しいことはよく分かった。
だが、世界はまだまだ哀しみに彩られている。
出発も到達もない。
だが、己は自分の「嗜好の戯れ」をもって世界にアクセスしたい。
(水晶堂送辞)
たしかに、「存在するのはただ1つの自己」というのは、近頃、聞き飽きた話しではあるのだけれど、それでもなお残るのは、今思考しているこの存在が、何故、ほかでもないこの身体を選んでいるのかという疑問だ。だから、オレは実感としてはまだ「己はあなたで、あなたは己」と思えていないところがある。
出発も到達もないという感覚は、同じくそう感じる。
皆が皆、既にあるべき場所にいるのだから、残るのは、いかに興味が指し示すままに考え尽くせるかということだけだと思っているよ。
(水晶堂書評に対する多苗氏コメント)
> いったい何のために人はわざわざ技術を磨いて、バラバラに孤独になる方向に向かってしまったのだろうと、途方に暮れてしまう。
君らしいコメントだ。笑。
感覚的に分かっていたことを科学的方法論で証明するためにここまで来たんじゃないかと己は思うよ。
大学受験とかでテストを受けて自分は合格してるって肌で感じてるのに、やっぱり答えをみないと気が済まないって奴が大勢いたんだろうな。
でも、科学のお陰で哲学は更に進歩したんじゃないかな。
君もご存知の通り両者は補完関係にあるわけだ。
でも、「統一意識」が哲学のゴールである真理だとすればそれ以上なんの進歩があるんだって感じもするね。
己は真理を知っても、なお生き続けるよ。
当然ね。
残るのはただ「嗜好の戯れ」だ。
己は道にして目的地なのだから、なにかの成功や成就にはなにも意味がない。
意味がないから戯れなんだ。
残るのは嗜好による選択のみだ。
己の好きなように世界にアクセスするのだ。
(そのコメントに対する水晶堂送辞)
科学的方法論がなかった時代の人のほうが、今の人よりも「無境界」の概念についてはよほど理解がしやすかったんじゃないかと、オレは思っている。
ただ、じゃあ科学的方法論は必要なかったのかというと、そうではなく、科学によってテストの答えあわせを一通りやり尽くしたところで、それら全てがいったん大きくくつがえされた後に、また揺り戻しが起こって、昔の人よりもまた一段高いステージ上で、「無境界」という概念を理解する時が来るのではないかと思う。
そう、科学によって、また、大きな周期で、今度は再び哲学が大きな進歩を遂げる順番なのかもしれないな。
(水晶堂が藤沢氏に向けたコメントに対する多苗氏コメント)
あらためて思ったことは、やはり、目的達成思考で、不足しているものを逆算するという考え方は、この「無境界」から離れるアプローチになってしまうということ。「今、ここ」にすべてが不足なく存在しているという考え方を、これからの指針にしたいと思っているよ。
そうそう。
だから、アレだよ。
「ここにあなたの満たされた感覚を示すコップがあります。
コップには水がどれくらい入っていますか?」
と尋かれて、
「1杯は既に満杯です。
それ以上に水を入れています。
一杯以上は何杯満たしても満たさなくてもなんの意味もありませんが
楽しいのでやってます。
今、52杯目かな…」
って答えなわけだ。
(そのコメントに対する水晶堂送辞)
そうそう。
オレのイメージでは、52杯目とかも、もうまったく関係なくてね。
ただ滔々と水を注ぎ続けながらも、いつまで経っても一杯は一杯の状態で変わりはないんだけど、止まっている状態の水よりも、循環している水のほうが美味しそうでしょ、という感じだよ。
(水晶堂書評に対する多苗氏コメントに対する水晶堂送辞に対する多苗氏コメント)
> それら全てがいったん大きくくつがえされた後に、また揺り戻しが起こって、昔の人よりもまた一段高いステージ上で、「無境界」という概念を理解する時が来るのではないかと思う。
んん?
どういうことでしょう?くつがえされるというのは。
無境界というのがひとつの真理であれば、これ以上はそれを知る人が増えるということだけじゃないでしょうか。
(そのコメントに対する水晶堂送辞)
「無境界」という概念の世の中での理解のされ方にも、質・量ともに段階があるということで、科学の側から哲学の側に揺り戻しが起こった後には、今までのどの時代よりも、質・量ともにパワーアップして世の中に理解されるだろうということ。
たとえば、コペルニクスの地動説は、それが発表された当初は「はぁ?何それ?」扱いだったけれど、現代ではそれ以外の世界観を想像することすら難しいぐらいの常識として、人の頭の中に定着してしまっている。
いつか、そのぐらいのレベルの常識的な概念に「無境界」もなるのではないかという想像。