『断片的なものの社会学』世に暮らす無数の人々の日常の面白さと不思議さ


『断片的なものの社会学』(岸政彦/朝日出版社)

岸さんが、社会学という名のもと、たくさんの人に聞き取りをしているのは、学問のためというよりも、自分自身が本当にそのことが好きで興味を持っているからやっていることなのだというのが、よく伝わってきた。

表には現れることのない、世に暮らす無数の人々の日常の面白さと不思議さ。
それを見事に言語化してくれていて、そこに深い関心を持つ感覚に、ものすごく共感をした。

普通に暮らしていたら、見過ごして日常にまぎれてしまうような単純なエピソードなのだけれど、そこに岸さんはスポットを当てて、なんともいえない不思議な面白さを引き出してしまう。
このような感性を持っている人がおこなうインタビューは、きっと良いものに違いないと思った。

名言

あるものが永遠に失われてしまうのだが、それは別のかたちで私たちのもとに残される。ロマンチックな物語、あるいはノスタルジックな物語の、おそらくはひとつのパターンがこれだ。二人の声は形見である。それは二人が生きて普通に暮らしているときには、他者にとっては何の価値もない、何も特別なものはどこにもない、まったく平凡なものだが、語り手が失われてはじめて、その日常的で他愛もない会話が、かけがえのないもの、もっとも大切な形見に変容する。(p.28)

たとえば、ひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、と言えば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。
人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。考えてみれば奇妙なことである。けっきょく何が目的で鍋を囲むかというと、お互い話をするためである。だったら話だけすればよいではないか。
しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。
私たちは、お互いの目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。鍋が間にあるから、私たちは鍋だけを見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。鍋がなかったら、お互いに目を見るしかなくなってしまうだろう。私たちはお互いの目を見てしまうと、もう喋ることができなくなって、沈黙するしかない。そして怯えや緊張は、沈黙から生まれるのだ。(p.49)

ヤクザとなって逮捕され、そのまま異国の刑務所で十年を過ごす、ということがどのようなことなのかを、ときおり思い出しては考えている。この十年という時間の長さは、どのようにすれば理解できるだろうか。時間の長さを理解する、ということは、どういうことだろうか。
私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。(p.134)

私は、ネットをさまよって、一般の人びとが書いただなブログやTwitter を眺めるのが好きだ。五年も更新されていない、浜辺で打ち果てた流木のようなブログには、ある種の美しさがある。工場やホテルなどの「廃墟」を好む人びとはたくさんいるが、いかにもドラマチックで、それはあまり好きではない。それよりもたとえば、どこかの学生によって書かれた「昼飯なう」のようなつぶやきにこそ、ほんとうの美しさがある。それに比べれば犬の死はかなり強い印象を残すエピソードだが、私はどうしてもあのできごとを、なにかの「ストーリー」にまとめることができないでいる。小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。それらはただそこにある。
ここでは書ききれないが、聞き取り調査の現場では、このような唐突で理解できないできごとが、ほかにも無数に起きている。そして、そうした理解できないことがらは、聞き取り現場のなかだけでなく、日常生活にも数えきれないほど転がっている。社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。

私たちマジョリティは、「国家」をはじめとした、さまざまな防壁によって守られているために、壁について考える必要がない。壁が目に見えなくなるほど壁によって庇護されている。たとえば、私たちは、国家によって家族や仲間から引き裂かれたことがないからこそ、それらを国家と切り離して考えることが許されている。さまざまな「特権」によって、私たちのもっとも個人的で内密な生活が可能になっているのである。もちろんそこには、個人的な悩みや苦しみが限りなく存在するが、マジョリティはそれらを、あくまでも個人的な問題として悩み、苦しむ「ことができる」。(p.187)

私たちの人生には、欠けているものがたくさんある。私たちは、たいした才能もなく、金持ちでもなく、完全な肉体でもない、このしょうもない自分というものと、死ぬまで付き合っていかなくてはならない。
私たちは、自分たちのこの境遇を、なにかの罰だと、誰かのせいだと、うっかり思ってしまうことがある。しかし言うまでもなく、自分がこの自分に生まれてしまったというとは、何の罰でも、誰のせいでもない。それはただ無意味な個然である。そして私たちは、その無意味な得然で生まれついてしまった自分でいるままで、死んでいくほかない。他の人生を選ぶことはできないのだ。
ここにはいかなる意味もない。
私たちは、私たちのまわりの世界と対話することはできない。すべての物の存在には意味はない。そして、私たちが陥っている状況にも、特にたいした意味があるわけではない。
そもそも、私たちがそれぞれ「この私」であることにすら、何の意味もないのである。
私たちは、ただ無意味な側然で、この時代のこの国のこの街のこの私に生まれついてしまったのだ。あとはもう、このまま死ぬしかない。
(p.221)