多読術(松岡正剛/筑摩書房)
ここで語られている「多読」のやり方というのは、いわゆる速読とはまったく違う。
速読というのは、読書の本質からしてみたら何の意味もない行為であると言っていて、この点、著者の意見にはとても共感する。
この本で説明しているのは、読書を通じて、いかに自分自身の中に知のネットワークを構築していくかという技法で、その一手段としての「多読」であり、さらに言えば、その目的のためには多読でも少読でも、精読でも粗読でもいっこうに構わないという。
だから、この本のタイトルはあまり正確ではなく、要旨としては、本の読み方などは人それぞれであるから、気分に合わせて洋服を変えるように「自由に味わえ」ということになる。
この本で語られていることは、著者のライフスタイルに合わせてかなり独自にカスタマイズされたもので、そのまま真似するわけにはいかないことばかりけれども、松岡正剛という人がいかにして本からの情報を取り込んで、整理しているのかということをうかがい知るには、充分すぎる材料を提供してくれている。
ところどころで出てくる、「キーブック」と呼ばれる、そこから色々な本につながっていくような重要なタイトルの解説は、特に参考になった。
【名言】
「粗読」と「精読」を比較して、いつも精読のほうが読書力が深まっているともかぎりません。それとは逆にひょこひょこと読む「狭読」が底辺を広げて読む「広読」を妨げているということもなく、読書っていろいろな方法によって成立しうるんですね。(p.7)
本の中に入らなかったものって、ほとんどないんじゃないでしょうか。しかも本は知識や主題ばかりでできているわけじゃない。たとえば「しまった」とか「ふわっとしたこと」とか「無常感」とか「もったいなさ」とか「ちょっとおかしい」も本になっているし、「くすくす笑い」も「失望感」も、「研究の苦難」も「人々の絶叫」も、「近所の風景」も「古代の廃墟」も、みんな、みんな本の中に入ります。こんなメディア・パッケージはほかにない。ウェブなどまだまだ勝負になりません。(p.10)
最初に名著といわれるものを手に入れるか、図書館で目星をつける。量子力学でいえばディラックのものか、朝永振一郎です。電磁気学ならファインマンです。相対性理論ならアインシュタインその人でしょう。けれどもこれは歯が立たない。しかし、その歯が立たないところに一度は直面しないといけない。そのうえで別の参考書や類書で補っていく。そういう読み方をしていくんですね。(p.50)
「話せる」ということと「書ける」ということは、かなり異なる能力に属しています。ですから、プラトンが対話篇で試みたのは、ソクラテスらの話言葉を書き言葉にどうしたら変えられるかということでもあったわけです。(p.87)
もっと著者と読者は向き合えるはずでしょう。なぜなら、ここが本質的なことなんですが、著者が「書く」という行為は、読者が「読む」という行為ときわめて酷似しているからです。そして、ここにこそ読書術や多読術のヒントがあるんですね。(p.92)
速読にとらわれるのがダメなんです。どんなテキストも一定の読み方で速くするというのは、読書の意義がない。それって早食い競争をするようなものですから。(p.124)
免疫学は、自己形成には一抹の「非自己」が関与することを証しています。ジェンナーの種痘はそれを応用したものですね。ちょっとだけ「非自己」を入れてみることによって、それが「自己」という免疫システムを形成する。だからときには「変な本」も読んだほうがいいわけです。(p.141)
ピンポイントに検索しているということは、いちじるしく私たちの連想力を落としていることなんだということが、気づきにくくなっている。これも問題です。連想力は創造の基本です。(p.185)