幻影の書(ポール・オースター/新潮社)
ポール・オースターという作家の圧倒的な力量を思い知らされる小説。
「物語」の持つ力を知り尽くした上で、能う限りの技巧を駆使して、超人的な域にまで研ぎ澄まして出来上がった芸術品という感じがする。その分、エモーショナルな部分は影をひそめた、人工的な創造物という印象があった。
物語の中心のテーマになっている「映画」という媒体そのものが、現実世界の投影であるという性質を持っていて、その映画の描写があまりにも精緻であるために、虚構と現実の区別がだんだん曖昧になってくる。
「幻影の書」というタイトルが示す通りに、すべてが幻想でありフィクションであるという雰囲気に包まれながらも、筆致だけはやたらと細かく具体的で、リアリティを感じた。
黒い背景に黄昏時の風景を描き、そこに銀色の箔押しという神秘的な装丁のせいもあると思うのだけれど、いったん読み始めると完全に本の中の世界に引きずり込まれてしまうような、濃密な存在感がある。
読み終わった後には、「面白かったなあ」という満足感とは違った種類の、「すごいものを読んだなあ」という満足感がある。それぐらい、読書というものにどっぷり浸かる感覚が味わえる、特別な作品だと思う。
【関連リンク】
「The Locked Room」(水晶堂)
「GHOSTS」(水晶堂)
「Moon Palace」(水晶堂)
【名言】
家に帰りつくころには、返事を書くしかないと私は覚悟を決めていた。こういう手紙を無視するわけには行かない。いったん読んだら、しっかり腰を据えて返事をしないことには、一生それについてくよくよ考えつづける破目になるのだ。(p.6)
彼の作品を正しく評価するには、『ミスター・ノーバディ』を最後の作品と見なさねばならない。それは彼自身の消滅をめぐる省察である。いくつもの曖昧さを抱え、ひそかな暗示に満ち、さまざまな倫理的疑問を呈示しながらそれに答えを出すことを拒んでいるものの、これは基本的に、自己というものの苦悩をめぐる映画である。ヘクターは我々に別れを告げるすべを、世界にさよならを言う方法を模索しているのだ。(p.54)
銃をつきつけられたのは生まれて初めてだったが、それがいかにしっくり来るか、自分がいかにあっさりこの瞬間がはらむさまざまな可能性を受け入れているかに、私は我ながら驚いてしまった。ひとつ間違った動きをすれば、ひとつ間違った言葉を言えば、私はまったく無駄に死んでしまいかねない。そう考えたら、怯えてしかるべきだろう。逃げ出したくなってしかるべきだろう。だがそんな思いには駆られなかったし、起きようとしていることを食いとめたいという気も湧いてこなかった。巨大な、ぞっとするような美が私の目の前でぱっくり開いたのであり、私はただひたすらそれを見つづけていたかった。(p.110)
アルマ・グルンドがあのリボルバーを取り出して私の胸につきつけたとき、私は恐怖よりもむしろ魅惑に貫かれたのだ。その銃に込められた弾丸が、私がいままで思いついたことすらない想念を内包していることを私は理解した。世界はさまざまな穴に満ちている。無意味さの小さな開口部に、精神が歩いて通り抜けられる微小な裂け目にあふれている。自分の生から、自分の死から、自分に属するあらゆるものから解き放たれる。その夜、自宅の居間で、私はそういう穴に行きあたったのだ。それは銃という形をとって現れたのであり、自分がその銃のなかに入ったいま、そこから出ることになろうがなるまいがどちらでもよかった。私は完璧に落ち着いていて、完璧に錯乱していた。瞬間が差し出すものを受け入れる態勢が完璧に整っていた。(p.111)
映画を作ることは、譫妄状態で生きることに似ていた。人間が発明したなかでこれほど困難で過酷な仕事もほかにないが、困難であればあるほどヘクターのやる気も高まった。彼はいままさに仕事のこつを学んでいる最中であり、込み入ったいろいろな要素を一つひとつ呑み込んでいるところである。あと少ししたらきっと一流の映画人になれるにちがいない。自分に関してヘクターの望みはそれだけだった。このひとつの仕事がうまくできるようになること。望みはそれだけなのだから、まさにそのことだけは二度と自分に許すまいと思った。罪のない娘を狂気に追いやり、妊娠させて、地中二メートル半の深さに死体を埋めておいて、ぬくぬくそれまでと同じ生活を続けられるわけがない。そんなことをやった人間は、罰を受けねばならない。社会が罰しないのなら、自分で自分を罰するまでだ。(p.148)
他人の作品を研究するのが君の仕事だ。君のほかの本も読んだよ。翻訳や、詩人の研究書を。ランボーの問題について君が何年も費やしたのは偶然じゃない。何かを捨てて逃げることの意味が君にはわかっている。そういうふうに考えられる人間を私は尊敬する。(p.229)
記憶すべき事柄が乏しいせいで、私は同じことを何度も何度もふり返り、何度も同じ数字を足し算し、同じ貧しい合計にたどり着いた。車二台、ジェット機一機、テキーラ六杯。三度の夜、三つの家の三つのベッド。電話の会話四回。どうしようもなく頭が混乱した私は、自分を生かしておくこと以外、彼女を悼む方法が思いつかなかった。何か月か経って、翻訳を終えてヴァーモントを去ると、まさにこれがアルマのしてくれたことなのだと私は思い知った。わずか八日で、彼女は私を死者の世界から連れ戻してくれたのだ。(p.323)