自然学の提唱

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自然学の提唱(今西錦司/講談社)

著者の独自の進化論をメインのテーマとして、「自然学」という大きなくくりから語った、概論的な本。学術的な内容の本ではなく、短いエッセイや随想を寄せ集めたような形になっているので、簡潔にまとめて説明されていることが多く、とてもわかりやすい。
しかも、特に進化論のエッセンスとなる概念が、書かれた時期によって、言葉を変えて色々な視点から語られていて、その全体像がよく見える本になっている。
その言葉から、発想や考え方のスケールが大きさが伝わってきて、今さらながらに、スゴい人がいたものだと驚かされる。面白いのは、理詰めで論理的に説明をするわけではなく、「理由はよくわからないし、実証も出来ないけれど、直感では確かにそうなる」というような言い方をすることが多くて、たしかに、それが説得力があったりする。講演記録を書き起こしたようなものも多いためか、口語調でくだけた感じで、語り口からして学者らしくない。
「生物は、個体でなく、種全体で進化をする」という理論は、自然淘汰説のような「競争」をベースにした考えではなく、自然と生物との「共生」をベースにした考え方で、この思想は、21世紀以降の、これから先の時代にこそ更に広く評価されるもののような気がする。この本の中には、かなり衝撃的な内容が、いくつもあった。
【名言】
いずれにしても近い将来に誰かが翻訳なり何なりして、ぼくの「自然学」を広く外国に紹介すべきやという人もあるのやけど、ぼくはそんなことせんでもええ、というている。ぼくの進化論によれば、しいて争わなくても、どうせ滅びるものは滅びるのやし、生き残るものは生き残るのやからな。(p.17)
反選択論者は、反進化論者ではない。32億年にわたる生物進化の事実を否定するものではない。では選択を否定した反選択論者は、ここのところをどのように説明するのであるか、といいますとその答えの一つは、現在ひろく普及している考えのように、進化は個体からはじまるのではない。進化がおこるときには、同じ種に属する個体が全部同じように変わるのである。答えの第二。種といえどもそれが構成要素となっている生物全体社会と無関係に、気ままに変われるわけのものではない。この二つをひっくるめまして、生物は変わるべきときがきたら、変わるけれども、みだりに変わるものではない、ということで生物の現状維持性と進化とを、ともに認めてゆきたいのであります。(p.48)
私の進化論で難しい点が二つあると言われるんですが、一つは個体に甲乙なしということで、これがひっかかるんです。ここにお集まりの皆さんでも二人と同じ顔の人はいませんね。それは皆個体差があるからです。個体変異と言ってもよろしい。だからこの個体差というものを出発点にしてそれから種ができる、進化が進むという風に持って行きたいと、大抵の人はそう思うらしいですね。ヨーロッパ人は個体尊重、個人尊重という傾向が強いのでとくにそうなるんだろうと思いますね。ところがですね、こんな個体差なんかは問題でも何でもない。甲乙なしに決まっているんです。皆さんの顔が一人一人違うといっても、ズーッと距離をとって遠い所へ行けば皆同じ顔になってきますよ。反対に焦点を近づけるとこまかい色々なアラが出てくるんですな。それだけのことなんです。そんなものは何も進化と関係がない。個体差があると言っても、個体差がないと言っても間違いではない。皆さんが同じ顔に見えるところまで焦点距離をとっても、ゴリラが中に一匹いたら、これはもう何処までも違います。これは他種であるからです。(p.102)
それからもう一つ僕の進化論でどうも良く飲み込めんというのは今ここに書きました
変わるべき時が来たら変わる
ということです。これは人文科学研究所におって人類の直立二足歩行の原因を何とかして確かめようと思っておった時に気がついたことで、赤ん坊が直立二足歩行になりますね、はじめハイハイしているのが。あれはご褒美をやるから早く立てと母親が言わんでも、立つべき時が来たら赤ん坊は立つんです。それ以外に説明の仕様がないんです。それで成るほどと思って赤ん坊は立つべくして立つということにしました。そうすると赤ん坊だけじゃなくて生物の進化というのはすべてこの赤ん坊と同じことで、変わるべき時が来たらみな一斉に同じように変わるんだということになるんです。ダーウィン流の自然淘汰説とは違った考えです。(p.105)
私の考えを申しますと、適者が生きのこり不適者が死ぬのではなくて、生きのこったものはただ単に運がよかったというだけであり、死んだものはただ単に運が悪かったというだけのことにすぎないのであります。どの個体が生きどの個体が死のうと、種社会は泰然として変わるところがない。種社会ばかりでなく、種社会によって構成された生物全体社会もまた泰然として変わるところがない。これはつまり、われわれの住んでいる自然は、変わるものではない、という自然の見方に通ずる。
それでは進化の否定になるのではないか、といわれるかもしれないが、そうではない。生存競争とか自然淘汰じゃなくて、これは「変わるべくして変わった」のであります。たとえばですね、われわれは赤ん坊から少年時代、青年時代、壮年時代を経て、いま私などは老年時代の終わりに近づいているんですが、この現象は理屈ではなくて、変わるべくして変わっているのである。誰でも皆変わるべくして変わっているのである。われわれの身体ばかりでなくて、変わらないはずの種社会も生物社会も、長いあいだには変わるべくして変わるのである。そもそも人間の歴史も自然の歴史もみな変わるべくして変わるのである。それが自然も歴史も生きている証拠である。類推でゆくとこのように、快刀乱麻を断つがごとしで、なにもかもわかってくるのであります。(p.122)