しあわせの理由(グレッグ・イーガン/早川書房)
9編の短篇集で、その中でも表題作は、ものすごく根源的な問題について考えさせられる小説。
ここで問われているのは、まさしく「しあわせの理由」だ。
人間が感じる幸福感というのは、煎じ詰めれば、その正体は脳内の化学物質が惹き起こす化学反応の産物に過ぎない。
たった数ミリグラムの脳内麻薬が、長年の修行の末に悟りを得た禅僧と同じ境涯に人間を導くのだとしたら、精神の陶冶というものに、いったいどれほどの価値があるのだろう。
たとえば、ドラッグによって夢の世界に旅した人が、そのまま現実世界に戻ってくることなく、夢から覚めないままに一生を過ごすことが出来るとしたら、その人はこの上ない幸福の中で生きることを意味するのかもしれない。
極めて個人的な嗜好に依存すると思われている、「好き嫌い」という感情でさえも、実際にはやはり化学物質によって左右され、支配されている、計量可能、操作可能なものであるなら、人間の自我というものはどうなってしまうのか、という、思考実験的なSF。
そういう、アイデンティティーの危機に直面した主人公が、試練を乗り越える様を、「もし自分がこういう状況になったら、いったいどうしたらいいんだろう。」と考えながら見守った小説だった。
【名言】
ぼくは言葉につまった。目の前の人々の顔は、あまりに多くの意味に満ち、魅力の源であふれていて、どれかひとつの要素だけをとりあげることなどできない。かれらの顔はみな、賢そうで、歓喜に満ち、美しく、思慮深く、思いやりがあり、情け深く、安らかで、活気にあふれ・・人のもつ資質のうちで肯定的なものばかりが、しかし焦点を結ぶことなく、そこにホワイトノイズ化していた。(p.388)
しあわせのない人生は耐えがたいが、ぼくにとってしあわせそのものは生きる目標とするに値しない。ぼくはなにがしあわせかを感じさせるかを好きに選択できるし、その結果しあわせを感じている。だが、自力で新しい自分を生みだした場合、その結果しあわせになろうが、ほかのどんな気分になろうが、ぼくの選択とその結果のすべては、つねにまちがっている可能性があるのだ。(p.404)