鉄鼠の檻(京極夏彦/講談社)
京極夏彦の著作は、その作品ごとに必ず一つ、大きな軸となるテーマが設定されている。この「鉄鼠の檻」でのテーマは「禅」。
箱根の禅寺で起こった事件の展開にそって、仏教の歴史が事細かく説明がされていく。とにかくこの緻密さに圧倒されるが、専門家の評によれば、この本における禅の解説は下手な入門書よりも余程わかりやすく、正確にまとめられているという。
寺の中には臨済宗や曹洞宗を始めとする様々な宗派が入り乱れて、これもまた事件の謎を推理する上での大きな鍵にもなっている。
主人公の京極堂は、言葉によって憑き物を落とすことを職業にしているが、禅というものが言葉を超えたところにあるものであるために、シリーズ中の他の作品とはその謎解きの仕方も異なっている。
物語の展開や構成がとにかく見事だ。章の終わりの幕引きの仕方や、人物を登場させるタイミングがどれも絶妙で、劇的なのだ。
とても長い話しだけれども、その分、あちこちに散りばめられた様々の伏線が、最後の最後に一気に収斂してクライマックスに向かう気持ちよさがある。伏線の数がとても多いので、一度だけではなく、何度読み返してもきっと面白いだろう。
箱根の山奥という舞台といい、禅宗というテーマといい、京極夏彦作品の雰囲気にこれ以上ないぐらいぴったりと馴染んだ物語だと思う。
【名言】
病の者は健康を意識する。しかし本当に健康な者は健康を意識することはないだろ。健康と云う概念が失われている状態が真の健康なんだね。自己に対しても世界に対してもそれは同じで、自分とは何か世界とは何かと問うているうちは本当ではない。自分とか世界とか云うものがすっかりなくなって、初めて自分があり世界がある。(p.446)
禅は印度で生まれ中国で育ったが、真実花開いたのは日本でのことだ。僕は、これは偶然ではないと思う。禅は言葉では表せない。だが日本語は、その表し難いものを表すのに比較的適していたのではないだろうか。それに高度な抽象化を日常的に行っている日本の文化も禅を受け入れるのに相応しいものだったのだろう。例えば西洋人は禅的なことは理解できても表現することは下手だ。西洋人は悟る上で生物学的支障は勿論ないが、文化的支障は非常に多いだろう。だから所詮禅は彼等にとって歌舞伎や能と同じように、博物学的な興味の対象になるだけなんだ。(p.511)
善く日本人には宗教心がないと云われる。しかしそんなことはない。日本人はどんな宗教でも受容できる程の賢さを持っているだけです。だから世界に誇るべき教義を持った宗教も沢山ある。(p.519)
脳は身体の器官に過ぎない。しかし悲しいかな、我我は我我を取り囲む外側の世界をもまた、脳を以ってしか識ることはできないのだ。外側すらも内包してしまう、それが脳という化け物だ。そして言葉は脳が外側を取り込んで改竄再編集するために生み出した記号だ。この言葉を用いないと云うことは、脳を無視した世界認識をすると云うことに等しい。我なくして世界はあらず、同時に我なくしても世界はあり。その二つの真理を同時に識ることが悟りだ。(p.748)