回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹/講談社)
著者が、知人の体験談を聞いたり、自分自身の体験をもとにして、それらを再構成したという短編集。それをそのまま信じるとすれば、ここに載せられている話しは、実際に、それと同じ出来事があったということであり、そう考えて読むと、かなり興味深い。
フィクションの物語と較べると、メリハリはあまりないし、オチが無い、というような話しもあるのだけれど、いずれの話しも、とても凝縮された「味わい」というようなものが後に残るようになっている。
これは、話しそのものの面白さである以上に、やはり、他人から聞いた物語を編集して伝える、語り手としての文章の上手さなんだろうと思う。
今回、初めて読んだような気がしていたのだけれど、読書記録を見返してみたら、11年前にも一度読んでいた。その時は、ほとんど印象にも残らなかったし、自分の評価も高くなかった(5段階で★1つしかついてなかった)。
同じ本でも、読む時期によって、ここまで感じ方が変わるのかと我ながら驚くけれど、村上春樹氏の小説については、以前はさっぱりわからなかったものが、今ではよくわかる、というものが多い。
それは、話しの多くが「喪失」というものをテーマにしているために、これは、まだ失ったものが多くない年齢の時には、あまりピンとこないからなのだろうと思う。
そういう物語の意味が染み込んでくるようになってきたというのは、それだけ、失ったものが増えたからだろうと思うけれど、その分、受け入れられるものの幅も広がっているのだとすれば、それも悪くないと思える。
掲載されているタイトルは「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「プールサイド」「今は亡き王女のための」「嘔吐1979」「雨やどり」「野球場」「ハンティング・ナイフ」の8編。
特に好きだったのは、「今は亡き王女のための」「プールサイド」「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」だった。
【名言】
僕はこのような一連の文章を、最初のうちは長編にとりかかるためのウォーミング・アップのつもりで書きはじめた。事実をなるべく事実のまま書きとめるという作業は何かしらあとになって役立つことのようにふと思えたからである。だから最初のうち、僕はこれらのスケッチを活字にしようというつもりはまったくなかった。これらは気まぐれに書いては書斎の机の中に放りこんである他の無数の断片的文章と同じ運命を辿る予定であった。
しかし三つ四つと書き進んでいるうちに、僕にはそれらの話のひとつひとつがある共通項を有しているように感じられてきた。それらは「話してもらいたがっている」のである。それは僕にとっては奇妙な体験だった。(p.10)
「もし、さっきの話から半ズボンの部分を抜きにして、一人の女性が旅先で自立を獲得するというだけの話だったとしたら、君はお母さんが君を捨てたことを許せただろうか?」
「駄目ね」と彼女は即座に答えた。「この話のポイントは半ズボンにあるのよ」
「僕もそう思う」と僕は言った。「レーダーホーゼン」(p.36)
はじめのうち作業は難航した。いったい相手に何を訊ね、どうまとめればいいのかまるでわからないのだ。
それでも何度か回をかさね、細かい試行錯誤をくりかえすうちに、僕はそこにひとつのコツらしきものを発見した。インタヴュアーはそのインタヴューする相手の中に人並みはずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かをさぐりあてる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。そしてそれを探りあてることに成功すれば、質問はおのずから出てくるものだし、したがっていきいきとした記事が書けるものなのだ。それがどれほど陳腐に響こうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。「タクシーに乗った男」(p.39)
もちろん自分の人生が何年つづくかなんて、誰にもわかるわけはない。もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折り返し点は39ということになるし、39になるまでにはまだ四年の余裕がある。それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。
それでも彼は35歳の誕生日を自分の人生の折り返し点と定めることに一片の迷いも持たなかった。そうしようと思えば死を少しずつ遠方にずらしていくことはできる。しかしそんなことつづけていたら俺はおそらく明確な人生の折り返し点を見失ってしまうに違いない。「プールサイド」(p.62)
俺は老いているのだ。
これは動かしがたい事実だった。どれだけ努力したところで、人は老いを避けることはできない。虫歯と同じことだ。努力をすればその進行を遅らせることはできるが、どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取りぶんを取っていく。人の生命というものはそういう具合にプログラムされているのだ。歳をとればとるほど、払われた努力の量に比して得ることのできるものの量は少なくなり、そしてやがてはゼロになる。「プールサイド」(p.70)
これが彼にとっての前半の人生、35年ぶんのあちら側の人生だった。彼は求め、求めたものの多くを手に入れた。努力もしたが、運もよかった。彼はやりがいのある仕事と高年収と幸せな家庭と若い恋人と頑丈な体と緑色のMGとクラシック・レコードのコレクションを持っていた。これ以上の何を求めればいいのか、彼にはわからなかった。
彼はそのままソファーの上で煙草を吸っていた。うまくものを考えることができなかった。彼は煙草を灰皿につっこんで消し、ぼんやりと天井を見上げた。
ビリー・ジョエルは今度はヴェトナム戦争についての唄を歌っている。妻はまだアイロンをかけつづけている。何ひとつとして申しぶんはない。しかし気がついた時、彼は泣いていた。両方の目から熱い涙が次から次へとこぼれ落ちていた。涙は彼の頬とつたって下に落ち、ソファーのクッションにしみを作った。どうして自分が泣いているのか、理解できなかった。泣く理由なんて何ひとつないはずだった。あるいはそれはビリー・ジョエルの唄のせいかもしれなかったし、アイロンの匂いのせいかもしれなかった。
10分後に妻がアイロンかけを終えて彼のそばにやってきた時、彼はもう泣きやんでいた。そしてクッションは裏がえしにされていた。「プールサイド」(p.78)
「うまく説明できないんですが、のぞき見をすることによって、人は分裂的な傾向に陥るんじゃないかと僕は思うんです。あるいは拡大することによってと言った方が良いのかもしれませんけどね。つまりこういうことです。僕の望遠レンズの中で、彼女はふたつに分かれるんです。彼女の体と彼女の行為にです。もちろん通常の世界では体が動くことによって行為が生じます。そうですよね?でも拡大された世界ではそうじゃないんです。彼女の体は彼女の体であり、彼女の行為は彼女の行為です。じっと見ていると、彼女の体はただ単にそこにあり、彼女の行為はそのフレームの外側からやってくるような気がしてくるんです。そうすると彼女とはいったい何か、と考えはじめるんです。行為が彼女なのか、あるいは体が彼女なのか?そしてその真ん中がすっぽり欠落しちゃうんです。それにはっきり言って、体から見ても行為から見ても、そういう風に断片的に見ている限り人間存在というのは決して魅力的なものではありません」「野球場」(p.176)