文章を書いたり、言葉を発したりというのは、とても不思議な作業なのだということが、実感としてわかってきた。
作家の栗本薫が以前、「この物語の展開がどうなるのかは、書いている私自身もわからない」というようなことを言っていて、その時は何を言ってるのか意味がわからなかったけれど、そういうものなのだと今は納得がいく。
文章は、意味を考えてから書くだけでなく、書いたあとに初めて意味が確定するということも、よくある。
ある日本語の言葉を発した瞬間、次に来る言葉というのは自然に、無意識的に、候補が頭の中に浮かんで、そのどれかに絞り込まれることになる。話しの流れ的に、この言葉が出たら、次にはこういう言葉が続くしかない、という流れというものがある。
その流れを形成しているのは、今までに自分がおこなってきた膨大な会話の蓄積だ。その蓄積は、自分自身のものであるというよりは、自分が育ってきた文化背景が凝縮したものといったほうが近い。
だから、会話の中で流れに乗っている場合、それは、自分が発している言葉でありながら、半ば以上は、もはや自分の言葉ではないということになる。
自分が言葉を使っているというよりは、言葉が自分を使って形として表われている、というほうが正確なのかもしれない。